第二話 ピンチの後の大ピンチ。 5
後ろに、倒れる!
後頭部殴打の危機感に、全身が総毛立つ。
ここで気など失ったら、どうなるか、火を見るよりも明らかだ。
反射的に、倒れまいとするけど、学生時代テニスで鍛えた筋肉も、自然の法則の前では大して役に立たない。
なんとか後ろに倒れ込むのは避けられたが、タタラを踏んだ足はもつれて、踏み止まれない。
スローモーションで、視界が傾ぐ。
木製ドアから、アイボリーの花柄の浮いた壁紙へ、小ぶりのシャンデリアの付いた、白い天上へ。
いくら絨毯敷きの床でも、この勢いで頭をぶつければ、只ではすまないだろう。
ああ、今日は厄日だ。
打ち所が悪くて死んだら、化けて出てやるんだから。
パニクる頭の片隅で、妙に冷静にそんな事を考えつつ、両目をギュッと瞑った。
数瞬後、ドスン、と、身体に衝撃が走った。が――。それは思ったよりも小さな衝撃で。
あれ? 痛くないぞ?
それに、この匂いは……。
ふわり、と鼻腔をくすぐるのは、嗅ぎなれた、でも元彼のものとは微妙に違うタバコの匂い。手の平には、ザラザラとした絨毯の感触。
恐る恐る目を開ける。
目に入ってくるはずの天上は見えず、視界いっぱいに広がるのは、青いデニム生地だった。
そういえば、妙に身体が重い。
重い?
って、なんで?
――え?
――ええっ!?
部屋の中に、あの男が居る。
それも、『私の頭を抱えるようにして、身体の上に乗っかっている』
「きゃっ!?」
そう理解した瞬間、私は声にならない悲鳴を上げながら、無我夢中で四肢をバタつかせた。
「ちょっ、こらっ、暴れるな」
頭上から、焦ったような男の声が降ってきて、私は更に激しく体をバタつかせた。
男の胸を押しのけようとボカボカ殴りつけていた両手首が、がっちりとした骨太の手で掴まれ、頭の上に封じ込められる。
「は、放してよっ!」
ダメだ。
とても敵わない。
だけど、両手が使えなくても、諦めてなんかやるものか。まだ、両足とこの口が残っている。
八年間、テニスで鍛えた脚力を舐めるなよ、変態!
残った両足をバタつかせつつ、私は大口を開けて、憎っくき女の敵の胸ぐらに、吸血鬼よろしく噛み付こうとした。その時、
「このバカ! 暴れるなっつってんだろ、市村菜々葉!」
いきなりフルネームで罵倒された私は、大口を開けたまま、ピキリと固まった。
私に、押し込み強盗の知り合いは居ない。
でも今、この男は、私のフルネームを呼んだ。
それに、なんだかやたらと聞き慣れている気がする、この低音の声は――。
ま、まさか?
「いいか。身体を離すけど、蹴るなよな」
「う、うん……」
コクリと、
半信半疑でとりあえず頷くと、ぴったりと寄せられていた男の身体が、スッと離れた。
完全に離れたわけではなく、腕の力で上体だけを起こした形だ。
恐る恐る、男の顔に視線を走らせる。
目深に被っていたベースボール・キャップは、私が暴れたせいでどこかに飛んでしまったのか、色素の薄い明るい頭髪が、額に落ちかかっている。
不機嫌そうに顰められた、眉根。その下の、髪と同じに色素の薄いはっきりとした二重の瞳には、呆れたような色合いが浮かんでいた。
通った鼻筋の下の、やや薄い唇も、やはり不機嫌そうに引き結ばれている。
私は、この男を知っていた。




