第78話【香りの魔法と迎えの紳士】
「さてと…次は僕の番だね♪」
少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた華弦がゆっくりと私に近寄ってくる。悪意はないとは思うが、その笑顔の裏には明らかに何かを企んでいる様に感じられた。
「華弦、何か怖いんだけど…!」
「別に変な事はしないさ。だけど、ちょっと後ろを失礼するね。羽闇ちゃん♪」
背後に回り込んだ華弦は慣れた手つきでそっと私の髪をかき上げると、彼の指先が私の首筋の辺りに触れた。その瞬間、プシュッという音と同時にうなじの辺りがひやりとした感覚に包まれた。
「ふ、ふえっ!?何々!?」
予想外の感触に思わず肩が跳ね上がり、間抜けな声が出てしまった。しかし、華弦は私の反応を楽しそうにクスクスと笑いながら後ろから声を掛けてくる。
「アハハ、ごめんねぇ♪びっくりしちゃったかな?でも大丈夫だよ、今君にかけたのは僕の手作りの香水だよ。」
「え…香水?しかも、華弦が作ったの…!?」
「そ♪僕は香水を作るのが趣味でね。こう見えても香りには結構五月蝿いんだよ?」
華弦が香水を作った、という事実に驚きと微かな戸惑いが私の表情に浮かんでいるのが分かった。
華やかで奔放な彼がまさかそんな繊細な趣味を持っているとは意外だったが、『華の力』を扱える華弦らしいとも言えるかもしれない。
すると私の嗅覚を刺激したのは甘く、それでいて何処か神秘的な芳醇な香りが漂ってきた。
まるで無数の花々が太陽の光を浴びて一斉に咲き誇る楽園を思わせる深く甘美な香り。そして、心を落ち着かせてくれる清涼感も持ち合わせていた。空中で舞い踊る無数の繊細な花弁が、私を優しく包み込んでいるかの様だ。
「どうかな、羽闇ちゃん?君につけて欲しくて、この日の為に一生懸命作ってみたんだけど。」
私に香りの感想を求める様に華弦はいつもより少し甘い声で耳元で囁いた。
華弦が甘美な香りを放つ細剣で戦う事は知っている。そんな彼の腕だからこそ、今この香水がこれ程までに魅惑的な香りを放っているのかもしれないと密かに納得した。華の力を象徴する細剣の香りと今私のうなじに纏う繊細な香水が、私の中で不思議な繋がりを持った。
「凄い…!華弦の持っていた剣の香りも素敵だったけど、これもとってもいい香り!」
私の素直な感想に華弦は誇らしげに目を細めた。
「だよねぇ〜!君への愛情を込めて作ったんだから、当然といえば当然かなぁ♪」
少し自慢げな、けれど憎めない華弦に私は思わずくすっと笑ってしまった。夜空君もまた、そんな華弦の様子を微笑ましそうに目を細めている。
「華弦もありがとう。こんな気持ちが込もった香水、本当に嬉しい。」
私が改めて心からの感謝を伝えると、華弦は少し照れた様子で頷いた。
「どういたしまして♪…それにしても、羽闇ちゃんが僕以外の男とデートに行くなんて妬けちゃうよなぁ。いくら相手が仲の良い一葉君とはいっても、ちょっとねぇ〜…」
「今更そんな事言ったって仕方ないじゃない、月光家の決まりなんだから。」
「それはそうなんだけどさ〜。もう僕の勝利は目に見えてるのにぃ。ぶっちゃけ、この香水は羽闇ちゃんが僕から離れられなくする為の魔法みたいなもんなんだからね?」
華弦はわざとらしく溜め息をつきながら私を抱きしめる。その言葉には私への独占欲が滲んでいて、私の頬は思わず熱くなる。
すると、夜空君がそんな華弦の肩をそっと叩いた。華弦の気持ちを理解しつつも、私への配慮を忘れないところが夜空君らしい。
「まあまあ、藤鷹君。ここは頑張って堪えるとして、明るく見送ってあげようよ。きっと羽闇ちゃんも今日を楽しみにしていただろうし。」
「…だよねぇ。ま、仕方ないか。」
口を尖らせながらも、華弦は渋々といった様子で納得した。
その時、夜空君の視線が私の首元へと向けられた。彼が見つめているのは、私が肌身離さず身につけている月のペンダントだ。時に光り輝くその石は私にとって亡き母との大切な繋がりであり、月姫としての力を象徴するものでもある。
「羽闇ちゃん…分かっていると思うけど、そのペンダントも肌身離さないよう気を付けてね。」
「大丈夫、ありがとう。夜空君。」
そう話しているうちに、部屋の扉が再びノックされた。
「羽闇様、一葉様がお見えになっております。そろそろご出発のお時間かと存じますが、お入りしても宜しいでしょうか?」
扉の外から聞こえてきたのは、壱月の落ち着いた声だった。いよいよだと私は身を引き締める。
心臓の鼓動が自分の耳にも聞こえる程に早くなっていた。
「は、はい!どうぞ入って!」
私がそう返事をすると扉がゆっくりと開かれた。
そこに立っていたのは、壱月と今日のエスコート役である一葉さんだった。
「おはよう御座います…羽闇嬢。準備は出来ましたか?」
「おはよう御座います、一葉さん。はい、華弦と夜空君のおかげでバッチリです!」
コツコツと足音を立てて部屋に入ってきた一葉さんは、ネイビーのシアサッカージャケットを軽く羽織っており、その下のライトグレーのサマーニットで涼しげな印象を与えている。ボトムスはオフホワイトのコットン素材のスラックスで、裾に向かって緩やかにテーパードされたシルエットが彼のすらりとした脚を更に美しく見せていた。足元にはブラウンのローファーが上品さを添え、その全てから彼の育ちの良さや非の打ちどころのないセンスが伝わってくる。
「華弦に夜空、君達も来ていたのですね。おはよう御座います。」
「やっほ〜、一葉君!その格好、中々キマってるじゃんか♪」
「おはよう御座います、一葉さん。羽闇ちゃんへの用事も兼ねて、お二人のお見送りに来たんです。」
一葉さんの挨拶に華弦は屈託のない笑顔で手をひらひらを振る。
華弦の明るさとは対照的に、夜空君はおっとりとしながらも丁寧に会釈をする。
「ほう…それはそれは。わざわざ見送りに来てくれたのですか、ありがとう御座います。」
一葉さんが薄く笑みを浮かべながら静かにそう告げると、華弦と夜空君は嬉しそうに微笑んだ。




