国民投票
8月1日 屋和半島東部 アメリカ合衆国 首都ワシントンD.C
“地球帰還の是非を問う国民投票に関する特別措置法”が衆参両院で可決され、来るべき国民投票の日に向けて、各家庭への投票用紙の配布がスタートしている。それと同時に、日本政府は屋和半島と択捉島に建国されている5つの在日外国人国家の首脳に対して、投票の結果に関わらず日本国の帰還が避けられない運命であることを秘密裏に伝えていた。
「まさか・・・神の思し召しで元の世界に帰れることになったとは」
「はい、正に奇跡です。これで我々は国へ帰れる!」
この世界での合衆国大統領であるロベルト=ジェファソンとアメリカ軍司令官のマーティン=カルヴィン中将が“ホワイトハウス”の一室で話をしている。転移によって故国から強制的に切り離された彼ら在日外国人とその子孫たちにとっては、地球への帰還は願ってもない奇跡であった。
「この事実をしばらく国民に公表出来ないのはもどかしいが、帰還に向けた準備を進めなければな。宜しく頼むぞ」
「分かっています」
斯くして、日本国から派生した各勢力も、地球への帰還へ向けた準備を進めていた。
・・・
エルムスタシア帝国 ルシニア市 日本国貿易基地 日赤診療所
日本はおよそ12年前に起こった「リヴァイアサン討伐作戦」の戦利品として、この都市に貿易基地を設置する権利と付近の海域の資源採掘権を得ていた。そして此処「 エルムスタシア帝国」の港街であるルシニア市の「貿易基地」には、およそ800人の日本人が居留している。そこには主に現地との交易の為に派遣された商社マンとその家族、租界の治安を守る自衛官や警察官、郵便局員などが居住している他、居留民の健康を守る為に「日本赤十字」から医師や医療スタッフが派遣されていた。
都市型円盤「ラスカント」の東漸を受けて、他の在外邦人と同じ様に、この地で暮らしていた日本人も一度は日本国内へ避難をしていたのだが、 エルムスタシア帝国はエルメランドの攻撃を受けなかった為、この地に築かれた基地は日本国にとって数少ない健在の貿易拠点であった。
「柴田先生。本土じゃ大騒ぎになっているみたいですね?」
「聞きましたよ、兼光先生。日本が地球に帰るかどうかの瀬戸際らしい」
診療所の一室にて2人の医師が話をしている。日本の帰還の是非を問う国民投票の開催は、遠き地で暮らす在外邦人にも周知されていた。
「まあ・・・どちらにせよ、俺は地球には帰らないつもりです」
柴田は投票そのものに興味が無かった。日本が消えようが残ろうが、あまり祖国に未練が無かったからである。
「本気なんですか? もし日本が消えたら・・・最早自衛隊や政府の加護は受けられなくなるんですよ」
「俺はこの世界の医療水準の針を進めると決めているんです。その為には残らないと・・・」
柴田はテラルスの医療を発展させる為に人生を捧げると決めていた。その為に今までも、現地の医術士に対する医療講義や現地民に対する治療などを精力的に行っており、その活動が世界魔法逓信社に取り上げられたこともあって、彼の名は世界的に知られつつあったのである。
「僕は帰りたい・・・やはり日本一国だけでは革新的な医療の進歩は見込めない。地球に帰ることで、15年の間に生み出されたであろう新たな医療を知りたいんです」
柴田とは対照的に、兼光は地球への帰還を願っていた。
・・・
アルティーア帝国 首都クステファイ 仮設王城
日本と深い関わりを持つこの国でも、皇帝であるサヴィーア1世の下に閣僚たちが集まり、日本の帰還と残留の是非について討論が行われていた。
「ニホンとの戦に敗れて早15年・・・事実上の属国に甘んじていた我が国が、この様な形で開放される時が来たのだ。ニホンの帰還は喜ばしいことじゃないのか?」
元第二皇子であり、現在は行政局大臣(宰相)を勤めているズサル=バーパルは、日本国の帰還を望む発言をする。
「事はそう単純ではありません。我が国の経済と社会は既にニホンとの交易に依存している状態なのですよ。ニホン国が消えたら国庫が傾いてしまいます。それにエルメランドとの戦いによって壊滅した都市の復興は、ニホンの援助無しには成り立たなくなってしまう」
財務局大臣のパイニール=サーカディアンがズサルの言葉に異を唱える。事実、この会議が行われいている場所も、日本政府の援助の下に建設されたプレハブの仮設王城の一室であった。
「それに国防も・・・列強国と言われた時から大きく軍事力を落とした我が国に対して、ショーテーリア=サン帝国が今まで何もして来なかったのは、ニホン軍が旧マックテーユ市や我が国の領土内に駐屯してこのウィレニア大陸に睨みを効かせ、尚且つ彼の国がニホン国の対立を避けていたからです。しばらくは何処の国も復興でてんてこ舞いでしょうが、ニホン軍の影響力が消えてしばらくしたら、ショーテーリアは軍事的な行動を起こす可能性が十分にあります」
国防局大臣のシトス=スフィーノイドが発言する。セーレン王国ほどでは無くとも、この国もその国防を日本国の影響力に深く依存していたのである。
「ニホン国で国民投票が行われるのが6日後・・・私たちはその結果を注視しておく他ないわ」
「・・・」
サヴィーア1世は何もすることが出来ないもどかしさを感じていた。そして特に何かが決まることも無く、この会議は終了したのである。
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8月7日 日本国 東京都渋谷区 国民投票日
各局が一斉に特別報道番組の放映を開始する。東京と大阪に支部を構えている「世界魔法逓信社」の記者たちも、日本の各報道局が放映している特番に釘付けになっていた。
『こんばんは、ついに日本国の運命を決める日を迎えました。国民はどの様な決断を下すのか、この国に結果が訪れるのか、この番組では午後7時から国民投票に関する最新情報をお送りします』
特措法が可決されてからおよそ4週間後、日本全国に投票用紙が配布され、ついに地球へ帰還するかテラルスに残るのか、日本国民の総意と希望を決する国民投票の日がやって来た。日本全国の投票所に18歳以上の有権者が殺到し、メディアはその様子を捉えている。国会議員選挙とは異なり、投票率は85%を越える勢いだと見込まれていた。
『私は自動車企業に勤めています。内需だけではもう重工業はやっていけない。生活の為にも地球に帰る方を選びました』
『帰るなんて絶対ありえない。またきな臭い国しかない地球に戻るなんて。この世界の方がずっと平和だし、日本が今まで築き上げた地位を捨てるなんて駄目だ』
『僕は地球での記憶があまりないので・・・なんか決められないっす』
『やはり日本は、地球に居るのがあるべき姿なんじゃないかなと思う』
インタビュアーが投票所を訪れた人々に声を聞いている。因みに、「国民投票」は2019年の憲法9条改正しか前例が無く、国会議員や地方議員の選挙の様に出口調査によって精密な予測や当確が出せない為、今回の国民投票においては各テレビ局は出口調査を行わない方針を採っていた。
「・・・」
渋谷の街を行き交う人々が、特別報道番組を映す街頭ビジョンを見上げている。その中には日本へ移住してきたテラルス人の姿も多くあった。彼らは皆、夢を追い求めて日本へ移住した者たちである。彼らはこの投票結果次第で祖国へ送還されてしまう可能性を危惧していた。
『地球へ戻るということは、この世界でこれまでに獲得してきた権益を全て手放すということです。となれば日本は再び資源弱国に戻るしかない、これは明らかに愚行であると言えます。既に日本はこの世界の盟主的存在であり、この世界は日本の影響力無くしては混乱に陥ってしまうでしょう』
『一見は繁栄している様に見えますが、実際は外需の著しい低下によって経済力は明らかに転移前より衰退しています。このままでは、国を支えるだけの税収や現代の生活水準を保つことが難しくなっていくでしょう。日本という国を生き長らえさせる為にも、やはり地球に戻るべきなんです』
番組に呼ばれた専門家たちが思い思いの意見を発している。その後、報道番組は翌日の明朝まで続き、人々はこの国の行く末を注視していた。
・・・
8月8日 東京都千代田区 首相官邸 総理執務室
投票締切からおよそ5時間後、全ての投票所で開票作業が終了した。投票率は89%に達しており、日本国民が今回の一件にどれほど関心を持っていたのかを裏付けている。
首相の伊那波は外務大臣の来栖と防衛大臣の鈴木と共に、自らの執務室にて開票の結果を待っていた。国民には隠匿しているが、地球への帰還は既に避けられない運命である為、もしこれで“残留”が多数派であれば、彼らは全ての日本国民を騙す三文芝居を演じることになる。彼は“帰還”が選ばれることを切に願っていた。
「総理・・・失礼します」
総務大臣の竹岡が執務室の扉を開けて入っていた。彼の手には1枚の書類が握られている。竹岡は国民投票の結果について述べ始める。
「投票率は88.8%、有効投票総数は88,320,189票、そのうち帰還を支持する票が45,749,858票、残留を支持する票が42,570,331票・・・即ち帰還が51.8%、残留が48.2%、僅差にて“帰還”が支持されました」
「・・・!」
伊那波は声にならない声を喉の奥から絞り出しながら、両手の拳を握り締めていた。僅差ではあるが、国民は帰還を支持した。これで国民に嘘をつかなくて済む。彼は心の底から安堵していたのである。
「世論調査では甲乙付けがたい状態ではありましたが・・・良かった! 早速、記者会見を開きましょう! 総理!」
「そうだな・・・!」
来栖の言葉に触発され、伊那波は椅子から立ち上がる。その後、彼は多くの報道陣が詰めかけていた記者会見室へと向かった。
首相官邸 記者会見室
国民投票の終了、そして開票作業の終了の一報を受けて、日本国民は政府からの発表を待ちわびていた。そして報道陣は数多のカメラが向けられる会見台へと現れた首相の言葉に耳を傾ける。彼はマイクに口を寄せ、ゆっくりと、尚且つはっきりとした声で国民投票の結果について語り始めた。
「改めて申し上げますが、国民の皆様には寝耳に水の様な事態となってしまい、申し訳ありません」
会見は国民への謝罪からスタートした。軽く頭を下げる伊那波に向けて、数多のフラッシュライトが焚かれる。
「えー、投票率は88.8%、この問題に関する国民の皆様の関心の高さを反映した数値であると思います。そして結果ですが・・・有効投票総数のうち、“帰還”が51.8%、“残留”が48.2%となり・・・“帰還”が支持されました」
「!!」
報道陣が一斉にざわつく。予めジェラルから話を聞いていた内閣のメンバーとは異なり、日本国民にとっては、日本国が地球へ帰ることが確定した初めての瞬間だった。
「そこで帰還の日ですが、これもこの場で発表させて頂きます。日本国が地球へ帰る日・・・それは来年2040年の2月11日です」
伊那波は日本が地球へ帰る日を発表する。帰還の日が既におよそ半年後に迫っていることを知り、再び報道陣がざわついた。
「日本国と政府は地球へ帰還しますが、我々は国民の皆様1人1人に地球へ帰ることを強要することはありません。この世界で骨を埋めたいのなら、その選択も否定しません。ですが、日本政府の庇護は受けられなくなることを覚悟してください」
伊那波は個人個人にはまだ選択の余地が残されていることを示す。どうしてもテラルスに残らなければならない者については、彼らの残留を認めると宣言したのだ。
「また、現在日本国内へ移住しているテラルスの方々については、我々と共に地球へ帰還することを認めます。ですが・・・もうこの世界には2度と帰れない。そのことを覚悟して決断を下してください」
同時に彼はテラルスの各国から日本へ移住して来た者たちにも選択肢を示す。生中継に釘付けになっていたテラルスの移民たちの多くは安堵していた。
「決断の期日はあと半年・・・本当によく考えることをお薦めします」
伊那波はそう言うと、報道陣、そしてカメラの向こうの国民に向かって深く一礼し、会見台を後にする。その後、各メディアは一斉に、国民投票の結果と政府発表の内容を大々的に発表した。この結果に関しては、歓喜の雄叫びを上げる者、悲痛の涙を浮かべて俯く者、特に何の関心無い者、人々の反応は様々であった。
東京都千代田区 皇居構内
帰還の決定を伝える記者会見の様子は、日本全国で生中継されている。そして伊那波が国民投票の結果を発表する様子を不穏な感情で見つめる者たちがいた。
「帰還が決定された・・・?」
「馬鹿な・・・これは陰謀だ」
「日本は最早、世界の盟主・・・帰還すればこの国はまた一地域の列強、アメリカの犬に成り下がってしまう・・・」
此処は「宮内庁」に隣接する形で新設された「天皇直属近衛府」の庁舎の一室である。そこでは数多くの屈強な軍人たちが、神妙な顔つきでテレビを観ていた。
「天皇直属近衛府」とは東亜戦争の戦前、そして戦後に計2回発生した「皇族襲撃未遂事件」を機として設立された、陸上自衛隊から派生した護衛機関である。“近衛”と名の付くだけあって装備品は陸上自衛隊と共通であり、現場での警備を行う構成員は、陸自の精鋭部隊である特殊作戦群や中央即応連隊などの中から、さらに生え抜きされた精鋭たちからなる(第4部初出)。
日本最強の護衛機関である彼らの人数はおよそ1,000人前後と言われ、普段は「皇宮警察」と共に皇居を警備しているが、いざとなれば皇居周辺で発生した暴動や反乱行為等を即座に鎮圧する役目を帯びている。そして彼らは共通意思として、国の為、皇室の為に全てを捧げられる覚悟を持っているのだ。
「野鷹大尉! 帰還は阻止しなければなりません、何も犠牲にしても・・・!」
1人の若い将校が帰還の阻止を訴える。此処に居る者たちはある1人の尉官によって触発され、集まった者たちであった。
「・・・良く言った!」
野鷹大尉と喚ばれた男はその将校の発言を褒め称える。そして彼は自分の下に集まっていた兵士たちに向かって口を開いた。
「嘆かわしいことに、この国はまた・・・亡国の道へ歩み寄ろうとしている。日本国がこの世界における現在の地位を築き上げるまで、数多の同胞たちが血を流してきた。その偉勲を自ら手放すことなどあってはならない。我々はその誤った道からこの国を救い出さなければならない。それが我々も運命なんだ!」
「オオーッ!!」
野鷹の力強い言葉に兵士たちが呼応する。日本の帰還が決まった裏で、恐るべき計画が進められようとしていたのだった。




