第95話 プロゲーマーは運動する
翌朝。
オレは動きやすい格好に着替えると、家の外に出て道なりに走り始めた。
ジョギングである。
横断歩道を渡り、近くの大きめの公園をぐるっと一周してくるのがいつものコースだ。
大した距離じゃないが、最初の頃は運動不足が祟りに祟り、走りきったときには死にかけていたものだ。
それも1ヶ月ほど続けただけで、だいぶ楽に走りきれるようになった。
コノメタにそう言ったら、『若いっていいなぁ……』なんて遠い目をしてたっけ。
運動は苦手ってわけでもなければ得意ってわけでもない。
体力も普通だろう。
学校の体育で活躍した経験はほとんどない。
仮想世界じゃあれだけ動けるのに不思議なもんで、運動神経はさほどでもないのだ。
その割に勝ち負けだのタイムだのを気にするタイプだから、体育は苦手である。
その点、ジョギングは運動神経も勝ち負けも関係ないから気楽にやれていい。
木に囲まれた公園の遊歩道を、リズムを意識して走っていく。
すると視界の先に、水道とベンチが見えてきた。
あそこで水分を補給するか――
そう思ってペースを上げかけたとき、ベンチに先客を見つけた。
長い髪を首の後ろで括った、白いランニングウェアの女の子――
「……ん?」
あの子。
見覚えがあるような……?
オレに気付いたか、ベンチに座った女の子がこっちを見た。
その瞬間。
オレとその子は、まったく同時に口を開けた。
「「……あ」」
それは、春浦南羽だった。
「考えてみりゃ当然の話だよな」
水道で水を飲み終えたオレは、南羽の隣に腰掛けながら言う。
「小学校は同じだったんだ。近くに住んでんだから、リアルで会うことだってあるか」
「あなた、当たり前のように雑談を始めたわね……」
拳二つ分ほど距離を開けた南羽が、じろりと横目でオレを見やった。
「んだよ。顔見知りにたまたま会ったら誰だってそうするだろ?」
「そうなんだけど……ああもう、調子狂うわね……」
頭痛を堪えるように溜め息をつく南羽。
いろいろと真面目すぎるんだよ、お前は。
「……ツルギも、この辺を走ってるの?」
ちらりとこっちを窺いながら南羽は言う。
「ああ。1ヶ月前くらいからかな。チームの先輩からさ、暇を見つけて運動しろって口酸っぱくして言われて……」
「同じね、私と。チームに入ったとき、初日に同じことを言われたわ」
「プロゲーマーって運動なんかしないイメージだったんだけどな……」
「ゲームだろうが何だろうが、何をするにしても体力は必要だもの。つけておいて有利になることこそあれ、不利になることはひとつもないわ」
「そうそう。コノメタにそう言われた」
『ソーシャルゲームでまず何においてもスタミナを増やしたほうが有利なのと同じだ』と説得されて、納得するほかになかったのだ。
「コノメタはジムに通ってるって言ってたけど、さすがにいきなりそこまではなー。どこに行けばいいのかもよくわかんねーし。なんか怖えーし」
「何が怖いのよ……」
「だって、ほら、筋肉ムキムキの人がそこら中にいるんだろ? オレみたいなヒョロガキ捻り潰されそう」
「不良だらけのゲームセンターに通ってた男がよく言うわ」
いや、あいつらは別に、負けたときに筐体を叩くだけだし。
たまにリアルファイトもあったけど。
「ジムくらい行ってるわよ、私も。2週間に1回くらいだけど」
「ふうん。その格好で?」
「へ?」
ぱちくりと目を瞬いた南羽の格好を改めて見る。
パーカーのような白い上着に、下はカーテンのような薄い生地のスカート。足は黒いスパッツに覆われている。
うん。
「可愛いじゃん。そういう運動的なのも」
「なっ、なっ……何っ、いきなりっ!?」
南羽は顔を赤くして、ベンチの端までずざざっと後退した。
「なんだよ。似合ってると思ったからそう言っただけだろ」
「……ツルギ。なんだか女子の扱いに慣れてない?」
「そりゃまあ、鍛えられたからな……」
特大難易度の女に。
南羽はすっとオレから視線を外すと、どこか拗ねるように唇を尖らせた。
「……複雑な気分だわ。2年ぶりに会った幼馴染みが女慣れしてるって」
「2年ぶり? ……あ、そうか」
リアルで会うのは、そのくらいになるのか……。
「それを言ったらこっちだって同じだっつの。オレの知ってる幼馴染みは、間違ってもジムに通うような奴じゃなかったからな」
「悪かったわね! 引っ込み思案で!」
南羽はふいっと顔をそむける。
……いや、変わってないところもあるか。
たまに頑固で、拗ねるとオレの顔を見ないのは、前と同じだ。
「根暗ですみませんでした! どうせ私はツルギと違って恋人もいない独り身だし! 勉強とゲームしかやることないし! こんな根暗女と喋ってる暇があったら、とっとと彼女のところにでも行ったらどう!?」
「卑屈すぎるだろ、闘神さん。……それに、最近、莉々とは会ってねーんだよ」
「えっ? 別れたの?」
南羽はくるっと振り向いた。
食いつき速いなオイ。
「あんなに四六時中、殴り倒してやりたいくらいベタベタしっぱなしだったのに……でも、熱しやすく冷めやすいっていうものね……」
「一人で納得すんな。別れてねーよ。ただ、今はまあ――そういう時期なんだ」
「…………ふう~ん」
妙に鼻に息のかかった相の手を入れながら、南羽はベンチの下で足を揺らした。
……そういえば、と不意に思い出す。
――……私、あなたのことが好きだったのよ
以前、アグナポットで会ったとき、こいつはそんな風に言っていた。
何の気なしに。
どうでもいいことのように。
だから結局、オレも何も言わなかったが……。
「……なあ」
「……なに?」
視線を膝に落としたまま、南羽は答える。
そのまま数瞬、オレは言葉に詰まった。
……本人は昔のことだって言ってることをわざわざ蒸し返すのも、感じが悪いよなあ。
「お前、あれだ……ランクマやってる?」
結局、口にしたのは、今のオレたちの共通の話題であるMAOのことだった。
南羽は何かを確認するようにちらりとオレの顔を一瞥して、青い空を仰いだ。
「ちょっと触ったわ。新環境だったし、防衛戦以来あんまり触ってなかったしね。……でも、今月のランク上位を狙うのはやめておくつもり」
「……やっぱりそうか」
「ええ。スタイルの調整をする必要はあるけど、ポイントは足りてるし……。それに、あなたたちの抗争に巻き込まれたくはないもの」
「さすが。耳が早いな。……別に進んで争おうってわけじゃあないんだがよ」
「でも、やるんでしょう? 寝ない配信。あのプラムって子と。仲のいい女の子がたくさんいて羨ましいわ」
「すまん。ちくちく皮肉言うの、できたらやめてください」
「イヤよ」
「イヤですか……」
こういう点では、莉々はわかりやすく攻撃的になるからまだやりやすかったんだなあ。
愛する彼女のありがたさを痛感する日々だぜ……。
「MAOのマッチングシステムは比較的スナイプ――要するに、特定の人間と当たるように狙うのが容易。なのに『1位になるまでやめません!』なんて言い出したら、有利なスタイルで狙い撃ちされるに決まってるじゃない。
……なのに、やるってことは、狙ってるんでしょう? ――ドクター・ソルとの直接対決を」
「そうなったら盛り上がるな、とは思ってるぜ」
このあからさまな挑発、そして挑戦に、あの爽やかな闘神様が乗ってくれるとは限らない。
が、しかし。
外野は期待するだろう。
今回の対戦環境を主導する二組――つまり、オレたちEPSとドクター・ソルとの直接対決を。
この動画配信者として絶好のチャンスを、あの再生数オバケがみすみす見逃すか?
「ソルさんはきっと、容赦なく有利マッチを挑んでくるわ。あなたたちが《地形忍者》なら《洪水シャーマン》で。あなたたちが《トート・ウィザード》なら《地形忍者》で。後出しジャンケンを大っぴらに許すようなものよ。勝ち目はあるの?」
「さてな」
「さてな、って……」
「たださ、ちょっと似てるって思わねーか、この状況」
「似てる……? って?」
「ゲーセンだよ」
オレは雑木林の向こうに視線を投げながら言う。
この公園の近くに、かつて南羽と一緒に通ったゲームセンターがあった。
「オレたちが筐体に入って、勝ったり負けたりしている。そこにドクター・ソルが乱入してくる。他のゲームをやってたはずの連中が、面白い対決が起こってるぞと聞いてぞろぞろ集まってくる……」
「……確かに、ちょっと似てるかも」
「だろ? だからさ、少なくともオレにとっては、これはホームゲームなんだよ」
「だから勝てるって?」
「わかんねー。オレ、ゲーセンじゃあ勝てるとわかってるゲームなんか、ついぞしたことなかったからさ」
「……そうね。最初はあなた、てんで弱かったし」
「お前によく慰められたよなあ」
屈辱の記憶だ。
だからこそ、オレは強くなれた。
「何十連勝した――勝率は何パーセントだった――ウン千人の人間が配信を見た――オンラインのランダム対戦ってさ、数字が大きく支配する世界なんだよな」
「……ええ。そういうところはあるわね」
「でもゲームセンターは、記憶に支配された世界だった」
だから、いろんな伝説が生まれた。
場末の、小さな小さな娯楽施設。
世界との繋がりなんて何もない、矮小な空間での熱狂が、人の口に乗って伝播して。
285連勝なんて華々しい数字を持つ《JINK》だって、それを見届け、記憶し、語り継いだ物好きがいるからこそ、あそこまで大仰な伝説になっちまったんだ。
だったら。
「――オレの記憶で打ち破ってやるさ、闘神様の支配力をな」
1クレジットに懸けたプライドと、何百試合も重ねた末に弾き出された勝率。
そのどちらが勝つのかを、この身をもって証明してやる。
「……まったく、もう」
隣に座る南羽は、また拗ねるように言いながら、しかし頬を緩ませた。
「せっかく忠告してあげようと思ったのに――心配し甲斐がないんだから」
「あん? 忠告?」
「何でもない。……強いて言えば、色恋にうつつを抜かし過ぎないように」
耳に痛いな。
深く肝に銘じつつ、オレは確然と告げる。
「サンキュー、南羽。――あの手袋は、必ず返しに行く」
アグナポットで再会したとき、その場で叩きつけられた《決闘の手袋》。
あれを、今度はオレのほうから叩きつけてやるために、オレはプロになった。
南羽はほのかに、唇に微笑を滲ませる。
それは、オレのよく知る幼馴染みのものであると同時に――
――ライバルを前にしたゲーマーのものでもあった。
「うん。――選手権で、待ってるから」
上から言ってくれるぜ、ポイント富豪め。
オレたちはどちらともなく立ち上がる。
休憩にしては、少し長すぎた。
「――あ、そうだ」
別れる前に、南羽はランニングウェアのポケットを探って携帯端末を取り出した。
……? なんだ?
「ツルギも。端末持ってる?」
「ん? おう」
よくわからないままにオレも自分の端末を出すと、南羽はその先端に、自分の端末の先端をコツッと当てた。
オレの端末にチラシのような画像が表示される。
「なんだこれ?」
「私が行ってるジムの紹介状。それがあると入会料が安くなるから。よかったら使って」
「へえー。そりゃいいな」
安くなったところで高校生には手の出しづらい値段だが、そこはオレも今やプロである。
《RISE》の賞金100万円がまだまだ残ってるうえに、チームから給料が出ている身だ。現状、お金はむしろ余っている。
「サンキュー。近いうちに行ってみる。……あ、でも、大丈夫かな」
「何が?」
「お前と同じジムに通ってるなんて知ったら、莉々の奴が浮気だって怒るんじゃねーかなって」
「それは大丈夫よ」
くすっ、と。
春浦南羽はどこか小気味よさげに、いたずらっぽく笑みを零した。
「大切なものを放っておくほうが悪いって、そう言ったのは彼女のほうだもの」
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「……大変なことになっちゃったなぁ……」
EPSのVRゲーミングハウスのリビングで、プラムはひとり、遠い目をしていた。
何に思いを馳せているのかといえばもちろんのこと、ジンケに半ば無理やり開催を決定された寝ない配信だ。
プラムは今まで、その手の企画っぽい配信をしたことがない。
自分のゲーム風景をただ垂れ流しにするだけの、良く言えば等身大、悪く言えば手抜きの、楽な配信しかしてこなかったのだ。
それでプロにまでなってしまったのだから、運が良かったとしか言いようがない。
いずれ何かやろうかなあ、と思ってはいた。
まさかそれが、過酷オブ過酷と噂の寝ない配信になろうとは。
しかも、目標はゴッズランク1位。
普通に寝てもそうそう達成できない。
さらには、ジンケとの実質共同配信になってしまったのだから、ますます不安しか湧いてこなかった。
(こんなことがリリィさんに知れたら、あたし殺されちゃうよぉ……)
ただ同じタイミングで1位で目指すというだけで、配信も別枠で、対戦室も違う部屋を使う。
イチャつきながら仲良く配信するわけではないのだから、できれば浮気認定はやめてほしかったけれど、あの嫉妬深いリリィがそんな言い訳で許してくれるかどうか。
(いざというときはジンケさんのせいにしよう……)
プラムはジンケに、恋愛的な感情を持っていない。
……と、自分では思っている。
確かに、男の人への免疫がなきに等しいから、ちょっとしたからかいに過剰反応してしまうところはあるにせよ、認識としては男友達の部類だった。
……しかし、ジンケ以外に男友達などできたことがないので、それは友情じゃなくて恋愛だろう、と言われたら、反論材料が見つからない。
熱愛をスクープされた芸能人が『いいお友達です』と説明しても世間のほとんどが頭ごなしに信じないことからわかるように、どうやら人間のほとんどは、仲のいい男女=恋愛関係と頭の中で紐付けてしまうらしい。
リリィにしても、EPSメンバーにしても、配信のリスナーにしても、そうだった。
男女の友情はありうるかどうか。
……なんて、ありきたりな命題、まさか自分の人生に立ちはだかることがあろうとは、思いもしなかったけれど。
自分がいくらそうじゃないと思っていても、周りにそうだと思い込まれてしまっては、こっちとしてはどうしようもない……。
だから、ますます誤解されるようなことは、できれば慎みたかったのだが。
(……ちょっと楽しみな自分がいたりして)
ジンケと同時に土曜日から開始して、どっちが先に1位になるか競争。
そういう企画だった。
直接対決ではきっとまだ敵わないだろうけれど、これならばジンケとも対等に戦える。
それを楽しみに思っている自分が確かに存在するのが、一番始末の悪いことだった。
(でも、これを我慢するのは、違うもんね)
楽しそう、面白そうだと少しでも思ったなら、手を伸ばすことを躊躇ってはいけない。
それがプラムの短く薄い人生で得た、たったひとつの教訓なのだから。
そのとき、玄関のインターホンが鳴った。
ジンケだろうか。それともニゲラ?
シルも、今日はまだ顔を見せていない。
「はーい! ちょっと待ってくださーい!」
ぱたぱたと小走りに、プラムは玄関へと走った。
靴を足に突っかけて鍵を開け、ノブを捻った、そのときに。
ようやく、あれ? と思う。
EPSのメンバーなら、勝手に鍵を開けて入ってくるはずでは?
そう思ったときには、すでにドアは開いていた。
目の前に、闇が立っていた。
「……はぇ……?」
玄関の前に、黒ずくめの人間が立っているのだということに、プラムは2秒かけてやっと理解する。
よく見れば、闇に見えた漆黒のそれは、メイド服だった。
漆黒の、メイド服だった。
ゆっくりと、視線を上げる。
横ざまに射した夕焼けの光を、鋭いナイフのような銀色の髪が、煌びやかに反射していた。
何を考えているかわからない無感情な瞳がプラムを見下し。
桜の花弁のように薄い唇が、冷たい声を零す。
「……ジンケは?」
プラムの全身が凍てついた。
なぜだか泣きたくなった。
今すぐこの場から逃げたくなった。
ドアの向こうに立っていたのはリリィだった。




