無名探偵(棚主) 四
南の方の、有戸ホテル。
田所達が火の見やぐらで聞いた元川の証言だ。
路上に出た東城は、その証言を小さく繰り返しながら、無数の灯が揺れる夜道を足早に歩き出す。
昼間の騒ぎのせいで仕事の開始を大幅に遅らされた点灯夫達が、長い竿の先にともした種火でせっせとガス灯に火を分けていた。
彼らのわきを無遠慮に通り過ぎて行く東城を、田所と美耶子が急いで追いかける。
田所は闇を見据えて突き進む東城に、新聞紙の塊を小脇に抱えながら問いかけた。
「このままがむしゃらに南を目指すのか? 点灯夫達に有戸ホテルまでの道を聞いた方が良くないか」
「この町を目立たず、しかも迅速に出る必要がある。町の者に声をかけてこれ以上我々の印象を記憶に残すのは下策だ。我々三人がいかにおかしな風体をしているか考えたことはあるか」
「いや、それは……一応おかしな格好だと自覚してたんだな、あんたも」
「走らず、止まらず、町を出る。昼間の事件との関わりを警察に知られるなどまっぴらだ。そして町の外で、自働電話(公衆電話)を探すのだ」
自働電話? そう聞き返そうとする田所を置き去りにして、東城は更に歩くペースを速める。
走らず、あくまで素早く歩くという制約の下では、東城は驚くほどの俊足ぶりを発揮した。まるで気短な性格をそのまま足に反映させたかのように、闇の中をさっさかさっさかと突き進む。
小さく「油虫(ゴキブリ)」とささやいた美耶子に、田所は思わず吹き出した。
……笑っている場合ではない。
闇にまぎれる寸前まで距離を引き離した東城を、二人は結局歩きでは追い切れず、駆け出した。
町を出て、ひたすら道を南に進んでいると、やがて鉄道の線路が見えて来た。「しめた」とつぶやいた東城と共に線路に沿って行くと、ややあって前方に小さな駅が見えてくる。
駅に人気はほとんどなく、プラット・ホームの柱にかけられたランタンがいくつか揺れている以外は灯りもなかった。
幸い空を見上げれば、雲に隠れていた月が顔を出し始めていた。
東城は月明かりに浮かび上がった木製の自働電話のボックスを見つけると、一目散に駆け込む。
「よしよし、やはり駅には一つぐらいあるものだな。なければ駅員用の電話を借りるつもりだったが……肉袋君、電話代だ! 早くよこしたまえ!」
「まだ着いてないよ」
ボックスの壁に手をついて肩で息をする田所の台詞に、東城は目を剥いて背後を振り返る。
美耶子は五十歩ほど離れた路上で右膝に両手をついて立ち止まっていて、荒く息をしながら迎えに来て欲しそうな目で東城を見ていた。
東城は電話機から手を離して頭をかきむしり、うさぎの様にボックスを飛び出して駆けて行く。
やがて美耶子を抱き上げて戻って来る彼の体力に、田所は呆れ果てて地面に腰を下ろした。
「結局迎えに戻るのなら、初めからゆっくり歩いてやればいいものを……」
「このナメクジ女め! ふ、ふざけるんじゃない……! 電話代だ!」
さすがにぜいぜいと息を乱している東城に、美耶子は地面に立ちながら笑顔でスカートに手を入れ、太ももに巻いたバンドつきの財布から硬貨を取り出し、手渡す。
東城自身は財布を持ち歩かないのだろうか。そう首を傾げる田所の前で、東城は再びボックスに入り電話をかけ始めた。
ボックスの板壁は老朽化して、一部が破損している。田所はその穴越しに、東城に問いかけた。
「どこにかけるんだ」
「例の役所関係の友人だ。有戸ホテルの住所と、所有者の情報などを聞き出す」
「ずっと気になってたんだが……その友人とやらは、どこの役所の何という役職に就いてるんだい?」
「帝都の人間の戸籍等を管理する部署だ。それ以上は秘密だ。しばらく話しかけるな」
押し殺した声で交換手に電話番号を告げ始める東城に、田所は肩をすくめて足を伸ばした。
探偵にとって業務上の協力者は財産も同然であるから、多くを語りたくないのも当然かもしれない。
だが美耶子とともに地面に座っていると、電話ボックスからは東城の、明らかな脅迫の色を帯びた物騒な言葉が這い出てきた。
「いいから……有戸ホテル……時間? ……関係……さっさと…………立場を……歯向かう気…………身の程……」
田所と美耶子が、顔を見合わせる。
「有戸ホテル……住所……持ち主…………貴様! ……妻……留守の間に……異人の娘……こづかい……おねだり……使い込み……汚職……着服……国民の税金…………逆らえば暴露…………よし…………急げ……十分以内……」
ボックスの穴から、東城の手がニュッと伸びてきた。美耶子がその手に、追加の電話料金を握らせる。
東城はそれから何度か電話を切ったりかけ直したりして、約三十分後にボックスから出て来た。
田所と美耶子に立ち上がるよう命じると、また先に立って歩き始める。今度はゆっくりとした、常識的な歩調だ。
「有戸ホテルはここからさらに南に十分、線路沿いに歩いて行けば見えるそうだ。線路が絡み合う中に突然建っているからすぐ分かると」
「そうか。ホテルの所有者に関しては?」
「少なくとも三村の名前にはなっていない。小寺美津という女の名前が関係書類に書いてあるそうだ。元川が言っていた三村の愛人とやらかな」
東城は話しながら、線路わきに生えていた冬草をむしり取り、意味もなくひゅんひゅんと振り始めた。
美耶子が同じように歩きながらに冬草をむしろうとして失敗しながら、「それで」と東城に首を傾ける。
「有戸ホテルに着いたとして、どうやって三村達をとっちめるんです? 先生の計画をお聞かせください」
「うむ、肉袋君、そもそも今回の我々の目的は何だったかな」
「三村探偵社をとっちめることです」
「落第。田所君」
冬草で自分を指してくる東城に、田所は片眉を上げて答える。
「三村探偵社と因縁のあるあんた達が、今後三村探偵社におびやかされることのないよう、ある程度はっきりとした形で事態に決着をつけることだ」
「うむ、そのとおりだ。では事態に決着をつけるとは具体的にはどういうことか。道は色々あるが、一番手っ取り早いのは三村達に長期間獄に入ってもらうか、あるいは死んでもらうことだ」
東城の言葉に、田所は眉根を寄せ、美耶子は口に手を当ててほくそ笑んだ。
東城は冬草を捨てながら、さらに続ける。
「三村探偵社は既に数え切れないほどの罪を犯し、たくさんの人を泣かせてきている。私は連中の隠れ家を突き止めた上で連中を探偵し、過去の犯罪を言い逃れのできない形で世間にさらすことで、獄につなぐことを考えていたが……それにはどうしても時間が必要だった。入念に準備をし、方法を選ばねば、さらなる被害が広がる恐れがあった」
「浮気妻達の浮気が世間にばれる、ってことですね、先生」
美耶子にうなずきながら、東城は「しかし」と息を吐く。
「今日、ハットの男が現れたことで事態は急変した。彼が元川を襲撃したことで、危機を察知した三村達が有戸ホテルから逃走する可能性が出てきた。いや、そもそもハットの男も有戸ホテルに向かっている……彼が三村達をどうするつもりか知らないが、おそらく明日の朝には、我々が三村達に手出しをする余地はなくなっているだろう」
「三村達が逃げおおせるか、叩き潰されるかってことですね」
「いずれにせよ、見ず知らずの彼一人に結末を左右させるわけにはいかない。元川が発砲事件を起こしたおかげで、他の三村探偵社の人間にも警察の捜査の手が伸びるだろう。とにかく、時間がないのだ。有戸ホテルに着き次第、中を探索する。やつらを倒す方法は現場についてから考える」
話の途中から早足になっていた東城が、月光に照らされた道をずんずん進んで行く。
少し間を開けて、美耶子が「あれ……つまり、無計画?」とつぶやくと、田所は頭をかきながら彼女に言った。
「現場には何人いるか分からない。我々から離れるなよ、美耶子さん」
「ありがとう田所さん。でもその台詞、先生から聞きたかったなあ……」
さっさかさっさかと自分達を取り残して行く東城に嘆息しながら、二人はまたもや彼を追って駆け出した。
広大な闇の中に、足音が響く。
携帯電灯の光を振り回しながら、上半身裸になった高岡が、寒さに身を震わせ歩いていた。
返り血を浴びた上着は、全て丸めて左手に抱えている。
煉瓦の壁に寄りそうように歩いていると、不意に電車の走行音が近づいて来て、壁の向こうを通り過ぎた。壁がわずかに振動し、天井からほこりが落ちてくる。
高岡は浅く息をしながら、煉瓦の壁を蹴りつけた。「うるせえんだよ!」と叫ぶと、そのまま闇の中を走り出す。
木板の床を鳴らし、横倒しになった看板やビール瓶を飛び越えると、携帯電灯の放つ光の輪が落ち着きなく壁や床を動き回る。
やがて階段にたどり着くと高岡は一気に駆け上がり、その先の廊下を走り抜け、目的の扉へと到達した。
黒く塗り上げられた扉を三回ノックして、携帯電灯を丸めた上着の中にしまいながら名乗りを上げる。
ややあって、鍵の開く音と共に、光が闇を切り裂いた。
扉を開けたのは肩の上に髪を垂らした若い女で、漢民族の着る民族衣装をまとっている。
彼女は高岡を見るや、自分の形の良い鼻をつまんで顔をしかめた。
「何て臭いだ……吐き気がする。風呂に入ってないのか?」
「社長に報告がある。入れろよ」
「出直せ、ここは私と社長の家だ。野良犬は入れない」
閉まりかけた扉に、高岡は無理やり体を押し込み、女を突き飛ばした。「ごちゃごちゃぬかすんじゃねえよ!」と怒鳴る高岡を、女は壁によりかかりながら睨む。
小莫迦にするように鼻を鳴らす女を無視して、高岡は大きなシャンデリアに照らされた室内へ踏み込んだ。
闇を通り抜けてたどり着いたその部屋は別世界のように明るく、広大だった。
壁から壁までゆうに百歩以上はある空間は上等の木材を使った床と石壁で囲まれており、無数の寝台や衣装棚、蓄音機や食料、酒が載ったテーブルが、無造作に置かれている。
高岡はいくつもの寝台とテーブルのわきを通り過ぎ、部屋の中央に置かれた最も巨大な寝台のもとへと歩いた。
寝台の前にたどり着くと、高岡は抱えていた血まみれの上着を床の上に放り出す。
すると寝台の下で、ごそりと何かがうごめく音が響いた。
床に頬をつけた誰かが、寝台の陰から上着を見ている。
「元川さんが襲われましたよ」
高岡が報告した瞬間、寝台の下からまるで鳥の鳴き声のような悲鳴が上がり、ごつん、がつんと頭をぶつける音が響く。
そして、寝台の下から長く尾を引く叫び声とともに、骨のように痩せた男が這い出してきた。
よく手入れされた黒く長い髪は、足首のあたりまで伸びている。乱れたワイシャツとズボンという格好の男の爪は長く伸びていて、床を這うとカリカリと音を立てた。
男は高岡の足元に這いつくばると、そっと顔を上げる。年齢的にはまだ中年の範疇のはずの男は、髭の伸びた顔面にいくつものしわを刻み、まるで老人のような形相をさらしていた。
「言っただろう、高岡、だから言っただろう……」
恐怖に染まった声でつぶやくと、男はその姿勢のまま「美津ぅ!」と叫んだ。
いつの間にか高岡の背後にいた女が、高岡の顔を押しのけて男に屈み込む。「よしよし」と言いながら腕を広げる女の胸に飛び込みながら、男は高岡を睨み、口を開く。
「高岡、元川は死んだのか。殺されたのか」
「いえ、それが」
「分かっていたんだ。俺には分かっていたんだよ、高岡。やり過ぎた……やり過ぎた」
男は声を潜めて繰り返し、女の胸に顔をうずめ、その体を抱きしめる。
両腕を腋の下に通し、両足をウェストにかけ、全身全霊をもって締め上げてくる男に、女は苦悶の声を上げながらも抱擁を返している。
高岡はそんな二人に苛立ちを隠しもせず、顔に手を当てて怒鳴った。
「落ち着いてください! 三村社長!!」
その怒声にびくりと全身を震わせると、女に抱きついたまま、三村がそっと高岡に視線をやる。
落ちくぼんだ目の奥には、まるで穴のような、黒々とした闇がこもっていた。
「落ち着いてるよ、高岡。俺は、いつも――――シャーロック・ホームズのように、冷静だよ」




