第69話【テスト隠蔽作戦】
私は忍び足で月光邸の廊下を歩いていた。手にしているのは、一枚の紙。たかが紙切れ、されど紙切れ。それは、数日前に返却されたばかりの高校最初の中間テスト用紙だった。紙面に踊る、目を覆いたくなる点数。そして赤点どころか、それすら危うい低い数字だ。
「(やっっっばい、コレを壱月に見られたら絶対殺される…!いや、殺されはしないけど…それ以上に恐ろしい事が…!)」
思い出すのは、テスト前に壱月が念を押した言葉。
『いいですか、羽闇様。高校の勉強は中学までとは異なり、基礎の積み重ねがより重要になります。今回のテスト範囲は広範に及びますので、しっかりとした準備が必要です。毎日欠かさず予習と復習の時間を設けて下さい。宜しいですね?月姫としての特訓も重要ですが、学業も疎かにしてはなりませんよ。』
『はぁーい…。』
そう生返事をしたきり、漫画を読んだりゲームをしたり、見事にスルーした自覚は十二分にある。
だからこそ、このテスト結果は誰にも…特に壱月には見せるわけにはいかないのだ。月光邸に来て初めての本格的なテスト。ここが正念場だったのに!
目指すは書斎の片隅に置かれたシュレッダー。細かく裁断されてしまえば、この世の何処にもテストの無惨な結果は存在しなくなる。完全犯罪だ。
そっと扉を開け、書斎に忍び込む。部屋は静まり返っている。よし、今だ! 私は小走りでシュレッダーに近づき、慌ててテスト用紙を投入口に差し込もうとした──その時。
「何をなさっているのですか、羽闇様。」
背後から、氷点下の様な静かな声が響いた。
「ひゃいっ!?」
飛び上がって振り返ると、そこにはいつもの執事服に身を包んだ壱月が無表情で立っていた。その端正な顔立ちは崩れておらず、その目は全く笑っていない。私がシュレッダーに差し込みかけたテスト用紙を壱月は音もなく、有無を言わせぬ速さで取り上げた。
「ちょっと!それは…私への、その…ラブレターを処分しようと…!」
「…これは、中間テストの答案用紙ですね。」
壱月は淡々と訂正し、手に取ったテスト用紙に視線を落とした。そして、初めてその紙面に記された数字を見た壱月の表情に明確な変化が走った。静止していた彼の眉が、信じられないという様にピクリと上がる。普段は感情を映さない瞳が驚愕に見開かれている。それは、彼が予想していた中でも最も悪い結果を遥かに下回るものだったからだ。
「(…ヤバい。今のうちに!)」
壱月がテスト結果に絶句している、このほんの一瞬の隙。私は全速力で書斎から逃げ出そうと駆け出した。しかし、入口に到達するよりも早く、目の前に長い手が登場する。
トン、と軽い音と共に肩に触れたかと思うと、ぐい、と逆方向に引っ張られた。物理法則を無視した、余りにもスムーズな動きだった。
「何処へお逃げになるのですか?」
背後に回り込んだ壱月は私の肩をがっしりと押さえ、逃げ道を完全に塞いだ。その声音にはもう驚きの色はない。代わりに、深い溜め息と明らかに怒りの色が滲み始めていた。
「壱月、あの…これは、その…見間違いというか…!」
「羽闇様。高校に入って初めての中間テスト。そして、テスト前に私がお伝えした事を全てお忘れですか?」
問答無用。有無を言わさぬその雰囲気に私は完全に戦意を喪失した。逃げ場はない。隠し通す事も不可能。彼の手の中には、絶望的な点数のテスト用紙が握られている。
壱月は私を強制的にソファに座らせるとテスト用紙をちらりと一瞥し、再び深い溜め息をついた。その仕草だけで、これから始まる事の重大さを物語っていた。
「だって、その…月姫の特訓が、凄く忙しくて…それで、ちょっと勉強する時間が…。」
私は藁にもすがる思いで、一番の言い訳になりそうな言葉を口にした。壱月も月姫としての特訓は重要だと言っていたし、これなら少しは効果が…!
しかし、その考えは甘かった。私の言葉を聞いた壱月の纏う空気が一瞬で凍てついたかの様に冷たく、そして張り詰めたものに変わった。彼の瞳が鋭く細められる。
「…月姫の特訓ですか。」
低い、静かすぎる声。それは、怒りが頂点に達する寸前の嵐の前の静けさの様な声だった。
「私は申し上げましたね、羽闇様。月姫としての特訓と並行して学業も疎かにしてはならない、と。」
「ゔっ…」
壱月はゆっくりと、明確な発音で言い聞かせた。
「どちらか一方を疎かにする為にもう一方を利用するなど…言語道断です。ましてや、これが高校最初の中間テストでこの様な結果とは…。」
嗚呼、言ってはいけなかった。私は全身から血の気が引くのを感じた。壱月の怒りが、先程の比ではないほど膨れ上がってしまっている。
「羽闇様。大変申し上げにくいのですが…いいえ、はっきりと申し上げなければなりませんね。今回の羽闇様の数学の点数は、看過出来るレベルでは御座いません。そして、この点数の結果…恐らく追試が決定しているでしょう。」
丁寧な言葉遣いだが、声のトーンは何処までも低い。そして、その低い声はじわじわと、確実に熱を帯びていく。
「今回の件は、月光家としての教育方針にも関わる重大な問題と認識しております。このままでは羽闇様の将来に、月姫としての役割にも甚大な影響が出かねません。…相応の対策を講じなければならないでしょう。」
私は生唾を飲み込んだ。
その『相応の対策』が何を意味するのか、考えるだけで身震いがした。
「それを隠蔽しようとした行為…更にはその言い訳。私は確かに申し上げました。毎日予習と復習を、と。しかし羽闇様はそれを実行されなかった、その結果がこの無惨な点数です…!この期に及んで追試を受ける羽目になったというのに、その原因をより重要な責務である月姫の特訓のせいにされるとは…全く理解出来ません!!」
始まった。壱月の『一度怒ると止まらない、激しいお説教』が。この様子だと今日はフルコース確定…しかも大盛り、特盛、追試付きだ。
私は逃げられない運命を悟り、ソファに項垂れた。
壱月は私の勉強に対する怠慢や将来への影響、月姫としての自覚、そして彼の期待を裏切った事について激しい声で滔々と語り始めた。
その言葉は今回の言い訳が如何に見当違いで不真面目か、初めての成績報告でこれ程の結果を出した由々しき事態、そして追試という余計な手間と不名誉が発生した事を容赦なく指摘するものだった。
「(…多分あと三時間は掛かるかも、耐えられるかな…?死ぬかも…追試もあるし…。)」
私は遠い目で、まだ続くお説教の時間を計算していた。書斎にはテスト用紙をシュレッダーにかけ損ねた私と、私の初めて見せる無惨な学力と不真面目さ…そして追試という結果に怒りを最高潮に高めた壱月の声だけが部屋中に響き渡っていた。




