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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵3 ~探偵賛歌~
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無名探偵(棚主) 九

 雪駄の音を響かせて、三村が走る。


 前方を行く美津と万佐は、時折三村を振り返りながら指示をあおぐような目を向けてくる。


 三村は記憶の糸を手繰り、ハットの男を振り返りながら叫んだ。


「知らねえ! こんな男は知らねえ! 会ったことも話したことも、顔を見たこともねえ!!」


 ハットの男は、石の床をいやに高く響かせながら、無言で迫って来る。


 三村はあくまで早足で追って来る相手を観察しながら、思考をめぐらせ逃げ続ける。


 この男の目的は何だ? 面識はない。警官であるはずもない。猛然と追って来るわけでもなければ、話をする気配もない。


 まるで自分をわざと怖がらせようとしているみたいだ。それが狙いなのか?


 元川達の隠れ家の、予備の写真を持ち去ったのがこいつなら、高岡の言ったとおり浮気妻の関連だろうか? 女どもの誰かが写真の奪還とか、復讐を依頼したのかもしれない。


 だったらこいつは、女どもの身内か、金で雇われたヤクザか……


「社長! どこに行けばいい!?」


 万佐が、ホールに落ちた鳩の影を踏みながら叫んだ。

 三村は振り向き、視線を走らせる。


 前方には一階、中二階、二階の廊下の手すりが、サミヂ(サンドイッチ)の具のように並んでいて、それぞれの階層につながる階段が一つずつ伸びている。


 元来た中二階の方へ行けば最終的に一階の銃砲店の、陳列棚に隠された倉庫スペースへ出る。


 一階と二階の廊下も同じように店舗や食堂に物資を運ぶための通路だが、三村はふだん、自分の居住空間から直接降りることができる中二階の通路以外は使用していなかった。


 得体の知れない足音が聞こえていた玄関側へ戻るのは気が進まなかったが、どんな状態か分からない通路を使う方が危険だ。


 三村は万佐に「元の道だ!」と叫ぶ。


「穴を登らずにまっすぐ行け!」


 万佐が、中二階への階段を上る。美津は階段の手前で三村を待っている。


 足の遅い、金と宝石を持った万佐に先を行かれるのはまずかったが、女の美津に先頭を走らせるのはもっとまずい。


 美津の元にたどり着くと、三村は彼女の背を押して先へうながした。


 二人が、階段に足をかける。


 ……階段の奥から、万佐の背が戻って来た。

 後ろ向きに階段を降りて来る彼に、三村が怒鳴る。


「ふざけんな! 早く行け!」


「ごめん社長……」


 無理。そう半泣きの顔で振り返る万佐に、三村と美津は階段に足をかけたまま硬直した。


 万佐の前から、白い髪を揺らし、巨体が現れる。新聞紙の塊を提げた巨体の後ろには、見覚えのある赤い眼鏡の男と、洋装の女。


 三村が、目を剥き、一歩下がった。


「……三村一党か?」


「ああ、長髪の細いのが三村だ。太いのが万佐、女は愛人の小寺美津だろう。……高岡がいないな」


 赤い眼鏡を指でつまみながら、東城蕎麦太郎が巨体に答える。

 下がり続ける万佐に、美津が三村の腕を取りながら後ずさった。


 階段の奥から、バチンという音が響く。一瞬その場の全員がそちらを見たが、三村には分かっていた。発電機が止まり、部屋の照明が落ちた音だ。


 次いで万佐が三村の方を振り返り、「ああっ」と声を上げる。分かっている。ハットの男が後方に立っているのだ。


 侵入者達に前後を挟まれたのだ。そんなことは、分かっている。


 まるで蛙のように目を丸くしている三村に、白髪の巨体が一歩階段を降りた。


 新聞紙の塊から、カチ、と金属の音が響く。


 限界だった。金属音を合図に、三村が絶叫した。


 万佐も、美津も、巨体と東城達もぎょっとしたように三村を見る。


 喉が震撼しんかんし、三村がそれまでの人生で上げたこともないような、未知の生物の断末魔のような声が、ほとばしる。


「ひ! ひっ! ひっ!!」


 いつしか美津の腕をつかみ、自分の前に盾のように立たせながら、三村は叫んでいた。


「人斬り十吾ッ!!」








「――ああ、いけねえ」


 電車に揺られながら、ミワさんは額をぺしっと叩いた。


 車内には彼以外に人影はない。


 ミワさんは座席に座ったまま、ポケットに突っ込んだ右手をゆっくりと抜き出す。


 右手には本が二冊つままれていて、一冊はミワさんが田所に見せた、探偵図鑑とも言うべき資料の写本だった。


 ミワさんはもう一冊の方を左手に持ち、指でぱらぱらとページをめくる。


 表紙は赤茶色に塗られていて、色彩的に小汚い印象を与える。「しょうがねえなあ」とつぶやき、ミワさんは息をついた。


「じい様に見せてやるつもりで持って来たのに、すっかり忘れちまってた。ポケットが深すぎんだよな、入れっぱなしで……」


 不意に電車がガタンと大きく揺れ、ミワさんが座ったままつんのめる。

 頁をめくっていた本が手の中から飛び出し、床に落ちた。


 あわてて席を立ち、本を拾おうとしたミワさんの手が止まる。


 薄暗い照明の下で、たまたま開かれた頁に描かれた絵が浮かび上がっていた。


 ミワさんは片膝をつき、左手をあごにやって笑う。「見事だよなあ」とつぶやくと、男の似顔絵を眺めながらあごをぞりぞりと、音を立ててなでた。


「特徴を捉えてるよ。この顔つき、目つき。ふつう悪役の似顔絵を描く時は多少醜くするもんだが、きちんとじい様の顔を再現してら。よっぽど田所十吾のツラが目に焼きついてたと見えるね」


 ゆっくりと本を拾い上げ、再び座席に尻から飛び込む。


 照明にかざすようにして本を見上げ、頁をめくりながら、ミワさんは一つ、大きく鼻息を噴いた。


「……あんな人の良いじいさんを鬼畜だの外道だの書きやがって。厚顔無恥こうがんむちってもんだぜ。だから『とある明治政府の・・・・・お大尽』になっちまったんだよ、あんたは」


 ミワさんは本を田所に説明する際に用いた言葉を繰り返しながら、目を細める。


「正月にご乱心って最期は、天罰かもしれねえなあ」







 田所は、目の前で取り乱す三村を目を丸くして見ていた。


 人斬り十吾。三村は、確かにそう言った。東城にさえたどり着けなかった己の過去を、何故初対面の三村が知っているのか。


 一歩階段を降りると、三村が身も世もない悲鳴を上げて美津の背中をぐいぐいと押し出す。


 美津も万佐も、三村の取り乱しように驚いているようだった。


 田所は三村の背後をハットの男が固めているのを確かめてから、もう一歩近づいて問いかける。


「何故俺のことを知っている……? お前さんとは、顔を合わせたことはないはずだ」


「やめろ! やめてくれ! やっぱりだ、やっぱり俺を追ってやがった!! 俺を一生逃がさないつもりだな!」


「何の話だ」


「美津、助けてくれ! こいつだけはダメだ! お前は大事だけど、この男だけは怖いんだ!」


 美津が、動揺しながらも田所を睨んでくる。


 眉を寄せる田所に、三村がコートのポケットから何かを取り出し、階段の下に投げた。


 表紙が赤茶色に塗られた、古い本だった。田所は拾わず、三村を見る。


「……お前は、誰だ」


「俺? 俺か? 誰だったかもう俺自身にもよく分からねえ……なあ、満足だろう!? あんたのおかげで俺はもう長いこと地獄を這いずってる! 気が済んだろ!?」


 田所のわきを、東城がすりぬけた。階段の下の本を拾うと、田所を振り返って口を開く。


「イヅマ……と、読むのかな?」


 表紙の著者名を指す東城に、田所は一瞬、がくぜんとして言葉を失った。


 女の背に隠れている三村に視線をやりながら、やおら小さく「泉妻いずのめだ」と答える。


 階段を降りると、東城から本をひったくるように取る。ばらばらと頁をめくると、文字の群の中に一枚だけ、挿絵さしえがあった。


 東城と、美耶子が、覗き込んで来る。


 若い、苛烈な表情を浮かべた男の絵。田所は似顔絵を睨み、同じ表情を顔に浮かべて、再び三村を見た。


 三村が美津の肩をつかみながら、うなるように言う。


「人斬り十吾、鬼畜田所。俺の、俺達一族の宿命。天敵。……ああ、分かっていた。この日が来るのは分かっていたんだ」


「お前は、泉妻京間いずのめきょうまを知っているのか」


「おい、誰だ」


 突然田所の口から飛び出た男の名前に、東城が口を挟む。


 田所は本を彼に押しつけながら、更に一歩三村達に近づいた。


「維新の立役者たてやくしゃだ。幕末、俺がまだ志士だった頃、泉妻は俺と数人の志士に、仲間内の素行不良者の『粛清』を命じた。志士の評判を落とし、義を捨て欲に走るような味方を処罰し、仲間の士気を高めるためだ。

 俺は泉妻の指示の下、味方の血を流して幕末を過ごした……後に、人斬りなどと呼ばれるほどにな」


「なあ、親父は後悔してたんだ! あんたを始末組に入れたのは間違いだったって! だ、だってあんたは……血を好み、殺しを楽しみ、すぐに親父の言うことを聞かなくなったって……」


 その台詞ひとつで、田所は多くのことを理解し、歯軋はぎしりした。


 三村がかつての自分の上司、始末組の創設者の息子であること。

 ミワさんが語っていた、田所の似顔絵つきの本を書いた者の正体。


 三村は美津の髪に鼻を突っ込み、必死に匂いをかぎながら口を開いた。


「親父は俺が産まれた頃から、毎日あんたの話をしてた。あんたがどれほど強くて、血に飢えていて、誰をどんな風に殺したか、毎日毎日繰り返してた。

 敵も、味方も、女子供もめった刺しにして、少しでも気に入らない人間は便所に行くついでに斬り殺して首を取って来たって」


「……」


「後悔してたんだ、志士の仲間の目を気にしてあんたを死刑にせず、獄中死させようとしたのは間違いだったって。

 あんたは……糞溜めみたいな牢の中で、何十年も生き延びてるって! あんたが獄を出る五年前から、親父は恐怖で完璧におかしくなった! 鬼畜が出て来る、人斬り十吾が出て来るって、俺やお袋に刀を持たせて部屋の番をさせたり、毎日遠出して外泊したりした! その本を何度も書き直して読み返すだけの男になっちまったんだ!」


 田所は、自分の顔がどんな表情を浮かべているのか分からなくなった。


 監獄を出た後、復讐すべき人間の所在を調べはしたが、その時には既に泉妻は死亡していた。


 刃を突き立てるべき仇が、この世から消える前にどのような生活を送っていたか。


 今、仇の息子が、告白している。


「明治政府が親父を見限るのは時間の問題だった……ご一新の英雄とまで言われた親父が、たった一人の囚人に怯えてる。親父は俺に言ったんだ。人斬り十吾は必ず獄から出て来る。出て来たら必ず親父や、その血縁者である俺を殺しに来るって」


「親父さんは、狙われる理由を言ったか」


「それがあんたの生業だからだ! あんたは味方を斬り過ぎて、頭がおかしくなってる! 志士の仲間を、その家族を皆殺しにするまで止まらないって! それが人斬り十吾だって、親父は言ってた。……だから、親父はあんたが出獄する日に……」





 三村は、父の最期の形相を思い出す。


 三十年間、獄につながれているかつての部下を恐れ続けた、死人のような生気のない面。


 どんなにめでたい日であろうと、必ず一度は人斬り十吾の名を出し、家族の前で不安に震えていた。


 父の尽きることのない恐怖は、三村や他の家族の心にも病のように染みつき、さいなんだ。


 顔を見たこともない人斬り、殺人者。


 父がその残忍さと異常さを震える声で話して聞かせるたび、三村は人斬り十吾の獄中死を心から願い、眠れぬ夜を過ごしていた。


 だがこの世に神はおらず、人斬りは三十年の月日を生き延び、世に解き放たれることとなった。


 その当日。正月の挨拶に来た縁者一同を拳銃で射殺した父親は、便所の穴の底で震える三村に大声で語りかけ続けた。


 どこにいる。隠れていないで出て来い。いい所に連れて行ってやるから。


 その声は、時間が経つほどに大きくなり、警官が踏み込んでくる直前には絶叫に近いものになっていた。


 頼む。出て来てくれ。息子よ、お前は死なねばならんのだ。


 人斬り十吾が出て来る。狂人が、鬼がやって来る。俺もお前ももはや生きてはおれんのだ。


 どうせ死ぬなら、ヤツの気分を良くすることはない。ヤツが斬りたい人間を全てこの世から消して、ヤツの老後の楽しみを奪ってやる。出獄後の目的を奪ってやる。それが俺の最後の抵抗だ。


 息子よ、お前で最後なのだ。


 人斬り十吾は自分を獄につないだ俺や、始末組に関わった志士達を斬りたがっている。


 それらがことごとく死んでいれば、きっとその身内にも手を伸ばすだろう。


 お前で最後なのだ。我が血族が絶えれば、ヤツは何もできない。


 殺させてくれ、息子よ。一緒に死んでくれ。頼む。頼む――






 三村は父親の恐怖を受け継ぎ、会ったこともない人斬り十吾を恐れて逃げたのだ。


 父親が捕縛される寸前で自殺した後、過去を捨て、他人となるための旅に出た。そうして生き延びた後も、父の最後の縁者である自分を、いつか人斬り十吾が追って来ると。戦々恐々とした人生を送ってきた。


 田所は三村が興奮状態で口走る身の上を、黙って聞いていた。


 一通り話し終えて荒く呼吸をしている三村に、やがて眉間を指でもみながら声を放つ。


「三村探偵社を使い、しこたま悪銭を貯め込んだのも、俺に見つかった時の備えか。お前はそうやって、一生俺から逃げ続けるつもりだったのか」


「親父は言っていた。死ぬ直前まで言っていた。あんたは絶対に諦めないって。俺を斬るために、どこまでも追って来るって。……でも……でもよォ……あんまりじゃねえか」


 三村が美津につかまったまま、恨みがましく田所に言う。


「俺は幕末なんて知らねえ、ご一新なんざ本でしか読んだことがねえ。あんたと俺の親父が仲間だったからって……なんで俺が人生を潰されなきゃならねえんだ!?」


「三村」


「人を斬るのが好きなら勝手に斬ってろよ! 仲間殺しが気に入ったんなら親父の代で止めてくれよ! 俺は関係ねえ! 何も関係……」


「この本に書いてあるのは、嘘っぱちだ」


 田所は東城の持つ本を示し、深く息を吐いた。


 喉を鳴らす三村に、目を細める。


「俺は、好んで人を斬ったことなどない。お前の親父さんの命令で、言われるままに、使命として斬っただけだ。便所に立つついでに人を殺したことなどないし……女子供をあやめたことも、一度としてない」


「はっ?」


「俺が投獄されたのは、親父さんが俺を罠にはめたからだ。俺が出獄後に親父さんを斬ろうとしていたのは、彼が、始末組の仲間を裏切り、殺したからだ。……三十年だよ、三村。三十年もの時間は、人の記憶をねじまげる」


 田所は新聞紙から、日本刀を抜き出し、さやで床を突いた。


 肩を跳ねさせる三村達に、低く言葉を続ける。


「お前の親父さんは、糞ったれだった。味方殺し……汚れ仕事を俺達に押し付けておいて、幕府が倒れるとなれば全てを殺し、自分との関わりを消そうとした。

 だが、悪党にも負い目というものはあるんだろうな。三十年を待つ間、自分のしたことを無意識に正当化しようとしたんだろう。

 だからお前達家族に俺の邪悪さを語り続け、わざわざ自伝に俺に言及するようなぺえじいた。

 親父さんにとって、俺は悪鬼羅刹あっきらせつのような『人斬り十吾』でなければならなかったんだ。人間味のない、殺人鬼でなければならなかった」


 眼球が飛び出るかと思うほどに目を剥いている三村に、田所は、宣告するように、言う。


「その捏造された『人斬り十吾』の人物像が、親父さんを狂わせ、凶行に走らせた。三村……お前を殺そうと追っていたのも『人斬り十吾』だ。俺ではない」


「……ちょっと……ちょっと待って……」


「お前の親父は、嘘つきだ」



 三村が、美津の肩から手を離し、へたり込んだ。


 美津と万佐が、どうしてよいのか分からぬといった表情で、彼を振り返る。


 虚空を見つめたままぶつぶつと何ごとかをつぶやいている三村。


 数秒の間の後、彼の背後から、声が上がった。


「話は済んだか」


 ハットの男が、三村の背中を一切の容赦なく蹴りつけた。豚が上げるような悲鳴とともに、三村が前方の床に倒れ込む。


 一同の視線を受けて、ハットの奥の目がぎらぎらとした光を放ちながら、三村達を射抜いた。


「過去は関係ない。何故、どうして、全く興味がない。お前らが責められる因果は、お前ら自身が積み重ねてきた罪だ。そうだろう?」


 最後の言葉は、田所に投げられたものだろう。


 田所が答える前に、愛人を傷つけられた美津が奇声を上げながら脱ぎ払ったウサギのコートを、ハットの男に叩きつける。


 顔面から腹に張りついたコートを、美津が固めた拳で三度連打した。腰の入った、実戦的な突きだ。


 田所が前に出ようとすると、万佐がかばんを盾のように前に出して立ちはだかる。


 だが、田所がほんの少し日本刀を持ち上げると、万佐はぎょっとしたような顔で「あ、すいません」と口走り、元の立ち位置まで退いた。


 向かって来るのか、降参するのかはっきりしろと怒鳴ろうとした時、美津が気合とともにハットの男の股間へ蹴りを放つ。


 きれいに決まった蹴りから、即座に足を戻す美津の前で、ウサギのコートがようやく床に落ちた。


 ハットの男が、身じろぎひとつしないで美津を見下ろしている。


 がくぜんとする美津の顔面に、直後に石のような拳が躊躇ちゅうちょなく突き刺さった。


 倒れた三村の上に、美津が尻から落ちる。

 ぐったりとする彼女に、万佐が口を大きく開けてなげいた。


「ひでえ! 女の顔に……」


「外道に性別などない」


 凶悪な形相で答えて自分に向かって来るハットの男に、万佐は悲鳴を上げてかばんを放り出した。


 そして何を狂ったか田所の足にすがりつき、「助けて!」と叫ぶ。


「勘弁してください! 降参! 降参します! そ、そもそも俺、ただの遊女屋で三村社長の身内じゃないっていうか部外者っていうか!」


「えー、でも、いとこなんでしょう?」


「茶屋を明け渡す時、三村と一緒に抵抗していたしな」


 横から口を挟む東城と美耶子に、万佐はぶるぶると首を振る。


 東城の顔はとことん冷淡れいたんで、美耶子はぬえと顔を並べてにやにやと笑っていた。


 真っ青になっている万佐のでかい尻を、ハットの男が踏みつける。「ぎゃあ!」と声を上げる万佐のわきで、三村が美津に押しつぶされながらうめき声を上げた。


「待ってくれ……教えてくれ、十吾……俺の親父の因果でないのなら、あんた、なんで俺の前に現れたんだ?」


「お前が食い物にしてた人々の因果さ。三村、命まで取るとは言わん。三村探偵社がしいたげてきた人々への借りを返すんだ」


「信じられねえ……義賊かよ」


 三村が顔に手をあて、笑い声だか泣き声だか分からない声を上げた。


 自分を見下ろす人々の視線に、三村は美津の髪にすがるように顔を寄せながら答える。


「十吾、俺を殺さないんだな? 本当に俺を、生かしてくれるんだな?」


「お前の誠意次第だ。まず、お前が脅迫した人々への補償だ。承知しているだろうが、浮気妻以外に、お前達のせいで殺された依頼主もいる。彼女らへどう落とし前をつける?」


「警察に出頭、はしねえよ。俺らの脅迫や何やらは罪になるだろうが、事実関係を明かされたくねえ女どもが大半だろうからな」


 田所が膝を折り、三村に屈み込む。三村は美津の腰をまさぐりながら急ぐように続きを言った。


「ただ、高岡と元川は監獄に行くだろう。あいつらは家出娘とやらに乱暴したし、他にも色々まずいことをしでかしてる……誤解してほしくねえんだが、ありゃ俺の指示じゃねえ、やつらが勝手にやったことだ。浮気妻を抱いたりなんだりも基本的に元川と……万佐の専門だった」


「そりゃないよ社長! 俺は気に入ったおねえちゃんだけ」


 声を上げた万佐が、ハットの男に尻を二度蹴りつけられておとなしくなった。


 悶絶もんぜつする彼を横目に、三村が続ける。


「そこに転がってるかばんに、俺の逃走資金が詰まってる……女達から巻き上げた金も、それ以外の金もほとんど宝石ときんに替えてある。そいつを持って行ってくれ」


慰謝料いしゃりょうか。だが、それで済むとは思っていまい」


「分配しても女達が二年は遊んで暮らせる額だぜ!? ……脅迫材料の写真も渡すし、女達には二度と近づかねえと誓う。いや、もう銀座には戻らねえよ。それから……それから何が望みだ?」


「殺された女へのびは」


 田所の言葉に、三村が反抗的な目つきをする。


 相手が聞いていたとおりの殺人鬼でないと知ったからか、三村はまっすぐに相手の目を見て言った。


「依頼主に無断で亭主をゆすったのは悪かったがよ、別に俺達が殺したわけじゃねえ。暴力亭主がやったことだ……ヤツは監獄行きになったし、罰を受けるだろうよ。俺は慰謝料は払うし、必要なら遺族に土下座でもしてやる。でも、それ以上は筋違いだぜ」


「お前らが横槍を入れなければ死者は出ずに済んだんだ」


「俺達を頼ったのは、その死者だぜ」


 不意にハットの男が、背広のポケットを探りながら三村に近づいた。


 緊張する田所と三村の前で、背広のポケットから、小さなやっとこ・・・・が取り出される。


「時計の中の部品をつかむための道具だ。こんなこともあろうかと、友人から借りてきた」


「……は?」


「結局、心の問題なんだよ。お前がどれほどの大金を積もうが、被害者の心は晴れない。多少でも溜飲が下がるとするなら……加害者のお前が痛い目を見た時だけだ」


 嫌な予感に眉を寄せる田所を、ハットの男が見る。


 彼はやっとこを三村の前に落とし、首を傾けた。


「土下座なんぞ何の足しにもならん。被害者への『土産』をもらおう。中途半端なものをよこしたら、人斬り十吾が腕を落とすぞ」


 青ざめる三村に、田所は思わずハットの男を睨んだ。敵を同じくしてはいるが、この男は自分とは違う。


 内心、ほんのわずかに三村に同情に似た感情を抱いていた田所に比べて、ハットの男は敵に対し、徹底して容赦がない。


 だが三村はやっとこを手に取り、美津を押しのけて立ち上がった。


 視線が集まる中、彼は絶叫しながらやっとこで前歯をはさみ……力を入れて、へし折った。


 痛々しい光景に東城と美耶子、万佐が顔をしかめ、田所が歯を食いしばる。


 平然としているのはハットの男だけだ。


 口から血を流してうかがうような視線をくれる三村に、ハットの男は逆の方向に首を傾ける。


 三村はまるで敵と戦っているかのような形相で再びやっとこを口に入れ、同じことをもう一度繰り返した。


 おそらく恐怖と緊張で、万佐が床に嘔吐おうとする。


 三村は二個の前歯を手の平に落とすと、美津の顔に血を垂らしながら、それをハットの男に差し出した。


「も、持って行ってくれ……これで俺は、一生『歯欠け』だ……物を食うのも苦労する生活になる……」


「……今後、被害者に少しでも害を与えたら、残りの歯も全部もらうからな」


 ハットの男はにこりともせずに、だが、しっかりと前歯を受け取る。


 三村は田所を見て、不安そうに目をゆがめる。


 田所はすっかり気勢をそがれて、頭をぼりぼりとかきながら口を開いた。


「二度と俺達の前に現れるな。お前の顔など見たくもない」


「そりゃ、ありがてえ……」


「あ、今の『俺達』って、私達も含まれてるからね」


 美耶子がちゃっかり自分と東城を指さす。


 三村は黙ってうなずき、美津を抱き起こしにかかった。

 万佐があわてて口をぬぐい、立ち上がる。


 思いもかけない形で収束しつつある事態に、田所と東城は顔を見合わせて息をついた。三村が田所を悪鬼のごとく恐れていてくれたおかげで、彼の行動を恐怖で縛れるかもしれない。


 ハットの男が、田所に手を差し出した。そこには三村の前歯が一つ載っている。


「あんたの依頼主に持って行ってやれ。姉を殺された代償にはほど遠いが、少しは復讐心も満たされるだろう。本当は指の二、三本でもくれてやった方がいいんだろうがな」


 ぎょっとしたようにこちらを見る三村達を尻目に、田所は少し考えて前歯を受け取る。


 礼を言おうと思ったが、何故か口に出せなかった。

 代わりに自分よりはるかに年下であろう相手に、厳しい口調で言う。


「高岡という男を知ってるか」


「ああ、向こうで倒れてる。心配しなさんな、ヤツもきちんと罰を受けた」


「……お前さんは、血生臭い方法でしか仕事ができないのか」


 自分が言えた義理ではないと分かっていながら、田所はついそう口にした。


 ハットの男は一瞬表情を消した後、わずかに口端を吊り上げて答える。


「年を取るとかどが取れるらしいな。人殺しを生業にしていた男なら、分かっているはずだぜ」


「何を」


「暴力から人を守るには、暴力を振るうしかない。法も良識も、結局は権力や数の暴力の上に成り立っている。善なる暴力に守られていない人のために……俺達のようなやからがいる」


 違うかい。


 そう言って、ハットの男はポケットから煙草を取り出し、口にくわえた。


 田所はそんな男を少しの間眺めてから、日本刀をゆっくりと新聞紙で包みなおす。


 人を殺傷できる、暴力の結晶。


 自分の持っている物を見つめながら、田所は、若い頃の自分の面影を、ハットの男に重ねていた。

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