第50話【信じるという事】
壱月の言葉を聞き終えるか否か、私はいてもたってもいられず口を開いた。
「でも…その解毒剤ができるまで、華弦の身体がもたないかもしれない…!だったらその間だけでも、私の月の力を試してみるべきじゃない!?この力なら本当に毒を浄化する事が出来るかも…!」
焦りと必死さが滲む私の声。じっとしているなど耐えられず、少しでも可能性があるならすぐに華弦の為に行動したかった。私の言葉に対し、壱月は静かに首を横に振った。その表情には冷静さと共に確固たる自信が宿っている。
「いいえ、羽闇様。ご心配には及びません。」
彼の落ち着いた声が、私の焦りを静かに鎮めていく。
「月光邸の薬剤師の調薬技術は、並みの薬剤師とは比較にならないほど非常に高い水準にあります。彼ならば特定された毒の成分に基づき、迅速かつ正確に、最も効果的な解毒剤を調合してくれるでしょう。彼の専門性を信じて、今は解毒剤の完成を待つのが最善の策かと存じます。」
壱月の言葉からは彼の専門的な能力への絶対的な確信が感じられた。その言葉を聞いて、私も少しずつ落ち着く事が出来た気がした。
「…分かった。信じてみるよ。」
確かに月光邸には、私や華弦を含めた婚約者候補達、月光家のために尽力してくれている優秀な人材が多くいる。彼らを信じる事こそが今の私に出来る事なのだろう。それでも、心の奥底にある不安の火種が完全には消えない。一刻も早く、華弦に解毒剤が届いてほしいと私は強く願った。
その時、部屋の扉が勢いよく開けられた。
「壱月様!失礼します!」
息を切らせた、しかし確信のある声が部屋に響き渡る。それは月光家専属の薬剤師さんだった。彼の目は赤く充血し、額には汗が滲んでいる。そして、手には小さなガラスの瓶がしっかりと握られていた。
「壱月様…ご報告です!解毒剤が、ようやく完成致しました!」
この時の私にとって、その言葉は天上の音色にも等しかった。長い苦しみと不安の時間がようやく終わるかもしれない。
「どうぞ、此方がその解毒剤です。必ずや効果がある筈ですよ…!」
壱月は素早く薬剤師さんに近づき、その小さな瓶を注意深く受け取った。彼の目には冷たい中にも熱い希望の光が宿っている。
「ご苦労様でした、本当に感謝致します。よくぞ、間に合わせて下さいましたね。」
壱月は短く、深い感謝の言葉を述べると私に固い視線を向けた。
「羽闇様、すぐに参りましょう。藤鷹様がこの解毒剤を必要としています。」
「勿論!」
私は彼の言葉に強く頷き、立ち上がった。足はまだ震えているけれど、胸には固い決意が宿っている。
壱月は注意深くガラス瓶を手に持ち、私は月のペンダントを首に掛ける。二人で顔を見合わせ、一言も発せず、華弦のいる医務室へと急いだ。廊下をまさに走り抜ける私達の足音だけが、静かな邸の中に気がかりな響きを立てていた。
医務室に辿り着くと壱月が前に立ち、扉を静かに開けた。
「失礼致します。」
中に入ると、そこは張り詰めた空気で満ちていた。白いシーツに横たわる華弦の顔は、先程よりも更に青白く、辛うじて聞こえる呼吸音だけが彼がまだ生きていることを示していた。周りには数人の看護師さん達が忙しなく動き回り、額に汗を滲ませたお医者さんが心配そうに彼の状態を見守っている。
「華弦…!」
小さく彼の名前を呼ぶと、私の声に気づいたお医者さんが申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「羽闇お嬢様、壱月様…申し訳ありません。藤鷹様の容体が急変されまして…!」
そんな言葉は耳に入らなかった。只、変わり果てた華弦の姿が私の胸を締め付ける。
壱月はお医者さんに駆け寄ると、手に持っていた小さなガラス瓶を慎重にお医者さんに差し出していた。
「お待たせ致しました、これが解毒剤です。至急、藤鷹様にお投与をお願い致します。」
「ありがとう御座います、壱月様!」
お医者さんは彼の言葉に頷くとその容器を受け取り、同じ看護師さん達に素早く指示を出し始めた。
「急いで点滴の準備を!容器の中身を注意深く確認し、正確な量を投与するんだ!」
「はい!」
看護師さん達は同じ指示に従い、手際よく準備を進めていく。私は只々、彼らの動きを無力に見守る事しか出来なかった。
「羽闇様。」
背後から壱月の声が聞こえ、振り返ると彼は少し心配そうな表情をしていた。
「大変恐縮ですが、今は治療の邪魔になってしまうかもしれません。此処は医療専門家にお任せして、暫くは廊下で待機されていた方が宜しいかと。」
彼の言葉はもっともだった。私が此処にいても何も出来る事はない。むしろ、彼らの集中力を散らしてしまうかもしれない。
「…そうだよね。行こう、壱月。」
私は重く頷くともう一度華弦に目を向け、医務室を後にした。私は冷たい廊下の壁に凭れ掛かると強く胸の前で手を握りしめる。今の私の出来る事は、華弦が無事でいる事を祈る。それだけだった。
「(お願い、華弦…!耐えて…!)」
心の中で何度も彼の名前を呼んだ。
時間はまるで止まってしまったかの様にゆっくりと過ぎていく。医務室の中では今も懸命な治療が続いているのだろう。どうか、華弦が助かりますように。
私の意識は不安と焦燥感でいっぱいで、時間の感覚すら曖昧になっていた。その時、医務室の重い扉が開く音がこの静寂を破った。
外に出てきたのは、先程まで忙しなく動き回っていたお医者さんだった。彼の表情は中の緊迫した状況を反映してか、今も緊張したままだ。私は呼吸を止め、彼の口が開くのを待っている。
ゆっくりと此方に歩み寄ってきた医者は、一つ深い呼吸をつくと、少しだけ表情を和らげた。
「羽闇様、壱月様…。」
彼の穏やかな声がこの冷たい廊下に響く。私の心臓が激しく高鳴っていた。
「藤鷹様の容体ですが…」
「…おかげ様で投与した解毒剤がよく効いており、今は安定した状態を保っておられます。」
彼のこの短い報告を聞いた瞬間、私の体から一気に力が抜けていくのを感じた。固く握りしめていた手のひらがゆっくりと緩んでいく。
「…本当、に…?」
私の声は自分でも驚く程弱々しかった。信じられない様な安堵感が、私の全身を包み込む。
お医者さんは優しく頷いた。
「ええ。勿論まだ油断は出来ませんが、峠は越えたと言えるでしょう。このまま注意深く経過を見守っていく必要があります。」
その言葉を聞いた瞬間、私の張り詰めていた糸がプツンと切れた。足から力が抜け、私はその場にへたり込んでしまった。冷たい床の感触も今は気にならない。
瞳から溢れてくる温かい液体を、もう止める事は出来なかった。私の頬を濡らすこの涙は、悲しみや苦しみではなく、純粋な安堵の涙だった。
「華弦…!良かった…!」
小さく、けれど確かに彼の名前を呼んだ。生きていてくれて、本当に良かった。その時、私の隣に立っていた壱月が私の肩にそっと手を添えた。
「…羽闇様、お疲れ様でした。貴方が藤鷹様や私共を信じて下さったおかげで、最善の結果に繋がったのだと私は思います。」
壱月の目は温かい安堵の色を湛えており、その口元にはごく僅かな微笑みが浮かんでいた。
「そんな…」
私の声は小さく震えた。彼の言葉が、私の張り詰めていた心を優しく解きほぐしていく。
「(皆を信じて…本当に良かった。)」
様々な不安が押し寄せ、どうしようもなく心細かった時間。華弦の苦しむ姿が目に焼き付いて離れず、このまま永遠に失ってしまうのではないかという恐怖に何度も襲われた。それでもあの時、壱月の言葉や月光邸の皆の力を信じたからこそ…今、華弦はこうしてまだ息をしている。
頬を伝う温かい雫をそっと指先で拭う。その感触が、ようやく現実に戻ってきた証の様に感じられた。ゆっくりと顔を上げると、涙で滲む視界の先には深い安堵の色を湛えた壱月の穏やかな横顔があった。お医者さんや看護師さん、心配そうに待っていてくれた使用人達もきっと同様に胸を撫で下ろしているのだろう。
込み上げてくる感謝の気持ちが喉の奥を熱くする。言葉にならない程の感謝がじんわりと全身に広がっていき、抑えきれない喜びが自然と私の頬に温かい笑みを咲かせた。
「私の方こそ…。皆さん、お疲れ様でした。そして、華弦を助けてくれて…本当にありがとう御座いました…。」
第50話お読み頂きありがとう御座います!如何でしたでしょうか…?
今回のお話では、羽闇と月光邸の面々が協力し、困難を乗り越える様子をお届けしました。
彼らの絆と信じる心の強さを伝わって頂けていたら嬉しいです。
物語はまだまだ続いていきます!次回もお楽しみに!




