第65話【平和な日常?目覚めた悪戯心④-余韻-】
「羽闇様。貴方は月光家の月の姫として選ばれた身…そして、この屋敷の未来を担うお方です。それにも関わらず、度重なる悪戯に興じるとは一体どの様なお考えからですか?」
壱月の声はまだ落ち着いていたが、その中に確かな厳しさが宿り始めた。一度始まったお説教は容易には止まらない。私の悪戯が如何に迷惑を掛けたか、無駄な労力を使わせたか、使用人達にどれ程の混乱と恐怖を与えたか…具体的な例を挙げながら理路整然と、しかし一切の容赦なく指摘していく。
「貴方は、使用人達に無用な混乱と恐怖を与えました。『幽霊騒動』などという根も葉もない噂によって、彼らは怯え、職務に集中出来なくなっていたのです。これは…使用人達の信頼と彼らが安心して働ける環境を損なう行為に他なりません!」
「ひいっ!」
彼の声に微かに熱がこもり始め、トーンが一段階上がる。私に向けられる視線には、静かな怒りが宿っているのが嫌という程分かる。
「貴方の無責任な行動が、屋敷全体にどれ程の混乱を齎したか…全く理解していらっしゃらない!」
そんな中、長時間立ち続けているせいで私の足は痺れ始めていた。じわじわと感覚が失われていく足の裏に、現実感が薄れていくのを感じる。
「あのさぁ…壱月…。」
長時間のお説教に耐えかね、思わず声が漏れた。途端、壱月の言葉は鋭く途切れ、苛立ちを滲ませた瞳が私を射抜く。
「何でしょう、羽闇様。」
「足が痺れてきたんだけど…もう、座ってもいい?」
疲労困憊の淵で、私はどうでもいいという投げやりな気持ちを声に乗せた。しかし、壱月の眉は微動だにしない。
「このお説教は、羽闇様ご自身の行動の重大さを理解するまで続きます。その程度の事で音を上げる程、貴方の体は弛んでいるのですね。結構な事です、その不快感をご自身の軽率さに対する代償として受け止めなさい。」
冷たく言い放ち、壱月はお説教を続けた。
壱月の言葉は容赦なく降り注ぎ、私の小さな抵抗はあっさりと粉砕された。
体力も精神力も、限界に近い。だが、壱月の声は更に低く、鋭くなる一方だ。
「加えて、羽闇様ご自身の安全についても気掛かりで御座います!貴方は多くの敵に狙われているという状況を、未だにお分かりになっていないのではないでしょうか!?」
「(うっわ…怖い顔…。迫力がありすぎて、逆にちょっと凄いかも。)」
「羽闇様は、月姫様としての自覚があまりにも足りておりません!この様な幼稚な行いが貴方の立場をどれ程危うくするか、考えた事は御座いますか!?
そして、婚約者候補の方々です!貴方は彼らの中から、将来の伴侶となるお方を選ばなければならないのですよ。今回の件で、もしあの方々が貴方への不信感を募らせ、婚約破棄などと申し出たら一体どうするおつもりでしたか!?…いくら私といえど、その様な事態だけは些か荷が重すぎます。」
「え…そ、それは…。」
婚約破棄――その言葉に、頭の中で小さな警報が鳴った。普段はちょっと抜けてると言われる私だけど、あの人達の前ではそれなりに『月の姫』らしくしていたつもりだ。もし、今回の悪戯が皆に知られたら…!夜空君と鳳鞠君の苦笑いや、一葉さんと碓氷さんの呆れ顔が目に浮かぶ。華弦だけは笑ってくれそうだけど…。そんな考えが、ほんの少しだけ私を慰めた。
「(うーん、でもそこまでかな? たかが悪戯で婚約破棄って…流石に考えすぎじゃない? 大げさだよなあ。)」
「彼らは貴方の行動を常に注意深く見ていらっしゃるでしょう。その様な方々の信頼を得られずして、どうやって月姫様としての務めを果たしていくのですか!?」
滔々と、壱月の叱責は続く。彼の声はもはや静かではなく、抑えきれない激情の様な響きを帯びていた。論理的な言葉の羅列なのに、感情が乗っているのが分かる。
「もし、貴方の悪戯に乗じて何者かが侵入を企てたら!? 『幽霊騒動』が敵に利用されたら!? 貴方はご自身の無邪気な遊びが、どれ程重大な結果を招きかねないか想像もしていない!!」
声が最高潮に達し、部屋中に響き渡る。彼の顔は紅潮しているわけではないが、その声量と剣幕はこれまで見た壱月のどの表情よりも激しかった。体力が、精神力がごっそりと削られていく。もう…壱月の言葉は音としてしか認識出来ない。私は只々、この嵐の様な時間が早く過ぎ去る事だけを願っていた。
お説教が始まってからどれ位の時間が経っただろうか。足の感覚が鈍くなり、空腹を覚える。
「…ねえ…。」
私の声に、壱月のお説教が再び途切れる。彼の瞳は先程までの激しい怒りとは打って変わって、底冷えする様な静けさを湛えていた。その沈黙が、言葉よりもずっと恐ろしかった。
「まだ、終わらないのー…?もう疲れたよー…。」
「…ご自身の置かれた状況の深刻さをまるで理解していらっしゃらないのですね。先程、『ご自身の行動の重大さを理解するまでこのお説教は続きます』と申し上げた筈ですが?」
壱月の声は少し掠れてきた様に聞こえたが、お説教の手を一切緩めなかった。
やがて部屋はすっかり闇に包まれ、壱月の声もようやくトーンが下がっていく。彼の顔には疲労の色が濃く滲んでいた。
「…以上で御座います。私の言った事を全て、しっかりと理解して頂けましたか?羽闇様。」
その一言で、悪夢の様な時間は終わりを告げた。
そして、壱月は最後の確認とでもいう様に私に問い掛けた。
「う、うん…分かったよ…多分…。」
「多分では困ります!」
壱月の声がまた少し強くなった。彼の鋭い視線を受けて、私は慌てて訂正する。
「もー…分かったよ、分かったってば…!もうしないから…!」
壱月はまだ少し疑っている様子だったが、深く息を吐いた。
「…宜しい。では二度とこの様な真似は致しませんよう、心に刻んでおいて下さい。自室へ戻られて結構ですよ。」
「……はーい…。」
その言葉に、私はようやく解放された気分になった。まるで長い拘束から解き放たれた様に、私はふらふらと執事長室を出ていった。
心底疲れた。悪戯が見つかって、怒られて…体力的にも精神的にもクタクタだ。だが―正直、後悔はしていない。自室の扉を開け、そのままベッドに倒れ込む。顔を枕に埋め、大きく息を吐いた。
悪戯はバレたけれど、使用人達に噂されていた『本気で怒った壱月』は何だか新鮮で、ある意味面白かった。心臓の奥底にはまだ悪戯の余韻が小さく、確かに残っている。
「(…今度はどんな悪戯をしようかな。そうだ、華弦と一緒に何か仕掛けてみるのも面白いかも?彼ならきっと、楽しんでくれるに違いない…!)」
私の悪戯心が再び騒ぎ出すのは、そう遠くないだろう。けれど、この静かな月光邸に近いうちにまた小さな騒動を起こしてみたいと思うのだった。




