赤目探偵(東城蕎麦太郎)と牛袋美耶子 二
「で、結局その東城さんと共同調査することになったんですか? なんだか冗談みたいな話ですね」
「冗談じゃないよ、まったく」
畳の上でぼやく田所に、直子と彼女の母親は顔を見合わせる。
吉原でいったん東城達やミワさんと別れた田所は、その後依頼主である直子の家に帰って来ていた。
東城達と協力する運びになったとはいえ、彼らにも耳かき店を閉めたり、留守中に三村探偵社の刺客が来た時のための備えをする時間が要る。
ゆえに今日のところは各々自宅に帰って休み、明日の朝再び銀座にて集合する、ということになったのだ。
田所としては尊大な名探偵や知りたがりの新聞記者と付き合うのは骨が折れるのだが、今は彼らの持っている情報と人脈だけが頼りだ。
三村探偵社の三人の顔すら知らない田所には、彼らに異を唱える余地はなかった。
田所は今日一日の出来事をすっかり直子達に報告してから、最後に東城の希望を伝えた。
即ち東城が、直子と会いたがっているということだ。
直子が返事をする前に、その母親が飯を盛った茶碗を畳に叩きつけるように置いて「なりません!」と目を吊り上げた。
「吉原なんて不潔な場所に住む輩に、直子を引き合わせてなるものですか。何か淫らなばいきんを持ってるに決まってます、絶対に許しません!」
「み、淫らなばいきん?」
聞いたこともないような言葉を口にする母親に、田所は差し出された箸を受け取りながら目を丸くする。
彼女はまな板の上できゅうりの漬物を刻みながら「ええ、ええ、きっと楊梅瘡(梅毒)持ちだわ」と吐き捨てるように言う。
刻まれたきゅうりは皿に移されもせず、まな板に載ったまま田所へと差し出された。
怒れる母親は手にした包丁の柄で田所を指す。
「田所さん、あなたの口ぶりではあなた自身、その赤目だか金目だかいう探偵の人格をはかりかねているようじゃありませんか。もし直子がその男に何かいやらしいことをされたらどう責任をとるおつもりですか?」
「いや、無理強いはしません。直ちゃんが嫌だと言うならそう伝えるまでです。ただ聞いた話では彼は未だに生息子で女性との性的な行為の経験は」
「そんなことは訊いてませんッ!!」
真正面から怒鳴られた田所は思わず「はい!」と答えて、持ち上げた茶碗で視界から彼女の顔を隠した。
何か言いたげにこちらを見ている直子からも視線をそらしながら、田所は箸の頭でこめかみをかきかき言葉をつむぐ。
「まあ、なんです。彼もおそらく三村探偵社の足取りを追うにあたり、情報を整理するという意味で私の依頼主としての直ちゃんに会いたいと、そう言ったにすぎないのだと思います。
直ちゃんの知っていることは全て私から話すと言えば、それ以上食い下がってはこないでしょう」
「こないでしょう、ではなく、田所さんが断固拒絶してください。そういうところで依頼主を守るのも探偵のつとめでしょう?」
「ええ、もちろん。……じゃあ、この件については俺から断りを入れるということでいいかい?」
後半の台詞は直子に向けて放つ。
だが直子は自分の唇をなでながら、いいともよくないとも言わずに畳に視線を落とした。
「直子」と母親が呼びかけると、娘は独り言のように言葉を吐く。
「田所さんは、なんで探偵になったんですかね」
突拍子もない言葉に、田所が口をへの字にする。
直子は顔を上げずに続けた。
「東城さんは、自分の居場所を作るために探偵の仕事を選んだんですよね。吉原の裏方の仕事から抜け出して、自分の家を持って、自分を待ってる女の人を養うため……つまりは、お金を稼ぐために」
「そういう話だ。彼はまるで探偵小説の主人公のように頭が切れる。現実の世界では推理術に長けた探偵がすなわち名探偵というわけではないが、このご時世、推理ができる探偵というだけで客は集まるからな。依頼料だけでも相当な稼ぎになったはずだ」
「このご時世って、探偵小説が流行ってるご時世、って意味ですか?」
「うむ。そもそも本来、探偵ほど安定して食っていけない仕事もないもんだ。
探偵の主な仕事は浮気調査に失せ物探し、失踪人の捜索などだが、これらは言ってみれば人々の心にわいた一時的な他者への疑いや、突発的な事故などに端を発している。
人心と世間が平和なら、まったく出る幕がないのが探偵という人種だ。当然何週間も依頼が来ず、食うのに困ることも多い」
田所は茶碗の飯の上にきゅうりを載せ、一度がつがつとかき込んだ。
ぼりぼりと咀嚼の音を立てながら、話を続ける。
「私立探偵は儲からない仕事なんだ。名探偵として名をはせ、日々舞い込む依頼に忙しく駆け回っているなんてやつはほとんどいない。では儲けている探偵とはどんな連中か。
ひとつは三村探偵社のように依頼主を食い物にする探偵だ。依頼をこなすかたわら、調査の過程で浮かび上がった人物を一人残らずじっくりと観察し、隙のある者の弱みを握り、口止め料等を脅し取る。依頼の報酬と、それ以外の『臨時収入』で生き残るやつらだ」
「依頼主に迷惑がかかってもお構いなし。探偵というより、犯罪者ですね」
「その通り。そして二つ目は、私立探偵じゃないやつらだ。金持ちや何らかの組織に抱え込まれて仕事をする、飼い犬のような立場の探偵。
もっともこっちは厳密には探偵というより、密偵とかスパイと言った方が正しいかもしれんがな」
「えっ、そんなのが実在するんですか?」
「異国ではそれなりに例があるらしい。警察や政治団体が金を出して飼っておいて、暗躍させることがあるそうだ」
田所は言いながら、その説明が正に始末組として身内の志士の行動を監視していた、かつての自分を表していることに苦笑した。
飼い主から誰が怪しい、どこに不届き者が現れるという情報を与えられ、それに基づいて調査を行い、事実を確認した後、下手人を斬る。
刀を振るうことを除けば、自分がしていたことは組織に飼われた探偵の仕事と、何も変わらない。
俺は志士ではない。探偵だったのだ。密偵であり、スパイだったのだ。
心のどこかで己をあざ笑う声を聞きながら、田所はいつの間にか顔を上げていた直子に、気を取り直して説明を再開する。
「そして三つ目が、東城のような探偵だ。頭脳明晰、事実を的確に組み立て、名推理を展開する。シャーロック・ホームズのような、非現実的な男よ」
「ホームズに似ていたら儲かるんですか?」
「儲かるよ。何故なら探偵に依頼を持って来る人間は、自分が頼る探偵を選ぶための判断材料を探している。
直ちゃんが俺を選んだのも、俺が名探偵だという噂を聞いたからだろう? 誰だって無能な探偵に悩み事を打ち明けたくなんかない。優秀で、悩みを解決してくれそうな相手を選びたいものだ」
そこで、それまで黙って話を聞いていた直子の母親が田所に無言で手を差し出した。
気がつけば話の合間に口に運んでいた茶碗の飯が、すっかりなくなっている。
田所はわずかに頬を染めながら「ありがとうございます」と両手で茶碗を差し出し、おかわりをよそってもらった。
続きを待っている直子に、箸を持ち直してから口を開く。
「つまり、当然の流れとして、評判の良い探偵のところにほど依頼主が集まるわけだ。しかしながら探偵が名声を得るのは、ものすごく難しい。実力のある探偵が的確に仕事をこなし続けても、中々有名にはなれない」
「なんでですか?」
「探偵に頼むのは浮気調査や人探しだぞ。満足いく結果を得られたからと言って、そのことを他人にもらす依頼主は少ないってことだ。
うちの嫁の、あるいは夫の浮気を暴いてくれた名探偵がいるんですよなんて、嬉しげに話すやつはいないだろう?」
うなずく母娘に、田所は飯を箸で持ち上げながら続けた。
「だから、探偵が有名になるには実力それ自体よりも、看板が大事なんだ。どこそこのお大尽の悩み事を解決したとか、金持ちにひいきにされてるとかな。
そして今現在の帝国で最も威力のある看板は、誰もが知る名作探偵小説の主人公、シャーロック・ホームズと同じことができる、ってことよ」
「ああ、確かにホームズ関連の本を読んだことのある人なら、一目会った瞬間に自分の職業や素性を推理で当てられちゃえば、この人は名探偵なんだな、って思いますよね。
何でしたっけ……忘れ物のパイプから持ち主の特徴を当てたんでしたっけ、ホームズは?」
「ああ。パイプの修理跡の特徴から持ち主がそのパイプを大事にしていることを見抜き、焦げ方からふだんランプかガスで火をつけていることや、左利きであることを推理した。
きっと東城も同じことができるだろう。本人は不服だろうが、依頼主は東城のそんなホームズばりの推理を目にすることで彼を信用し、名探偵と断じるのだ。
そして浮気調査の話はしたくなくても、流行りの探偵小説にからんだ面白い男の話は喋りたいのが人の性分だ。『人に聞いた話だが、どこそこにホームズそっくりの名探偵がいるらしいぜ。そいつは小説と同じに、一目見ただけで相手の素性を当てちまうんだ』と、事情通を気取った依頼主達が噂をまいてくれれば、東城は自宅の椅子に座りながらに、稀代の名探偵になれるわけだ」
あとは噂を信じて集まって来る悩める依頼主や、物珍しさにつまらないことを頼みに来る暇人から、たっぷりと依頼料をせしめればいい。
東城という男に限り、探偵業は身一つで大金を稼ぐのに最適の、天職というわけだ。
彼には探偵としての実力以上に、ホームズに類するある種のスター性がある。それが今の時代では名声を呼び、莫大な金を生むのだ。
一連の説明を聞き終わった直子は軽く何度かうなずき、やがてちらりと田所を横目で見ると、「で?」と首をかしげた。
飯を食い終わった田所が無言で茶碗を置くと、直子はさらに「それで?」と声を重ねる。
「東城さんのことは分かりましたよ。でも私が最初に訊いたのは、田所さんのことです。田所さんはなんで、儲からない探偵なんかになったんですか?」
「俺に似合いだと思ったからだ」
田所は、自分の具体的な過去に関しては一切、直子達母娘に明かしていない。
ミワさんに幕末の話をしたことも、単に昔話で盛り上がったのだと表現した。始末組うんぬんの話など、明かせるはずもなかった。
直子はじっと田所を見つめると、やがてため息混じりに肩をすくめた。
「他人の話は長々とするくせに、自分の話は二言三言。そういうのって、どうなんでしょうね」
「直子」
さすがにたしなめるような声を向ける母親に、直子は首を振って続ける。
「田所さんは名探偵だと、確かに聞きました。でも田所さん、さっきの話に出てきた三種類の探偵のどれとも違いますよね。ふだんは空き地の新聞紙の家に住んでて、安い依頼料しか取らない。お金持ちや組織に雇われてるわけでもなく、ホームズとも似ても似つかない。
お金を稼げる探偵の型から完全に外れてるのに……なんで名探偵なんて呼ばれてるんですか」
「だから、知らんよ、そんなことは。俺は見てのとおりの世捨て人、老い先短い年寄りだ。死ぬまでの日銭稼ぎと時間つぶしに、探偵をしてるような男なんだ」
「……私、東城さんに会いたい」
ぽつりと言った直子に、田所も母親も目を丸くした。
即座に「直子!」と声を上げる母から目をそらし、直子は髪をいじりながら言う。
「勘違いしないでくださいね、田所さんが頼りにならないって言ってるんじゃないんです。一日でこれだけのことを調べて来てくれて、感謝してます。だから私も、田所さんの調査が進むなら……そのお手伝いになるなら、東城さんに会ってもいいかなって」
「なりません! あなたは吉原がどんなところか知らないからそんなことを言うのよ! この国で一番近代文明から遠い場所なのよ? そんなところにたむろしている探偵なんかに……」
「お母さん、私、一秒でも早くお姉ちゃんを殺したやつらを見つけたいの」
直子の視線を受け、母親が口をつぐんだ。直子は眉を小刻みに震わせて、低い声を出す。
「お姉ちゃんをあんな目に遭わせた連中が、のうのうと太陽の下を歩けているのが許せないの。
やつらの居場所をつきとめても、何もできないかもしれない。それでもあいつらの前に現れて、ありったけの恨み言をぶつけてやらなきゃ収まらないわ。『警察が許しても、私達は一生忘れないんだぞ。お前達の居場所を見つけて、いつでも復讐できるんだぞ』って、そう思い知らせてやるのよ」
「直子……でも……」
「田所さんがいれば大丈夫よ。最初に会った時、田所さんは私を何人もの暴漢から守ってくれたわ」
直子は田所を見て、薄く笑った。だがその視線にはどこか不安げで、すがるような色がこめられている。
「私は東城さんがどんな人か知らないけれど、お金を動機に探偵をやっている人は、あそこまでしてくれないと思うの。自分が住んでいる場所の住人を敵に回して、見ず知らずの女を助けてくれるのは……損得以外の動機を持ってる人だけだわ」
「……」
「私が選んだ名探偵は、田所さんです。だから私は、田所さんの依頼主として東城さんに会いに行きます」
はあぁ、と、直子の母親が眉間に手を当てて息をついた。
言っても聞かないのでしょうとばかりに乱暴にまな板と包丁を持ち上げ、台所に引っ込んで行く。
田所は、そんな母親の様子に舌を出す直子を前に、ただ鼻をかいてうつむくしかなかった。




