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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵3 ~探偵賛歌~
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無名探偵(棚主) 七

 高岡が、闇の中を走る。来る時に携えていた携帯電灯は、部屋に血まみれの上着と共に置いてきてしまった。


 転がっていたゴミに足を取られ、転倒すると、床につこうとした手は空をかき、見えない階段を体が転げ落ちる。


 体中を何度も打ちつけて階下の床に倒れ込むと、高岡は罵倒の言葉を口中でつぶやきながら身を起こした。


 痛みは激しいが、骨が折れた気配はない。


 手探りで壁に手をつき、闇のこもった前方を眺め、次いで階段の後方を振り返った。


 階段は廊下の中央に設置されていて、その両脇は通過できるようになっている。


 階段の後方には、破れた窓から月光が差し込んでいた。


 闇の中を転びながら走るより、少しでも明かりのある道を進んだ方が良いと判断した高岡は、玄関とは反対方向へ再び駆け出した。





「今の音は?」


 灯りを持たない田所が、闇の中で声を上げた。


 三人はホテルの玄関を抜けた先、左手にある食堂のような場所にいる。


 ネズミの糞がたっぷりと積もった大鍋をランプで照らし出しながら、東城が口を開く。


「何だろうな。椅子か何かが倒れる音のようにも聞こえたが」


「向こうの方からしましたよ」


 美耶子が食堂の奥にある扉を開け、先の廊下をランプで照らした。


 東城達の持つランプは周囲を均等に照らし出すタイプではなく、金属の板をランプ全体に貼り付け、前方にのみ丸い穴を開けて光の差す方向を限定したものだ。使い勝手は、携帯電灯に近い。


 田所と東城は美耶子に近づき、廊下を先に歩き始めた。

 廊下は広く、長く、窓には板が打ちつけてある。


 東城が床に転がっている大量の缶詰を避けながら、隣を歩く田所に言った。


「田所探偵。君は暴力は得意だな」


「……」


「もし三村探偵社の連中と出会って、連中と険悪な雰囲気になったら、対処を任せてもいいか」


「そういうことにならんよう祈ってる」


 田所の返事に、東城は肩をすくめる。廊下の床板はしっかりしていて、三人が歩いてもほとんどきしむことはない。


 闇に響く靴音。やがて廊下の右手に、店舗が並び始めた。


 扉のぎやまんを覗けば、それぞれの店内にはまだ商品が残っている。


 薬局、書店、衣料品店……不意に美耶子が開け放されていた扉の一つに侵入した。


 彼女は動物の剥製が大量に飾られている銃砲店らしき店舗の奥に進むと、陳列棚を物色し始める。


 東城が彼女をランプで照らしながら、ため息混じりに声を放った。


「何をやってるんだ。遊びに来たんじゃないぞ」


 美耶子はさらにしばらく棚を物色した後、ふとカウンターの内側に屈み込んだ。


 首をひねる東城と田所の前で、彼女は妙な剥製を手に立ち上がる。


 戻って来た彼女が抱えていたのは、犬ほどの大きさの異形だった。胴はたぬきらしく、猿の頭が載っていて、足は猫科と思われる動物のものががれている。


 美耶子が剥製の首にかけられた札の文字を読み「ぬえ!」と嬉しそうに言うと、東城が異形の頭をびしりと叩いた。


「悪趣味だ。外人向けの土産物か」


「先生ぬえ知らないんですか? 色んな動物の体をつぎ足した妖怪ですよ」


「莫迦にするんじゃない、ぬえぐらい知ってる。動物の死体を合成してそれを再現するのが悪趣味だと言ってるんだ。くだらない物を拾うんじゃない、先を急ぐぞ」


 さっさと歩き出す東城に、美耶子と田所が続く。

 美耶子はぬえを抱いたままだ。


 誰が潜んでいるかもしれない闇の中を、平然と歩き回る美耶子は相当に肝が太い。


 田所はぬえの頭をなでている美耶子のわきを守りながら、ふと天井を見上げた。


 違和感に立ち止まる田所に、先を歩いていた東城が「またか」とうんざりした声を上げる。


「君らには緊張感というものがないのか。廃墟が好きなら後日好きなだけ観賞すればいい。ネズミの糞にまみれて悪趣味な人造ぬえでもカッパでも天狗てんぐでも探せばいいさ。だが、この東城蕎麦太郎の足を引っ張るんじゃない」


「照らしてくれ、何か垂れてる」


 天井を指す田所に、東城が顔色を変えた。


 彼が美耶子と共にランプの光を持ち上げると、田所の視線の先に、天井から滴る液体が確かに浮かび上がる。


 田所が近づき、液体を新聞紙の塊で受けた。赤い染みを作るそれに鼻を近づけると、強いアルコールの臭いがする。


 東城が顔を寄せてきて、染みを手であおいだ。


 同じようにアルコールの臭いをかぐと、彼は大真面目な顔で他の二人に言う。


「ワインだ。鳥井商店の赤玉ポートワイン。明治四十年発売」


「……上に誰かいるな」


 三人が天井を見上げ、滴るワインの血のようなしずくを見た。




 

 床に四散したワインのボトルの破片を避けながら、万佐が蜂蜜の瓶が載ったテーブルに近づき、手を伸ばした。


 瓶のふたを開け、素手で蜂蜜を舐め始める彼に、三村が長い爪を噛みながら横目をやる。


「かばんを汚したらタマを蹴飛ばしてやるからな」


「社長、いちいちそれを脅し文句に使うのやめてよ。最後に残った一個なんだから」


「潰れた一個は真山に俺の素性をばらした代償だ。次に同じ失態をさらしたら、完全に女にしてやるからな……美津、終わったか」


 三村の元に、ウサギの毛皮のコートと帽子をまとった美津が、自分のかばんを手にやってくる。


 杖を手に歩き出す三村と、美津。万佐があわてて蜂蜜の瓶を捨て、自分のコートで手をふき、かばんとステッキを持ち上げる。


 三村は自分を追って来る二人の前で、部屋の出口の扉に手をかけた。


 瞬間、三村の表情がこわばる。扉の取っ手をつかんだままの三村に、美津と万佐が顔を見合わせた。


「社長? どうかなされましたか」


「……まいったな。足音が聞こえる」


「足音? …………私には、聞こえませんが」


 動揺する美津に、三村は扉から手を放し、部屋の反対側へ早足に向かう。

 やがて壁際にたどり着くと、隅にかためてあった四つのテーブルを動かし始めた。


 美津と万佐を手伝わせてそれらをどかすと、床に、人一人が通れる程度の穴が空いている。


 三村はインバネスコートを探って携帯電灯を取り出し、穴の先を照らし出した。


「こっちから出よう。なるべく騒ぐな……美津、俺が先に降りて、受け止めてやるからな。万佐は降りる前にかばんを落とせ。忘れないようにな」


 三村が言い、するりと骨のような体を穴にすべり込ませる。


 彼が降り立った廊下は中二階とも言うべき場所で、腰の高さの手すりの外には、一階の廊下が低い位置に見える。


 闇のこもった玄関側とは違い、破れた窓や、亀裂の入った天井の一部から、月光が差し込んでいた。


 三村は後から来る美津を受け止め、万佐のかばんが落とされるのを見届けると、苦労して降りて来る万佐を待たずに歩き出す。


 青白く浮かび上がった中二階は一階ほど雑然とはしておらず、冷え冷えとした床にはネズミの死骸しがいが落ちている程度だ。


 そして硬い壁を響かせて、確かに無数の足音が、遠く近く、響いていた。





 月光の中に、高岡がいる。肩で息をしながら、トパーズの袋と拳銃を手に、大きく破れた壁の穴を通して外を見ていた。


 ホテルの裏手に進む内、外から差し込む光の量は増えたものの、三村達の居住区域から離れるのと比例して床の状況は酷くなっていった。


 そもそもが、この建物は百貨店として開店する予定だったものだ。それが周囲の環境が悪化し、客が気軽に来れなくなったために、苦しまぎれに電車の乗客達を取り込もうとホテルを名乗ったに過ぎない。


 店舗のスペースをけずって無理やり客室にして、玄関側だけを解放して裏手は物置と化していた。


 その状況で経営が破綻し、三村に土地建物をまるごと差し出したのだから、当然建物の奥側の状況は惨憺さんたんたるものだ。


 高岡の目の前にはがらくたや木箱の海が広がっていて、煉瓦の壁が外側から壊れて足の踏み場もない。


 壁の穴のすぐ向こうには、レールとひしゃげた金属部品の塊が落ちていた。


 高岡は一瞬壁の穴から外に出ようかと思ったが、穴の周囲に窓に使うぎやまんの板が大量に転がっていて、その半分ほどが粉々に割れているのを見て諦めた。


 ただでさえ足場が悪い中、ぎやまんの中で転びでもしたら大怪我をする。

 三村達が追って来ることを考えれば、危険は冒せなかった。


 高岡はまだ足場が安定している廊下を、裏口に向かって歩き出した。


 建物の裏手には、玄関と同様に大きな出口がある。

 馬車が通れそうなほど幅の広い道に、彼一人の足音が反響する。


「…………」


 数分ほど歩いた時、高岡は前方に、まぶしいほどに差し込む月光を見た。


 細い木枠にぎやまんの板をはめ込んだ、無数の扉の向こうに、月が浮かんでいる。


 そこをくぐりぬけさえすれば、高岡は建物の外に逃れられるはずだった。広大な廊下はそこで途切れていて、左右には店舗の扉しかない。


 どこにも、それる道はない。



 だが、裏口の扉の一つ。ぎやまんの板に、影があった。


 高岡はその形を、よく知っている。


 しばらく沈黙してから、高岡は影へ近づく。裏口の中央、木枠の上から垂れる影は、建物の外側から、高岡を睨んでいる。



「……何でだよ……」


 影の正面に立った高岡が、ぶるりと全身を震わせた。


 扉に顔をつけていたのは、てるてる坊主だった。高岡達が浮気妻に、合図として出させていた、てるてる坊主。


 薄汚い布で作られたそれは、たっぷりと墨汁をたらした、左右の大きさの違う闇のような目で高岡を見ている。口の線はさらに大量の墨汁で引かれていて、血を吐いたかのようにどろどろと下へ流れて染みになっていた。


 高岡は、てるてる坊主の布が、隠れ家で監禁していた家出娘にかませていた、さるぐつわだということにすぐに気がついた。


 頭の中を、様々な思考が駆けめぐる。


 手にした拳銃が震える、カタカタという音が妙にうるさく耳に響く。


 視界の端で何かが揺れた。店舗の扉が開閉したのだと気づくと、高岡は逃げるか拳銃を構えるか、迷った。



 その一瞬の後に、耳元で誰かがささやいた。


「晴れたら、目を書き込まなきゃ――」


 てるてるぼうず。ねがいがかなったなら、めを。



 高岡が動けずにいると、隣に立つ男は震える拳銃をつかんでくる。

 がちがちと歯を鳴らす高岡に、ハットを被った男は、その指を引き剥がしながら問いかけてきた。


「高岡正人まさとだな? 色男だと聞いていたが、大したことないな」


「……」


「三村と、万佐は」


 質問に、高岡はごくりとつばを飲み込んだ。

 ハットの男が、殺気立つ気配がする。


 うつむきながら後方を指さすと、男が拳銃を奪い取り「いいだろう」と静かに言う。


「一緒に会いに行こうか。高岡。今後のことを、みんなで話し合わなきゃあな」


「……あんた……やっぱり、呉服店のミヨの……」


「元川が何をされたか知りたいか?」


 拳銃をくるくると振り回し、男が低く言う。高岡は踵を返し、うつむいたまま先を歩き出した。


 逆らえなかった。


 男の声には、濃厚な暴力の気配がある。中途半端な小悪党が脅しで出す声とは、質が違う。


 探偵社の仕事でたまに顔を合わせる、ヤクザや犯罪者達の中にも、これほど恐ろしげな声を出す男はいなかった。


 三村が語った、彼を追って来る過去からの刺客。


 きっとこの男がそうなんだ。


 高岡は額を流れる血混じりの赤い汗をぬぐいながら、黙って男の先を歩いた。




 高岡があと一歩で飛び出せたはずの外界を、風が吹きぬける。


 扉の向こうにかかったてるてる坊主が死体のように揺れ、月光の作る陰影が、その表情を、まるで笑っているかのように波立たせた。

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