第63話【平和な日常?目覚めた悪戯心②-始動-】
私が廊下の隅に置かれた青いバケツを見つめ、悪戯心がくすぶるのを湛えながら数分が過ぎた。
誰かの足音が先程までの静寂を破って響いてくる。コツコツという硬質な音が近づいてきて、やがて私のすぐ近くで止まった。気配を殺して壁の陰に隠れている為、足音の主の姿は見えない。でも、きっとあのバケツを置いていった使用人だ。バケツを取りに戻って来たのだろう。
「…あれ?おかしいな…さっき、確かに此処に置いた筈なんだが…?」
私は思わず口元を手で押さえながら、内心でクスクスと笑っていた。見えないけれど、きっとその使用人は眉間に皺を寄せ、首を傾げているに違いない。早速、最初の悪戯は成功だ!
使用人は諦めきれない様子で、バケツが置かれていた筈の場所の周りを何度か探している。
その足音が少しずつ焦りを帯びてきたのが聞こえた。そして、諦めかけてため息をついたその時。
「あ、あった!…って、何でこんな所に?」
使用人の声には、驚きと更なる困惑の色が滲んでいた。私は隠れている場所からそっと顔だけを出し、彼が視線を向けている先を見た。私が数メートル離れた別の場所に、そっと移動させておいた青いバケツが何事もなかったかの様にちょこんと置かれているのが見えた。まるで意思を持って自分で移動したとでもいう様にじっとバケツを見つめ、首を大きく傾げた。そして複雑そうな表情を浮かべながらバケツを手に取り、その場を立ち去っていった。
彼の気配が完全に消えたのを確認して、私は壁の陰から音もなく姿を現すと全身で喜びを表す様に小さく笑った。
「ふふっ…アハハ!」
笑いが肩を揺らす。たったこれだけの事でこんなにも心が満たされるなんて…。悪戯って、やっぱり最高だ!
これを皮切りに、私の悪戯心は更にヒートアップした。バケツの件はほんの序の口だ。
私はそれから月光邸のあちこちで誰にも気付かれずに、小さく、確実な不思議な現象を仕掛けていった。
例えば、廊下に飾ってある花瓶。綺麗な花が生けられているのを確認してから、誰も見ていない隙に水を少しだけ減らしてみる。翌日、水量が微妙に減っている事に気づいた使用人が首を傾げながら花瓶を眺めている姿を見て、また内心でほくそ笑んだ。
またある時は、応接間に置いてある小物の位置をほんの数センチだけずらしてみたりした。それも使用人が掃除をする度に元の場所に戻されるのだが、次に私が訪れた時にまた少しだけ場所をずらす。何回か繰り返しているうちに、その小物を担当している使用人が「気のせいかしら…?」と呟きながら何度もその小物の位置を確認しているのを見て、またしても笑いが込み上げてきた。
他にも誰もいない筈の階段の踊り場で小さく足音を立ててみたり、窓が閉まっているのにふわりとカーテンが揺れる様にそっと息を吹きかけたり。どれもこれも本当に些細な事ばかりだ。その小さな『不思議』は、静かで完璧に管理されている月光邸に微かな波紋を立て始めた。そして、私の悪戯は使用人達の間である奇妙な噂となっていた。
「ねえ、聞いた?最近、この屋敷で変な現象が起こってるんだって。」
「私も聞いた!掃除道具が勝手に動いたり、置いておいた物が無くなったりするらしいわよ。」
「そうそう!それでお屋敷に幽霊がいるんじゃないかって、皆言ってるの…!」
そんな噂話を、メイド達が少し顔色を悪くしながら話しているのを何度か耳にした。最初は小さな囁きだったものが日を追う毎に広がり、真剣な顔で話し合われる事態となっていた。
そして、ある日の午後。自室でお茶を飲んでいると、明るい声と共にダリアが部屋に入ってきた。
「羽闇お嬢様〜!大変ですよ〜!」
ぱっと見はいつもと変わらない様子だが、何処か興奮しているのが見て取れる。
「どうしたの、ダリア?そんなに慌てて。」
私は何も知らないフリをして、紅茶の入ったティーカップを傾けた。だが、内心は彼女がどんな話を持ってきたのかわくわくしていた。
「それがですね…最近、このお屋敷が幽霊騒ぎになっているのですよ!」
案の定、ダリアは目を輝かせながら話し始めた。
怖い話の筈なのに、何処か楽しそうなのが彼女らしいところだ。
「幽霊?へえ〜、そんな噂があるんだ?」
私は興味津々という顔で相槌を打つ。
「そうなんです!物が突然なくなったり、目を離した隙に別の場所に移動していたりするらしいのです!特に清掃担当の人達の間では怖いって専らの噂なんですよ!」
ダリアは身振り手振りで説明する。その様子を見ていると、私の悪戯がちゃんと皆に不思議な現象として伝わっている事が分かる。
「それに、私も見たんですよ!廊下を歩いてたら、誰もいない筈なのに何処からか小さな足音が聞こえたりして…ヒィッ!ってなっちゃいました!」
ダリアは少しオーバーに身震いしてみせる。彼女の反応がいちいち可愛くて、私の悪戯心が益々刺激されていく。
「何を騒いでいるのですか、ダリア。」
すると、部屋の入口近くに控えていた壱月が静かに口を開いた。感情の読めない、執事らしい落ち着いた声だ。
「壱月様!最近、お屋敷に幽霊が出るって噂になっているのはご存知ですか!?」
「…幽霊?」
ダリアは壱月にもその話をしようと、先程よりも更に力説し始めた。
「使用人の皆さんもとても怯えていて…お嬢様も、お気を付けた方がいいですよ!」
壱月はダリアの話を微動だにせず静かに聞いている。そして、彼女が話し終えるのを待ってから再び口を開いた。
「くだらない。その様な非科学的な存在が、現実に現れるなどあり得ません。」
ピシャリと一切の感情を挟まずに言い切る。如何にも壱月らしい言葉に、ダリアは不満そうな声を上げた。
「え〜!でも、色々な人が見ているんですよ!?それに、壱月様も何か感じませんか?」
ダリアの問い掛けに、壱月は眉一つ動かさない。
「感じません。全ては気の迷いか勘違い、あるいは只の悪質な悪戯でしょう。幽霊などという実体のない存在を信じるのは時間の無駄です。」
一刀両断。壱月は幽霊の存在を完全に否定する。彼の反応は予想通りではあったけれど、これ程までにきっぱりと断言されるとは。
彼が悪戯だと言ったのは、意外と私の仕業だと気付いているのだろうか?いや、そんな筈はない。
「…しかしそこまで噂が広まっている以上、看過するわけにはいきませんね。羽闇様の安全の為にも、屋敷内の警備体制を強化する必要があるかと存じます。」
壱月は幽霊の存在は否定しつつも、事態を重視する発言をした。
噂になっている事自体が、屋敷の管理体制に穴がある…あるいは何者かの不審な動きがある可能性を示唆していると考えたのかもしれない。
その辺りの判断は、流石壱月というべきか。
「警備強化かあ〜…大変だね、壱月。」
私は少し他人事の様に言ってみた。私の小さな悪戯がまさか警備強化にまで繋がるとは思わなかったけれど、それもまた面白い。
警備強化の話が一段落したところで、壱月はちらりと壁掛け時計に視線を向けた。その一切の無駄のない動きで、時間がきた事を判断したのだろう。
「羽闇様。間もなく、月姫の特訓のお時間で御座います。」
壱月の呼び掛けに、私は彼を見上げる。抑揚のない、正確な敬語。その声を聞くと、悪戯の事や幽霊の噂で弾んでいた気持ちがすっと日常モードに引き戻されるのを感じた。
悪戯をもっと続けたい気持ちと特訓に行かなければという義務感に、一瞬だけ小さな葛藤が生まれた。でも、悪戯を仕掛ける時間は特訓の合間や今日の予定が終わった後でも作れる筈だ。
「あ、もうそんな時間か!分かった、すぐに行くね。」
私は弾む気持ちを出来るだけ抑え、椅子から立ち上がった。
目の前で真面目な表情を浮かべている壱月を見ながら、私の悪戯心は燃え上がっていくばかりだった。




