名探偵(三村義則) 二
東京監獄は市谷富久町に存在する施設で、犯罪者の収監と処刑を行っている。
収監されている者の中には、近年高まりを見せている社会運動の活動家達も多く含まれ、近い例では大逆事件の幸徳秋水も東京監獄でその命を散らしていた。
田所が幽閉されていたのは別の監獄だったが、この種の施設に染みついたある種独特の緊張感に、無意識に背筋がぴんと強張った。
そんな田所の前を、三村がずんずんと大玄関目指して歩いて行く。サイズの合わないぶかぶかの上着を着た三村が、大玄関の前で立番している職員達に片手を上げながら、誰にともなく言った。
「看守とは俺が話をするから、口出しはしてくれるなよ。なに、別にやばい橋を渡るわけじゃねえ。正治郎に面会を申し込むだけさ」
三村はそのまま職員達の前へと進み出ると、まるで軍隊の兵士のようにはきはきと用件を告げる。
職員達は三村と、その後方にいる彼のいとこと愛人、田所とミワさんにうさん臭そうな目を向けたが、職員の一人が無言できびすを返し、玄関の奥へ歩いて行く。
当然のようにその背に続く三村に、田所達もぞろぞろと東京監獄へと足を踏み入れた。
広い廊下を靴音を立てて歩くと、すぐに職員が「待っていなさい」と言い残して廊下の曲がり角に消える。
すると三分としない内に靴音が戻って来て、職員と、年を食った看守が大玄関に現れた。
職員はそのまますたすたと立番に戻り、看守は三村の真正面から、大きくため息を吹きかけた。
「面会希望だって?」
三村の背後に立った田所の鼻にまで、看守の煙草臭い息が上がって来る。
三村は顔をしかめる代わりにニッと笑顔を作り、歯抜けの口を開いて答えた。
「河北正治郎に会いたいんですよ。ほら、銀座の妻殺しのあいつですよ」
「勘弁してくれよ。今何時だと思ってるんだ? 囚人だって檻に引き上げてるし、こういうことはある程度書類も通さなきゃいけないんだよ。明日改めて来てくれんかね」
「それが看守さん、明日じゃ駄目なんですよ。実は僕達、正治郎のヤツと浅からぬ縁のある者同士でしてね」
たらたらと台詞を吐きながら看守の隣に移動した三村が、自分の愛人である美津を指さした。
「彼女は正治郎のお初の相手でしてね。一夜限りの夢を見た相手がとんでもねえ罪を犯したってんで、わざわざ引っ越していた先の長崎から駆けつけたんですぜ」
「お初? 長崎?」
「ちなみにこっちのでぶはその兄貴でしてね。妹の初恋の相手がいったい何でそんな大それたことを、と、同じく長崎からはせ参じたんでさ。分かるでしょう? お初の相手が犯罪者じゃ、妹の将来に傷がつくってもんだ」
よくもまあ大嘘を重ねて自分の愛人やいとこをダシに使ったもんだと、田所とミワさんは顔を見合わせた。
一方ダシにされた美津は慣れたもので、瞬時に本物の涙を流して「父が真偽を確かめるまで帰って来るなって……」と、腫れた頬を示して看守に訴えている。万佐はぼけっと突っ立って、心ここにあらずといったザマだ。
一瞬困惑の表情を浮かべた看守の肩に、三村がさりげなく腕を回す。次いでその指がミワさんと田所を順に指した。
「こっちのおっさんとジジイは長崎から同行した見届け人です。正治郎の供述をしっかりと聞いて、こちらの彼女の父親に事情を伝える役目を負っています」
「……ちなみに、あんたは何?」
「僕? 僕は……と」
三村は泣きまねをしている美津の肩を抱き寄せながら、看守に満面の笑顔で答えた。
「彼女の婚約者です。正治郎が嫁さんと結婚した後で婚約したんですがね。看守さん、僕達結婚するんですよ」
「そりゃそうだろう。婚約してるんだったら」
「明日なんです。結婚式」
呆れ返る田所とミワさんの前で、看守が目を剥いて三村と美津を見た。
三村がこっそりと美津の肩を指でつつくと、美津はそれを合図に声を上げて膝から崩れ落ちる。三村が胸を押さえ、天井をあおぎながらわざと大きく音を立てて鼻をすすった。
「分かりますか看守さん? 僕らは真面目に働き日々を暮らし、人生で一度きりの幸せを享受しようとしていたのに、遠く離れた東京の正治郎のしでかしたことのために仲を引き裂かれようとしているんですよ!
彼女の父親はことと次第によっては彼女を勘当すると言っていて、僕の両親は必死に説得しようとしている。正治郎の口からせめて懺悔の言葉でも聞いて帰らないと、とても式ができる状況じゃないんですよ。
だから今すぐ正治郎と会って、明日の内に長崎に帰らないと僕らは終わりなんです! もうぎりぎりなんですよ!」
「そいつは大変だ! 親戚もいっぱい集まってるのか!?」
「両家三十人です! 取りやめになれば赤っ恥ですよ!」
この男は駅からここに来るまで、ずっとこんな大嘘を頭の中でこねくり回していたのだろうか。
もはやいたたまれなくなってきた田所の前で、看守が「よし分かった!」と手を打った。よし分かったじゃない、もう少し迷え、と、理不尽な思いが田所の胸の内にわきあがる。
「犯罪者のせいで未来ある者の道が閉ざされちゃあ、いけねえやなあ。ここは俺が、人道的観点に立ってだな……明日の朝一番で、書類を滑り込ませるよう、骨を折ってやるよ」
「ああ、助かった! さすが花の東京、義理と人情の江戸っ子気質だ!」
三村が美津を抱え起こしながら、田所とミワさんにこっそりと歯を見せて『どうだ』とばかりにいやらしく笑った。
渋い顔で目をそらす田所達の前で、看守と三村達が移動を開始する。
東京監獄の面会室は大玄関の右手にあるのだが、書類の通っていない面会を堂々と行うのはさすがにまずいのだろう。
奥の方へ案内されながら、それまでぼけっとしていた万佐が看守に後ろから声をかけた。
「どこで面会するんですか? まさか格子をへだてて直接なんてことは……」
「それが一番だろうなあ」
目を剥く万佐に、看守があごをなでながらうなずく。
「他の囚人に話を聞かれるのは嫌だろうが、正治郎はまがりなりにも殺人犯、俺が一人で檻から出すのはまずいんだよ」
「え、えっと、あの、その間看守さんは……」
「心配すんな、見回りは時間制だし、仲間は俺がひきつけておいてやるよ」
哀れにも三村の口車に乗った看守は、万佐に向けて応援するかのような笑顔を向けた。
そうして薄暗い廊下を歩き、何度か扉をくぐると、長い廊下の両わきにいくつも戸が並ぶ、囚人の独居房の領域に到達した。
看守はある戸の前に立ち止まると、鉄製の閂を指さした。
「見ての通り、戸はがっちりと錠が下ろされている。この向こうに三畳ばかりの空間があり、囚人が生活しているわけだ。戸の上の方には覗き穴があって、中を見ることができる。が、足元に食器口もあるから気をつけろ。不用意に足を置くな。何かあったら俺の責任問題になるからな」
看守は周囲の戸の覗き穴からもれている光をぐるりと見回してから、三村達に告げる。
「次の見回りは十分後だ。九分で切り上げて玄関に戻れ。俺に挨拶はしなくていいから、急いで長崎に帰るんだぞ」
三村達が礼を言うと、看守は何かをやり遂げたような、すがすがしい男の表情で廊下を去って行く。
田所が、とうとう我慢できなくなって額を押さえてうめいた。
「何を考えてるんだ。何だ、このゆるい監視体制は? 俺は三十年も土牢で……それを、他の監獄ではこうも……」
「しょせん人間が回す体制だからな。末端にああいうアホが紛れ込むと、こういう信じられないような事態が発生する。……それに、今は特に、東京監獄の運営は厳しいはずだぜ」
三村が上着のポケットをまさぐり、何かを探しながら笑った。
「ちょっと前に、この東京監獄の処刑場で不祥事があったのさ。どこぞの権力者が、監獄の人間の協力を得て個人的な死刑を行ったとかなんとか……あくまで噂だが、実際に今年だけでえらい数の職員がクビになったり、逮捕されてる。つまり、噂は事実だってことだ。だから今、東京監獄の職員数は異常に少ないのさ。つけ込む隙もでかいってわけよ」
「あっ、それ実は山田……」
何か言いかけたミワさんが、ぐっと喉を詰まらせて田所の腕をつかんだ。見れば、ミワさんは目の前の戸を凝視している。
田所はその視線をたどり、やがて、目の前の戸の覗き穴からだけ、光が漏れていないことに気づいた。
黒々とした穴の向こうに、誰かが立っている。いや、誰かではない。河北正治郎が立っているのだ。
場の緊張が高まる中、三村が「あったあった」と上着から何かを取り出す。
彼がまとっているのは、本来万佐が来ていた上着だ。
そのポケットから出てきたのは、森永のキャラメルの、缶。
戸の向こうで、はっきりと音が聞こえた。喉が上下し、唾を飲み込む音だ。
三村は缶を軽く振ってから、にやにやと万佐を振り返る。
「お前の糞みてえな菓子中毒が役に立ったぜ。投獄された男が一番強く渇望するものって何だと思う? 女や娯楽の類はまだなんとか諦めがつくが……『甘み』だけは、どんな屈強な男でも諦め切れねえ、体が求める快楽なのよ」
糖分。三村の言うとおり、獄中の食事で致命的に不足するのが甘みという感覚だった。
砂糖の味を知っている人間が長く甘みを断つと、まるで麻薬の禁断症状のように、糖分を求めるようになる。
三村は荒い吐息の漏れる覗き穴にキャラメルの缶をかざしながら、余裕たっぷりに言った。
「よう、河北正治郎。いいザマだなあ間抜け。お前のおかげでこちとら、戦々恐々の日々を送ってたんだぜ。ま、おかげで過去のしがらみともおさらばできそうなんだ、が……」
三村が缶を開け、キャラメルを一つ取り出す。覗き穴の闇を眺めながら、そのまま自分の口に放り込んだ。
正治郎が「ああっ」と声を上げた。三村がキャラメルを噛みつつ、にんまりと笑う。
「欲しいか? 欲しいよなあ。これ、十粒入りなんだよ。今一個食ったから残り九粒だな。美津」
三村がもう一粒取り出し、美津にはじく。
美津は覗き穴に向かって、自分の唇にキャラメルを挟み、音を立てて口中に吸い込んだ。
覗き穴の向こうから、悲哀と怒りの気配がもれて来る。三村が既に手を出していた万佐に三粒目を渡そうとした瞬間、正治郎が戸をがりがりと引っかく音を立ててうなった。
「くれ! そこの食器口から入れてくれ! ……な、何でもする……頼む……!」
「俺達の期待に沿え。媚びろ。口ごたえしたら一粒もやらねえ。缶だけ入れてやるからそれでも舐めてろ」
万佐にやりかけていたキャラメルをさっと缶に戻すと、三村は腕を組み、ちらりと田所を見た。
「時間がねえぞ」と小声で言う三村。田所は戸に近づき、低くうなっている正治郎へ口を開いた。
「お前が殺した妻……間宮百合子の母親と、妹のことで、質問がある」
「早くしてくれ……看守が来る……見回りが……」
「彼女達に、何をした?」
正治郎があえぎながら「何も」と答える。
「何もしてない。できるわけがない。俺はずっと監獄の中だ」
「母親は百合子の骨の中に沈められた。妹の方は行方不明だ。えらの張った、大男に覚えはないか」
「寄桜会だ!」
思わず三村と顔を見合わせた。覗き穴から、光がもれてくる。
食器口が静かに開き、床にはいつくばった正治郎が、血走った目を覗かせた。
「寄桜会の系列の、古烏組のしわざだ。俺はずっとあいつらにゆすられてたんだ……俺が罪を犯したのは、あいつらのせいなんだ」
「わいろの件を嗅ぎつけられて、脅されて社長に阿片を盛ったのか?」
「最初はそんなことするつもりはなかったんだ。でも拒否できる雰囲気じゃなかった……やつら、毎日帰り道で待ち伏せていて、俺を四人がかりで殴るわ蹴るわ……」
自身にも負い目があるから、警察にも駆け込めなかったわけだ。
ミワさんが小声で「あと五分だぞ」と周囲を見回しながら言う。細かいことはいい、最も重要なことだけを聞き出さねばならない。
田所は早口で、しかしはっきりとした発音で問いを重ねる。
「間宮百合子の妹はどこにいる? 東城蕎麦太郎という探偵と、助手も消えている。何があったんだ」
「古烏組のやつらが、面会に来た……堂々と、四人揃ってな。それで、明日からの上納金……口止め料はどうすんだって言いやがるから、逮捕されて口止めも糞もあるか! って怒鳴ったんだ。そしたら急に優しくなって、事情を聞いてくれて……なんで逮捕されたのか、話してみろって……」
正治郎が、三村を見上げた。舌打ちをする三村に、かさついた唇が言葉を続ける。
「女房が探偵を雇って、そのせいで事件を起こしちまったって言ったんだ。そしたら、探偵どもと、女房に報いを受けさせてやるって……三村探偵社が締め上げられるのは分かってたけど、既に死んだ女房にどうやって報いを受けさせるのか、気になってた……あれは……そういうことだったんだな。女房の家族に、害を与えるってことだったんだ」
「百合子の妹はどこだ! 東城達は!!」
「そこまでは知らない! 報いを受けさせると聞いただけだ! ただ……古烏組は狂犬だ。寄桜会でもとびきりイカれた連中だよ。何の縁もない人間を笑って殺せる連中なんだ。……若い娘をさらったら……何をするか……」
田所がさらに声を放とうとすると、廊下の先から、足音が聞こえてきた。時間切れだ。
ミワさんが田所の腕を引き、玄関へと引き返し始める。
万佐と美津がそれに続いたところで、正治郎が悲痛な声を上げた。
「頼む! キャラメル! キャラメルを……! 悪いことはしたが俺にうまみなんてなかったんだ! お願いだ、慈悲を……!」
田所は、一瞬三村を振り返った。悪党の彼がどう振る舞うのか不安があったが、三村はキャラメルの缶を食器口の前に捨てるように落とした。
とたんに正治郎が手を伸ばし、缶を引きずり込む。三村がきびすを返しながら、田所に皮膚が裂けるような笑顔を向けた。
「こいつはたった八粒のキャラメルを、何ヶ月もかかって大事に大事に食うんだろうな。それが以降の人生のなぐさめだ。時々他の幸福もあるかも知れねえが、どれも似たような、ささやかなもんだろう」
首を戻す田所の耳に、三村の低い笑い声が届く。
「一方俺はビフテキを食い、ワインを飲む。美津を毎週汗まみれになって抱き倒して、贅沢させるんだ。キャラメルなんざ息を吸うように、なんでもない風に口に入れるさ。……同じ悪党でも、このいかんともしがたい、差」
気分良いぜ。
キャラメルを必死に舐める正治郎の鼻息と、三村の笑い声が、田所にはひどく、耳障りに聞こえた。




