第76話【無力な敗北者-夜啼艶Side-】
「貴様…!馬鹿にしているのか…!?」
徹底的に貶める終哉の言葉に怒りが湧き上がり、声が震えた。すぐにでも襲い掛かりたい衝動に駆られたが、激痛が走り、身体が自由に動かない。この体たらくが更に彼女を助長させているのが分かった。
私の苦悶の表情を見て、終哉はニヤリと口の端を吊り上げる。キャンディを口の中で転がす音が不快に響く。
「んだよ…立てねーのか?つーか、そのザマでまだ月姫を捕まえるとか寝言言ってんのか?ま、安心しろよ…今度は俺がちゃーんとお前等の尻拭いしてきてやるからよ!だからお前はせいぜいベッドで寝てろよな、艶。」
何も反論出来ない自分が酷く情けない。
その様子を冷たい瞳で眺めていた埜唖様は特に何も言わず、まるで彼女の言葉を肯定しているかの様にも思える。
「……随分とご機嫌な様子だな、終哉。」
このまま黙っている事に耐えきれず、喉の奥から絞り出す様に精一杯の皮肉を込めた。
すると終哉はフンッと鼻を鳴らし、咥えていたキャンディを一度口から出すと、人差し指でくるくると弄び始めた。その仕草が何ともいえず癇に障る。
「ったりめーだろ?お前みてーな役立たずの尻拭いが出来るんだからよ。それに月姫を捕らえるなんて大仕事、俺がやりたくないわけねーだろ?なあ、埜唖様。」
「何を言っているのだか。埜唖様から命令すら下されていない分際で。」
「お前こそ何言ってんだよ、任務失敗の敗北者が!これから下るかもしんねぇだろーが。」
終哉は私を一瞥した後、埜唖様の方に視線を向けた。その瞳には野心の色がギラギラと輝いている。彼女はこの状況を最大限に利用し、私の副リーダーとしての地位を奪い取ろうとしている。
「なぁ、埜唖様!今度はこの俺、過魂終哉に任せてくれませんか?コイツ等なんかよりも、きっとお役に立ってみせますぜ!」
埜唖様は終哉の問い掛けにすぐには答えない。静寂が再び部屋を支配する。その沈黙は私にとって拷問だった。彼の口からどの様な言葉が発せられるのか…期待と深い絶望が私の胸を締め付ける。
やがて、埜唖様はゆっくりと口を開いた。彼の声は変わらず冷たいものだが、そこには微かな好奇心が含まれている様にも聞こえた。
「……終哉。お前が、月光羽闇を捕らえたいと申すのか。」
「ったりめーです!俺ならもっと完璧に、速やかに終わらせる事も容易いですぜ!そこの腰抜けの艶とは違ってな。」
自信満々に言い放った終哉の言葉に、私の拳がシーツを強く握りしめる。爪が手のひらにまで食い込み、痛みが走るが今の私にはそれすらも気にならない。
埜唖様は腕を組みながら、静かに終哉の姿を見つめている。彼の表情からは何も読み取れない。その間が、永遠にも感じられる。
「…よかろう。」
その短い一言が、私の全身を凍りつかせた。
「……っ!」
思わず息を呑む。信じられない。私に与えられた筈だった任務が今、この終哉に…!?
「しゃーっ!やったぜ!良かったな、艶。俺が月姫を捕らえて戻ってくるのを、楽しみにして待っていろよな?」
満足げに顔を歪ませた終哉は再びキャンディを口に咥える。結局私は何も言えず、彼女の勝利をこの場で受け入れるしかなかった。
「んじゃ、今から行ってくるぜ!」
「待つのだ、終哉。」
今すぐにでも月光邸に乗り込む勢いで踵を返そうとした終哉だが、その様子に埜唖様の声が制する。喜びで高揚していた終哉の表情が一瞬にして真剣なものに変わる。埜唖様の絶対的な命令には、彼女とて逆らう事は出来ないのだ。
「何すか、埜唖様。」
「月光家から送り込ませたスパイからの連絡がまだ入っておらぬ。向こうが次にどう動くか、まだ読めぬ状況で軽率に動くべきではない。」
スパイ…そうだ。月光家の内部には私達の情報源がいる。その存在は私も当然知っている。何せそのスパイは、私達のリーダーなのだから。
「……は?スパイからの連絡?んなもん、別にいらねーだろ。俺が直接乗り込んで、邪魔者を全部ぶっ潰して月姫を捕まえてくりゃいいだけじゃないですか。そうすりゃ、アイツの手間も省けるってもんだろ?」
「愚かな事を抜かすな、情報は命を分ける。特に、月光家の様な古き血族の動きには常に慎重に読む必要があるのだ。」
微かに苛立ちを見せた埜唖様の様子に、終哉も反論する事なく不満げに口を閉じた。
その時、埜唖様の手に持たれた無線機が小さくノイズを立てた後、微かな音を発した。それは、まさに彼が言っていたスパイからの連絡を告げる合図だろう。埜唖様はゆっくりと無線機を取り上げると、囁く様な声で会話を始めた。
「……私だ。ああ、どうした。……うむ、それで羽闇は近々、月光邸を出て外出すると?……成る程、承知した。お前は引き続き、向こうの動きを監視せよ。」
短い会話だった。埜唖様は無線機のスイッチを切ると、終哉に視線を向けた。彼の表情はかつて私に向けられていた期待に満ちたものだった。
「……終哉。準備が整い次第、月光邸へ向かえ。月光羽闇の動きが確定した。」
埜唖様が放ったその命令は部屋全体に響き渡り、私を再び絶望の淵へと突き落とした。
終哉の顔は既に歓喜に満ち溢れており、キャンディを口の中で音を立てて転がす。
「へへっ!待ってましたぜ、埜唖様!ようやく俺の出番がきたってわけだ!」
終哉は荒々しい声でそう叫ぶと喜びを隠す事もなく、その場で小さく跳ねた。その仕草が余計に私の神経を逆撫でする。
「だが、待て。逸るな。」
埜唖様は再び彼女の動きを制した。すぐにピタリと動きを止めた終哉は、不満げな表情で埜唖様を見上げた。
「だから何すか、埜唖様。月姫の動きが分かったんだろ?なら、今すぐ突っ込んで捕まえてくりゃいいじゃねーですか!」
「早計に過ぎるぞ、終哉。月光邸を襲撃するなど、今は得策ではない。アイツからの情報によると、羽闇は近々月光邸を離れ、外出をする機会があるらしい…そこを狙うのだ。」
苛立ちを滲ませた終哉に、埜唖様は淡々と有無を言わせぬ口調で告げた。
「ちっ…外出、ねぇ。」
「月光邸から羽闇を追跡し、隙を狙って彼女を捕らえるのだ。出来るか?」
埜唖様の問い掛けに、終哉は口の中にあったキャンディをがりっと噛み砕く。そして、その破片を舌で弄びながら獰猛な笑みを浮かべた。
「へっ、ったりめーだろ!余裕で捕らえてみせますよ、埜唖様。」
自信満々に言い放つ彼女の姿は、以前の私と重なって見えた。私もかつてはそうだった。何の疑いもなく埜唖様の命令を遂行し、完璧な結果を出すと信じて疑わなかった。だが、その自信が如何に脆いものだったか。
「…あ、そーいや…もし他に邪魔が入ったらその時はどうしたらいいんすか?埜唖様。」
終哉はふと思い出した様に埜唖様に尋ねた。彼女にしては珍しく、先を読もうとしている。
すると、埜唖様の口元が微かに歪む。その表情は背筋が凍りつく程の不気味な笑みだった。
「その時は……躊躇う事なく、そいつを殺せ。任務の障害となる者は全て排除するのみだ。詳しい事は追ってまた連絡する。」
彼の言葉は冷酷なまでに静かに、はっきりと殺意を帯びていた。
「へへっ、最高じゃねーか!それなら話は早ぇ!」
満足げな笑みを浮かべた終哉は迷う事なく踵を返し、足早に部屋を後にした。彼女の荒々しい足音が廊下に響き、やがて遠ざかっていく。終哉が部屋を出ていくのを確認すると、埜唖様は私を一瞥した。その視線はもはや私に何の関心も抱いていない、無感情なものだった。そして彼もまた、私にはもう用がないとでも言う様にゆっくりと椅子から立ち上がると部屋を出ていった。その背中が私の目に焼き付く。
広々とした部屋に残されたのは私だけとなった。
この屈辱、憤り。無力な自分への苛立ち。それらをぶつける場所もなく、私は全てを忘れたいと再び眠りに就く。
このまま終わってなるものか。次に会った時は、今度こそお前に地獄を味わわせてやる…!
待っていろ、藤鷹華弦。




