第90話【恋詩と涙の調べ】
「ふう…色々な占いを試せてとっても面白かったですね、一葉さん!」
パタンと本を閉じ、私は満足げに顔を向けると一葉さんは窓の外へと目をやっていた。
彼は首を傾げながら何か考え込んでいる様子で、少しの沈黙が続いた。
「あの、一葉さん…?どうかしましたか?」
私が問い掛けると、一葉さんはハッと此方に視線を戻した。そして、何事もなかったかの様に涼やかな表情で見つめ返す。
「…すみません、何でもありませんよ。次はどの本を読みましょうか?」
そう尋ねられ、私は再び本棚に近づいた。
「うーん…そうですね…。」
迷いながら本の並びをゆっくりと目で追っていると、ふと一冊の薄い本が目に留まった。
『恋の詩集―秘めたる想い』
そのタイトルを目にした途端、鮮やかな記憶が蘇る。
「(詩…。そういえば、有栖川さんから課題を出されていたんだった。)」
『貴方自身の力で、月姫としての歌を創造するのよ。』
『因みに期限は本日から一ヶ月だそうです。』
有栖川さんと壱月の言葉が、今も耳の奥で響く。私が知っている月姫の歌はたったの二曲だけ。今後も敵と戦うとなると、その曲数では流石に限界があるのも自覚している。
だからこそ私だけの特別な歌を創り出す必要がある。もっと様々な感情に触れて、心を豊かにしなければならない。
「(『恋の詩集』か……。恋の歌って誰かを強く想う気持ちや胸が締め付けられる様な切なさ、あるいは全身が泡立つ喜びとか……そういう感情の塊みたいなものだもんね。丁度興味もあるし、これなら課題の参考にもなるかも…!)」
私はごくりと喉を鳴らした。『恋』という甘くて、どこか胸騒ぎのする響きに惹かれる気持ちも確かにある。しかし、それ以上に月姫としての重大な課題を乗り越えたいという強い決意が私の背中を力強く押した。この本を読めば、歌の創造に繋がる何か新しい発見があるに違いない。
そんな確信にも似た予感が私の胸に静かに広がった。
「一葉さん!これはどうですか!?『恋の詩集』!」
選んだ本を見た一葉さんは目を見開いていたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
「ほう、占いの本とまた違ったジャンルを選ばれましたね。構いませんよ、それでは今度はこの世界の奥深さに触れてみるとしましょうか。」
「ありがとう御座います!」
一葉さんの承諾を得て、私は選んだ本を手に取り彼の隣へと座った。
早速ページを捲ると、甘酸っぱい初恋や切ない片思い、報われない悲しい恋…繊細な言葉で紡がれた様々な恋の詩が目に飛び込んでくる。
それぞれの詩には控えめながらも美しい挿絵が添えられており、それが一層世界観を深めていた。
私は詩の一節一節をじっくりと読み込んだ。
「『届かぬ想い 空に散りゆく花のよう ああ 貴方を想うたびに胸は締め付けられ 涙が溢れる』…ぐすっ…!」
そんな詩が、私の心を深く揺さぶった。まだ失恋もした事がないというのに、叶わぬ恋の苦しみがまるで自分自身の痛みであるかの様に感じられ、気付けば瞳からは止めどなく大粒の涙が溢れ落ちていた。視界が滲み、本に触れた指先が震える。
感情の波に完全に飲み込まれ、嗚咽を漏らしながら涙と鼻水を啜り上げた。
「ううっ…こんなに悲しいのに、どうしてこんなに美しいんだろう……!涙が止まらないよぉ〜…」
隣からそっと白いものが差し出された。顔を上げると、一葉さんが呆れた様な、でも何処か優しい笑みを浮かべながら綺麗に畳まれたハンカチを差し出している。彼の眼差しは泣いている私を咎める事なく、静かに見守ってくれていた。
「…羽闇嬢。感受性が豊かなのは良い事ですが、あまり涙で本を濡らさないで下さいね。」
彼の声はいつもの落ち着いたトーンながらも温かみが感じられた。私は慌ててそれを受け取り、目元と鼻を拭う。ハンカチからは、清涼感のある上品な香りがした。
「ずびっ…!すみません、つい感情移入しちゃって…!」
「君が詩にそこまで深く興味を持っていたとは少し驚きました。用意した僕としても嬉しい限りですが…元々お好きだったのですか?」
少し落ち着いた私を見て、一葉さんは改めて問い掛けた。私は首を横に振った。
「いえ、恋の詩っていうところに惹かれたってだけで、詩は殆ど読んだ事がないです。でも、選んだ理由はそれじゃくて…月姫の課題の参考にもなると思って。」
「月姫の課題?それは一体?」
「…実は、有栖川さんから『歌の創造』の課題を出されてるんです。今後の戦闘にも必要になるだろうからって。」
月姫としての課題に関する告白に、一葉さんは静かに頷いた。私は少し恥ずかしくなりながらも、彼の次の言葉をじっと待った。
「成る程、そういう事でしたか。君が月姫としての歌の創造に、そこまで真剣に向き合っているのはよく分かりました。」
一葉さんはそう言うと、再び本のページに目を落とした。彼の長い指が、詩集の行をゆっくりと辿る。
「…どんな歌を創造するかは僕には想像出来ませんが、確かに詩は感情を言葉にする上で非常に参考になると思いますよ。言葉の選び方、表現の深さ、そして何よりも言葉が持つリズム……それら全てが歌の旋律にも通じるものがあるでしょうから。後は君のセンスの問題だ。」
「でも、一番の問題はやっぱり作曲なんですよね。歌は昔から大好きなんですけど、楽譜も読めないし、楽器だってろくに弾いた事がないからどうしたらいいか悩んでいて…。」
自分の弱点を打ち明けた途端に自信がなくなってしまい、声が小さくなってしまう。月姫の歌は歌声や感情だけでなく、旋律もきっと重要な筈だ。だけど、私には音楽の知識が何一つない。
その言葉を聞いた一葉さんはふっと口元に笑みを浮かべると、私の困惑を和らげる様な穏やかな声で言った。
「…いい事を教えてあげましょうか?羽闇嬢の真剣な問いに応える為にも、丁度一つ…君の力になれる当てがあるかもしれない。」
「当て…?それって本当ですか!?」
興奮気味に身を乗り出すと、一葉さんは私の反応を楽しそうに見つめている。
「ええ。その当てというのは、君もよく知っている人物…海紀ですよ。」




