無名探偵(棚主) 三
練兵場のすぐそばにある空き家を、警官達が封鎖していた。
軍の演習が終わった今、陽は落ちかけ、周囲には草をなでる風の音と、人の話し声しかしない。
洋風建築の玄関わきで刑事達に取り囲まれている半裸の女が、しきりに「家に帰して」とわめいていた。
「帰りたい! 東京はもう嫌! 二度と来たくない! お願いだからもう解放して!」
「何をぬかすこの女! 自分で警察を呼んでおいて勝手なことを!」
「私じゃないわ、逃げ込んだそこの家の人が通報してくれたのよ。でも私はもう帰りたいの、犯人なんかどうでもいい、帰って家族に会いたい……」
しまいには泣き始める女に、刑事達が同情を示すことはなかった。
坊主頭の刑事が背広の襟をしきりにいじりながら、構わずに言葉を投げつける。
「いいか、これは婦女誘拐および監禁、暴行という三つの犯罪が合わさった凶悪事件なんだ。
空き家のはずの家から裸同然の女が飛び出して来て、保護を求めてきた。そういう内容の電話がかかってきたから、こうして何人もの警察官が出動して来ているんだぞ。男に無理やり乱暴されたんだろ?」
「男達よ、そう何度も言ったわ」
「男前に声をかけられて、喜んでついて行ったらいきなり脱がされて抱かれたと。他にネズミみたいな顔をした大男もいて、彼にも抱かれたと。他にも縛られたり殴る蹴るの暴行を受けたりもしたと。それが何日も続いたと」
「そう話したわ、何度も何度もね」
「気持ち良かった?」
女は一瞬質問の意味が理解できなかったようで、ぽかんと口を開けて坊主頭の刑事を見上げた。
他の刑事達はにやりと笑う者もいれば、咳払いをして目をそらす者もいる。
坊主頭の刑事は腕を組み、無表情に続けた。
「男前が好きなんだろ? 抱かれて嬉しかった? ネズミの方だって、毎日抱かれていれば愛着もわいたんじゃないか? 縛られるのはどうだった? 身動きできない状態で好き勝手になぶられていると興奮しなかった?
女はいつも男に支配されたがっているからな。そういう体の作りになっているんだ。だから『嫌よ嫌よも好きの内』なんて言葉があるんだ」
「……さ……最低……!」
「本当は自分を乱暴した男達が愛しいんだろ。股を開いてる内に好きになっちまったんだ。だからヤツらの逮捕に協力しないんだ。とんだ淫乱娘だな」
顔を真っ赤にして手を振り上げた女に、坊主頭の刑事が先に平手を食らわせた。
地面に倒れる女を見て、他の刑事の一人が「よせよ」と声を上げる。
坊主頭の刑事は手をこすり合わせながら、そんな声を無視して女にしゃがみ込み、低い声で言った。
「警察が犯罪被害者に優しいと思うなよ。俺達は加害者の逮捕に興味があるだけで、お前らの以降の人生の幸福なんざどうでもいいんだ」
「……」
「お前を監禁していた二人組のこと、残らず話せ。覚えていることも覚えてないことも全部だ。脳味噌をひっくり返して思い出すんだ。辛いことだろうが恥ずかしいことだろうが一切隠すんじゃない。
いいか……これ以上手間取らせやがるとてめえの親にじかに会って、あらいざらいぶちまけてやるぞ。おたくの娘さんは東京で行きずりの男達に股広げて、メス犬みたいに毎日腰振ってましたってな。
勘当されて、帰る家なんかなくなるぞ!」
女をどやしつけるように脅す坊主頭の刑事。
泣き出す女に、先ほど制止の声を上げた刑事が肩をすくめて踵を返した。
「なんて酷い男だ。つき合ってられないね」
「何だと」
「分からないのか? その娘は何日も監禁されて体も心もぼろぼろにされてるんだぞ。そんな状況で力づくで脅かして、冷静に話ができると思うか。
きっとお前に殴られたくない一心で、お前が喜ぶような事実だけを選んで話すだろう。いや、きっと作り話をしてでも、解放されようとするはずだ」
坊主頭の刑事は女を一度睨んでから、他の刑事達と顔を見合わせた。
踵を返した刑事は女を指さし、断固とした口調で言った。
「彼女に必要なのは時間だ。ゆっくり休まない限り恐怖と興奮はさめない。幸い、二人の加害者の内ネズミのような大男の方は町中で発砲事件を起こし、確保されている。捜査はこちらから進めるべきだ」
「ネズミ野郎は口の中がズタズタになっていて喋れないという話だったろ。もう一人の方が口を封じた可能性もある……この女は傷心だろうが何だろうが、話すことができるんだ」
「じゃあ好きにしろよ。俺達が犯人を追ってる間、家出娘をねちねちいじめて遊んでろ。どっちが正しいかは事件解決後に署長が決めてくれるだろうさ」
俺達。背中を向けて空き家から遠ざかって行く彼の言葉に、坊主頭以外の刑事達が視線を交錯させた。
やがて刑事達の何人かが、思い思いの表情で空き家を後にし、あるいは空き家の中を改めて捜索し始めた。
坊主頭の刑事はこめかみに青筋を浮かべ、そんな同僚達を睨みつける。
やがて頭をかきむしると、彼はそばにいた制服警官に「この売女を署に連れてけ! 飯でも食わせてろ!」と、口汚く命じた。
坊主頭の刑事を言い負かした男は、青黒い闇が降り始めた草原を一人で歩く。
元川が確保された町とは反対の方角へ進み、やがて草の途切れる土の道へと下りた。
背広のポケットから煙草とマッチを取り出すと、煙草を指にはさんだまま、マッチをこする。
闇の中に一点の光が生まれ、それがマッチ棒から煙草へと移る。
男はマッチ棒を捨て、煙草を顔の前に近づけて、息を吹きつけた。
口をつけることなく、何度も煙草を吹き、火を踊らせる。
闇の中で、誰かが草を踏む気配があった。
「……この合図は嫌いだ。煙草を吸わない者にとっては、苦痛でしかない」
「写真」
道から外れた草の上、男のやや後方を、三村探偵社の社員である高岡が歩いていた。
男は火のついた煙草を投げ捨て、「なかった」と低く告げる。
「空き家の寝台の裏に隠してあると聞いていたが、俺が調べた時には何もなかったよ。他の刑事達が発見した様子もない……元川が持って逃げたんじゃないのか」
「何で元川さんがそんなことしなきゃならねんだよ。って言うか、なんで元川さん、裸で飛び出して大怪我してぶっ倒れてたんだろ? ハジキぶっ放したってのも分かんね。相手は誰だよ」
「元川を誰かが襲撃した。あるいは、阿片でもやってたかだな」
男はごく真面目に可能性を口にしただけだったのだが、高岡は草の上を走って来て、男の耳元でぎゃんぎゃんと高い声を出した。
「舐めたこと言ってんじゃねえぞ真山ぁ! 糞デカが! 元川さんは女にクスリ盛ることはあっても自分が飲むなんてこたあ絶対しないんだ! あれですごく健康に気を使う人なんだよ!」
「人のかみさんを手当たり次第につまみ食いする男が、健康的とはね」
男、真山は、なおも耳障りな声を発そうとする高岡の胸ぐらをつかみ、顔を覗き込んだ。
威圧的に、ゆっくりと首を上下させて男前の顔面を睨みつけ、息を吹きかける。
「高岡、お前こそ舐めてるんじゃないぞ。俺はお前らの部下でも仲間でもないんだからな。お前らの親分に泣きつかれて、ちょっと警察の情報を流したり、手助けしてやってるだけだ」
「笑わせんなよ! 探偵に機密を売って小遣い稼いでる悪徳刑事じゃねえか!」
「他にもお前らのケツを拭いたり、罪を見逃したりもしてきた。築地署勤務の時はずいぶん懐をあっためてもらったもんだ……三村がこの辺りを隠れ家に選んだのも、おそらく警察の動きを即座に報せてくれる知人のそばにいたかったからだろう。
だが、それももう限界だ」
真山は高岡を突き飛ばすように解放し、踵を返す。
「お前らが凶悪犯罪者として追われる身になった以上、もう俺の力じゃどうしようもない。今まで何人の人間を脅迫して、どれほどの金をぶん取ってきた?
一度法の裁きを受ける身になれば、お前らに恨みのある連中がこぞって叩きに来るぞ」
「……莫迦言ってんじゃねえよ……そんなことになるわけ……」
「最後の餞別に、お前らがあの空き家で監禁していた娘の口が開くのを遅らせておいた。ただ、これ以上仲間の刑事の足を引っ張るのは不可能だ。いずれお前や元川の素性も割れるだろう」
「なあ、真山、助けてくれよ! 金も女も社長が用意してくれるからさあ!」
「三村には健闘を祈ると伝えてくれ。あるいはヤツの親父のように、男らしく」
真山が空を見上げ、息を吐いた。天上には早くも星がきらめいており、その輝きがぼやけ、いくつにも分散する。
高岡の生暖かい吐息が、首筋をなでた。
彼が腎臓のあたりに突き立てた包丁が、背後でごりごりと音を立てる。
口からあふれる血液が首を伝い、高岡が包丁を抜きさしするたびに空中に飛び散った。
真山が声もなく地面に倒れると、高岡は低い声で真山の名を繰り返す。
「真山、真山、クソ役に立たない莫迦野郎。こいつは元川さんから頼まれた包丁だ。真山、真山、まだ生きてっか?」
血の泡を吐く真山を、高岡が道の外に引きずって行く。
真山の顔をなでる草の丈がじょじょに高くなり、やがて体を完全に覆いつくすほどの草むらに引きずりこまれる。
枯れ草色の視界の中、高岡が包丁を振りかざした。
「俺は社長とは違う。人殺しなんかちっとも怖くない。舐めやがって、真山、真山……俺達を舐めやがって! てめえだけ逃げおおせるなんて許さねえ!」
真山の名を高く長く叫び、高岡が包丁を、真山の喉へと突き立てた。
午後七時。
田所は病院の窓の外を行きかう警官がいなくなったのを確認し、椅子から立ち上がった。
室内には寝台に座って茶を飲むミワさんと、彼の傷を処置した若い開業医がいる。
東城と美耶子は別室で、有戸ホテルへ向かうための準備を整えていた。
田所達は元川を拉致したハットの男を追う際、負傷したミワさんを、町中の病院へ放り込んでおいた。
その後ハットの男に追いつき、三村探偵社の潜伏先の情報を得たは良いが、そこからミワさんを迎えに行くために再び町の方へ引き返さねばならなかったのだ。
発砲事件の現場にはすでに警官が駆けつけており、ミワさんと合流した時にはもう表の道は封鎖されていた。
住民は家に鍵をかけ、誰が来ても戸を開けるな。窓の近くには立つな。そう注意を呼びかける警官達が火の見やぐらの元川を発見、確保し、安全宣言をするまで、田所達は病院から出ることができなかったのだ。
警官達が元川を確保した時点で引き上げてくれたのは幸いだった。
元川の体の状態から、警察は元川と戦ったハットの男や、田所達の存在に気づくだろう。特に切断された指の傷が刀傷であることは、見る者が見ればすぐに分かることだ。
ハットの男の方は状況からして、上手くいけば暴漢に立ち向かった善意の第三者と判断される可能性もある。
だが田所の場合そうはいかない。まず廃刀令違反をとがめられ、元川同様危険人物として確保される可能性が高い。
幸い、刀を振るったところを見られたのはハットの男や東城達、ミワさんを除けば、元川に拳銃を提供した元軍人達と、元川の攻撃を受けた男女だけだ。
今すぐ町を出れば、警察が田所に狙いをつけることも困難になるはずだ。
さらに、警察は元川が使った外国製の拳銃の出所も探ろうとするだろう。
これに関しては居合わせた目撃者達が、拳銃の元の持ち主である、元軍人達のことを警察に話す。彼らがこの辺りに住んでいるのなら、すぐに住所を特定され、嫌というほどしぼられるだろう。
警察がすべき仕事は無数にある。彼らも同時に全ての捜査を進行させることはできないはずだ。
田所は机に向かって書類仕事をしている医師に近寄り、頭を下げた。
「先生、警察はもう引き上げたようだから、我々もそろそろおいとまします」
「そうですか。まあ、この程度の傷ならそうそう悪化することもないでしょう。石くれが刺さっただけですからね」
この医師はミワさんの傷を見ても、被弾したのだとは気づかなかった。
そもそもが遠距離からの流れ弾で、銃弾自体が空中で四散してしまったのだから、勘違いしても無理はない。
肉に埋まった銃弾のかけらも、既に東城が取り除いていた。
田所は医師に礼を言い、ミワさんの肩を叩く。
「痛い出費だったな。だが大事に至らなくて何よりだ。銀座まで送ってくよ」
「やっぱり銀座に追い返す気か。こんなけが、屁でもねぇのに」
湯飲みを置いて腕を振り回したミワさんが、とたんに低くうめいて傷をかばう。
田所は眉を寄せて「無茶をするな」とその背をさすった。
「元々あんたには関わりのないことだ。顛末は教えてやるから、今回はおとなしく帰れ」
「そんなら送らなくて良いから、このまま有戸ホテルに向かえよ。あのハットの男に先を越されたら三村をぶっ殺されちまうかもしれねえぞ。……依頼主のあの子には、連絡したの?」
「ああ、さっき彼女の勤め先に電話してつないでもらった」
「あんたの仕事って、三村探偵社の足取りを追うこと、って言ってたよな。でもこのままじゃ居所を突き止めても、彼女にゃ何をするヒマもねえぞ。何て言ってたんだい」
田所は、机に向かった医師が聞き耳を立てている気配がないことを確認してから、声を落として答える。
「連中の隠れ家が分かったと言ったら、聞きたくないと言われたよ」
「どういう意味だ、そりゃ?」
「俺と彼女の契約は、俺が三村探偵社の連中の所在を教えた時点で消滅するからだ。元々そういう依頼だった……困った子だよ。駄々をこねているんだ。俺に、何とか自分の望みを叶えて欲しいんだろう」
「やっぱりさ、あんたが最初に会った時に言ってた『三村探偵社に泣かされている女の子』って、彼女のことなのかい。
はっきり依頼主のことだとは言わなかったがよ。家族が間接的に殺されたから、あの子は三村探偵社に報いを受けさせたいんだろ」
田所が黙っていると、ミワさんは顔を寄せて真剣な表情で続けた。
「正直に言えよ。斬るつもりなのか」
「……思案中だ。俺は三村の顔も知らないんだ。だが、東城達はこのまま彼の隠れ家まで踏み込む気でいる。
俺は……とりあえず、彼らを守るよ。もはや探偵としての領分を越えた仕事だがな」
「そうか。そんなら忠告してやるよ。いいか、じい様……あの東城蕎麦太郎と牛袋美耶子、信用するんじゃねえぞ」
田所は目を見開いてミワさんを見た。
ミワさんはそっと東城達のいる部屋に壁越しに視線を向け、低く告げる。
「今朝から言おう言おうと思ってたんだが、じい様と二人になる機会がなかったんだ。実は昨日、社に戻ってから俺なりにあいつらのことを調べてたんだが……まず東城の方は、ありゃ、偽名を使ってるかもしれねえ」
「偽名だと?」
「あいつ、吉原に店を建てて女を囲うぐらい金を溜めたって言ってたのに、あまり有名じゃないんだ。
確かにホームズ並の名探偵、赤目探偵なんてもてはやす連中はいるが、それでも帝都全体での知名度は同業者と比べて、中くらいってとこだ。莫大な財産を築けるかどうかは怪しい。そこで探偵研究で有名な帝国大学の先生に話を聞いたんだけど」
どこかで聞いた触れ込みだった。
直子の勤めているアイスクリームパーラーの店主が、同じ肩書きの人物の話をしていた気がする。
ミワさんは懐を探ると、一冊の手帳を取り出して田所の前に差し出した。
手帳にはページごとに人物の似顔絵が描かれており、そのわきに名前や住所などが記載されている。
「その先生から研究資料を借りて来た。帝都に事務所を開いている探偵の情報がびっしりだ。これは学生に作らせた写本らしいけど……このページを見てくれ。この似顔絵、誰に似てると思う?」
ミワさんが指さす絵は、長髪の、しゅっと引き締まった顔立ちの男を描いたものだった。
目は刃のように鋭い三白眼で、田所をまっすぐに睨んでいる。
「……確かに特徴は東城に似ているが……似顔絵では……」
「わきの記述を見てくれ。『西角徳次郎』『浅草、十二階の下に平屋の探偵事務所を営む』『ホームズのような名推理を面接の時点で披露し、依頼人の職業、性癖などを言い当てる』」
「……」
「『気が短く神経質、口やかましく、ずけずけとものを言う』『自分の名をことあるごとに連呼し、依頼主に自分の名を覚えさせようとする』『香水を好み、事務所の棚には二十を越える種類の瓶を常備している』
……どう考えても東城だよ、こいつ。しかも最後にはこうつけ加えられてる。
『去年の冬、突然失踪する。帝都で五本の指に入る名探偵の行方を、目下全力で追っている』」
東城が探偵業を営むにあたり、複数の人間を同時に演じていたということだろうか。
吉原に耳かき店を構え、美耶子を囲うために、有名になりすぎた西角徳次郎の人物像を使い捨てたとも考えられる。
田所は手帳をしばらく見つめてから、ミワさんを睨め上げた。
「仮にこの西角徳次郎が東城だとしても、こういう活動の仕方も探偵業ならばアリだ。危険と隣り合わせの探偵が、もしもの時のために別人になる手段を用意していてもおかしくはない。
東城が偽名を使っていても、彼を信用しない理由にはならんよ」
「じゃあヤツの相棒の牛袋美耶子はどうだ。吉原の身請け済みの遊女の情報なんかそうそう出てこねえだろうと思ったら、あの女、とんだ有名人だったんだぜ」
不意に机に向かっていた医師が書類を手に立ち上がった。
思わずそちらを見、会話を中断する田所達の前で、医師は扉を開け、部屋の外に出て行く。
扉が閉まるのを待ってから、田所が再びミワさんに顔を向ける。
「有名とは? 名のある遊女だったのか?」
「違うね。彼女は遊女としてより、むしろもっと凶悪な」
「美耶子は犯罪者だよ」
突然割って入って来た声に、ミワさんが寝台の上で身を跳ねさせた。
見れば閉まったはずの扉が音もなく開かれていて、東城が部屋の入り口に立っていた。
医師と入れ違いに、閉まる寸前の扉を押して入って来たらしい。
東城はゆっくりと、後ろ手に扉を閉めると、それぞれの表情で自分を見つめているミワさんと田所に近づいて来る。
「美耶子は殺人者だ。その事実は三年前の五月十二日の新聞の紙面を探せば容易に確認できる。
彼女はとある貧しい農家に産まれ、親を食わせるために無理やり吉原に売られて来た。だが処女を散らされるのが嫌で、客を取る前に足抜けを敢行したのだ。
約二時間吉原の中を逃げ回ったが、結局門を越えられずに店に連れ戻された」
東城の声に、怒りの色はない。
彼は医師が座っていた椅子に腰を下ろすと、昔話を聞かせるように遠い目をして言った。
「店の者達は美耶子を恩知らずの咎人だとなじり、拷問にかけた。剃刀を足の裏に当て、皮をはぐと、雨の降る道に放り出した。そしてこう言ったのだ。
『吉原の門前まで行って、門番に手間をかけさせたおわびをして来い。門番から許しを得たら店に戻って来て良い。おわびをせずに、許されたと嘘をついても、後で門番に確認を取るからすぐに分かるんだぞ』とな」
「……彼女はその通りにしたのか?」
小さく問うミワさんに、東城は薄く笑みを浮かべて答える。
「足が痛くて立つこともできなかった。彼女はそのまま何時間も雨にうたれて、一人転がっていた。足の裏にはびっしりとなめくじがたかり、肉を食んでいた。
……東城蕎麦太郎は、その時初めて彼女に会ったのだ。死んでいるのかと思って顔を覗き込むと、鬼のような形相を私に向けて来た。
憎悪一色に塗りつぶされた顔に、私はどうにも、親近感を覚えてね」
東城が赤い眼鏡を外し、田所達を見る。
三白眼が、まるで力を加えられた針金のように、いびつな線で弧を描いた。
「彼女にささやいたんだ。『ここで死ねば君をいじめたやつらは、一生罰も受けずに笑って暮らすぞ』『君の死体がなめくじに食われていくのを指さし笑って、やがて忘れるぞ』とね。元気づけたつもりだったが、いささか効果が出過ぎた。
彼女は苦労して立ち上がったかと思うと、そのまま弾けるように走り去った」
「その日、牛袋美耶子は自分の店の主人を殺害している。主人の頭を薪割用のナタで叩き割ったんだ。店の男達にも重軽傷を負わせている。
取り押さえられた後、店の者に私刑にかけられ殺されそうになったが……寸前で警察が踏み込んだと、記事にはあった」
ミワさんの言葉に、東城が笑顔で「私が呼んだのさ」と答える。
「美耶子の様子から、まずいことになると分かっていたからな。近くの派出所に駆け込んで、吉原の路上で女の皮をはいでる悪漢がいると叫んだ。
ついて来てくれた二人の警官は、悲鳴の上がる美耶子の店にまっすぐ踏み込んだというわけだ」
「新聞には牛袋美耶子の殺人、傷害行為が載ってはいたが、記事の論調自体は彼女に同情的だった」
「当然だよ。警察が踏み込んだ時、足の皮をはがされた美耶子は男達に抱え上げられ、はりに通した縄に首をかけられようとしていたんだ。
普段密室で人をいたぶっている連中は、ここぞという時にけだものの本性が出る。
そんな光景を目にした警官が思うことなど一つだろう。遊女をよってたかってなぶり殺そうとした男どもが、必死の抵抗をした遊女の反撃に遭い、死傷した。美耶子の罪は、正当な防衛の結果というわけだ。少なくとも心象的にはな」
「当時の廃娼運動の盛り上がりも追い風となり、牛袋美耶子は殺人犯にもかかわらず、異常に軽い罪で済んだ。ほとんど無罪も同然だ。
そして彼女は現在も、探偵東城蕎麦太郎と共に、吉原に住み続けている……」
ミワさんが頭をかき、東城から目をそらした。窓の外は既にまっくらで、人の影も見えない。
東城は笑みを消し、田所達にゆっくりと言葉を放る。
「私と美耶子は、真っ当な人間とは言いがたい。いや、はっきり言ってしまえば悪党の部類だ。だがそれを恥ずかしいとは思わないし、償う気もない。後ろ指を指されても、その指をへし折り胸を張るような生き方を望んでいる。
君らが我々を疑うのは当然の権利だが、我々がそれを意に介さないのもまた、我々の自由だ」
「無茶苦茶な言い分だな。だが、心配は無用だ。ミワさんはあんた達の良くない話を知ってしまって、大事を取ろうとしたに過ぎない。信用するなとは言ったが、手を切れとは言わなかった。そうだろ?」
田所の言葉を受けて、ミワさんはまた頭をぼりぼりとかきながらあいまいにうなずいた。
田所はミワさんの肩に手を置き、東城にやわらかい声で言う。
「俺も、堂々と人に誇れるような過去を歩んで来たわけじゃない。信用するさ。あんた達は銃口を向けられてる人の前に進んで立てるような人間だ。
あんたの言う通り、ここぞという時にこそ人の本性が出る。俺はそれを信じるよ」
「ならば無駄話をしていないでさっさと出かけるぞ。田所探偵は私達と一緒に有戸ホテルへ。ミワさんは人の過去を詮索した責任を取って一人で銀座へ帰れ。
それから、今日聞いたことを他人にもらしたら君の私生活を暴いて道に張り出すからな」
立ち上がりながら眼鏡を装着し、すたすたと部屋を出て行く東城。
ミワさんはあんぐりと口を開けて田所を見上げた。
「人の過去を詮索って、そういうのこそあいつの仕事じゃないかよ! やっぱり嫌いだあの赤眼鏡野郎!」
「……まあ、これであいこってところかな」
低く笑う田所が、ミワさんの肩を何度か叩いて歩き出す。
ふてくされるミワさんに、最後に笑顔のまま告げた。
「『真実』を土産に帰って来る。快気祝いになることを祈ってるよ」
「とびきり美味いのを頼むぜ、じい様」
フィンガーサインの銃で自分を撃つミワさんに片手を上げて、田所は部屋を出て行く。
玄関に向かうと、東城が扉を開けて外に出て行くところだった。
そしてその背後では、ばっちり化粧をした美耶子が、紅でなめくじ模様を書いた包帯を器用にバンダナの代わりに頭に巻き、田所に輝くような笑顔を放っていた。




