第86話【一服の甘味】
「さて…今日の『お家デート』では、一緒に読書をメインに楽しみたいと考えています。」
「読書、ですか?」
デートで読書というのは中々に斬新だ。
しかし彼の部屋にこれ程本が並んでいるのを見たら、納得せざるを得ないだろう。
「唐突に思われるかもしれませんが、僕の趣味や興味を知って貰いたい…そう思っての提案ですよ。言葉で説明するよりも、共に同じものを読む事でより深く僕の内面を理解して頂けるのではないかと。それに……」
彼はそこで一度区切ると、じっと私の瞳を見つめた。その眼差しに思わずドキリとする。
「羽闇嬢とこうして静かに語り合う時間も悪くない。君が今まで知らなかった世界に触れる手助けを、僕が出来ればと。」
彼は自分の事を私に知ってほしいと思ってくれているだけでなく、私が新しい知識に出会う事も願ってくれているんだ。その気持ちが、何だかとても嬉しかった。
「それと難しいものが苦手と思い、君の好みや興味を引きそうな本もいくつか取り揃えてあります。決して頭を痛めそうなものは選びませんからご安心を。例えば…ファンタジーの世界に浸るもよし、美しい詩の世界に触れるもよし、あるいは…遠い国の物語に心を躍らせるもよし。女性が好きそうな占いの本なんかもありますね。」
「ええっ!私の為にそんなに沢山用意してくれたんですか!?」
「使っていない書斎に眠っていたものなので、少し古い本ではありますが興味深い内容ではある筈ですよ。それに僕も気になっていた本なので。勿論、読書だけのプランは考えてはいません。この後にも、いくつか趣向を凝らしたものが控えていますが……フフッ、その先はまだ内緒です。楽しみにしていて下さい。」
そう言って、一葉さんは人差し指を口元に添えながら意味深な笑みを浮かべる。
その笑みは、彼がこの時間を本当に心待ちにしている事を物語っていた。
「…焦らしてきますね。でも、読書もその後の『内緒のプラン』っていうのも凄く楽しみです!」
私の声が期待に弾んでいるのが分かる。
一葉さんの隣でどんな本を読み、どんな時間を過ごす事になるのだろう。普段の日常では味わう事がなかった特別な一日が今、始まる予感がした。
一葉さんと話しているうちに、ほんの数分が経った頃だろうか。廊下の向こうから静かな足音が近づいてくるのが聞こえた。そして、「失礼します」という澄んだ女性の声が響き、障子がすっと音もなく開けられた。
現れたのは、紺色の着物を着た若い女性使用人だった。彼女は両手に盆を抱えており、そこには湯気の立つお茶と美しい羊羹が乗っている。
「失礼致します、舞久蕗様、月姫様。お茶をお持ちしました。」
女性使用人は流れる様な動作で部屋に入ると、座卓の空いているスペースに盆を静かに置いた。一つ一つの湯呑みや皿を音を立てずに丁寧に並べ終えると、深々と頭を下げ、再び音もなく部屋を後にした。彼女の所作の美しさに私は目を奪われていた。
座卓の上には、お茶の入った漆塗りの湯呑みと繊細な色合いの羊羹が置かれていた。羊羹は透き通る様な薄緑色で、表面には金箔が控えめに散らされている。見るからに高級そうで、思わずゴクリと喉が鳴った。
「さあ、羽闇嬢。まずは一服しましょうか、読書はその後にしましょう。」
一葉さんはゆっくりと湯気の立つ湯呑みを手に取った。私もそれに倣い、そっと湯呑みを両手で持ち上げた。口元に近づけると、ふわりと上品な香りが鼻腔をくすぐる。一口含むと、芳醇な香りと奥深い味わいが舌の上に広がった。苦みはなく、むしろほんのりとした甘みさえ感じる。今まで飲んだどんなお茶とも違う、絶品だった。
「うっわぁ…!美味しい!月光邸ではいつも紅茶なので緑茶ってあまり飲まないんですけど、こんなに美味しい緑茶…初めて飲みました!」
あまりの美味しさに感動していると、一葉さんは満足げに微笑んだ。
「それは何よりです。…これは一葉家で長年愛用している茶葉でしてね、僕も好んでよく飲んでいます。気に入ったのならお試しとして、少し差し上げましょうか?」
「いいんですか!?じゃあ今度、壱月に頼んで入れて貰おうかな…!」
次にお茶請けの羊羹に手を伸ばした。
羊羹は一口サイズに切り分けられており、黒文字で刺して口に運ぶ。口に入れると、つるりとした舌触りの後に上品な甘さがじんわりと広がり、あっという間に溶けていく様だった。舌に残る余韻も心地よく、もう一つ欲しくなる程だった。
「んーっ!!この羊羹もとびきり美味しくて、すぐ食べ終わってしまいそう!」
こんなに美味しいお茶と和菓子を味わえるなんて、本当に贅沢なひと時だ。
一葉さんの視線は、私の顔全体…特に綻んだ口元に注がれている。
「とてもいい顔をしていますね、羽闇嬢。余程、甘味がお好きと見える。」
彼の言葉に、私は嬉しくなってすぐに頷いた。
「はい!本当に大好きなんです!一番好きなのはやっぱりケーキですけど、和菓子もチョコレートも…とにかく甘いものは目がありません!辛い事があった時とか、甘いものを口にしただけで元気が出るんですよね。一葉さんはどうですか?甘いのお好きですか?」
私が尋ね返すと、一葉さんは少し考える様に視線を宙に向けた。
「そうですねぇ…僕個人としては、甘味は基本的には得意ではありませんね。洋菓子などは特に。あの独特のしつこい甘さはどうも苦手で…。しかし、和菓子だけはたまに頂く分には悪くないと思っています。」
「へぇ〜!じゃあ和菓子はお好きなんですね!一葉さんらしいかも!」
私の素直な感想に一葉さんはフッと鼻で笑う。そして、彼は面白そうに目を細めながら私に問い掛けた。
「ほう…僕らしいとは?」
「だって、月光邸ではいつも着物を着ていますし、和菓子が凄く似合ってるじゃないですか!」
「…これはまた単純な答えだ。ですが、フフフッ…!嘘もなくそう言われるのは悪くない。」
彼の言葉の選び方や時折見せるユーモラスな表情は、私が今まで抱いていた『よく分からない人』という印象を少しずつ変えていく。
そして、一葉さんは再び私の顔をじっと見つめると少しだけ真剣な表情になった。
「しかし…こうして君と向き合っていると、本当にごく普通の少女にしか見えませんねぇ。とても月姫に選ばれ、強大な力を宿す存在とは思えない。」
私はドキリとした。もしかして、私が彼の期待に応えられていないと感じているのだろうか。少しだけ不安になり、思わず視線を下げる。
「すみません…。確かにまだ月の力を上手く使いこなせていないというのは自分でも―」
しかし、一葉さんの次の言葉は私の予想とは全く違うものだった。
「おっと、誤解しないで下さい。別に侮辱しているわけではない。むしろ……そんな君だからこそ、君は歴代の月姫とは少し違って、無限の可能性を秘められているのではないかと、僕は感じています。」
「(無限の可能性?)」
意味が理解出来ず、私は首を傾げるばかりだった。歴代の月姫がどの様な存在だったのか、私にはまだ知らない事だらけだ。でも、一葉さんがそんな風に言ってくれるのは、とても期待してくれているみたいで嬉しかった。
一葉さんは私を静かに見つめ続けていた。その瞳には、深い思索と何かを期待している色が混じり合っている様に感じられた。




