無名探偵(棚主) 六
目の前に、異様な光景が広がっている。
月明かりに照らし出される巨大な建造物。銀座の百貨店に匹敵するような立派な建物が、整地された土地にぽつんと取り残されるように屹立している。
周りに他の建物は一切なく、代わりに非常識なほど多くの線路が、血管のように張り巡らされていた。
その内の一つを、建物に接触するギリギリの間隔で電車が通るのを眺めながら、田所は呆れ顔でつぶやく。
「酷いな。どういう計画の下に敷かれたレールなんだ? まるであの建物をわざと孤立させてるみたいだ」
「ほとんどは未成線、建造の途中で放棄された線路だ。工事をした連中が莫迦でな、ちゃんと事前に計算せずに線路を敷いて、工事区画からはみ出したり危険なカーブを描いたりしたレールを作っては捨てしたそうだ。
だからほら、このレールなんかどこにもつながってない。根元を修正した時に切り捨てられたんだな」
東城が言いながら、錆びたレールをガン! と蹴りつけた。
建物に向かって歩き出す彼に、田所と美耶子が辺りを見回しながら続く。美耶子が、レールをおっかなびっくり飛び越えながら口を開く。
「こんなことされちゃ、あの建物の持ち主はたまりませんよね。これ、公共工事なんですか?」
「いや、民間会社の工事らしい。あの建物……有戸ホテルの敷地以外の土地を買収して工事を行った。どんな事情があったか知らんが、ずさんな工事はホテルを孤立させ、客の来れない環境に追いやったわけだな。三村も隠れ家以外に使いようがなかったんだろう」
東城が、じょじょに近づいて来る有戸ホテルを見上げながら、首を傾ける。田所に「面白いな」と声を投げた。
「建物の屋上を見てみろ。わずかに煙を出してる機械があるだろう。あの形状、以前本で読んだ蒸気を使う発電機にそっくりだぞ」
「発電機? 電気を作ってるのか」
「水車や磁石を使う発電機は昔からあるがね、あそこにあるのは多分、火を焚いて蒸気を生み出し、その力でたーびんを回す形式のものだ。自作だとしたら中々愉快な試みだな。電気を自給自足してるわけだ。燃料さえあれば照明ぐらいまかなえるだろう」
「三村探偵社の中に、そんなことのできる男がいるのか」
有戸ホテルの周囲にある、最後のレールを踏み越えながら、東城は肩をすくめた。
「私もやつらと親しいわけじゃないからな。ただ、学がありそうなのはあの面子の中では『醜悪な老醜』だけだ」
「……」
「三村だよ。社長の」
補足する東城が、目の前の有戸ホテルを見上げる。
建物自体は立派だが、窓がいくつか割れていて、雨どいの一角に鳥が巣を作っていた。
その真下には、白い糞がたっぷりとこびりついている。
田所が美耶子と共に東城の隣に立ち、同じように建物を見上げながら言った。
「あんたが連中につけたあだ名だが、他のはまだ理解できるが『醜悪な老醜』じゃ意味が重なってるぞ。三村は老人なのかい」
「二度醜いと言いたくなるほどの外見ということだ。三村は、実年齢は老人と呼べるほど高くはない。だが顔は異常に老けていて、目だけがぎらぎらしている。はっきり言って、田所探偵、君の方が若く見えるほどだ」
「ほう、それは……何故だろうな」
「猜疑心。疲弊。恐怖。人が若くして急激に老けるのは、精神的な要因ではその三つがもっとも有力だと私は思う。三村の顔にはその全てがにじみ出ていた」
東城はホテルの玄関に歩み寄り、地面に目を落としながら続ける。
「私は老いも若きも、単に顔の作りだけで評価するようなことはしない。外面の美醜など批判には値しない。醜いとののしることがあるとすれば、醜悪な性根が面に反映されている時だけだ」
「顔見ただけでそんなことまで分かるって、先生凄いですね。骨相学ってやつですか?」
茶化す美耶子に、東城がじろりと横目をやった。「骨相学は頭蓋の形でものを言う学問だ」と誤解を修正しながら、地面に屈み込む。
「もちろん善人の面をした外道も世にはたくさんいる。だが自分の生き方に自信を持たず、積み重ねた罪と過ち、それに下される報いの気配に怯える悪党の中には、ある種独特の顔をした連中がいるのだ。
三村がそれだ。やつの老い方は、醜い。自分が年をとるために、他者の人生を踏みにじってきた人間の面だ。単なる老醜よりもはるかに不快。だから私はやつを呼ぶ時、二度醜さを強調する」
「まあ、あんたの持論に文句は言わないよ。実際会って判断するとして……何を見てるんだ?」
自分と同じように膝を折る田所に、東城は月光に浮かび上がる地面を指さした。そこには大きさの違う足跡が複数残っている。
それらの一つに、東城が顔を寄せた。
鼻を鳴らす彼が、真面目な顔で告げる。
「ハットの男だ。既に、ここに来ている」
「……何故分かる」
「昼間さんざ彼の後を追ったからな。この大きな革靴の跡、元川が砕いた窓の破片を踏んだせいで、靴底の右側がえぐれてるんだ。間違いない」
「ハットの男だ」ともう一度言う東城に、田所は片眉を上げてみせる。他人の足跡を覚えるのも、名探偵のたしなみということか。
田所と東城は立ち上がると、美耶子と共に玄関の奥を見た。ホテルの中には闇がこもり、月光もほとんど差し込んでいない。
東城が懐を探り、小さな四角い手提げランプを二つ取り出した。
一つを美耶子に渡して点灯すると、光の輪が前方に照射される。
「田所探偵は照明は持ってきたのかね」
「あんたらについて行くよ。光源が多すぎても、相手に気づかれる原因になるしな」
田所の言葉に顔を見合わせた東城と美耶子が、無言で先を歩き出す。
三人は有戸ホテルの闇の中へ踏み込んだ。
シャンデリアの明かりが、数度音を立てて明滅した。
広大な部屋で頭上を見上げた万佐が、ごくりとつばを飲み込む。
彼の周囲では不機嫌そうにそっぽを向いた美津と、顔をわずかに腫らした三村が荒い息を繰り返している。
三村達にぼこぼこにされた高岡が、不意にむくりと床から起き上がった。
「電気、切れそうなんですか」
誰にともなく言った彼の後頭部を、三村が軽く蹴りながら、低く答える。
「石炭がないんだよ。屋上の発電機のご機嫌次第さあ」
「金はあるでしょ。なんで買いだめしとかなかったんですか」
「高飛び用に温存してたんだよ。正解だったろ?」
三村が小さく笑い、おもむろに自分が最初に潜んでいた巨大な寝台に近づき、その下にもぐり込む。
ややあって、三村はずるずると音を立てて、大きなかばんを二つ寝台の下から引き出して来た。
他の者の視線を受けながら、三村がかばんの一つを万佐に放り投げる。
万佐は受け止めようとしたが、彼の太い腕はかばんの上下を見事に通り過ぎた。がつんと床にぶつかるかばん。
目を剥く三村に、万佐はあわててかばんを拾い上げながら謝罪した。
「ごめん、つい。これ、何入ってるんだい? 金?」
「……金だよ。金の棒と、宝石。今度落としたらキンタマ蹴り潰すからな」
三村の脅し文句に、万佐はおびえるより先に「金!?」とうわずった声をあげ、かばんを勝手に開き始める。
かばんの中には大小さまざまな紙袋が入っていて、万佐が一つを開けてみると、中には小さなトパーズが詰まっていた。
歓声を上げて次々と袋を開封し始めるいとこに、三村がたまりかねて「こら!」と怒鳴った。
鉛筆大の金の棒を手に肩をはねさせる万佐に、うんざりした表情で言う。
「宝探しじゃねえんだぞ。ちゃんと整理してあるんだから勝手に動かすな」
「ごめんごめん、でもすげえな社長。俺の茶屋であれだけ派手に遊んどいて、こんなに財産を残してたなんて」
「莫迦かてめえは。酒代もてめえへの小遣いも全部女持ちだったろうが。俺の金は溜まりこそすれ、減るわけがない。女自体はタダだしな」
「へへっ、ひどいよな。酒おごらされてタダで抱かれて、あげく金も吸い上げられて、浮気妻もよく我慢できるもんだ。俺だったら身を投げてるね」
「生かさず殺さずが鉄則だ。……例の銀座の暴力亭主に関しては、しくじったがな。まさか話の途中でいきなり飛び出して、その足で妻を殺しに行くとは……」
「ケダモノめ」と忌々しげに言う三村に、万佐が笑う。笑った直後に、その顔を横から美津が叩いた。「何がおかしい!」と怒鳴る彼女に、万佐が口をつぐむ。
三村は万佐に放った方とは別のかばんを開き、中から衣類を取り出しながら、口を開く。
「俺が一番嫌いなのは、頭の悪いやつだ。てめえの汚職を暴いて脅しにかかってる探偵が目の前にいるのに、それを放置して、女房をぶち殺して監獄行きになるような男は、救いようがねえ。自分の身を守る頭もねえカスだ。
そんなカスと関わったせいで追われるハメになるなんて、まったくついてない」
「いや、社長……追われてるのは社長じゃないでしょ」
床から声を投げてくる高岡に、三村が素肌の上からインバネスコートを着込み、視線をやる。
高岡はいびつに腫れ上がった顔をこすり、立ち上がりながら言う。
「銀座の事件に関しちゃ、警察は俺達を追ってないです。社長の取り越し苦労ですよ。だから、今回騒動を起こした俺と元川さんが捕まりゃ、それで社長達がこれ以上警察に追われることはないはずです。
真山殺しも全部俺のせいで、社長は関係ねえって言いますから」
「高岡あ」
「俺、筋通してきます。後は隠れ家の写真を持って行ったやつを警戒して……とにかく、浮気妻の件からは手を引くことですよ。そうすりゃ社長達は自由だ」
高岡の言葉に、三村はインバネスコートの肩を震わせ、かばんから鹿撃ち帽を取り出す。
自分を強い意志をもって見つめてくる高岡を、三村は鹿撃ち帽をかぶりながら、大声で嘲笑した。
「今更何を男気見せてんだあ高岡ちゃんよぉ! 殴られすぎて頭イカレちまったのか!? ない知恵しぼって悲壮な解決案出してくれて悪ぃんだけどさ! そんなんじゃ全然ダメだね! 何の解決にもなってねえよ!」
「なっ、何でですか! 俺と元川さんが罪引き受けりゃ……」
「俺が何に怯えて銀座を去ったと思ってんだ!? 警察なんかじゃねえぞ! 俺の素性が世間に流れて注目されることを恐れたんだよ! 探偵三村じゃねえ、個人としての俺が事件関係者として掘り起こされると思ったから事務所を畳んだんだよ!」
その言葉に、高岡だけでなく美津も万佐も眉を寄せ、怪訝そうな顔をした。
三村はかばんから、仕込み杖を取り出しながら「冗談じゃねえぞ」とさらにつぶやく。
「俺が探偵をやってるのは、酔狂や道楽じゃないんだ。俺の素性……俺の過去を隠すためにやってることなんだ。高岡、知らないだろ? 俺の本当の名字は三村じゃない。三村義則は偽名なんだよ」
「そ、そうなんですか?」
「うん。本当は全然違う名前だ。俺はその名前を、世間に知られちゃいけないんだ。
俺は一身上の都合から、過去を捨てて、別人になる必要があった。最初は地方の田舎に隠れようと思ったが……人の少ない場所では、よそ者は逆に目立つと気づいた。村社会の絆は強固だからな、絶対に俺の素性を調べるヤツが出てくる。
隠れるなら人のいない山奥か、都会だ。でも俺は女がいないとダメな男だからさ、山奥はやめて都会にしたんだ」
空になったかばんを放り出し、三村が立ち上がる。
まるでホームズのような格好をした彼が、高岡を見下ろして訴えるように言った。
「でもさ、都会で過去を探られずに生きるのって難しいよな。どうしても掃き溜めみたいな場所に行くしかなくなる。それにどんなにおとなしく身を潜めていても、ひょんなことから素性を聞きたがるボケが寄ってくる。
俺は考えたんだよ高岡……どうしたら過去を切り離して生きられるかってさあ」
「そ、その答えが探偵だったんですか? なんで?」
「もちろん俺にその才能があったってのもあるけどさ、高岡、数ある職業の中で、探偵ほど管理のいいかげんなもんはないよ。はっきり言って全然ちゃんとした仕事じゃないから、誰が探偵を名乗っていても勝手なんだ。誰でもなれる、誰でもやれる。そのくせ、世間からの認知度は高い。
俺はさ、高岡……探偵の世界でそこそこ知られる男になれば、過去の自分を殺せると思ったんだよ」
高岡の髪をつかみ、三村が何度も揺さぶる。
苦しげな相手に、うわずった声が早口で続けた。
「探偵って人物像は強烈だよなあ。あの人探偵なんです、それも名探偵なんですよ、って言われりゃ、たいがいの人間は、あっ、そうなんですか! って納得するよな? 特に今の時代探偵はある層にとっては英雄視されてるからさあ、そういう連中にとって大事なのは探偵の探偵としての人格であって、その素性とかは興味もねえんだよ。
俺はさ、探偵三村の人格を作り上げて、探偵三村として帝都で生きることで、本来の自分から離れようとしたんだ。社会に確かに存在する別人として生活してれば、過去を追ってくるヤツも俺までたどり着けないと思った。だから土地建物やなんやらの契約をする時はいつもお前や元川にやらせてたろ?」
いつしかがくがくと強く高岡を揺さぶっていた三村が、相手を睨みながらひきつった顔で笑う。
「このやり方は大正解だった。俺は探偵三村として生きることができた。でもよ、探偵は儲からないよなあ。まっとうに探偵業をやってたらとても食っていけない。だから今みたいなあこぎな稼ぎ方を始めたんだ。金も必要だったし女も必要だったし、万一の時の逃走資金も欲しかった。
上手くやってたのに……あのカスのせいで、女房殺しのアホのせいで、全部台無しだ。殺人事件に深く関わった探偵! そんな触れ込みになりゃあ、記者どもは探偵としての俺じゃなく、俺の素性そのものを探りにくるぜ! それは困るんだよお!」
「いったい、何をしたんですか……社長」
わきから上がった美津の声に、三村は高岡を放して首を巡らせた。
目が合うと、美津は強張った笑みを浮かべる。
三村が、彼女に近づきながら、震えている万佐に声を放った。
「知ってるか? 万佐。俺が何をしたか、知ってるか?」
「知らないよ。俺は、その……社長のいとこだけど、社長が何で素性を隠してるのか知らないし、あくまで、協力者の立場だから」
「そうだよな。お前はろくでなしの遊女屋で、俺の商売を手伝ってるだけの男だ。俺の素性を一言でも他言すれば、どうなるかよく分かってる。だから、俺が何をしたかなんて、ばらす人間はいないんだ。一人たりとも」
三村が美津の頬をなで、それから、長く低くうめいて、万佐を見た。
一歩後ずさる彼に、三村は頬をかきむしりながら怒鳴る。
「畜生……! 何で上手くいかないんだ! せっかく素性を隠したのに、家族が一人残らず死んだのに、たまたま仕事で行った吉原でこんな野郎と出くわすなんて! この世でたった一人生き残った血族とばったりなんてあんまりだ!」
「し、しょうがないだろ社長。俺だって乱心したあんたの親父さんに親殺されてから苦労したんだよ……正月の寄り合いで集まった親戚全員銃殺して自殺なんて、ひでえ話だ。
風邪で寝込んでなかったら俺だって今頃…………でも、なんで社長の親父さんあんなことを」
「やかましい! お前が知る必要なんかねえ!! くそっ、くそっ! 髪型も体格も変えて、まぶたも鼻もちょんぎって形を変えたのに、何で俺だって分かったんだよ! 一目で看破しやがって!」
「だって声が」と言いかけた万佐の尻を、三村が蹴飛ばした。悶絶する彼の横で三村は地団太を踏む。
「家の金を持って、住んでた町を飛び出して、長い間かかって別人の人生を手に入れた俺を、お前はいっぺんに過去に引き戻しやがった! 頼んでもいねえのに警察にツテ作ろうとして真山を引き込みやがって! オマケに俺の親父の名前を出すなんて何考えてやがんだ万佐あ!!」
「だ、だって、だって社長の親父さんはお偉いさんだったから、真山も言うことを聞くかと」
「死人の威厳なんか役に立つかこの豚野郎! 真山を味方に引き入れて得られる利益なんかより、ヤツに正体を知られた痛手の方がはるかに大きかったぜ! 高岡! 真山を殺してくれてありがとうよ! 胸がすっとしたよ!!」
怒り狂いながら今度は礼を言う三村に、高岡は頭を押さえながら何とも返さなかった。
二人にしか分からない事情で話を進める三村と万佐。
美津もため息をついて、部屋を歩き出す。
テーブルの上に乗った物品を物色する彼女を、三村が杖で指しながら震える声を向ける。
「美津、お前にはいつか全部話してやる。ぼかした話し方じゃなく、俺の本当の人生を教えてやるよ」
「光栄ですわ、社長。とにかく話をうかがう限り、私達はもう東京にはいられないようですね。高岡には警察の足止めをしてもらうとして、私達は一刻も早くよそへ逃れないと」
「わ、私達って……まさか俺もその中に入って」
声を上げた万佐を、三村と美津が同時に睨んだ。
金と宝石のつまったかばんを抱いて震える彼を放置して、三村が高岡の腕をつかみ、立たせる。
「ってことだからさ、高岡、あとはお前と元川でよろしくやってくれ。俺はもう三村の人格も捨てる。どこか外国にでも身を隠すよ」
「社長……教えてくださいよ。社長が本当に恐れてるものって、何なんです?」
「このままじゃ、死に切れませんよ」と続ける高岡に、三村は少し考えるように首を傾けてから、目をそらして言った。
「親父の遺産だよ」
「……社長の一族を、皆殺しにしたっていう?」
「親父はただ乱心したわけじゃねえ。目的があって自分の血を絶やそうとしたんだ。俺は……おふくろが便所の穴に放り込んでくれたから、殺されずに済んだ。でも親父は警察が駆けつけて死ぬ直前まで俺を捜していたよ。
親父がそこまでしなきゃいけなかった理由が、俺を追っているんだ。きっと、もう近くまで来ている」
自分の髪を握り締めて恐怖を顔に浮かべる三村が、まだ何か訊きたそうな高岡の尻を叩いた。
「高岡、お前は莫迦だけど、けっこう根性がある。糞みてえに貧乏な家に生まれたのに自力で金を貯めて、大学まで行ったのは尊敬してたんだぜ。莫迦すぎて落第したけどな」
「莫迦じゃねえですよ、俺は……」
「けっこう、可愛がってやったろ? 浮気妻は気に入らねえって言うから、女を抱かない分よけいにこづかいやったりしてたよな。贅沢できたろ? だからさ、最後まで俺のために働いてくれるよな」
三村が、インバネスコートのポケットを探り、小さな木箱を差し出した。
高岡がそれを受け取り、ふたを開けると、拳銃が入っている。
三村が自分を見つめる高岡に、慣れない手つきで敬礼した。
「最も俺のためになる形を選んで、それを使ってくれ。デカを殺したお前は元川より重罪だ、獄から出る見込みもねえ」
「社長」
「殴って悪かったな。莫迦でもカッコいいぜ、高岡」
にやりと笑う三村に、高岡が引きつった笑顔を返す。
おもむろに、拳銃が三村の方を向いた。
笑顔のままの三村が、首を傾げる。
発射された銃弾が、その耳元を通り過ぎていった。
床を転がる三村と、とっさに身を伏せる美津と万佐。高岡が木箱を投げ捨てながら、身を震わせて叫んだ。
「莫迦はてめえだ糞野郎! そんな態度で、言葉で死ねるか! 何だよ! 人がせっかく義理通そうとしてやってんのによ!!」
「だっ! 高岡やめろ! 耳! 耳が痛い!」
「意味が分からねえ! あんたのことは何一つ分からなかったよ! てめえの事情はてめえで決着つけな!!」
高岡は走り出し、床で震えている万佐のかばんに手を伸ばす。
抵抗しようとする万佐を打ちすえると、かばんの中から紙袋を一つつかみ出した。紙袋から、トパーズが一つこぼれた。
高岡はそのまま部屋を走り、扉を蹴り開けて出て行く。耳を押さえる三村が、床を転がりながらその背中を見送り、うめいた。
「ちくしょうなんてこった、野郎……話の語り損じゃねえか」
「なんで銃なんか渡したんだよ! あの話の流れで銃!? やっぱりあんたどっかおかしいぞ!」
殴られたあごをなでて叫ぶ万佐に、美津が頭をかきながら立ち上がる。
おもむろにわきのテーブルを見ると、そこに突き刺さっているナイフを手に取り、引き抜いた。
とっさに彼女に「やめとけ」と言った三村が、杖を片手に、耳に溜まった水を抜く時のように片足で床を跳ねながら、息をつく。
「もういい、今日は何もかも上手くいかねえ。トパーズ一袋ぐらい餞別にくれてやるさ。いいから早く出かける支度しな、子猫ちゃん」
「……五分で済みます」
「下着とかはいらないよ。逃げた先で買ってやる。一緒に選ぼうぜ」
引きつったような笑い声を上げる三村に、美津も万佐も、目を合わせずにそっぽを向いた。




