第三十六話 碧の修行(2)
空手の体験会のような修行一日目はあっという間に過ぎていった。空は既に夕焼け色に染まっている。
おそらく財政難とは無関係だが――このレイリーンライセルという町には街灯などなく、町外れのこの聖域も例外ではない。魔族でなくとも、暗闇に乗じて活動を始める獣もいよう。いかに体術と射撃に優れた少女らとはいえ、たった二人では心許ない。【滅獣】はあるが、いわゆるマジックポイント的なものが気になる碧としては、そうそう乱発するものでもないと考えている。それに、鉤爪男たちのような暴漢の集団がいないとも限らない。仲間たちの忠告通り、暗くなる前に帰ることにした。
何かを修得したということはさすがにないが、久しぶりにいい汗をかいて心も身体もすっきりしている。碧の型を見様見真似で実践したラニアも同じように感じたらしく、「これなら的にしなくてもストレス解消になるわね」と麗しい笑み。誰たちを的にしているのか薄々悟った碧、「止めてあげなよ」と言う勇気もなく愛想笑いに留めた。
ミシェルの外観だけはまともな家が見えてきた。と同時に、薄暮の迫る一帯にあって存在感を放つ白い人影が家の前に立っていることに気付く。
「白兎! 元気になったんだね!!」
「おう! 意外とくつろげたぜ。あの護符に治療の効果もあったみたいでよ、あたいはこの通り全回したッてワケだ。一応軍医にも診てもらったしな」
回復というのは本当らしい。痛々しい程の包帯は身体から消え、口調もいつも通り威勢がいい。一般的には骨折含めそう簡単には治らない傷ばかりだったはずだが、神術の治癒力と即効性に改めて感服する。
(お医者さんいらずだ)
怪我を負う以前と変わりない様子にほっとする碧とラニア。白兎はあァ、と何かを思い出したように親指を後方の家に向ける。
「問題が解決したッてンで、奮発して豪華なメシを作ってくれるらしいぜ」
白兎の声と同時に扉が開く。前掛けを身につけた家主が顔を覗かせた。扉の隙間から、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いが漂ってくる。
「帰ってきたようだね。今彼女が言ったとおり、今夜は特別待遇だ。そうそう、下手物は入れていないから安心したまえ」
「ありがとうございます」
冗談交じりなミシェルの言葉に思わず吹き出す碧とラニアだったが、礼を言うことは忘れない。ミシェルはいやいや、と言いながらドアを開け放ち、女性陣を招き入れる。
一行は昨晩からこの家で寝泊まりしている。入り口から続く悪趣味回廊はもう見慣れたもので、二人とも特に感慨は湧かない。リビングに入り食卓を見つけると、碧もラニアも思わず「わあっ」と声を上げた。
食卓の上には、およそ異世界とは思えない肉類、魚類、野菜類が、あるものは芸術的に、あるものは彩り豊かに白い皿に盛られ配膳されていた。どこかの晩餐会を凝縮したかのようである。
既にご馳走にありついている男性陣は碧らに気付いていないようだ。ミリタムはステーキをナイフで上品に切り分け、口元をナプキンで拭くなど貴族らしい振る舞い。イチカはさすがにもう殺気は放っておらず、人並みかそれ以下ではあるが料理に手を付けている。カイズとジラーは、まるでそれ自体が戦いであるかのように目にも留まらぬ速さでフォークを振り回している。
あまりの豪華さと男性陣のちゃっかり加減に立ちつくしていると、「おっ」とカイズとジラーがようやく女性陣に気づいた。カイズは鳥足を握ったまま手を振り、ジラーは頬袋に食べ物を詰める小動物のごとし。二人の口元はソースや食べかすまみれであり、がっつき具合が見て取れる。
「姉さん、アオイ! おっかえり~!」
「意外と美味いぞー!」
申し訳程度にそれだけ言って再び料理に向き直るカイズたちに呆気に取られながら、ラニアがミシェルに訊ねる。
「こんなにたくさんの食材、どこから持ってきたんです?」
「レクターンから運んでもらったんだ。レイリーンライセルに送られる食料とは別途でね」
「へぇ~~」
「それにしてもすっごいね~、カイズとジラー。目の前にミイラがいるっていうのに」
止まることを知らない彼らの腕の行く先を、碧は感心半分、気持ち悪さ半分で見つめる。そもそも何故、ガラス越しとはいえテーブルの上にミイラが置いてあるのか。気にならないではなかったが、空腹の方が先立つ。
「長く肉類とか食べてなかったからね~。しょうがないと言えばしょうがないわね。それじゃ、あたしたちもいただく?」
「そうだね。あれ、白兎も食べるの?」
いつの間にか隣に来ていた白兎が席に着くのを見て、思わず声を上げた碧もラニアも目を丸くする。
「悪ィかよ」
「う、ううん! そうじゃないけど」
白兎は何事か言い淀む碧に、暫しジトッとした視線を送り。
「……お前、あたいが人参しか食べねェと思ってンだろ」
違うのか、と碧のみならずその場の全員が一瞬手を止めたが、何事もなかったかのように食事は再開。
「ミシェルさん、いただきます!」
「オイ話逸らすな。目ェ逸らすな。獣人ごときは人参だけ食ってりゃいいッてか、随分下に見られたモンだなァ? あたいらだってなァ、生きるために命を戴いてンだよ! バカスカ獲りやがるてめェらと違って慎ましやかにだけどな! そもそも人参は至高の品でそうそう食えるモンじゃねェッて何回言や」
遠慮がちに摘まんでいたのは最初だけ。修行とやらで空腹だったのか、白兎の悪意たっぷりな嫌味を聞き流すためか、自分よりも一心不乱に多く食べている碧とラニアを、イチカは半ば呆れた表情で見ていた。
「それじゃ、行ってきまーす」
翌日、まだ日も出ていない未明、碧はこっそりとミシェル宅を出た。深い眠りについているであろう皆に配慮しての小声である。
ヤレンから一週間聖域に通うよう助言を受けたことは、昨日のうちに皆に伝えている。細かな日程までは知らせていない――と言うより、「起きたら行き疲れたら帰る」くらいの大雑把な計画しか立てていないので知らせようがない――が、行き先は一つ。
ラニアは「一週間だろうが何だろうが側にいるわよ!」と力強く宣言してくれたが、美容に気を遣っている彼女をこんな早朝から付き合わせるのは忍びない。起きたら大層怒られるだろうか。
(大丈夫、だよね?)
「待て」
碧の安直な考えをたしなめるように低く、よく響く声が彼女の足を強制的に止める。ミシェルの家から一歩踏み出したばかりのことで、碧の心臓は驚きのあまり跳ね上がった。胸を押さえ、状況をなんとか把握し、ゆっくりと振り返る。
「い、イチカかぁ。おはよ~」
思った通りの人物が、扉の横で腕組みをして壁に寄りかかっていた。碧は平静を装い、自然な笑顔を心がける。思いとは裏腹に、誰がどう見ても引きつった笑顔だったが。
「こんな時間からどこへ行く気だ」
イチカは挨拶には答えず、即座に本題に移る。碧からは横顔しか見えないが、心なしか目が据わっている。それに気づいた碧は一瞬たじろいだものの、慎重に言葉を選ぶ。
「ど、どこへって、聖域って昨日、言わなかったっけ?」
「聞いた。わざわざ暗い時間帯を選んで出て行く必要があるのかと訊いている」
「うっ」
あまりの正論に言葉が出ない。夜間に一人で外を出歩くな、とは小学生の頃から言われ続けてきたことだ。今の碧は不審者などより、もっと危険な輩に狙われている。それを分かっていてなお『今』でなければならないのか、とイチカは訊いているのだ。
確かに、本来ならば避けるべきだ。日中、皆の目が届く時間ならまだしも、自ら獣の群れに飛び込んでいくような愚行は褒められたものではない。そこまで分かっていても、碧は自分を止められなかった。焦りと、罪悪感と、劣等感。ようやく強くなれるかもしれない好機に恵まれた今、それらに突き動かされ、いても立ってもいられないのだ。
「あたし、もうこれ以上みんなに迷惑をかけたくないの。早くいろんな神術を覚えて、みんなの役に立ちたい。守られるだけじゃなくて、早く自分の力で魔族に立ち向かえるようになりたいの」
だから碧は、しっかりと顔を上げてイチカを見た。銀色の瞳は逸らされたままだが、きっと耳は傾けている。根拠もないのに確信はあった。
「その前に殺されちゃうかもしれないけど、それはイチカが言ってたよね。お前が決めたことだって。だから、誰も悪くない。それに、昨日も言ったけど今回は魔族は来ない……と思う、から」
拙いながら、伝えたいことは伝えた。後半はただの勘でしかないため、尻すぼみになってしまったのが説得力に欠ける。返ってくる言葉は計り知れず、そのまま俯いてしまう。
「迷惑をかけたくないと言うが」
薄暗闇と静寂に包まれる中、イチカが口を開く。
「今おれがこうして見張らなければならないこの状況、あんたは迷惑をかけていないと言えるのか?」
「っ……」
嫌な問い方だ。一方で、そう感じるのは後ろめたさ故だということも分かるから、碧は反論できなかった。
待ち伏せていたかのような用意周到さを窺わせるが、彼が本当に必要性を感じて見張っていたのかは分からない。たまたま起きていたところに鉢合わせただけかもしれない。しかし、目撃したのがたった一回だけだったとしても、彼は結局同じ行動を取っただろう。根底には責任感、とりわけ白い少女との約束があるはずだ。
たとえ気の進まない仕事であろうと、イチカは責任を持ってやり遂げる。今回の援助金騒動が好例だ。だからこそ、最良の道を選ぶことを碧に望んでいるのだ。
「あんたが誰も悪くないと言おうが、いざその時になればあいつらは自分を責める」
断定的なイチカの懸念は、碧も十二分に分かっていた。分かっていて、気付かぬ振りをしていた。心優しい彼らなら理解してくれるだろうという甘えがあった。今後碧が命を落とすようなことがあれば、それも間接的に迷惑をかけることに他ならない。
「時間を改めろ。それができないなら修行は認めない」
昨晩の黙認から一転、却下ときた。彼の立場からしても、世間一般的にも真っ当な意見だが、碧からしてみれば些か強行だし不満が残る。
「……イチカが、護ってくれるんじゃないの?」
「自惚れるな。立場を弁えない奴に気を回す義理はない」
不貞腐れたまま零した問いは、物の見事にばっさりと切り捨てられた。
彼は確かに責任感が強い。だからといって、自身の信条に反してでも責務を全うするわけではない。昨日から薄々感じ取っていたことが、これではっきりした形だ。
これ以上反発しても不利になるばかりだろう。碧が何を言おうとイチカにとってはただの子どもの駄々だ。それが分かるくらいには碧にも分別はある。自分がどれだけ周りを顧みない言動をしているかだってよく理解している。
(でも、早くみんなの役に立ちたくて仕方がないんだもん。すぐそこに聖域があって、いつでも修行できるのに、のんびり寝てなんていられない。それって悪いこと?)
イチカはあくまでも時間帯に苦言を呈しているだけで、常識的な時間であればこうして口出しされることもなかったはずだ。そういう意味では碧を心配したが故の忠告と解釈できなくもないが、十中八九ラニアらの心的負担を未然に防ぐために先手を打っただけだろう。よって、碧の内にはそんな淡い期待など微塵も込み上げてくることはなかった。
「そんな分からず屋の朴念仁なんてほっときなさい」
前にも進めず後にも退けず。視線を寄越しもしないイチカ、その無言の威圧を意地で耐えつつ踏み止まっていた碧に、福音が届く。
「あたしは素敵だと思うわよ? 寝る間も惜しんで頑張ろうとするあなたのこと」
まさかこんな時間に起きているとは思わず、碧は思わず二度見した。少しずつ白んできたとはいえまだまだ彼わ誰時だというのに、その姿は後光でも差しているかのように鮮明だ。見間違いようのない美貌はまさしくラニアのものだった。
「だったらお前が付き合えばいい。朝から晩まで」
「言われなくてもそのつもりよ」
イチカの皮肉にも華麗に対応しながら歩いてくる様は仏のようだ。この世界では仏よりも神と言うべきなのだろうが、碧にとってはそんなことはどうでも良い。慈しむかのような眼差しがありがたくて温かくて、手を合わせてしまいそうになる。
碧の中では人を超越した存在になりつつあるラニアの、しなやかな両腕が伸びる。やがてその両手のひらは蝶のように軽やかに碧の肩に着地して――なおも沈み続けた。いつの間にか握りこまれた指の圧も加わり、肩揉みされているかのような痛気持ち良さにほうっとしたのも束の間。
「……痛っ、いたたっ。あの、痛い。痛い、です」
いかんせんその力が強すぎる。
「でも、せめてあと二時間後にしましょう?」
ね? とラニアの爪が一層食い込む。碧の懇願が聞こえていないようだ。それとも、聞こえなかったふりをしているのか。その間も肩を握り潰さん勢いで力は強まり、最早声も出ない碧は涙目で頷くしかない。足裏を指圧されて悶絶する人間の気持ちが分かる。
後で分かったことだが、ラニアは碧が出て行く気配を感じ取っていたらしい。普段は全く気付かないほど熟睡しているのだが、ちょうど眠りの浅い時間帯だったのか少しだけ意識が覚醒しており、微睡んでいたとのこと。
もう数分もすれば寝落ちしてしまいそうなところ、話し声が聞こえ、しかも不穏な空気。いても立ってもいられず、眠い身体に鞭打って布団から這い出た。しかしとんと眠気には勝てぬ。眠すぎて瞼が重く、かといって目を瞑るわけにもいかず、薄目を開けていたのだそうだ。これが碧の見た「慈悲深い眼差し」の正体である。
眠気は時として正常な判断力を失わせる。ラニアの奇行も早く眠りたいがためのものだったのだろう。脳内で天上人となりかけていたラニアは真っ当な人に戻り、同時になんだか少し落胆した碧であった。
それ以上逆らえるはずもなく、碧はラニアと共に部屋に戻った。そのラニアはすでに安らかな寝息を立てている。イチカはラニアが現れて以後、一人でどこかへ行ってしまった。彼についていけば良かったのでは、と思いもしたが、まず間違いなく却下されるだろうし、彼の行き先はきっと聖域ではない。
(二時間、何しよう)
一行に宛がわれた部屋は、玄関や居間と比較すると随分と奇抜度が下がる。一見ごく普通の寝室なのだ。ただ、注意深く観察すると気付いてしまう。装飾品や家具の模様、布団の柄に至るまで、内装のほとんど全て、耳のような形を模しているのである。
ミシェルによれば部屋は四つあり、それぞれ目、鼻、耳、口をモチーフとしているそうだ。カイズとジラーは鼻、白兎は口、イチカとミリタムは目の部屋を割り当てられた。曰く「最もえげつないのは目の部屋」だそうで、少しだけ覗いた碧らはすぐさま納得した。一晩中複数の目に見つめられながら眠らなければならない、と言えば想像しやすいかもしれない。イチカとミリタムを割り振ったのは「比較的動じなさそうだから」ということだが、イチカは無表情だしミリタムは興味津々に部屋中の『目』を探し回っているしで、ミシェルの予想に違わず無難な部屋割りとなった。
とはいえ、妙な気配を感じたり金縛りに遭ったりなどということはない。つまりは、慣れてしまえば快適なのだ。ただ横になるだけのつもりだった碧も、天井の『耳』の模様を数えているうちに睡魔に襲われた。
そして二時間後。今度こそ起床した碧とラニアはミシェルが用意してくれた朝食を取り、これまたミシェルが作り置いてくれていた昼食を持って聖域へ向かった。修行風景については、一日目の内容に瞑想を追加したぐらいなので割愛する。
三日目、白兎がやって来た。カイズやジラーならまだしも思いがけない人物だったために、碧もラニアも目を丸くする。そんな彼女らの様子に舌打ちを零しつつ、「散歩のついでに見に来ただけだかンな!」と苛立ち気味に自分が訪れた経緯を説明する白兎であった。
「それにしても、酷ェ空気だなココは」
「酷い?」
しかめっ面で周囲を見渡す白兎の言葉が理解できず、碧はオウム返しする。先日訪れた他の仲間たちやミシェルは居心地良さそうにしていたし、碧もまたそう思っている。でなければ毎日通う気にならない。
碧の表情から意図を汲んだのか、白兎は釈明しつつ後頭部を掻く。
「たぶん、あたいらと人間の違いだろ。聖域ッてのは魔物を寄せ付けねェそうじゃねェか。あたいらも半分は魔物みてェなモンだからな、綺麗すぎる空気が肌に合わねェンだろ」
「魔物って」
理屈は分かるが、碧としてはやや自虐的なその喩えを使われると複雑な心境になる。ようやく少し打ち解けるようになった白兎が、自らの命を狙う者たちと半分同じだなんて思いたくないのだ。
「あら、でも護符は大丈夫だったじゃない? ミリタムの神術だって」
「アイツのは大した神力じゃねェし、護符は一時的なモンだからな。ずっと浴び続けるワケじゃねェ。けどこういう場所は、それ自体が半永久的に途轍もねェ力を放ってる。だからこっちもモロに影響を受けるッてワケだ」
淡々としてはいるが、白兎の顔色は確かに良くない。じわじわと体力を削ぎ落としていく毒のようなものなのかもしれない。あまりこの場に長居させない方が賢明だろう。碧は焦燥に駆られながら、自らの身を危険に晒してでも聖域に顔を出してくれたことに深い感銘を受ける。
「心配してくれてありがとう。辛かったらもう帰っていいからね?」
「だからついでだッつーの! あと別に辛かねェ!」
碧なりの労りのつもりでかけた言葉は逆効果だったようで、ややハの字だった耳が瞬時に跳ね上がる。何故ムキになっているのかは分からないが、「辛くない」という言葉の信憑性を疑ってしまうほどには青白い顔だ。
「ほんとに?」
「あたりめーだ! なンならこの辺百周してやろうか?!」
鼻息荒く宣言し今にも走り出しそうな白兎。彼女なら意地で完走してしまいそうではあるが、走り終わった直後に倒れられても敵わない。迅速に引き留め丁重に断った。
自滅持久走はなんとか回避したものの、白兎は未だ不満顔である。走るのが駄目ならと、何時間でも居座り続けるつもりだろう。どうしたものかと碧が考えていると。
「アオイ、そろそろ休憩しない?」
鶴の一声ならぬ美女の一声である。さりげないウインクは「あたしに任せて」の意か。碧が心強さを感じつつ肯定するより先に、獣が吠えた。
「あァン?! お前まだあたいに気ィ遣って、」
「自惚れんじゃないわよ」
冷めた眼差しと低めの声色で凄まれた白兎は、碧の目には飼い主に叱られて縮こまる犬に見える。
「あたしたちは朝からずぅーっとここにいるの。休みなしなの。たまにはここ以外の空気も吸いたいわけ。てことでちょっとここを離れるわ。良かったら白兎も一緒にどう?」
「……行きます」
あくまで提案のはずなのに、ラニアのそれはことのほか強制力が働く。白兎も途端にしおらしくなり、言われるがまま付いてくる。耳は、元気のない犬の尻尾のように垂れ下がっている。弱みでも握られているかのような構図である。碧は碧でラニアの前半の台詞に居たたまれなさを覚えていた。
聖域を出て五分ほどすると、町外れの飲食店や民家が見えてくる。その頃には、白兎の顔色にも血色が戻ってきていた。やはり聖域に当てられたのだろう。
数日前と違い、町中を歩く人々の姿も見受けられるようになった。滞っていた支援金の配分が少しずつ進んでいるのだろう。行き交う町民の目は、今後の暮らしぶりに微かな希望を見出したかのように光を取り戻していた。
他方、複数の遊具が備えられた公園に子どもの姿は見当たらない。若い世代の流出に歯止めがかからないのだ。かといって、これだけ傾いた町政では移住者を呼び込むどころではないだろう。古びて劣化の進む遊具を横目に、三人は適当な長椅子に腰掛けミシェルの手作り昼食を広げる。
「兎族は修行したりするの?」
「滅多にやらねェな」
サンドイッチを頬張りながらの碧の素朴な疑問に、白兎は眉間に皺を寄せながら答える。不快なのではなく、修行という行為そのものに対する馴染みのなさからくる表情だろう。
「あたいらは戦闘民族だから、物心ついたか、つかねェかぐらいで戦い方を叩き込まれンだ。毎年開かれる模擬戦形式の大会がお披露目の場みてェなモンだから、前の年を上回る成績を残せるように鍛錬は欠かさねェ。そういう意味じゃ日々修行してるようなモンだな」
「だからあんなに強いんだね!」
「けちょんけちょんにノされたけどな」
それまでと同じ調子で急に自虐を織り交ぜられたため、一瞬停止する碧の思考。先の敗北は白兎の自尊心をかなりズタボロにしたらしい。適度な慰めの言葉が見つからない。白兎は白兎で特に何も期待していないのだろう、生温い笑顔を浮かべたままどこか遠くを見つめていた。
「まァ本格的なのは滅多にやらねェッてだけで、それでもやるヤツはいる。あたいの幼なじみも結構前に武者修行の旅に出てったしな」
そういやアイツ全然帰って来ねェな、とぼやく白兎は何事もなかったかのようにいつも通りで、碧は内心胸をなで下ろす。もちろん、平静を装っているだけで心の傷は全く癒えていないのかもしれないが。
昼食を食べ終わった三人は再び聖域へと戻る。碧は幾度となく白兎を気遣って帰るよう諭したのだが、白兎は一向に聞く耳持たず。ラニアの一睨みにも半泣きではあったが耐え抜いてしまい、根負けした二人がやむなく了承したのだ。
しかし、予想と違わず蒼白な顔色に逆戻りした白兎の体調は次第に悪化していき、一時は意識が無くなりかけるほど危うかった。さすがにこれ以上はいられないと、修行を切り上げ早々に家路についたのだった。




