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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵3 ~探偵賛歌~
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無名探偵(棚主) 二

 今日の演習は、妙に長い。


 朝からずっと空砲の音や、兵隊の上げる波のような咆哮が空気を震わせている。


 それらの騒音が耳に入り込み、闇に沈んだ意識をさいなむ。


 うるさい。黙れ。


 つぶやいた瞬間、指とこめかみから、脳に向かって痛みが走って来た。

 耐え難い痛みだ。何故痛むのだ。何をされたのだ。


 記憶が次第に蘇ってくる。


 自分を執拗しつように追跡して来る悪鬼のような男と、日本刀を振りかざす老人の姿が、脳裏に浮かび上がった。


 斬り飛ばされる指。こめかみに叩きつけられる、刀の柄。


 意識を手放す寸前の光景を思い出した瞬間、体がふわりと浮く感覚があった。


 右の足首に、新しい痛みが走る。何が起こっている。今、自分はどうなっているのだ。


 闇の中から、気合を入れて意識を覚醒させる。かっと目を開くと、視界いっぱいに青空が広がっていた。


 耳に届くのは、立て続けに響く空砲の音。


 元川は一瞬状況が分からずに呆然としたが、痛む頭を振ると、視界の下の方に太陽が見えた。


 元川は、全裸のまま逆さ吊りにされていた。高い建物の屋根の裏側に、元川のズボンについていた留め穴が全部裂けた役立たずのベルトが引っ掛けてあり、その先端に右の足首がくくりつけられている。


 高さにして、三階。元川の頭のはるか下には、四方に長く伸びる一階の屋根が見える。


 つまりこのまま落下すれば、元川は二階分の高さから屋根に頭を打ちつけることになる。


「冗談だろ……」


「笑えるか?」


 背中の後ろから、声がした。


 間違いない。元川を追い掛け回した、ハットの男の声だ。


 元川は「助けてくれ!」と三度ほど叫んでみた。だがその声は空砲の音と、練兵場から上がる兵隊の声にまぎれてしまう。


 演習はクライマックスにさしかかっているらしい。視界の隅に見える練兵場では、アリの群のような兵隊達が駆け回り、ぎらぎらと鉄の武器の光がまたたいている。


 ごつり、ごつりと板を踏む足音が、元川のすぐ後ろまでやって来て、止まった。


 元川は両腕を回し、宙吊りのまま何かにつかまろうとする。


 切断された人さし指が、肩の後ろにあった木の手すりに触れた。

 何故か砂のこすれる、じゃりっという音がする。


「ここは昔の火の見やぐらだ。火事を発見した者が警鐘けいしょうを鳴らす、アレだよ。今は使われていないらしい。入り口が錆びた鎖で封鎖されていたからな」


 手すりを、必死に身をよじってつかまえる。背後の声はそんな元川に、淡々と声を投げる。


「新しいやぐらは町の中心にあるようだ。その方が合理的だろうな。こっちのやぐらは、町の最果てだ。これじゃあ警鐘を叩いても町中には届かない。お前が吊るされている側など、人っ子一人いないだろう?」


 手すりをつかむ元川の手を、革靴が踏みつけた。


 悲鳴を上げると、吊られていない方の足をつかまれ、体を反転させられる。


 木の手すりで囲まれた場所に、ハットの男が立っていた。彼は手すりの外側で風鈴か、てるてる坊主のように揺れる元川を眺め、薄く笑みを浮かべる。


 元川は足の先でぎしぎしと音を立てるベルトを見ながら、引きつった声で訊いた。


「何者だあんた!? ミヨに雇われたヤクザか何かか!? おっ……俺をどうする気だ!」


「飛んでみるか。鳥のように。それとも溶けたつらら・・・のように、落ちて砕けるか」


 ハットの男はそう言って、足首のベルトに手を伸ばす。元川は必死に「待ってくれ!」と叫び、手すりをつかもうとする。


「望みを言ってくれ! 俺にできることなら何でもする!」


「写真を出せ」


「写真!? ああ、ミヨの写真か! 何枚欲しい!?」


 ハットの男がベルトをつかみ、ゆさぶる。絶叫する元川が「分かった!」と切断された指で手すりをなでながら言った。


「全部渡す! 番頭との浮気の写真も、吉原で撮った写真も全部渡すから、殺さないでくれえッ!」


「何枚ある? どこにある? 嘘を感じれば今すぐ落とす。後で嘘が分かっても、今日のように殺しに戻って来るぞ」


「八枚だ! あ、あんたが踏み込んだ空き家に三枚、寝台の裏に隠してある。残りの五枚は社長が金庫に入れて持ってるよ! ミヨをゆするネタはそれで全部だ! 誓うよ!」


「貴様の誓いなど信用できるか」


 ハットの男が元川のあごをつかみ、獣のような形相を近づけた。

 殺気を隠しもしない声で、低く問う。


「社長はどこにいる。金庫というのは、どこにあるんだ」


「……み、南の方の、有戸ありとホテルってとこに泊まってる……社長の愛人がそこにいて……写真の類も、そいつの部屋の金庫に……」


「ホテルの女だと?」


「ほ、ホテルって言っても名前だけさ。今は営業してねえ。何年か前に依頼主からぶんどった建物で、むやみに広いだけのきたねえびるぢんぐだ。

 色んな店を入れて百貨店にするはずが、周りに鉄道の線路をめいっぱい敷かれちまって、客が来にくい環境になったそうでよ……結局商売にならねえってんで、捨てられたわけさ。

 社長達が泊まってる階以外は掃除もしてねえ、廃墟同然だよ……」


 ハットの男はしばらくじっと元川の顔を見つめた後、あごをつかむ手に力を込め、ぎりぎりと口を強引に押し開いた。


 うめく元川の前で、逆の手でポケットから、割れたぎやまんのかけらを取り出す。


 元川が逃走する際に何度も砕いていた窓の破片を、拾っていたらしい。


「いいか、ゲス野郎。貴様はどうせ警察の御用になるが、俺や脅迫していた女達のことを一言でも漏らしたら、今日のできごとをそっくり再現して、今度こそここから叩き落としてやる。監獄にいようと、何年経とうと、貴様が生きている限り絶対に追うのをやめないからな。

 二度と女達と、三村探偵社に近づくな」


 ハットの男はそう言って、ぎやまんの薄い板を元川の口に差し入れる。


 頬肉とはぐきの間にはさみ、口を押さえると、直後に顔面に拳を叩き込んだ。


 骨の軋みと共にぎやまんが砕け、元川の口から鮮血があふれ出る。




 口から赤く光るぎやまんを吐きながら再び意識を手放す元川が、ぶらぶらと振り子のように揺れる。


 彼を吊るしているベルトが軋み、一度ばちりと、皮の裂ける音がした。


 ハットの男は元川の首と背中を抱え込むと、気合と共に後方に体を倒し、ベルトを引きちぎる。


 二人の体は派手な音を立てて、手すりの内側に倒れ込んだ。


 ハットの男は元川の顔を横に向け、申し訳程度にぎやまんの破片を吐かせると、ズボンのすそをはらって立ち上がる。


「……」


 そして、ハットの男は無言で後方を振り返った。


 階下に続く階段のそばに立っている老人と、男と、女に、鋭い目を向ける。


 三人がいつからそこに立っていたのか、分からなかった。おそらく今は収まり始めている演習場からの騒音がピークに達していた時に、やぐらを上って来たのだろう。


 ハットの男は首をぼきりと鳴らしながら、問う。


「何故ここが分かった?」


「こちらの提案でな」


 老人はかたわらの、赤い眼鏡をかけた男を見る。


 ハットの男の視線を受けると、赤い眼鏡の男はわずかに視線を下げながら口を開いた。


「意識を失った成人男性を担いで移動できる距離は限られている。屋根の上をあれだけ走って来たのだから、乗り物を用意しているとも思えなかった。

 仲間がいれば別だが……とにかく、君が一人かつ徒歩で元川を拉致して逃げていると仮定して、道に落ちていた血痕をたどったのだ。元川の指から流れ出たと思われる血液は、途中までは点々と続いていたが、ある地点でぴたりととぎれていた。

 地面の砂に血をすりつけたような跡があったから、おそらく指の切断面に砂を付着させて流血を抑えたのだろう。

 ま、それだけで止血ができるとも思えんから、ベルトか何かで直接圧迫もしていたとは思うがね」


 ハットの男は、つらつらと台詞を並べる赤い眼鏡の男に、無表情に歩み寄る。


 その眼前に到達する寸前、わきに立っていた髪の長い女が、両者の間に割り込んだ。


 まっすぐに自分を睨んでくる女に、ハットの男は片眉を上げる。


 見てくれの良い女だが、目の奥にはハットの男が宿していたのと同じ種類の、殺気がある。


 人殺しの目だ。直感的にそう悟った。


 そんな女の肩を押しのけ、赤い眼鏡の男が、ゆうゆうと台詞の続きを吐く。


「とにかく、君は血痕を追跡されることを警戒して元川の止血を試みた。その後どこに行ったのか? 残念ながら、手がかりが途切れてしまっては知りようもない。

 だから発想の転換を行った。事実はひとまず置いておいて、我々が追跡可能な仮説を立てることにしたのだ」


「話の長い男だ。俺が暇を持て余しているように見えるかい」


 ハットの男の台詞に、赤い眼鏡の男はにやりと笑う。


「……君の目的が逃走ではなく、潜伏であると仮定した。君はまだ近くにいて、元川を自らの手で殺害なり尋問なりしようとしている、とね。

 これならまだ望みはある。君は危険を冒して元川をかついで町を逃げるよりも、人気のない場所に彼を連れ込んで、発砲騒ぎで警官が来る前に何らかの目的を果たそうとしていたのだ。

 その場合、君はどこに潜伏するか? 人目につく前に迅速じんそくに隠れる必要がある。路地裏か、下水道のような地下空間か、あるいは」


 赤い眼鏡の男は人さし指で頭上を指し、「上か」と首を傾けた。


 ハットの男は鼻を鳴らし、両手を背広のポケットに突っ込む。


「やぐらの扉の鎖が壊されているのを見つけて、さぞご満悦だったろうな」


「もちろん。してやったりさ。人間というのは探し物をしていても、頭上にはあまり注意を向けないからな。しかもこの演習の騒音の中、やぐらの上で悲鳴が上がっても地上の人々の耳には届き難い。君はやぐらの上にいる。そう確信した」


「廃刀令違反に、無許可の拳銃使用か」


 ハットの男の台詞に、赤い眼鏡の男はきょとんとする。


 新聞紙に包まれた日本刀で頭を押さえながら、隣に立つ老人がため息混じりに言った。


「拳銃の方は弾を抜き出して使っただけだが……まあ、言いたいことは分かる。確かに我々も、警察に堂々と通報できるような身分じゃない」


「この場はお互い、おとなしく退散した方が身のためだ。あんただって俺を捕まえたくて追って来たわけじゃないだろう。あんたの『依頼内容』は知ってるぜ」


 老人、田所はその言葉にさらに深くため息をつき、片手で目を覆った。


 怪訝そうな顔をする赤い眼鏡の男と、女のわきをすり抜け、ハットの男が笑う。


「たいした剣豪ぶりだが、探偵をやるなら木蘭亭なんかで依頼の話はしないことだな。すぐ隣の客には会話の内容なんざ筒抜つつぬけだぞ。もっといてる店か時間帯を選べ」


「あんな内容だとは思わなかったんだ。せいぜい人探しか失せもの探しだと……」


「まあ、あの娘も特に声を潜めている様子もなかったしな。人に聞いてもらいたい気持ちもあったんだろう」


 ハットの男は田所の後方で立ち止まり、ふっと顔を向けると「ちゃんと聞いていたか?」と問いを放る。


 唐突な言葉に一瞬首をひねった田所だったが、すぐに何のことか理解したらしく、ゆっくりとうなずいた。


「ああ、有戸ホテル、だったな。そこに三村探偵社の社長が隠れている」


「さっき助太刀してもらった借りはその情報で帳消しだ。……俺は俺の依頼主のために動く。あんたの依頼主は三村探偵社を警察に突き出したがってるようだが、こっちは違う。連中が逮捕されようがくたばろうがどうでもいいが、その前にやらなきゃならんことがあるんだ」


 そう言って階段に向かうハットの男に、髪の長い女が「それって、協力はできないってこと?」と声を投げる。


「事情はよく分からないけど、お兄さんも三村探偵社を追ってるんでしょう? 敵の敵は味方って言うよ。めんどくさいし一緒に行こうよ」


「めんどくさいとは何だ。遊びに行くみたいに言いなさんな」


 ハットの男が口をひん曲げて、歩を止めずに女に顔だけを向ける。


「敵の敵は味方じゃなく、ただの他人だ。そんな考え方をしていると君も三村探偵社の餌食になった女達と同じ道をたどるぞ。

 とにかく、俺は消えるからな。そちらもさっさと立ち去らないと、面倒なことになるぞ」


 ハットの男は倒れたままの元川を親指で指すと、そのまま階段を降りて行く。


 かび臭いやぐらの中を下へと進み、一階にたどり着くと、入り口の扉を慎重に開けて外に人がいないことを確認する。


 演習はすでに終わったらしく、空砲の音はやんでいる。

 代わりに兵士達の行進の掛け声と、町の人々のざわめきが耳に届いた。


 扉を開けて外に出ると、地面に落ちている鎖を拾い上げ、前方の道の真ん中に放り投げる。


 やぐらを封鎖していた鎖が目立つ所に落ちていれば、すぐに誰かがやぐらの中を調べ、元川を発見するだろう。


 そのまま最初に元川が潜んでいた空き家の方へと歩き出したハットの男は、しばらくして扉の開閉音に、再びやぐらの方を振り返った。


 田所達は元川をやぐらに残し、ハットの男とは反対方向に歩き出している。


 彼らのうちの赤い眼鏡の男が、元川が使っていた拳銃を自分と同じように道に放るのを見て、ハットの男は肩をすくめながら視線を前に戻した。

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