赤目探偵(東城蕎麦太郎)と牛袋美耶子 四
「代々木練兵場?」
湯気を立てるカツレツにフォークを突き立てながら、ミワさんが言った。
朝の煉瓦亭は客もまばらで、田所達は窓際にテーブルを二つ寄せてもらい、それぞれ注文した料理をつついている。
東城と同じライスオムレツをスプーンですくいながら、美耶子がこっくりとうなずいた。
「呉服店の妻が言うには、三村探偵社はお金の受け取りに代々木練兵場を指定してきたそうです。もちろん軍の整備管理している場内ではなく、その周辺にある茂みの中にお金の入った袋を置き去りにしろと言われたそうですけど」
「妙に手の込んだ受け取り方だな。その指示は電話で伝えられたのかね?」
「いえ、先生。呉服店の旦那は事情を妻から打ち明けられて知っていますけど、そのことを三村探偵社側は気づいてません。あくまで妻がお金を用意してると思い込んでいるようで、お店の電話を使っての連絡は避けています。
最初のお金の要求は妻が一人で店を出た時に、直接路上で声をかけて行ってきたそうです。以降は指定された茂みの中にお金を持って行くと、封筒入りの手紙が置かれていて、また何日後にいくら持って来い、ということが書き残されていたと。
お金を持って行かなかった場合は翌日までに新しい手紙が置かれて、次回の額が倍増されているらしいです」
「なるほどな……傘の合図を見ているぐらいだ、浮気妻達の自宅周辺を社員が巡回してるか、でなければ人を雇って見張らせているのだろう。
身を隠したがっているのはおそらく社長の三村で、その部下達が危険な金の受け取りをさせられている、か」
フン、と鼻を鳴らしながら、東城は田所の皿から勝手にカツレツを取って食べた。「おい、行儀が悪いぞ」との田所の声を無視し、美耶子に更に言葉を続ける。
「情けない男だ。実際には警察は三村探偵社を捕まえる気がないのに、疑心暗鬼に陥って無駄な策を弄している。ヤツの顔を見たのはほんの数回だが、その人格の程度は容易に想像がつくよ」
「万佐と違って三村探偵社は外部の連中ですからね。吉原に来たら茶屋にこもって悪さして、そのまま帰っちゃう。私達が連中と直接話したのも、万佐が茶屋の買取に文句つけてきた時ぐらいですからね」
「どんなことを話したんですか?」
小さなパンをちぎって食べていた直子が、横から問いかける。
美耶子は肩をすくめ、「暴言の応酬」と笑った。
「大の男が四人がかりで茶屋に手を出すなって怒鳴り散らすから、私と先生も頭に来て人格攻撃よ。もう少しで乱闘になるところだったけど、先生が事前に機転を利かせて、万佐が借金してた金貸し連中を呼びつけといたからことなきを得たの。
金貸しがやって来たら万佐のやつ、まごまごしちゃってさあ。その後そっと耳元で浮気妻のこと暴露するぞーってささやいてやったら、もう顔真っ赤になっちゃって、あははは」
「何があはははだ。連中と悪口合戦をやっていたのはほとんど君だろう。黙らせた後もさんざ言わんでいい嫌味を言って……私が連中の報復を警戒しなければならなくなったのは、半分は君が調子に乗って遺恨を増やしたせいだぞ。
何だ『借金助平』って。そのままじゃないか」
「でもでも、先生だって連中に個別の変なあだ名つけてたじゃないですか。『直立歩行ネズミ』とか『学なし学徒』とか『歯を磨くべき豚』とか、『醜悪な老醜』とか」
いったいどんな人間を傷つけるためにつけられたあだ名なのか、想像もつかない。
田所は三村探偵社の人間も万佐も話に聞いているだけで、顔も見たことがないのだ。
東城と美耶子の話についていけない田所はとりあえず咳払いをして、強引に話を進めようとした。
「とにかくはっきりしているのは、代々木練兵場には必ず三村探偵社の使いの人間が現れるということだ。呉服店の奥さんが今朝出していた傘の合図を連中が確認しているなら、明日までに指定場所の茂みに、追加の手紙を仕込むことになる」
「うん。逆にもしまだ連中が傘を見ていなかったとしても、やっぱり指定場所には現れると思うよ。こんな回りくどい連絡方法で金をせびる連中だ、合図の決まりごとを破った女に二度会ったりはしないだろう。
期限までに茂みに金が置かれてないのを確認して、それから報復だ。そう思う」
カツレツをかじりながら同意するミワさん。
田所は東城を見て、「さて、どうする」と目を細めた。
「連中の尻尾をつかむなら今すぐ張り込んだ方が良い。代々木練兵場は少し遠いぞ。電車に乗らねばならん」
「もちろんすぐに向かう。私と肉袋君は何日でも動けるように準備して来た。君達はどうだ?」
その言葉を受けて、田所は即座に「俺は大丈夫だ」と答える。
次いで直子も「大丈夫です」とうなずいたが、田所が眉を寄せて彼女に言った。
「君はだめだ。君は俺の依頼主で、相棒ではない。危険があるかも知れん場所にはつれて行かない」
「でも、同じ女性の美耶子さんも行くんだもの、私だって……」
「この女は見てくれは良いが、本性はそこらの男より凶暴だぞ。自分の身は自分で守れる」
口を挟んだ東城に指さされ、美耶子は頭をかいて照れ笑いをする。
ぐっと唇を噛み、自分を見上げてくる直子の肩を、田所は大きな手で軽く叩いた。
「分かったことは全部報告する」
短いが、有無を言わせぬ響きのこもった声に、直子は唇を噛んだまま目を伏せ、うなずいた。
最後にミワさんが「俺はいてもいなくても同じような男だから、二、三日消えても誰も気にしねえんだ」と能天気に笑ったところで、一行の方針は決まり、食事を終えると同時に煉瓦亭を後にした。
途中直子を家に送ってから最寄り駅に向かい、東城と美耶子、ミワさんと田所は、代々木練兵場方面の電車に乗り込む。
車内は混んでいて、人の波に押された四人はバラバラの位置に押し込められた。
田所は東城と共に壁際に逃れ、揺れる電車の中を立って過ごす。
周囲の喧騒の中、不意に田所は東城に問いかけた。
「直ちゃんを連れ出したのは、お前さんが彼女と会いたいと言ったからだったが……結局、傘の合図のことしか訊かなかったな」
「ああ」
「そのためだけに彼女との面談を望んだわけじゃないだろう? 彼女の何を確かめたんだ」
「彼女ではなく、彼女を通して君のことを確かめた」
目を丸くする田所に、東城は首を傾け、ぽきりと音を立てる。
赤い眼鏡の奥から、不遜な眼差しが田所を射抜いた。
「君は頭は悪くないようだが、洞察に優れているわけではないようだ。君は私に三村探偵社の一連の悪事は語ったが、自分の依頼主の素性に関しては伏せていただろう? だが私は、彼女の前でこう言ったのだ。『三村探偵社と関わりを持っていたお姉さんから、ひょっとしたら合図のことを聞いていたかもしれないと思って』とな」
「!」
「三村探偵社は身辺調査の依頼を受けたことと、その結果を調査対象者である夫に暴露し、依頼主である妻を殺害させた。このことを君から聞かされた私は、まず最近発生した配偶者殺人の新聞記事を調べたのだ。
その上で……察しがついていると思うが、役所関係に友人がいてね。その人物に頼んで、東京でここ数ヶ月以内に死亡した人妻の戸籍を調べてもらった。
彼女らの内、夫に先立たれていた未亡人は除外して、残った者の遺族構成を頭に叩き込み、君が連れて来た依頼主の見た目から被害者との関係を推理した。
幸いだったのは、姉妹や年頃の娘の遺族がいる人妻は一人しかいなかったということだ。間宮百合子、遺族である妹の名は、間宮直子」
国民の戸籍管理も、その管理者の意識が低ければどんな悪事に利用されるか分かったものではない。
田所は目の前の探偵の言葉にそう眉間にしわを刻みながら、相手の話を聞き続ける。
東城はゆっくりとずれた眼鏡の位置を直した。
「間宮百合子の死は紙面に載っていたし、夫が殺人犯として逮捕されたことも記されていた。だが三村探偵社の名は一切なかった。田所探偵の話が真実ならば、おそらく間宮直子こそが君の依頼主だ。他に答えはない」
「それが直ちゃんの名前を知っていた理由か……」
「私が欲しかったのは、経歴のはっきりしない田所十吾という人間をとりあえず信用するための、判断材料。それは君が私に真実を語ったという事実だ。
それを得るために、実はわざと間宮直子を怒らせた」
電車が駅に近づき、減速を始める。
田所は東城が赤いレンズの向こうから、自分をまっすぐに見ていることを意識しながら、耳を傾ける。
「浮気妻が吉原に行く時に傘の合図を使う。傘の合図は、浮気妻特有のサインである。そう印象付けるために、何度も浮気だの抱くだのという言葉を繰り返した。
もし君が悪意を持って私に近づき、偽りの事情を話していたとしたら、君の連れて来る依頼主もまた偽者だ。間宮百合子を浮気妻扱いしても平然としているだろう。怒るのは、本当の遺族だけというわけだ。
……もっともその前に、明かされてもいない間宮の姓を口にして反応を見たりと、小技をはさんだりはしていたがね」
「それで、激昂した直ちゃんが本物の間宮直子だと納得したわけか。俺のことも信用できたかい?」
「ああ。まあ話の筋道は通った。ところで……あまり強く殴ってくれるなよ」
電車のブレーキの音が響き、人ごみが悲鳴と共に崩れる。
その中に、赤い眼鏡を守るように両手で抱えた東城が、一瞬遅れて折り重なった。
代々木練兵場に着いた時、時刻は午後二時を過ぎていた。
空は突き抜けるように青く、その空中を震撼させるような砲撃音が、断続的に響いている。
練兵場では、砲撃隊の演習が行われているらしい。田所は練兵場の方を眺めながら、しみじみと息をついた。
「人間数十人の力に匹敵する大砲を、まるで豆鉄砲のようにバンバン撃っている。もはや刀で斬ったはったをする時代ではないのだなあ」
「あれ空砲じゃねえのか? まあ、じいさまの時代よりは日本も確実に強くなってるだろうけどよ」
隣に立つミワさんが言いながら、ちらりと後方を振り返った。
腕を組んで仁王立ちしている東城がそこにいるのだが、赤い眼鏡の奥の左目のあたりが、青黒く変色している。
美耶子がそこに水で濡らしたハンカチーフをあてがいながら、ひんひん声を上げて田所に抗議した。
「酷いよ田所さん! うちの先生こんなにしちゃって、いったい何の恨みがあるの!?」
「お前さんも知ってて協力していたと聞いたぞ……直ちゃんをいつ取り押さえるか、店の中で隠れて時期を計っていたそうだな……頼れる仲間かと思ったらなんという食わせ者……」
「私知りません。全部先生が悪いんです。この人でなし!」
ふざけているとしか思えない変わり身で自分を罵倒する美耶子を無視して、東城は腕を組んだまま田所達の隣に進んで来る。
そうして練兵場の周囲の茂みの一角を指さした。
「練兵場の南側、立ち枯れている二本の木のそばの茂みが指定の場所だそうだ。さっき調べてみたが、確かに手紙が置いてある。だが一通だけだ」
「呉服店の妻が金を持って来た場合に見る手紙だな。回収されていないなら、おそらく三村探偵社は今日はまだ来ていないな」
「茂み以外は妙に見晴らしが良くて、身を隠す場所がない。どこで見張るか」
「演習が行われているのは好都合だ。見物しているふりをして堂々と見張ればいい。
その赤眼鏡を外して、コートを頭から被って寝たふりでもしておけ。ミワさんも真正面から見られなきゃ、顔に気づかれることもないだろう」
田所はそう言って、少し小高い丘のようになっている場所を指さした。「あのあたりに陣取ろう」と仕切る彼に、東城もおとなしくうなずく。
東城のしたことは心底気に食わないが、彼が正直に自分の行為を田所に明かして、殴らせたのもまた事実だ。
直子には帰ったら全部話してやって、少なくとも自分の怒りはこれで納めてやろうと、田所は思った。
東城がいなければ、この場所にたどり着くことはできなかったかも知れないのだ。
田所は丘の中腹あたりの枯れ草の上にミワさんと並んで腰を下ろすと、新聞紙に包んだ日本刀をあぐらをかいた足の間に立て、肩に当てた。
すぐ横には東城が言われたとおりの格好で素直に仰向けに寝転んでいて、平気な顔で添い寝しようとする美耶子を靴底で押しのけている。
丘の上からは練兵場の遠い一角に並んだ大砲がわずかに見え、練兵場の外に立つ家屋群が見える。
田所と三村探偵社との初の接触の時間が、おそらく、迫っていた。
砲撃音が、重く響く。
ドォン、ドォン、と、空気を揺るがす。
すぐそこで行われている軍の演習の音に合わせて、男は体をゆすっていた。
持ち主のいない、空き家の洋風建築。二階建ての建物の窓は全て閉められ、雨戸が降りている。
違法に通した電気のおかげで照明はついているが、外界と隔絶された室内は薄暗く、空気がこもっている。
男は寝台の上で、体をゆすっていた。たった一人で、ぎしぎしと揺れていた。
痩せた男だ。
背は高いが上半身裸の体は骨と筋肉の形が浮き出ていて、体毛はひどく濃い。髪は伸びっぱなしで肩にかかっており、髭も茂みのようになっている。
汚れたズボンはベルトをしているにも関わらず尻の辺りまでずり落ちていて、しっかり腰にとどまっていない。
うぉぉぅ、と獣のようにうめく男は寝台の角をつかみ、顔を上げた。
ぎらつく光を宿す目は吊りあがっていて、前歯を中心に歯が異常に前にせり出している。
まるで、ネズミのような面相だった。
「なあ、高岡あ、切ないなあ」
男が視線をやる先には、部屋の隅に置かれたテーブルに腰かけて本を読む、全裸の男がいた。
ネズミのような男と違ってきちんと髪を斬り整えた男はひげもなく、整った顔立ちをしている。
日に焼けていない体は白く、適度に筋肉がついていて、洗練されている。絵に描いたような美男子だ。
彼は『がらくた・うえすたん』という得体の知れない題名の小説から目を上げると、寝台の上のネズミのような男に笑みを向けた。
線の細い男が好みの女ならば、思わず見惚れてしまいそうな、美しい顔だった。
「切ないって、いちもつがかい? 元川さん」
形の良い唇から、汚い言葉が出てくる。
元川と呼ばれたネズミのような男は、高岡という美男子に胸毛をむしりながら笑い返す。
「そうだよ、せつねえよぉ。女を絶ってからもう何時間になる? 戦の前の武士じゃねえんだぞォ」
「さっき抱いた女でよけりゃ、ここにいるけど」
高岡がテーブルをコンコンと叩く。
テーブルの下、陰で、身を縮めた女がくぐもった声を上げてうめいた。
元川はがばりと身を起こし、ふんふんと鼻を鳴らしながらテーブルの方へ這って行く。
陰に手を突っ込むと、女の腕をつかんで引きずり出した。
帯を解かれた着物姿の女は、さるぐつわをされて両手首を縄で縛られている。
恐怖に目を見開く女を、元川はすぐに手放して床に倒した。
「いやだ、いやだ、ああいやだァ。こいつ昨日も抱いた女じゃないか。一昨日もその前も抱いた女じゃないか。もう飽きたァ」
「わがままだな、元川さん。元川さんのために俺がわざわざ外うろついて引っかけてきたのに。地方の家出娘って言ってたから至極安全な女ですよ。いつもの人妻と違って若いし」
「若けりゃいいってもんじゃない、この女腰つきがよくないんだ。美人でもないし。胸も小さいし。人妻はいいよな、完成された大人の美だよ。お前もそう思うだろ」
「俺よその男の使い古しはイヤなんだよね。小汚いじじいとかが触った女って、気持ち悪いでしょ?」
二人の男は下卑た会話をしながら、暗い部屋の空気を震わせる。
やがて高岡は小説を閉じ、テーブルから飛び降りた。
足を踏まれた女が悲痛にうめくが、視線もやらない。
そのまま部屋の隅に無造作に脱ぎ捨てられていた服を着始める。
元川は立ち上がり、尻のでこぼこにかろうじて引っかかったズボンを引き上げながら問う。
「どこ行くの、高岡」
「社長に定期報告。あと、呉服店の『ミヨ』への手紙置いてこなきゃ」
「ミヨちゃん来るの。抱ける?」
「今日はテルテル坊主なかったらしいですよ。あいつ最近たるんでますよね」
「来ねえのかよ!! 二つ続きのほくろちゃん抱けねえのかよ!! もううんざりだ! 社長が会社たたんでからずっとここに詰めっきりじゃねえか、ブサイクな田舎女しか抱けねえ!!」
元川が、床に倒れた女の腿を蹴りつけた。
高岡は低く笑いながら、ワイシャツと高級背広を着込み、靴を履く。
「今の俺達の唯一の収入源ですからね、浮気女の上納金。こればかりは社員の俺達が直接やらなきゃいけない仕事ですよ」
「ドンドンドンドン、軍の莫迦どもが大砲撃ちまくるせいで神経がすり減るんだよ! なんでこんな場所選んだんだ!?」
「仕方ないでしょ、銀座の近くは危ないって社長が言うんだから。……でも、社長も情けないですよね。さんざ悪事繰り返しといて死人が出たらおびえるなんて。
そりゃあ浮気女と違って遺族は脅して黙らせるってわけにゃいかないけど、これ警察完全に俺達のこと追ってませんって。社長が一人でおびえてるだけですよ、迷惑な」
「なあ、ミヨちゃんへの手紙、俺が書く。そんで俺が置いてくる」
壁を見つめて唐突に言う元川に、高岡は片眉を上げる。「いいですけど」と答えると、元川が思い詰めた顔であえいだ。
「会いたいって書き添えるんだ。あなたの肌が、体が忘れられませんって、燃えるように恋焦がれてますって」
「うわ、なんですかそれ。気持ち悪いな」
「何が何でも抱かないと、僕はもう死んでしまいますって、それなら」
「もういいですって元川さん。恋文? 聞いてらんないですよ」
「それなら、お前の裸の写真どころか亭主ぶっ殺して、その死体の写真駅に張り出してやるぞって、書いとくんだ」
最後は低く言った元川に、高岡はきょとんとした後、無表情に頬をかいた。
唇をひきつらせて不気味に笑う同僚に、高岡は「いいんじゃないですか」と返す。
「うん、まあ、金の催促としてはいいかも。それ全部手紙に書いて、いつもの茂みに置いといてください。俺社長の隠れ家行ってきますから、あとよろしく」
「酒買ってきてよ。あと包丁とノコギリ」
小さく「本気じゃないだろな」と言い残して、高岡は部屋を出て行く。
元川はしばらくゆらゆらと揺れながらその場に立ち尽くしていたが、やがて床の女のうめき声に反応して動き出した。
女の胸を軽く足先でなでてから、「手紙だ。紙と、封筒と、ペン」とつぶやき、部屋を出て行く。
部屋の外はL字型の廊下になっていて、正面には開け放されたドア、右手には階下へ続く階段があった。
元川はズボンからはみだした尻をかきながら、裸足で右手の階段を降りて行く。
一階は四つの部屋と便所があるが、便所以外は何の変哲もないただの空間で、しきりがあるだけでほとんど変わりがない。
しかも玄関と便所以外の扉は元川が移動を面倒くさがって、常時開け放していた。
元川は散乱したゴミや家具を避けながら、正面奥の部屋に置かれた文机に歩いて行く。
文机の上に置かれた書き損じの手紙やゴミを払いのけると、ゴトゴトと音を立てて引き出しを開ける。
中に詰まった得体の知れないガラクタを放り出しながら、目当ての物を探す。
「紙、封筒、ペン、紙、封筒、ペン、なんで整理しないんだ、誰だ、変なモン詰め込んでんのは、紙、封筒」
ペン。
ちぎれた手帳の下からペンを見つけ出した元川が、それを取り出した時だった。
元川の背中のうぶ毛を、風がなでる。はっとして振り返ると、部屋をまたいだ先の玄関扉が開いていた。
元川が今いる部屋は、玄関扉も便所の扉も、階段もない、言わば家の隅の部屋だった。
首を巡らせ、便所の方を見ながら「高岡?」と呼びかける。
返事はない。
「便所入ってたのか? で、今出てったの?」
ペンを持ったままひょこひょこと早足で歩き、玄関扉に近づく。
外を覗くと、空砲の音がするだけで誰の姿もなかった。
他の家と、それに隠された丘の、下端がわずかに見えるだけだ。
元川はしばらく外を観察した後、玄関扉を閉めて施錠した。
なんとなく嫌な気持ちになって、素早く振り返る。
目の前には、電気の照明に照らされたアジトの景色。元川は散乱するゴミや家具を見つめながら、それらの位置や形状を思い出そうとする。
だが、特に違和感は感じられなかった。首をかしげて「疲れてるのかな」ともらした途端、天井の上でゴトッと音がする。
一瞬ぎょっとして顔を上げた元川だが、すぐに女のうめき声が聞こえて胸をなでおろす。
そうだ、この家には自分とあの女がいるのだ。何をびくついている。音がしても何もおかしくない。
「社長の臆病がうつったかな、へへへ……あの女、やっぱり抱いとこう。ブサイクでもいないよりゃマシだ。女を抱くと力がわくからな」
元川はふだん滅多に口にしない独り言を吐き出しながら、紙と封筒を探すのをやめて階段へ向かった。
ぺたぺたと音を立てて二階に上り、女のいる部屋へ進む。
「……あれ? 扉……閉めたっけ?」
部屋の扉の前で、元川は立ち止まる。女のいる部屋の扉は、ぴったりと閉じられていた。無意識に閉めたのか? いや、元川は一階の扉を全て開け放しておくようなものぐさだ。そんなことは、ない、と、思う。おそらく。
背後が気になった。廊下はL字型で、元川の背後にはもう一つ扉がある。
背後の扉は、開いていたはずだ。それは記憶にある。間違いない。だが、閉まっていたら? その場合、どう現状を判断したらいいのだろう?
同僚の高岡は、どういう順序で家を出て行ったにせよ、背後の扉を閉めてはいないはずだ。
元川は高岡が出かけてからしばらく立ち尽くしていて、それから部屋を出たのだ。その時背後の扉は開いていた。
元川は、それがひどく不快であるのを分かっていて、ゆっくりと背後を振り返った。
得体の知れない不安に、心臓の鼓動が速くなる。背中のうぶ毛が、ちりちりする。
「――――開いてるじゃねえか」
振り返った先には、記憶にあるとおりの角度で開いている扉がある。
扉の奥には雨戸の下りた窓があり、怪しげな影もない。
ほっと息をついた。杞憂だ。下らない勘違いだった。
しかも嬉しいことに、すぐそばの扉の方から女の泣き声が聞こえる。悲しげに、悩ましげに、それは元川の耳に届く。
そう誘わなくてもたっぷり抱いてやるぜ。今は妙に気がたかぶってるんだ。
そう背後を振り返っていた首を戻す瞬間、気づいた。
泣き声?
さるぐつわをしてるのに?
元川の体のすぐ前にあったはずの扉は、部屋側に向かって全開になっていた。
視界の隅に、床に手をついて泣く女が映る。
こちらを睨み、小さく恨み言を言っている。さるぐつわも、縄も、解けて床に落ちている。
元川の目の前に立つ男は、元川に匹敵するほど背が高かった。
しかもこげ茶色の背広に覆われた体は、元川よりもごつく、力がみなぎっている。
その男はハットの奥から獣のような目を覗かせ、歯を剥いて、笑った。
「『ミヨちゃん』からの返事だぜ」
その台詞と同時に、元川の左目に、とがった拳が石くれのように突き刺さった。
馬に蹴られたように、元川の体が廊下を飛ぶ。びん、とつっぱった足がまず床につき、すぐに背中と後頭部を凄まじい衝撃が襲った。
痛みはその衝撃の後にくる。
ばりばりと音を立てるように左目から広がる激痛に、元川は叫ぶのも忘れて全身全霊で立ち上がった。
ハットの男が、部屋から出て来る。人間の形相ではない。悪鬼悪霊の貌だった。
元川は背後の部屋に走り、窓に飛びついた。窓を開け、雨戸を開こうとすると背後に重い足音が駆けて来る。
生命の危機に元川の肉体が、無意識に動いていた。
雨戸が開ききる前に体が窓の外に飛び出し、ぎやまんを砕いて、血を流しながら屋根の上に転がる。
ハットの男が出て来る気配。
元川は小便を漏らしながら屋根の上を走り、隣の平屋の屋根に、飛び降りた。




