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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵3 ~探偵賛歌~
79/110

赤目探偵(東城蕎麦太郎)と牛袋美耶子 三

 翌朝、田所は外套を着込んだ直子と共に彼女の家を出た。


 母親も同行したいと言ったのだが、勤め先から休みをもらえなかったらしい。


 夜中に上司の家に相談に行った彼女は、逆に仕事を増やされて帰って来た。


 忙しければ遊ぶ気も起きないだろうと言われたそうだ。


 直子の方は行きがけに寄ったアイスクリームパーラーで、即座に店主の了承を得られた。


 田所を紹介した張本人だからか、店主は簡単な説明を聞いただけで愛想よく直子を休暇扱いにする。


 田所はついでに店主に、何故自分を名探偵として推したのか訊いてみた。

 すると店主は肩をすくめてこう答えた。


「アイスクリームパーラーなんてしゃれた店をやってると、客もしゃれた連中が集まってくるもんでね。新しもの好きの、流行にかぶれた客が色んな話を聞かせてくれるんだ。

 当然探偵小説関係の人も多くてさ、東京で開業してる探偵が何人いるかなんて、大真面目に研究してる帝国大学の先生もいる。実在の探偵のうわさ話は、うちの客の口癖みたいなもんなのさ。

 いやね、あたしもあんたのことを直接知ってたわけじゃないんだけど、聞くところによると……」


 店主は田所を指さして、満足げにこう続けたのだ。


「ろくな看板も広告も出さず、一年中川原で寝起きして客を待ってる妖怪みたいな探偵がいるってさ。そいつは幕末の頃に志士を百人殺した剣豪で、老獪ろうかい極まりない七十歳の傑物なんだと。

 天を突くような巨漢で、鬼みたいな顔をしているが、その実どんな依頼も一円でこなしてくれる格安の探偵だ。

 ひょっとしたら人間じゃなくて、カッパか何かの民間信仰が探偵話と結びついて生まれた、新手の化け物じゃねえかって説もあったが……とにかく実在してよかったよ、あんた。直子ちゃん人間の名探偵を雇う金なんかないからさ、よた話の一円探偵でもすがるだけすがってみようかなってさ。

 あ、名探偵とは言ったけど、探偵の名人じゃなく、単に有名な探偵って意味な。あんた有名だよお、カッパ探偵。ハハハ」




「田所さん、機嫌直してくださいよぉ」


 悪気のない笑顔でとんだ名探偵の種明かしをしてくれた店主を、田所はもう少しで突き飛ばすところだった。


 肌寒い朝の銀座を、カッカしながら早足で歩く田所に、直子はひいひい言いながら追いすがる。


「あの人、ああいう性格なんですよ。歯に衣着せないけど悪い人じゃないんです。ほら、おみやげにアイスクリームくれましたよ。食べましょうよ」


「このくそ寒い日に氷菓子なぞ持たせおるか! 歯に衣着せぬのではなく思慮しりょが足らんだけだ、あいつは!」


 寒いと言いながらワイシャツの上に何も羽織っていない田所が、受け取ったアイスクリームをバリバリと噛み砕く。


 直子はようやく歩をゆるめた田所に息を整えながら、赤く色づいた頬で笑った。朝の銀座はすでに道行く人も多く、二人のそばを通り過ぎて行く。


「田所さんもそんな風に怒るんですね。なんだか新鮮だなあ」


「俺は菩薩ぼさつじゃあないんでな! 妖怪だのカッパだの一円探偵だの、好き勝手言われて笑っていられるほど寛容ではないわい!」


「この東城蕎麦太郎も寛容ではない、と言ったはずだ」


 突然会話に割り込んできた声に、二人が同時に道のわきへ視線を投げた。


 通りには無数の店やびるぢんぐがのきを連ねているが、今田所達が顔を向けている方向には、解体途中の本屋が三方の壁を取り払われた形でたたずんでいる。


 本屋と分かるのは、陽にさらされた床の上に横倒しになった本棚が無数に放置されているからだ。


 店主が店を片づけて行かなかったのか、先月発行の雑誌類が山のようにあふれている。


 解体業者や通行人が物色したのか、全ての本は本棚から外に飛び出していて、無造作に積み上げられていた。


 その積み上げられた本の上に、赤い眼鏡をかけた東城探偵が座っている。


 真っ白なフロックコートを着た彼の手には、靴跡がついた洋書が開かれていた。


 自分を見上げる田所に、東城が眼鏡の奥から鋭い視線を向けて言う。


「君はカッパなのか、田所探偵」


「なっ」


「君の素性を調べたらそんな証言が飛び出してきた。妖怪で剣豪で千人斬りの化け物だそうだな。宮本武蔵が死んだのは、実は君に食われたせいだと聞いたぞ」


 田所は直子を振り返り、次いでさきほどのアイスクリームパーラーの方角を鬼のような形相でにらみつけた。


 東城は開いていた洋書を音を立てて閉じ、本の山をすべり降りて来る。そして田所の前に立つと、眼鏡を人さし指で押し上げながらため息をついた。


「人の素性を調査して、ここまでふざけた結果を叩きつけられたのは初めてだよ。実に不愉快だ。私を莫迦にしているのか、君は」


「俺のせいじゃないだろう!? 世の探偵小説かぶれの連中が勝手に言ってるだけだ!」


「いや、君のせいだよ。人にまつわるおかしなうわさというものは、いつの世もあるものだが……そういう荒唐無稽こうとうむけいなたわごとは、正しい調査で振り払えるものだ。その人物を偏見を持たずに調べ上げれば、おのずと真の姿が見えてくる」


 しかるに、と東城は洋書で田所を指し、首を傾ける。


「君の場合、荒唐無稽なたわごと以上の事実がほとんど出てこなかった。田所十吾という人物の記録はあるが、その内容は驚くほど淡白だ。浦賀で生まれ育ったこと、維新志士の末席に身を置いていたことは調べがついたが、その間具体的に何をしていたかということがほとんど分からない。どこの戦役に加わっていたのかすら不明だ」


 田所の顔から、みるみる激情が消えていった。


 東城は田所と別れてから、わずか一日足らずの内にそれだけのことを調べ上げたのか。単に頭が切れるというだけでは、ここまでの調査はできない。


 役所や戸籍関係の部署に、情報網を持っているということだ。


「他の志士と比べても、君の活動記録はあまりにあいまいだ。幕末にいたっては君の姿を満足に見た者すらいない。そのくせご一新の直後、君は」


 東城はそこで言葉を切り、田所を見た。

 緊張した表情の田所が、小さく首を横に振る。


 東城はさりげなく赤い眼鏡の角度を調整し、自分の眼差しを光の反射で隠した。その視線はおそらく、田所の横で首をかしげている直子を見ている。


「――君は、公の場に堂々と姿を現している。その後の君の人生は、ほぼ無だ。特筆すべき出来事がない。探偵になったと思われる時期以降は、何の記録も残されていないのだ。その頃の情報を探せば、出てくるのは件のくだらないうわさとたわ言ばかり。千人斬りの妖怪カッパ探偵……」


「それはもういいだろ」


「とにかく、うわさをくつがえす情報が出て来ない。君はおそらく、人間が営むべき社会的な活動を自ら禁じて生きてきたのだろう。探偵業以外の、全てをだ」


 東城は手にしていた洋書を背後の本の山にそっと戻すと、不意に頭をかきむしって悶絶もんぜつした。


 目を丸くする田所達を指さし、「屈辱だ!」とうなる。


「この頭脳明晰な東城蕎麦太郎が、たかが老人一人の素性調査をこれ以上進めることができないのだ! 正しい情報がない以上、田所十吾がカッパの剣鬼だといううわさを覆すことができない!」


「そ、そんなわけがあるかっ!」


「当たり前だ! カッパなど認めん! 貴様なぜもう少し足跡を残した人生を送ってこなかったのだ!?」


 田所は一瞬、ミワさんが読んだという自分のことが記載された自伝を探して来て、突きつけてやろうかと思った。


 けっして真実を記したものではないが、カッパだの妖怪だのよりは血に狂った人斬りの方が東城も納得がいくだろう。


 幕末における田所の経歴が闇に閉ざされているのも、それである程度の推察をしてもらえるはずだ。


 だが東城は一通り取り乱してしまうと、髪を手でなでつけながらフンッ、と鼻を鳴らして田所から顔を背ける。


 唖然としている直子の方に目を向けると、その手にあるアイスクリームを見つめながら言った。


「まあ、いい。田所十吾本人の調査は頓挫とんざしたが、ここまで社会との関わりを絶ってきた男が三村探偵社の刺客になっているとも思えんしな。吉原の門番達も、これほどの巨漢が吉原に立ち入ったことなどここ十年なかったと証言している。

 昨日の君の話を信じよう。一応はな」


「それはよかった」


「ちなみに君と一緒にいたミワさんの方はすぐに調べがついた。売れない新聞社に根気強く勤めている何の変哲へんてつもない記者だ。

 ごくたまに衝撃的な事実を紙面に載せるが会社が小さすぎて注目されず、後からネタを拾った大手の会社にいつも手柄を横取りされている。悲惨な男だ。同情はするが君ほど信用はできんな。新聞記者はみな腹黒い」


 結局偏見で調査結果を結論付けている東城に、田所は早くも疲れた顔でため息をついた。


 考えてみればこれは、東城が田所達を調査のパートナーとして認めるか否か判断するための素性調査なのだから、結局は東城自身の感情が裁定を下す類の話なのだ。


 一方的に振り回された田所が壁に手をつく前で、東城が直子に声を投げる。


「察するに、あなたが田所探偵の依頼主ですね。本日はこの東城蕎麦太郎の願いを聞いて頂きありがとうございます。ところで迅速じんそくに調査を進めるために敬語ではなく喋り慣れた普段の言葉づかいで接してもよろしいですか?」


「へっ? え、ええ、どうぞ?」


「では間宮君こちらへ来たまえ。早速見せたいものがある」


 つかつかと歩き出す東城に、直子は目を剥いて田所を見た。


 「私の名前教えたんですか?」と問う彼女に、田所は首を振りながら「諦めてくれ」と答える。


「彼は頭が切れるんだ。それこそ、はた迷惑なほどに」


「早くしたまえ! 東城蕎麦太郎を待たせると後が怖いぞ!」


 声を張り上げる東城に、二人は仕方なくついて行く。


 銀座をずんずんと進む名探偵が、やがて煉瓦亭れんがていという有名な洋食屋を通り過ぎると、田所が「おい」とその肩をつついた。


「待ち合わせの場所はそこのはずだぞ。ミワさんと美耶子さんを待たなくていいのか」


「約束の時間まで、まだ十分ある。ミワさんが来るまでに見せたいものがあると言っているのだ。ちなみに肉袋君はこの東城蕎麦太郎の指示で…………あの建物に潜入している」


 東城が歩きながら、前方に見えるかわらの屋根を指さす。


 田所が目を細めると、屋根の少し下の方に木の看板がかかっているのが見えた。


 近づくにつれて視界をふさいでいた別の建物や庭木がわきにどき、看板の文字が読めるようになる。


『あきづき呉服店』


 建物の前にたどり着くなり、東城が田所と直子を振り返り、眼鏡をわずかに引き下げてにやりと笑う。


「件の、三村探偵社にたかられ、お歯黒どぶに身を投げようとした浮気妻の店だ。東城蕎麦太郎は仕事が早い。君らと別れた後私自身は君らの素性調査を行い、浮気妻の特定は肉袋君に担当させていたのだ。

 銀座の呉服店とまで分かっていれば、私ほど優秀でない肉袋君でも特定できるからな」


「彼女一人で浮気妻を捜し当てたのか?」


「幸いなことに、顔に特徴があったらしい。現在聞き込みの最中だ。首尾よくやりげたら新しい着物でも買ってやらねばな」


 上機嫌に鼻歌を歌う東城。


 田所は呉服店の周囲を見渡してみた。

 すぐそこに、かつて直子にブリ大根をおごってもらった木蘭亭という旅籠がある。


 東城と肉袋こと美耶子の仕事ぶりに感心した直子が、溶け始めたアイスクリームにも気づかずに素直に感嘆の声を上げた。


「すごいですね! 待ち合わせの時間の前に、もう手がかりをつかんじゃうなんて!」


「もっと褒めたまえ。遠慮はいらん」


「あっ、ところで私に見せたいものってなんですか?」


 さらりと東城の要請を無視した直子。


 上機嫌だった東城はむっと口を引き結び、呉服店の看板を睨め上げた。

 咳払いを一つして、看板を睨んだまま、呉服店の軒先のきさきを指さす。


 見れば、そこにはかさが立てかけてある。地味な色の、洋傘だ。


 首を傾げる直子が、東城を見上げて問う。


「あれがどうかしましたか? 何か変なんですか?」


「……と、いうことは、知らないんだな」


 ますます怪訝そうな顔をする直子に、東城はようやく視線を看板から下ろす。田所を見ると、傘を指さしたまま言葉を重ねた。


「三村探偵社の連中が入りびたっていた万佐の茶屋。そこで、やつらが用意した人妻を抱いたことのある男達を見つけたんだ。吉原の門番なんだが、万佐が人妻達を安全に出入りさせるために、袖の下の意味も含めて無料で招待したらしい」


「ああ……遊女の代わりもさせられていたんだったな、人妻達は」


「門番達の方も、相手が人妻であることはうすうす勘付いていたそうだ。肉袋君じゃないが、既婚者の証の丸髷を結っていた女もいたらしい。

 そこで彼らのうちの一人が、抱いた女に『旦那に知られたらただじゃ済まないんじゃないか』と、ちょっとからかうつもりで言ったそうだ」


 東城は田所と直子を交互に見てから、軒先の傘に視線を移す。


「すると女は、三村探偵社や万佐に対して合図を送っているから大丈夫だと答えたそうだ」


「合図だと? あの傘か」


「ああ、人妻は忙しいからな。家を空けて出て来いと言っても、都合がつかない女は多い。旦那の仕事が休みなら一日外出できないこともある。

 そこで呼び出しを食らった女は、家の前に傘を使った合図を出すそうだ。意図的な立て方をしたり、柄の部分にてるてる坊主を下げたりすることで、今日は外出できる、できない、できてももう少し時間がかかる、といったことを三村探偵社に伝えるわけだな。

 もちろん呼び出しに応じられなかったら、罰として『迷惑料』を請求されたらしいが」


 この時代、家に電話機を備えていない家庭も多い。もしも見知らぬ男や、以前浮気調査を依頼した探偵が自分の家を訪れでもしようものなら、浮気妻の夫達は即座に異常に気づくだろう。


 ならば三村探偵社が浮気妻との連絡に、両者にしか分からぬ合図を使うのも当然のことといえた。


 東城は腕を組みながら、ため息をつくように声を吐き出す。


「もしあの傘が三村探偵社への合図だと断定できれば、連中がここの浮気妻と未だに連絡を取り合っている証明になったんだがな。だがあの傘、どう見てもただ立てかけてあるだけだし、てるてる坊主のような分かりやすい装飾もついていない。

 しかも都合の悪いことに、つい最近粉雪が降ったところだ。使った傘を乾かすために軒先に置き忘れたということも、ありうる」


「ああ、それで直ちゃんにあの傘を見せたわけか」


「そうだ。三村探偵社と関わりを持っていたお姉さんから、ひょっとしたら合図のことを聞いていたかもしれないと思ってな。ただ立てかけてあるように見えて、私が知らない特殊な立て方をしているのかもと」


「それって……どういう意味ですか」


 不意に低い声を出した直子に、東城と田所が同時に彼女の方を見る。


 直子は男達の頭からずいぶんと低い位置から、きゅっととがらせた目を東城に向けていた。


 その手から、溶け出したアイスクリームが指に垂れている。


「お姉ちゃんが……その、浮気をしていた女達みたいに、三村探偵社に体を差し出していたって言いたいんですか」


「んん?」


 片眉を上げて自分を見下ろす東城に、直子はますます目を鋭く、眉間にしわを寄せて声を荒げる。


「そういうことでしょう? 私がお姉ちゃんから傘の合図を聞いてたかもしれないって、それって、お姉ちゃんが吉原に呼び出されてたって思ってるってことでしょう!? 浮気妻用の合図なんだから!」


「彼女のお姉さんは、夫の身辺調査を依頼してたのじゃなかったのか?」


 田所に問う東城に、直子は背伸びをしながら「そうですよ!」と声を放った。


「お姉ちゃんは浮気なんて、ふしだらなことをして三村探偵社につけ込まれたわけじゃないんです! 何も悪くないのに連中に命を奪われたんですよ! 勘違いしないでください! お姉ちゃんは……私のお姉ちゃんは!!」


「はーい落ち着こうねー」


 唐突に足音が駆けて来たと思うや否や、直子の頭を背後から美耶子が抱え込んでいた。


 目を丸くする田所の前で、美耶子は犬か何かにするように、直子の頭をめちゃくちゃになでくり回す。


 仰天する直子を襲う美耶子は、吉原にいた時とは違い長い髪を下ろして、件の青地に銀のなめくじ模様の趣味の悪い布をバンダナのように頭に巻いていた。


 服は英海軍の制服を模した、いわゆるセーラーカラーだ。白と水色の生地でできていて、すそが短い。おそらく輸入物か、オーダーメイドだ。


 東城はそんな美耶子を「ご苦労」とねぎらい、次いで直子を莫迦にするように鼻で笑った。


「頭の悪い娘だな。感情的な莫迦というのは子供の時分に脱却すべき形態だぞ……いったい、私がいつ君のお姉さんが体を売っていたなんて言ったんだ」


「だって……!」


「浮気妻達は安全に三村探偵社と接触するために傘の合図を使っていたんだぞ。旦那の目を盗むという意味では、君のお姉さんがその合図を教えられていても何の不思議もないじゃないか。酷い男だったんだろ、彼女の伴侶はんりょは」


 はっとして硬直する直子の頭皮を、美耶子が変わらずがしがしとなでまくる。「あっ、白髪だ」と宝物を発見したように喜ぶ美耶子を、さすがに東城が靴先で蹴った。


 抵抗せずに地面に倒れる美耶子が「ああっ、服が汚れました! 新しいの買って!」とほざく。


 直子は顔を真っ赤にして、自分を見下ろす東城に深く頭を下げた。

 手にしていたアイスクリームは今のゴタゴタで、地面に落ちてしまっている。


「すいません……! 私、あの……」


「『私が莫迦でした』と千回言いたまえ。でなければ、物事を深く考える癖をつけて莫迦から脱却するかだ。田所探偵、この莫迦をなぐさめるのは君の役目だぞ。子供のお守りは御免だ」


 下げられたままの直子の頭を放置して、東城は地面に倒れたままの美耶子を引き起こしにかかる。


 言葉もなく唇を噛んでいる直子には、田所が、東城の指示に従うわけではないが、頬をかきながら、笑いかけた。


「まあ……そう恥じるなよ、直ちゃん」


「……私……つい……」


「気持ちは分かるよ。身内のことだからな。ただ、東城も動機はどうあれ、直ちゃんに力を貸してくれている人間だ。もう少し、信じてやってもいいんじゃないかね」


 田所は直子の肩に手を置き、顔を上げるよううながす。

 まだ頬が紅潮している直子が、老いた男をゆっくりと見た。


 その顔が、一気に青ざめる。

 直子の目は田所ではなく、その後方に注がれている。


 眉を寄せた田所が振り返ると、呉服店の物陰に、隠れるようにしてこちらを見ている女がいた。


 頬を真っ赤に染めた女は、整った顔をゆがめて苦しげに唇を噛んでいる。


 その右の目元には並んだ二つのほくろがあり、その手には、いつの間に回収したのか、軒下に立てかけられていたはずの洋傘が握られていた。


 浮気妻。お歯黒どぶに身を投げようとした、顔に特徴のある女。


 東城の話を思い出し、直子が先ほど大声で口走った言葉を思い出し、田所はぎょっとして喉を詰まらせた。


 だが田所が何かを言う前に、首の下からひょこっと顔を出してきた美耶子が「ご心配なくっ」と田所の口に人さし指を押しつけた。


「彼女、やっぱり三村探偵社と連絡を取り合ってたんだって。吉原の茶屋が潰れてから体目当てに呼び出されることはなくなったけど、何回かお金の無心をしてきたんだってさ。

 最初はすっとぼけてたけど、連中が間接的に殺人を犯したことを話したらさすがに身の危険を感じたみたいで、全部話してくれたの。あの傘、もう出すのやめるって」


「やはりあれが合図だったか」


 美耶子の服についた土を払ってやりながら、東城が口をはさむ。


 美耶子が大きく手を振ると、呉服店の女は深く頭を下げ、恥ずかしそうに奥に引っ込んで行った。


 「あの人大丈夫なんですか!?」と声を上げる直子に、美耶子は首を傾けて答える。


「大丈夫だと思うよ。彼女、私に身投げを止められた日、旦那に全部話したんだって。一度死んだ気になったらまっすぐ顔を見て謝れたって言ってた。旦那さん、許してくれたってさ。タダで許してくれたかは知らないけど」


「浮気を許されたのに三村探偵社にお金を払い続けていたんですか?」


「浮気の証拠写真を握られてるんだってよ。だから旦那も店の評判のために口止め料は払ってたんだって。軒先の傘、てるてる坊主なしで立てかけるのが『行かない』って合図で、今日はどうしてもお金の都合がつかなかったんだってさ」


「……でも……その合図をもう出さないってことは……」


「浮気の写真、ばらまかれるかもね。それも旦那さんと相談するってさ」


 美耶子の説明を聞いて、直子は口に手を当てて視線をさまよわせる。


 店の前で浮気うんぬんの話をされて、呉服店の妻はさぞ恥ずかしい思いをしただろう。幸いなのは、田所達以外に周囲に人がいなかったことだ。


 しかし証拠写真などをばらまかれた日には、今日とは比べ物にならない打撃を、彼女と夫は食らうことになる。


 考え込む田所達に、しかし東城は背を向けて「はっ!」と肩をすくめる。


「相談してどうにかなるものか。悪人に対して妥協だきょうするからそうなるのだ。三村探偵社がこれ以上ふざけたマネをしない内に、我々が叩き潰せば全て丸く収まる!」


「叩き潰す? どうする気だ、殴り込みでもするのか」


 田所の台詞に「この幕末ヤクザ!」と、意味の分からぬ罵倒を返す東城。


「法の網をくぐりぬける悪党には、相応の叩き方というものがあるのだ! とにもかくにも収穫だ! 美耶子君が聞き出してきた情報は煉瓦亭で食事をしながら整理する! 続け!」


「あっ嬉しい! 珍しく名前で呼んでくれた!」


 東城を追いかける美耶子が、その腕にじゃれつこうとしてかわされている。


 田所は直子と数秒顔を見合わせてから、ふっと小さく笑った。


 何はともあれ、確実に三村探偵社には近づいている。問題は多く、解決法も手探りだが、とにかく自分達は前に進むしかないのだ。


 直子の頭を軽くなでると、彼女も浅くうなずいてくれた。


 騒がしい東城達に、少し遅れて田所と直子も続く。


 煉瓦亭ではミワさんが待っているはずだ。




 通りを行く四人が、前から来た通行人とすれ違った。


 東城達と直子は何も気にせず歩き続ける。


 だが、田所だけはすれ違う瞬間、足を止めた。


 その通行人は、かぶったハットの奥から、田所の手に握られた新聞紙の塊をまっすぐに凝視していた。


 そしてまるで中身を知っているかのように、田所の間合いに入らぬように距離を取ってすれ違ったのだ。


 田所は立ち止まったまま、ハットの男を見る。


 こげ茶色の背広を着た、がっちりした体格の男。


 どこかで見たことのある人物だった。


 田所は自分を呼ぶ直子の声が聞こえても、何故か男から目を離す気になれなかった。


 やがて男があきづき呉服店へ入って行くと、田所はその時ようやく彼が木蘭亭で、自分の隣に座っていた男だと、思い至った。

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