牛ワイン
長椅子に隣り合って座るとベリアルは語り出した。
「貴様がやってくるまで、ステラ様は魔王であろうとしていたのだ」
「今でもご立派に魔王をしているではありませんか」
「違うのだ!」
俺は俺と出会う前のステラを知らない。
「ずっと近くでお守りしてきたからこそ、わたしには解る。貴様に敗北を喫して以来……ステラ様の表情は多彩になった。ニーナ様の前では笑顔を絶やさないステラ様だが、いつもどこかでご無理をされていたのだ」
「ステラさんらしいですね」
赤毛の魔王様は時々、張らなくても良い意地を張る。が、ニーナを守る時のそれは姉として、保護者としてのものだ。
ステラのがんばりをベリアルはずっとそばで見てきた。
魔王姉妹への忠誠心は義務感よりも、尊いと想う気持ちゆえのものなのだろう。
「本当にお優しい方なのだ」
「それに気づける貴女も同じく優しいですね」
途端に薄褐色の頬が上気する。
「う、うるさい! 貴様のそういうところがだな……」
「恥ずかしがるようなことでもないでしょうに」
「わたしは優しくなどないのだ。甘いだけだ……」
「良いではありませんか。甘く優しい魔族がいても」
ベリアルは俺の顔をじっと見つめるとククッと笑った。
「そういう貴様は魔族と共謀する神官の風上にもおけない男だな」
「ええ……そうですね」
「否定くらいしろッ! 貴様が信じる神の御前だろうに!」
この世には、魔族にしかられる大神官がいるとか、いないとか。
「光の神はきっと寛容ですから」
魔王と結託する俺が許されていることが、なによりの証拠である。
「それはそれとして、近くでずっと見ていたステラさんが変わってしまったことに、ベリアルさんは不安を覚えた……ということでしょうか?」
ベリアルはグッと奥歯を噛みしめる。
「クッ……当初はその……貴様の悪影響を受けてしまって、魔王としての威厳が無くなると危惧していたが……」
「いたが?」
フッとまたベリアルの表情が緩んだ。
「ステラ様は本心から笑うようになられた。ニーナ様を守り庇うための無理をする笑みではなくなったのだ」
「良かったではありませんか」
「ああ……魔王としては問題があるかもしれないが……わたしも同じ気持ちだ」
問題は他にあるらしい。
「ステラ様自身がいなくなったとしても、貴様がニーナ様を守る。託せるに足る信用できる存在ができたことで、ステラ様は心穏やかになられたと……わたしは思う」
最初にこの教会で一夜を過ごした時……ステラ自身も言い方は違えども、同じことを俺に願った。
自分になにかあった時は、ニーナを頼むと。
「ステラさんがいなくなるとは……なにやら不穏なことを仰いますね」
ベリアルは膝の上の拳を握り込む。
「先ほども言ったが……わたしではニーナ様だけが残った時に、守れない。それはわたしが魔王に仕える者だから。悔しい。魔王城の門番でなければお二人のそばにはおれぬのだ。だが、門番であるからには、魔王が代替わりすれば仕える主人も変えねばならぬ」
ステラが消える時とは、勇者によって倒されるか上級魔族によって王位を追われるかだ。
「その点、私は完全なる部外者ですから、魔族や魔王のルールには当てはめられない……ということですね」
「常にステラ様は心のどこかで、自分が消えた時のことを思っておられるに違いない」
「あのドヤ顔ツンデレ魔王様がですか?」
「貴様はステラ様をなんだと思っているのだ?」
「掛け替えのない隣人……でしょうか」
にこりと営業スマイルで返す。
今はそれ以上の親密な関係……などと口にしようものなら、ベリアルが泣きながら殴りかかってきそうなので、世界平和のため口を閉ざした。
神に誓って嘘は言っていない。
「ぐぬぬ……その表情、裏があるな」
「神に仕える私をお疑いですか」
「貴様だから疑っているのだ。セイクリッドとは陰謀と策謀と暴力の代名詞だからな。貴様が企んでいることなどお見通しだ」
「それはとんだ誤解ですよ。はっはっはっは」
ちょっとセイクリッドしてくる。なんて使い方が広まらない、平和な世の中になりますように。
ここでベリアルがさらに追求してくるかと思いきや――
「存分に企め。ステラ様とニーナ様を救うためにな」
「助けて欲しいと素直に仰ってくだされば、私もできる限りの協力を惜しみません」
「頼まずとも勝手にやるだろう」
「おや、お気づきでしたか」
当然だ。と言わんばかりにベリアルは胸を張った。
揺れる。薄褐色のたわわな果実だが、本人はいつも無防備で無自覚だ。
その身体がゆっくりと「く」の字に折れた。深い胸の谷間を覗かせつつ、気高き女騎士は俺に頭を下げる。
そんなことをする必要はないというのに。
「だがあえて……頼むぞセイクリッド。ステラ様は変わられた。よくなられた。だが……だからこそ怖いのだ。これまではニーナ様を守るため、魔王であらねばならなかった。だからこそステラ様は魔王でいられたのだから」
「頭を上げてくださいベリアルさん」
本当にどれだけ忠臣なのだろう。王宮の騎士に、ここまでできる人物は、果たして何人いるだろうか。
ゆっくり上半身を起こし顔を上げるベリアルが、じっと俺を見据える。
「勇者アコが魔王城にたどり着いた時、貴様はどうするのだ」
「アコさんであれば、対決以外の道を選ぶのではないでしょうか」
ベリアルは長い紫色の髪を左右に振る。
「ステラ様が魔王として、アコを倒そうとするやもしれぬ」
「そうなることも無いとは言い切れませんが……」
ベリアルは真剣な眼差しで俺を見据えた。
「闇だ」
「唐突にいかがなさいましたか? 突発性の思春期症候群とは……ベリアルさんもまだまだ大人にはなりきれていないようですね」
「ち、違うぞ! 闇なのだ! 今のステラ様はその……き、貴様の影響で光堕ちしている」
「はあ……光栄です」
「褒めてはいないぞ!」
「恐縮です」
「と、ともかくだな……光が強くなったことで、影から湧き上がる闇も濃くなった。これまでの座して滅びを待つ灰色の魔王ではなくなったが故に、なにをきっかけに反動でステラ様の中の闇が目覚めるかもわからぬ」
「やや抽象的でわかりにくいのですが……」
「楽しいことや嬉しいことを知ってしまうと、後戻りはできない。それを失った時の喪失感や痛みに、耐えられなくなる。き、貴様がわたしに上等なワインを飲ませたおかげで、すっかりわたしは……くっ……」
「お酒はお近づきの印ですよ。とはいえ、仰りたいことはわかりました」
ステラが何かを失う時、彼女の中で抑圧されていたものが吹き出すかもしれない。
その“闇”“には俺も一つだけ、心当たりがあった。
かつて玉座の間に通された時に、まさに闇を凝縮したかのような“なにか”と遭遇したのを憶えている。
「ベリアルさんも玉座の間で、アレを見たのですか?」
「なにッ!? 貴様、玉座の間に侵入したというのか?」
「滅相も無い。ステラさんから招待いただいたんですよ」
薄褐色の美女は下唇を噛んだ。
「アレとはなんだ?」
「深淵門……と、ステラさんは仰っていました」
「そんなものがあったのか……」
以前に暴走事故が起こった際に、ベリアルはニーナとともに避難したのだが、その理由は明かされていなかったようだ。
「おや、ご存じかと思ったのですが……ええと、私にもよくわかりませんが……空間にぽっかり空いた闇の穴というか、すべての光に抗う漆黒の球体とでもいいましょうか」
「貴様も大概、思春期症候群ではないか」
「趣味はポエムですから」
「初耳だな」
当然だ。今、趣味にしたのだから。
「ではお聞きください。牛ワイン」
赤、それは血のように濃く、芳醇な香りが鼻筋を抜けていく。
一口含めば果実が舌の上で踊り、シルクのようななめらかさ。
さあ牛を煮込もう。良いワインで煮込もう。きっと牛も喜ぶはずだ。
赤き果実に肩までつかり、ゆっくりことこと煮込まれて、溶けて蕩けてほどけて消える。
牛とワインのマリアージュ。ああ! 死すら二人を分かつことはできぬのだから!
「いかがですか?」
「ふむ……ワイン風呂のくだりは良いが、基本的に貴様に詩の才能はないと見える」
「なんだかビーフシチューが食べたくなりましたね」
「わたしを見るなッ! 悪魔か貴様!」
そういう貴女は上級魔族。
ベリアルは苦々しい表情を浮かべて「ポエムはいいから続きを話せ」と言い放った。
咳払いを挟んで返す。
「玉座の間に生まれた黒い球体……深淵門の中に吸い込まれると、その先に広がっていたのは、たしか草原だったと思います」
そこで俺はステラの抱いていた“恐怖”と対峙したのだ。
魔王様曰く、あの世界に映し出されるのは魔王の心そのものだとも。
今のステラの心の内を知るには、もしかすればもう一度、あの門をくぐる必要があるかもしれない。
「それでどうなった?」
「深淵門の向こう側で、私とステラさん。それと助っ人元魔王候補の二人で偽者とおぼしき勇者アコと戦いました」
二戦目にカノンが現れたくだりはまあ、いいか。
「なにッ!? なぜ、わたしに声を掛けなかったのだ」
「緊急事態でしたので」
「よりによって、蛇や豚に頼ろうとは……」
「危険かもしれない場所に突入させるには、ぴったりでしたから」
途端にハブられて不機嫌そうだった牛に笑顔が戻った。
「ならばよし!」
良いんだ……まあ、うん。
ベリアルは腕組みをした。
「次にもし、同じような事態が起こった場合は、わたしも共に行く。いいな?」
「はい。もちろん」
ステラは秘密にしたがっていたかもしれない。俺が勝手に約束するのもいかがなものかと思いつつも、同志となったベリアルの申し出を断るのは無理である。
魔王としては勇者アコに潜在的に怯えている自分など見せられなかっただろうに。
深淵門が暴走したあの日、ステラがベリアルではなく俺を頼った理由が、なんとなくわかった気がした。




