第64話【平和な日常?目覚めた悪戯心③-証拠-】
壱月が警備を強化すると言った通り、屋敷全体は目に見えない重圧に覆われていた。
廊下を歩く使用人の数は明らかに増え、その足音には急ぎと警戒の色が混じる。視線をやれば、使用人が見慣れない場所に立っていたり、隅々まで点検する姿が見えたりする。屋敷全体が不思議な怪奇現象を受けてピリピリとした緊張感に包まれているのだ。何処にいても人の気配があり、静かで誰にも見られない時間や空間が一切無くなってしまった。
悪戯を仕掛ける為の、ほんの僅かな隙間すら見当たらない。
「(あーあ、退屈だなぁ。こんなにピリピリしてたら、面白い事なんて起こらないじゃない。何かしたいな、何か…!)」
壱月は以前にも増して、私の傍らに控えている。彼の完璧な執事としての立ち居振る舞いは変わらない。この屋敷全体の張り詰めた雰囲気の中で、彼の存在さえも私にとって自由が利かない状況を象徴しているかの様だった。何処へ移動しようにも誰かの目があり、そして必ず壱月が静かに付き従ってくる。悪戯心が燻るのに、それを実行に移せる機会は全くなかった。
午後の柔らかな光が差し込む時間。定刻を告げる壱月の声が響いた。
「羽闇様。間もなく、私は業務の休憩時間に入ります。」
それは、彼の完璧なルーティンの中で唯一許された個人的な時間だ。彼はこの時間、広々とした執事長室に一人籠り、お気に入りのティーカップで淹れた紅茶を飲みながら静かに読書に耽る。吸い込まれる様な深い藍色の美しいティーカップ。彼の規律正しい一面とは裏腹に、人間味を感じさせるそのカップを見る度に私は特別な興味を覚えていた。そして今―この厳重になった屋敷で悪戯の標的に出来るのは彼のこの時間、この空間しかないと思った。
「うん、分かった!ゆっくり休んでね。」
努めて明るく返事をしながら、私の内では密かな計画が動き始めていた。ポケットに忍ばせていた、昨日コンビニで買った苺味の飴玉を指先で転がす。あの完璧な壱月の、完璧な一杯の紅茶に甘いサプライズを仕込んでやる。
「(ふふ…今度はあの壱月をちょっとだけびっくりさせてやるんだから!どんな顔するかな?楽しみ♪)」
壱月が執事長室へと向かう背中を見送ってから、私は気配を殺して後を追った。彼の部屋の扉は完全に閉じる事なく、僅か数センチだけ開け放たれていた。そこから漏れ聞こえるのは、カチャリ…とカップがソーサーに触れる音と立ち込める紅茶の芳醇な香り。やがて壱月は部屋を出て、書斎のある方角へ向かっていった。本でも取りに行ったのだろうか?
よし、今だ…!この瞬間を逃してはならない。心臓がドクンと大きく跳ねる。まるでスパイ映画の主人公にでもなった様な、緊張と興奮だ。
「(しーっ…誰にも見つかるなよ〜。何だかスリルがあって…楽しい!)」
息を詰めて、扉をそっと押し開いた。ゆっくりと執事長室に足を踏み入れる。部屋の中は外のピリピリした雰囲気とは違い、驚く程に静寂に包まれていた。
壁の時計の秒針だけが、単調な、しかし今はやけに大きく響くリズムを刻んでいる。
机の上には、白い湯気を立てる紅茶。目的の青いティーカップがそこに鎮座していた。私は忍び足でカップに近づくと、ポケットから握りしめていた苺味の飴玉を取り出す。指先でそれをカップの縁まで運び、震える手でそっと傾ける。
煌めくピンク色の飴玉が、紅茶の表面へと落ちていこうとした―その瞬間。
「何をなさっているのですか、羽闇様。」
まるで空間そのものが凍てつく、静かで、しかし有無を言わせない声が真後ろから響いた。
その声を聞いた途端、全身が硬直する。飴玉を持ったまま、金縛りにあった様に動けない。
「(嘘でしょ…!?)」
震える体でゆっくりと振り返る。そこに立っていたのは、いつの間にか執事長室から離れていった筈の壱月だった。手に本はなく、その無表情の奥には底知れない深淵を覗き込む様な冷たい光が宿る瞳が、私の手と落ちる寸前の飴玉…そして私自身をまっすぐに捉えていた。逃げ場は、何処にもなかった。
「(どうしよう…! 見られちゃった!?)」
「…羽闇様。一体何をなさっているのか、と聞いているのですが。」
壱月の有無を言わせない声が、私をジリジリと問い詰める。手の中の飴玉が、随分と重く感じる。
壱月はゆっくりと、迷いのない足取りで一歩近づいた。その動きだけで部屋の温度が数度下がっていく気がした。彼の視線が私の手の中の飴玉に向けられると、私の心臓がドクドクと嫌な音を立てる。
「…その手に持っているのは、貴方が昨日ご購入されていた飴玉ですね。」
短い言葉が私の心臓を射抜いた。頭の中がパニックになる。どう言い訳しよう? 風邪薬を入れようとした? いや、こんな飴玉を?
壱月は、私が手にした飴玉と目の前の紅茶を交互に見る。
「えと……これは、その…!」
「そして今、それを私の淹れた紅茶に仕掛けようと致しましたね?」
断定する様な口調で逃れる事出来ない事実を突きつけられる。捕まった…それも、壱月に。あの完璧な執事に、私の小さな悪戯がバレてしまった。
私が何も言えずに立ち尽くす中、壱月は一度私から視線を外し、部屋の中を見回した後、再び私に目を向けた。彼の瞳が更に冷たい光を宿している気がする。それは、いつもの少し呆れたり、やんわりと諭したりする表情とは全く違う。そういえば以前、ダリアから壱月に関する噂を聞かされた事がある。『壱月は一度本気で怒ると止まらない。むしろ激しくなっていく一方。』だと。
嗚呼、これだ。ダリアが言っていた、本気で怒った壱月だ。
「以前から、屋敷内で不審な現象が相次いでおりました。掃除道具が移動する、置物が数センチずれる、人影のない場所から小さな音が聞こえる…最初は気のせいか使用人による悪質な悪戯だと思っておりました。ですが、繰り返されるうちにある特定の場所や時間に集中して発生しているというパターンが見受けられる様になりました。」
彼は淡々と、淀みなく話し始めた。私の悪戯の数々を、まるで報告書でも読み上げるかの様に並べ立てる。私の顔はだんだんと青ざめていく。
「そして、その発生時期と貴方のご様子…特にここ数日は何処か浮ついた様な、隠し事をされているかの様な、妙に楽しげな雰囲気を纏っていらっしゃった事。これらを鑑み、まさかとは思いつつも…貴方が関与している可能性を考えたのです。」
「(そんなところまで見てたの…!?こっそり楽しんでた事まで…この人、エスパーか何か?)」
心が凍り付く。少しでも退屈を紛らわせようとしていた、私のほんの小さな楽しみが、全て見抜かれていたなんて。
「確証を得る為に今回の件…私の休憩時間を利用して、その間の貴方の行動を密かに確認させて頂きました。そして案の定…貴方が執事長室に近づき、この様に私の紅茶に何かを投じようとする姿を見て確信致しました。」
壱月は言葉を選びながらもはっきりと、決定的な言葉を告げる。
「一連の屋敷内の不審な現象…『幽霊騒動』の正体は、羽闇様。他ならぬ貴方です。」
彼の静かな断罪が響いた。
「え…? い…壱月ったら、何を言ってるの…?私がこんな悪戯するわけ…!」
私は慌てて、心底驚いているフリをする。震える声で必死に取り繕う。しかし、壱月は顔色一つ変えなかった。その冷たい視線は、私の稚拙な演技を完全に見透かしている。
「現行犯です、羽闇様。その手に持っている飴玉。そして、私の紅茶の傍らに貴方が立っていたという事実。これ以上に明確な証拠は御座いません。」
「っ…!」
彼の声は微動だにしない。私の必死の言い訳は彼の冷たい事実の壁にぶつかり、跡形もなく消滅した。ぐっと息を詰める。何も言えない。完全に、白日の下に晒された。頭が真っ白になり、足元がおぼつかない。
そして、これから始まる壱月の怒りの予感に身が竦むのだった。




