第77話【心ときめくお守り】
月光邸の広々とした自室で、私は静かに鏡の前に立っていた。今日は婚約者候補の一人、一葉さんとのデートの日。
有栖川さんなりの配慮だろうか。最近は欠かす事のなかった月姫としての厳しい特訓は前日からきっぱりと『お休み』を言い渡されていた。そのおかげで身体はいつもより軽く、昨日までの疲労感は完全に消え去っていた。こんなにも体調が万全なのは久し振りで、これから始まる特別な一日に胸が高鳴りを抑えられなかった。
鏡に映る自分は普段とは少し違う、落ち着きのある大人びた雰囲気をしていた。壱月が私の為に選んでくれたコーディネートは私の素朴な魅力を最大限に引き出しつつも、控えめながらも洗練された上品さを醸し出している。首元を優しく包む落ち着いたブラウンのタートルネックは暖かさと同時にきちんとした印象を与え、それに続く濃い緑のタイトロングスカートはすらりとした私の脚のラインを美しく見せてくれた。柔らかな生地が動く度に軽やかに揺れ、女性らしい優雅さを演出している。腰には細身の黒い革ベルトが締められ、全体をスマートに引き締めていた。足元には控えめなヒールのあるダークブラウンのショートブーツ。
そんなシンプルながらもシックな装いに私は少し照れ臭そうに微笑んだ。
「うん、これなら多分大丈夫かな…。」
小さく呟き、鏡の中の自分と目を合わせる。
一葉さんがどんな場所に連れて行ってくれるのか、どんな一日になるのか…まだ見ぬ未知の景色への期待と緊張が胸の中で入り混じっていた。
するとその時、部屋の扉から控えめなノックの音が響いた。
「はーい…?」
一体誰だろう?と首を傾げていると、扉の向こうから華弦の明るく軽やかな声が聞こえた。
「やっほ〜♪羽闇ちゃん、入っていーい?」
「華弦…?ちょっと待って、今開けるから。」
私は少し驚きながらも扉を開けると、そこに立っていたのは華弦と夜空君だった。思わず、私は目を大きく見開いた。
「おはよう、羽闇ちゃん。」
「え…夜空君まで!?おはよう…どうしたの、二人一緒なんて珍しいね。」
夜空君はいつもの様にふわりと優しい微笑みを浮かべている。華弦はまるでサプライズを仕掛けた子供の様に楽しそうな表情で肩をすくめている。
「アハハ、驚いたかい?実は今日のお出掛けの前に、見送りも兼ねて僕とよぞらんから君にちょっとしたプレゼントがあって来たのさ♪」
「プレゼント…?」
予想外の言葉に私は目を瞬かせる。夜空君が華弦の言葉を補足する様に、おっとりとした口調で語り始めた。
「うん。以前から藤鷹君と相談していてね、少しでも羽闇ちゃんの力になれたらと思って。本当は火燈君も一緒の予定だったんだけど、やっぱり朝が苦手みたいで…。」
華弦が楽しそうに笑いながら身振り手振りで説明を加える。彼の仕草はどれも大げさで、見ているだけで楽しくなってしまう程だった。
「そうなんだよ〜♪僕が『そろそろ羽闇ちゃんが出かける時間だぞ』って起こしに行ったんだけど、結局ベッドから出てこなくてねぇ。大方、羽闇ちゃんの見送りが楽しみで遅くまで眠れなかったってとこじゃない?ここはもう強引にチョップでも食らわせて連れて来れば良かったかな、アハハッ!」
華弦の冗談めかした言葉に、夜空君は穏やかに諭する口調で遮った。
「藤鷹君。残念なのは分かるけど、それじゃ火燈君が可哀想だよ。」
「ふふっ…ごめんごめん♪よぞらんは相変わらず優しいねぇ。」
華弦は素直に謝りながら軽く手をひらひらさせる。そのやり取りは彼らの間にある信頼と親密さが伝わってきて、私も自然と心が和んだ。華弦の無邪気な冗談とそれを穏やかに受け流す夜空君。二人のバランスがとても微笑ましかった。
「碓氷さんも一緒じゃないの?」
私が尋ねると、夜空君が少し困った様にに眉を下げた。彼の表情からは、碓氷さんへの配慮が感じられる。
「…ごめんね。碓氷君は昨日から何かの作業をしていたとかで徹夜だったみたいなんだ。さっき様子を見てきたんだけど、ぐっすり眠っていたから起こさない方がいいかなと思って。一応、昨日のうちに『気を付けて』って伝言は預かってきてるよ。」
「(…何かの作業?)」
私は彼の言葉を疑問に思いながらも、皆が私の出発を気にかけてくれている事に感謝の気持ちが湧いてくる。
「そっか…皆、ありがとう。そういえば、さっきプレゼントがどうのって言ってたけど…」
二人は穏やかに顔を見合わせると、夜空君が小さく頷いた。華弦はその隣で含みのある笑みを浮かべている。
「そう、羽闇ちゃんに渡したいものがあるんだ。一葉さんとのデートの前に、是非これを身につけて欲しくて。気に入って貰えたら嬉しいんだけど…」
夜空君はそう言うと、手にしていた小さな紙袋から手のひらにすっぽりと収まる程の丁寧に作られた小箱を取り出した。その小箱の蓋がゆっくりと開かれると、そこには小さなガラスドームのイヤリングが収められていた。
朝の光を受けて煌めくそのイヤリングは、星屑を閉じ込めた様な輝きを放ち、中に入った黄金の砂が微かに揺らめく度に幻想的な光を散らしている。
「綺麗…!これって…?」
私が驚いて尋ねると、夜空君は優しく微笑みながら答えた。
「このイヤリングは、羽闇ちゃんに似合うと思って僕が作ったんだ。もし何かあった時に、少しでも羽闇ちゃんの気持ちを明るく出来たらと思ってね。」
「夜空君…。」
彼の気遣いが胸にじんわりと広がる。しかし、それと同時に私の心をざわつかせた。今日のデートもまた何か起こる可能性があるのかもしれない、そんな事を考えていると華弦が楽しげに口を開いた。
「つまり、これは羽闇ちゃんの身を守る為のお守りみたいなものさ。可愛いだけじゃなくて、実用性も兼ね備えてるってわけ♪よぞらんはファッションモデルをやっているだけあって、センスは抜群の筈だよ。」
「褒めて貰えるのは嬉しいんだけど、モデルは今関係ないと思うよ…藤鷹君。」
華弦の軽口に夜空君は苦笑いを浮かべている。私は差し出されたイヤリングをそっと受け取った。ガラスのドームに触れる指先が微かな温かさを感じたのは、きっと気のせいではなかっただろう。
「ありがとう、夜空君…!大切にするね。これ、早速今つけてもいいんだよね?」
「勿論。」
私が尋ねると夜空君が嬉しそうに頷いた。私は迷わず鏡の方へ向き直ると、手にしたイヤリングをそっと耳たぶに嵌めた。
「えへへ、可愛い!」
ガラスドームの中の黄金の砂が私の耳元で控えめに輝いており、それが私を勇気づけてくれている様にも思えた。イヤリングを身につけた私の姿を見た夜空君は、柔らかな笑みを一層深くする。
「とっても似合ってるよ、羽闇ちゃん。今日のコーディネートにもぴったりだ。」
その言葉に私の胸は温かい光で満たされた。




