第二十九話 さかいめ(1)
日も昇りきらぬ朝方、イチカは目覚めた。
幼い頃から深い眠りについた記憶はないが、ここ最近は特に顕著だ。とはいえ日中眠気に襲われることもないので、彼自身「そういうもの」だと割り切っている。
この世界の私営の宿はそのほとんどが相部屋を余儀なくされるが、この「元」宿はその流れを汲まなかったらしい。各部屋にベッドが一つと簡易机のみの質素な室内は、現代日本の出張者が利用する宿泊施設を彷彿とさせる。
静かに部屋を抜け出し、極力音を立てぬよう歩く。仲間たちが使っている部屋からは物音一つしない。皆よく眠っているようだ。ひとまず井戸水でも貰おうと玄関へ向かう。
玄関へは、階段を下りた先のリビングを抜けなければならない。
木板の軋む音は、どれだけ注意を払っても否応なく響く。そろりそろりと降りていって、薄暗い階下に溶け込むように佇む人影に気付いたイチカは、思わず立ち止まった。同時に、常時身につけている剣の柄に静かに手をかける。
「お前……レイトか?」
些か滑稽な質問も、住人や仲間以外だった場合を想定すればこそ。
たとえば、泥棒。たとえば、強盗。あるいは――魔族。家主を殺害した何者かと鉢合わせた、という可能性も否定できない。最悪のケースを脳裏の隅に置きつつ、相手の出方を窺う。
警戒心を纏ったまま、数秒。
驚いたように見返った影に、イチカもまた僅かに目を見開く。
「早いねえ。君は、朝には弱そうに見えるけど?」
「……なんだ、それは?」
声調からしてレイトには違いないようだが、イチカは茶化したような問いには答えず、やや棘のある口調でさらに問い詰めた。その鋭い眼差しは彼の頭部、上半分に注がれている。
敵意にも似た視線にレイトは少し首を傾げて、やがて合点がいったのか、その部分に手をやった。
「ああ、これかい? 眼癒器、っていう医療品だよ」
頭頂部から鼻の上にかけて、光沢と透け感のある黒色の板が、輪郭に沿うように彼の顔を覆っている。板の厚さは手指よりも薄く、それでいて軽量なのか、顔を動かすのにも特に不都合はないようだ。
「……“医療品”?」
イチカの、眉間に寄った縦筋が一層深く刻まれた。
この世界に来て三年ではあるが、見たことも聞いたこともない。日除け帽子の目庇部分が樹脂製のそれに近い見た目だが、今現在のアスラントの資源や技術では実現不可能だろう。時代錯誤感のあるそれの存在が納得いかず、イチカはその切れ長の眼をさらに細める。
「そんな医療品、聞いたこともない。なんの役に立つ」
語気を強めてレイトに食ってかかるが、『眼癒器』によって遮られた表情を読み解くのは至難の業だった。唯一覆われていない唇は、常日頃と変わらない微笑を浮かべている。
イチカの小さな奮闘を知ってか知らずか、レイトはぽつりと語り出す。
「実はこれね、僕の古い友人が作ってくれたんだ。結構眼が疲れやすくてね。ほら、目薬を差すのにも手間がかかるだろう?」
さらに追及しようとしたとき、背後の階段から人の気配がした。
振り向くまでもない、イチカには誰だか分かっていた。レイトの顔が階段の上方に向けられる。
「やあお早う、アオイちゃん。君も朝は早い方かい?」
イチカの予想通り、そこには碧がいた。
「特技は早起き」と言っても差し支えないほど碧は朝に強い。夏休みのラジオ体操には無遅刻無欠席。よほど疲れが溜まっていない限りは、どんな行事だろうと寝過ごしたことは一度もない。
今回もその特性がいかんなく発揮され、気晴らしに散歩でもと思い立ち一階に降りようとしたところであった。
「はい。どんなに遅く寝ても勝手に起きちゃうんです……ってどうしたんですか、その顔?!」
碧もやはり、昨日と違うレイトの様子に驚きを隠せないようだ。とは言ってもイチカのように訝しむそれではなく、昨日の今日で重病にでも罹ったのではないかと言わんばかりの表情である。
血相を変えた碧を見て、レイトははっはっは、と豪快に笑いながら『眼癒器』を軽く叩く。
「いやね、なんだか眼が疲れてたみたいで。眼の療養さ」
イチカに対する説明とほとんど変わらない。彼の言うとおり目以外には特段変化もなく、想像していたほど深刻な事態ではないらしいことが分かった碧はほっと胸をなで下ろす。
(サンバイザーみたいだけど、目のための器具なんだ。この世界にもこんな技術があるんだなぁ)
この辺は性格の違いであろう。イチカとは違い疑問に思うこともなく、しげしげと『眼癒器』を眺めていた碧は、思い出したようにぽんと手のひらを叩いた。
「それじゃあ、なにかお手伝いできることありますか?」
「いいよいいよ。ラニアの大切なお友達をこき使ったなんて言ったら、それこそラニアに撃たれちゃうからね」
碧の申し出に、レイトは冗談めかしながら軽く手を左右に振る。
「こき使うなんて! あたしはただ、何か役に立てたらなって思っただけで。美味しいご飯食べさせてもらって、泊めてももらっちゃって、何もしないのも悪いし」
「その心遣いだけで十分だよ、ありがとう。いやーそれにしても、その年でそこまで考えてるなんて偉いなぁ。ねぇイチカ……ん? 僕の顔に何か付いてる?」
言ってから「ああ『眼癒器』が付いてるか」と笑うも、イチカの勘繰るような眼差しは逸らされることがない。喉元に刃物を突き付けるかのごとき威圧感は、レイトでなくても居心地の悪さを感じてしまうだろう。
「い、イチカ。何か、君の気に障るようなことを言ったかな?」
「……お前の言動はいつも気に障る」
さらりと毒づいてからようやく視線を外し、イチカは玄関へ歩いていった。
圧力から解放されたレイトは見るからに安心した様子で軽く息を吐くと、台所に向かおうとする。
「ああ、アオイちゃん。良かったら朝食の準備、手伝ってくれるかい?」
「はいっ!」
歩みを止めて振り返ってきた青年に、碧は待ってましたと言わんばかりに元気よく返事をした。
「それじゃあ、気を付けて。あ、ラニア! お腹出してると風邪引くよー!」
レイトの手作り朝食を食べ終わった一行は、イチカの宣言通り朝のうちに出発することになった。レイトはやはり足に縋り付かんばかりの勢いで難色を示したが、ラニアが顔を赤らめながら「また近いうちに来るから」と言えば、光の速さで承諾。現金なものである。
別れの挨拶もそこそこに飛び出したお節介に、背を向けて歩き出したばかりのラニアは頬を染めて反発する。
「~~こーゆーファッションなの! 子供扱いしないでよ!」
「ラニア!」
長い金髪をなびかせ、仲間たちの元へ足を踏み出そうとしたラニアを、再びレイトが呼び止める。
「なによ、まだなにか言い足りないことでも――」
また茶化されるのかと、うんざりしながら振り返ったラニアの手がやんわりと捕まえられた。いつの間にか走り寄っていたらしいレイトの表情は真剣味を帯びていて、用意していた小言は吹っ飛んでしまう。
レイトは彼女の手を取ったまま片膝をつき、傷一つない滑らかな手肌に顔を寄せたかと思うと、そっと手の甲に口づけを落とした。
「……っ?!?!」
呆然と彼の挙動を見つめていたラニアだったが、状況を理解するやいなや目を見開いて全身を真っ赤にし、レイトと自らの手を忙しなく見比べる。
「おーおー朝からお熱いコトデスネー」
一部始終を目にしていた白兎が、棒読みで二人を囃し立てる。物理的距離は相当離れていたが、聴力は言わずもがな、視力も優れた彼女にとっては無問題である。
他方、照れ隠しの発砲をしようにも利き手を取られてしまっているため、目を白黒させながら婚約者を凝視することしかできないラニア。そこまで見越していたかはさておき、レイトは彼女を見上げながら大層満足げである。
「君たちが魔王軍に勝てるおまじない。効くか分からないけどね」
「~~! じゃ、じゃあね!!」
もう限界とばかりにラニアは半ば強引にレイトの手を振り払い、仲間の後を走って追いかける。顔の熱は冷めるどころかさらに火照り、胸の高鳴りは収まることを知らない。きっと、全力疾走だけが原因ではない。
「しばらく手、洗えないね」
どうにかこうにか昂ぶりを鎮めようとしていたところに止めを刺され、ラニアはもう赤面するしかなかった。
レイトはそんな彼女と仲間たちを、姿が見えなくなるまで手を振って見送るのだった。
それから早三日が経過した。
二日続けて野宿だったにも関わらず、一行は歩き疲れることを知らなかった。ほぼ連日、一つの話題で大いに盛り上がっていたためだ。
すなわち、ラニアとレイトの関係について。
「レイトとどこまでいったんだ?」
「キスくらいはしてるよな~~」
「お、まさかそれ以上いって――」
「は、白兎!!」
上擦った声と同時に響く、場違いな銃声。
特にこの話題に食いついているのが、カイズ、ジラー、白兎の三人である。質問をする度に、ラニアの顔色が目まぐるしく変わるのを面白そうに眺めているのだ。
碧はというと、少し離れた所からその様子を苦笑いしながら見守っていた。質問攻めに遭っているラニアのことは気の毒に思うし助けに入りたいが、やはりどうしても発砲は怖い。からかうのに夢中とはいえ三人の胆力には脱帽する。耳が良い白兎など銃声に戦いて逃げ出しそうなものだが、まさに脱兎のごとく飛び出していった先日とは打って変わり、平然としている。
この短期間でそんな耐性が、と一瞬感心した碧だったが、なんのことはなく、木製栓で耳穴を塞いでいるだけだった。町中や街道を歩く際は長い耳を隠すために毛皮のフードを被っている白兎だが、元々飛び抜けた聴力なので、多少くぐもっても会話を聞き取ること自体はそれほど難しくはないのだろう。いずれにしても、好奇心が恐怖を上回らなければそんな小細工さえしなかったはずだ。
あれほど人間嫌いを露わにしていた白兎が自ら輪に入り、会話に参加している。共に行動する仲間として、これほど好ましい変化もない。食いつきが良いのは今のところこの話題ぐらいだが、これから徐々に仲良くなっていけるだろう――。
淡い期待を抱きつつラニアたちを見つめ、ふと一人で先頭を歩いているイチカが気にかかった。
そういえば、彼との距離感もお世辞にも近いとは言えない。
幼い少女と交わした約束のおかげか、強い嫌悪感や殺意を向けられることはこのところめっきり減った。
ただし、肯定的な態度は未だ皆無。護る対象として真逆の感情は押し込めたが、それ以外の感情については特に必要性を感じていないのだろう。少なくともイチカからの接触は全くと言っていいほどない。
(ラニアたちみたいに、とまでは言わないけど)
せめて、普通の仲間ぐらいには。
意を決して、けれども気取られないよう慎重に近づく。驚かせようとしたわけではなく、自らの心の準備を整えるためだ。それくらい彼に近づくのは碧にとって勇気が要った。
しかし、結局この行動は無駄に終わる。
「……なんだ」
「あ、気づかれてた」
カイズやジラーに向けられるものとは違う、警戒感の強い声質。
視界に収めてもいないのに誰だか分かってしまうイチカに驚いたが、勘付かれたことでむしろ緊張の糸が解れた。碧は思い切って彼の横――と言っても間に数人入れそうなほどには距離がある――を陣取る。
イチカは一瞬碧に目をやったが、野良犬然とした拒絶反応は見られない。そのことに安堵しつつ、手始めに世間話を投げかける。
「ウェーヌって、どの辺なんだろうね?」
「知らん」
一秒も考える素振りを見せず即答されたため、一瞬答えに窮する碧。
ただ、相手が自分だからそう言ったのではなく、本当に知らないのだろう。なんとなくではあるがそう感じた碧は、そっか、とだけ返す。なけなしの勇気を振り絞って声をかけたものの、たった一往復で会話は終わってしまった。
次なる話題を探す。今さら天気の話はないだろう。「良い天気だね」「そうだな」で終わる未来が見えている。無難に血液型かと考えて、生産性がない上にデリケートな問題を内含している。何より脈絡がない。ならばこの世界に関する話題を――と心密かに葛藤を続けていた碧の耳を、独り言のような呟きが通り抜ける。
「にしても、おかしいことは確かだ」
何が、と訊ねる前に、イチカは前方を指し示す。
その指の先には、遙か遠方まで続く並木道。
「何時間も前から、景色が全く変わらない」
「――え?」
碧が声をあげた瞬間、景色がぐにゃりと歪んだ。まるで、見えない手が偽りの風景を握りつぶしたかのように。
延々と連なっているように見えた長い一本道は、そう遠くないところで終わりを迎えていた。開けた先には、一つの町のように並び立つ背の高い豪邸の数々。木々と比肩するそれらの半分の高さを誇る、鉄壁と見紛うばかりの門。そして――さながら門番のようにその側に佇む一人の少年。
新緑を思わせる長めの爽やかな髪は癖毛なのか、手入れを怠っているのか、あちこちにはねている。こちらを見据える碧色の瞳はやや大きく、奔放な髪型も手伝って随分幼い印象を抱かせる。他方、深藍色のローブの下には濃灰のベストとズボンを着込み、光沢のある白いシャツの首元からは同系色の蝉型タイが覗いている。金色の、五角形を縦に圧縮したような装飾具が腰の辺りで揺れており、時折ちらちらと陽光を反射させている。
碧とほとんど変わらない背丈であることから、同年代か少し下の世代と推察されるが、なにがしかの違和感は拭えない。ただ、ネオンと同種の気品が漂っていることから、王族とまではいかないもののそれに次ぐ血筋なのだろう。
そんな少年が、ゆっくりとした足取りで近づいてきて、談笑していた四人もようやく異変に気づいたらしい。イチカらに駆け寄り一斉に身構えた。魔族かどうかというより、その得体の知れなさから取った行動だろう。少年は敵意を露わにされたことに面食らったのか、大きな目をさらに見開くと同時に歩みを止めた。
唯一イチカは警戒態勢を取らず、少年に訊ねた。
「お前が今の魔法の主か?」
少年は一度その大きな瞳を瞬かせると、僅かに微笑んで頷いた。幼子が浮かべる得意気なそれとよく似ている。
「うん。貴方達を試させてもらった」
「試すだと?!」
柄に手を掛け細剣を抜こうとしたカイズを、イチカが手で制する。
「あれは幻影魔法か何かか?」
少年は少し意外そうな顔をして答えた。
「ふーん、よく分かったね。基本の魔法は一応あるけど、範囲が狭いからね。さっきのは僕がアレンジしたやつ」
「目的は?」
まるで職務質問のようだと思いながら、二人のやりとりを聞く碧。イチカと少年だけで会話が成立してしまっているので口を挟む余地もないが――今の今まで自分たちを欺いていたそれを、『魔法』と断言したイチカの洞察力には感嘆せずにいられない。幻覚を見せるだけなら、巫女の森にてサトナが碧にかけた『神術』だって選択肢に入っても良さそうなものを。
(でも、巫女って言ったら普通は女の人か)
少なくとも日本では巫女と言えば女性である。この世界でもそうだからこそ、候補から除外されたのかもしれない。
少年は紳士的な笑みを浮かべながらも、大きな眼を少しだけ細める。
「『侵入者』か『訪問者』か調べるため」
抽象的な回答に皆が疑問符を浮かべる中、少年は外見に似合わず大人びた口調で続けた。
「見たところ、貴方達はここが何か知らないで来たらしいね。そういう人はまだ許せるんだけど、たまに父さんにも母さんにも用のない人が来るんだ。それは侵入者。逆に、父さんと母さんとは昔からの知り合いで、用がある人は訪問者。お分かりかな?」
少年は一人一人に目をやりつつ説明すると、最後に小首を傾げて理解を促した。
「ませガキが」
舌打ちし、ぼやく白兎。人間嫌いに拍車が掛かったようだ。
他の皆も未だ不信感は持ちつつ、新たに苛立ちを覚え始めたらしい。一行と、その周囲を取り巻く空気が殺伐としてきている。
居心地の悪い雰囲気を切り替えようと、碧は少年に問い掛ける。
「あの。それで、ここは何なんですか?」
少年は碧に焦点を合わせると、先ほど説明していた時よりもまじまじと見つめつつ、ふぅん、と感嘆の声をあげる。
「貴方は普通の人じゃないね。証拠にその眼と髪。かといって、巫女ってわけでもなさそうだけど」
びしっと碧を指さす。心なしかドヤ顔の少年には悪いが、なにも碧はそのことを隠そうとしたり取り繕ったりしているわけではない。
(わざわざ証拠出さなくても、ちゃんと認めてるから)
「話が逸れたね。質問にお答えしよう。ここはサモナージ帝国、ステイジョニス家領・ウェーヌ。ついでに僕は、ここの長男のミリタム」
「なっ!?」
「……?」
漂っていた剣呑な空気は失せ、困惑の気が辺りを覆う。
他方、こちらの世界で言う「異世界」出身の碧は、何故皆がそのような反応をするのか理解できず、イチカに至っては説明するまでもなく無表情だった。
「す、ステイジョニス家の領土?!」
「なに? どういうこと?」
特に驚きを露わにしているラニアに訊ねる碧。彼女が酷く戸惑った様子で口を開く前に、少年・ミリタムはびっ、と人差し指を立てた。
「順を追って説明しよう」




