第48話【鮮血の庭園】
「…羽闇様、ご無事ですか?」
壱月は艶には目もくれず、私の元へ素早く歩み寄ると跪いて深々と頭を下げた。
「遅くなり申し訳ありません。予想外の渋滞に巻き込まれてしまい、少々手間取ってしまいました。」
彼の声は落ち着いており丁寧なものだったが、その奥には普段は見せない緊張が感じられた。
「よ…良かった。来てくれてありがとう、壱月。それより、大変なの。敵に…それで、華弦を早く…助けなきゃ…!」
私は壱月が来てくれたという安堵と、華弦の身を案じる微かな震えを声に乗せて答えた。
すると、よろめきながらも艶がゆっくりと立ち上がる。彼女の動きは痛みに強張り、足元がおぼついていない。それでも、その鋭い眼光は壱月を射抜いている。
「…邪魔、するな…!」
苦悶の声が漏れ、艶は華弦に巻き付いていた鎖を解き放った。彼女はまるで壊れた人形の様にぎこちない足取りで壱月の方へ向かうと、黒い鎖に手をかけた。
「…は…っ…遅すぎだよ、萱君…!」
拘束を失った華弦は、荒い呼吸を繰り返しながらその場に倒れ込んだ。
艶はそのまま壱月の前に立ちはだかる。彼女の全身から強い殺気が迸っており、大鎌を握り直すその指は白く強張っていた。壱月は私を背に庇うように立ち、再び艶に銃口を向けた。その表情は先程の柔和さとは打って変わり、冷徹なまでの険しさを湛えている。
庭園には張り詰めた沈黙が流れた。彼の指は銃の引き金に添えられ、今にも再び銃声が夜を切り裂こうとしていた。そして、艶が壱月に向かって踏み込もうとしたその瞬間だった。目に見えない何かに絡め取られたかの様に彼女の身体が硬直した。動き出すはずだった足は宙を掻き、伸ばされた鎌は中途半端な位置で静止する。瑠璃紺色の瞳が大きく見開かれ、苦悶の色を滲ませながら華弦の方を向いた。
「な…に…?」
掠れた声が、艶の喉から絞り出された。
それは華弦の仕業だった。全身に毒が回り、脂汗が額を伝う。それでも彼の意識は途切れ途切れながらも繋がっていた。鎖から解放された事で彼の身体は僅かに自由を取り戻し、同時に固く握りしめていた細剣から放たれる香りは先程までの比ではなかった。それは禁断の劇薬の様に一度嗅げば魂を囚われ、抗うことなど到底出来ない。甘美な誘惑は艶の感覚を骨の髄まで痺れさせていく。
「…躰も心も…奪い尽くす、香りだろ?…艶ちゃん…もっと、嗅いでみな…。」
苦痛に顔を歪ませ、華弦は囁いた。その動きは緩慢ながらも、握りしめられた細剣の切っ先は確かに艶の腹部へと向けられていた。
「ぐっ…動け…!」
焦燥の色を浮かべ、艶は身体を捩る。だが、甘美な奔流が全身痺れるような感覚が全身を支配し、思うままに動けない。思考は濁り、目の前の壱月の姿すらぼやけていく。彼女の意識が朦朧とする中、華弦の細剣は容赦なくその身を捉えた。
鈍い音と共に剣先は深く、艶の体内に突き刺さる。
「あ……!」
苦悶の叫びが、艶の口から漏れた。
「ふふ…これで、もっと深く…僕の香りが、艶ちゃんの身体の中を駆け巡るよ。もう、まともに考えられないだろ?」
華弦は、息も絶え絶えに吐息まじりに言った。体内に侵入した香りは彼女の五感を撹乱し、戦略的な思考を完全に奪い去る。もはや目の前の敵を認識する事すら困難だった。
腹部に深々と突き立てられた剣が抜かれ、彼女は力を失い崩れ落ちた。白い肌を染め上げる鮮血が地面に広がっていく。
「…くっ…」
華弦もまた限界だったのか、艶の倒れたすぐ隣に身を任せた。毒が全身を蝕み、激しい痛みが彼の意識を揺さぶる。先程の力を振り絞った一撃こそが彼の最後の抵抗だったのかもしれない。
「…は……は……僕の、勝ちだね…」
掠れた笑みを浮かべ、華弦はそう呟いた。
静寂が再び庭園を包み、ガーデンライトだけが血濡れた地面と動かない二つの影を照らしていた。
「華弦!」
胸の奥から絞り出した様な私の声だけがその庭園に響いた。すると、倒れ伏した艶の身体がかすかに震え始めた。微かな痙攣にも似た動きだったが、確かに彼女は生きている。苦痛に歪んだ表情のまま、彼女は信じられない程の執念で自身の身体を支えようとする。
「…こんなところで……終わる、わけには…」
途切れ途切れの呻き声が漏れる。腹部の激痛が全身を貫き、痺れが骨まで蝕むようだ。意識は朦朧とし、今にも完全に闇に落ちてしまいそうだった。それでも彼女は何かを振り払うように頭を振り、地面に手をついた。
「…くそっ……立て……!」
一度、二度、必死にもがく様にして、艶はゆっくりと立ち上がった。身体は大きく傾き、今にも再び倒れ込みそうだが彼女は重い足取りでその場を離れていく。
彼女の意識は朦朧とし、何処へ向かっているのか…何が彼女を突き動かしているのかもはや定かではない。只、この場所から遠くへ行かなければならないという強い衝動だけが彼女の体を辛うじて支えていた。
血痕を庭園に残しながら、艶の姿は夜の闇の中へと消えていった。後に残されたのは、倒れ伏したまま動かない華弦とその様子をただ見ていることしかできなかった私と壱月の冷たい沈黙だけだった。
「華弦!」
庭の血痕も気にせず、私は倒れ伏した華弦の元へ一目散に駆け寄った。彼の白い顔には苦痛の色が深く刻まれ、浅い呼吸が痛々しい。
「華弦!しっかりして!華弦ってば!」
震える声で叫びながら、私は彼の体を支え起こそうとした。
「羽闇様、お車までお急ぎ下さい。このままでは、藤鷹様のお命が危ないかと存じます。」
壱月の言葉に背を押され、私は壱月が迎えにきてくれた車に乗り込んだ。壱月はすぐに運転席へ、私はぐったりとした華弦をそっと抱きかかえる形で後部座席に座った。
エンジン音が轟き、車は一瞬の躊躇もなく夜の闇を切り裂いて走り出す。後部座席で私は華弦の顔から目を離せなかった。彼の顔に冷や汗が滲み、時折全身が痙攣していた。
「羽闇、ちゃ…」
華弦の弱々しい声が聞こえ、私の心臓が締め付けられた。
「華弦!聞こえる?…ねぇ、壱月!どうしたら華弦を助けられるの!?」
私は彼の冷たい手を自分の両手で包み込み、壱月に問い掛けた。
「…月光邸に戻れば、解毒剤を探せるでしょう。藤鷹様が受けた毒は特別に調合された可能性が高く、特定が難しいかもしれませんが。ですが、月光邸の保管庫には様々な種類の解毒剤が保管されております。微かな望みではありますが、その中に適合するものがあるかもしれません。」
壱月の言葉は厳しい状況を冷静に分析しつつも、確固たる決意を宿していた。様々な種類の解毒剤…それなら何とかなるかもしれない。そう思ったのは、一瞬だけだった。特別に調合された毒に果たして既成の解毒剤が効くのだろうか?
「…そうだ!私の力で華弦を治せないかな!?月の力なら、傷を癒したりも出来るんだ!」
私は華弦を抱きしめながら、必死の思いで壱月に問い掛けた。月の光を宿すこの力なら彼の傷を癒せるかもしれない。それに、まだ発揮出来ていない能力も使えるかもしれない。そう思ったのだ。
私の言葉を聞いた壱月は、運転しながらも僅かに眉をひそめた。
「羽闇様のお力は確かに奇跡を起こし得ますが…先程も申し上げた通り、藤鷹様のお身体に侵入した毒は通常のものとは性質が異なる可能性が御座います。月の力で傷口を癒せたとしても毒素そのものを完全に浄化するまでは難しいかもしれません。ですが、試す価値はあるでしょう。まずは月光邸へ戻り、解毒を試みつつ、羽闇様のお力もお借り出来ないか検討させて下さい。」
「分かったわ…。でも、解毒剤…間に合う、かな…?それに、本当に効くの…?」
私は焦りを押し殺し、小さく独り言の様にポツポツと呟いた。それは壱月に問い掛けているというよりも、自分自身の中で不安と葛藤しているみたいだった。
「…現時点では、断言する事は出来かねます。藤鷹様のお身体に侵入した毒がどの様な性質を持つものなのか、詳細な分析が必要となります。しかし、月光邸に保管されている様々な解毒剤、そして私共の持つ知識と伝手を総動員し、必ずや藤鷹様に適合する解毒剤を見つけ出す所存です。それまでは…誠に恐縮では御座いますが、藤鷹様にはどうか少しでも長く持ち堪えて頂くより他御座いません。」
壱月は厳しい現状を冷静に伝えつつも、その声には揺るぎない決意が感じられた。私は彼の言葉に僅かな希望を託し、華弦の冷たい手を更に強く握りしめた。
「羽闇ちゃん…」
再び、華弦が息を吐く様に私の名前を呼んだ。その声はか細く、今にも途絶えてしまいそうだった。
「なぁに、華弦?私は此処にいるよ。ずっと、そばにいる…絶対助けるから!」
「…うん。…ちゃんと、守ってあげられなくて、ごめんね……」
彼の言葉が私の胸に深く突き刺さった。違う、謝るのは私の方なのに。彼は私の為にこんなにも傷ついて…。後悔と痛みがぐちゃぐちゃになって押し寄せてくる。
壱月は一刻も早く月光邸へ辿り着こうと、必死にハンドルを握っていた。私は華弦の体を強く抱きしめ、ひたすら彼の命が繋ぎ止められる事を祈り続ける。様々な種類の解毒剤。どうか、その中にこの毒に効くものがありますように。
「お願い…死なないで…!」
第48話お読み頂きありがとう御座います!
華弦の『ごめんね』には、彼自身の全てが詰まっていたのではないかと思います。
月光邸へ急ぐ羽闇たち。果たして、華弦を救う手立てはあるのか?
次回をお楽しみに!




