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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵3 ~探偵賛歌~
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人斬り探偵(田所十吾) 五

 吉原はかつては日本橋にあり、その後江戸の中心に近すぎるとの批判を受けて浅草の端へと移転した。


 このことから厳密には移転前の状態を吉原、移転後を新吉原として区別する。


 街は遊女の逃亡を防ぐためにお歯黒どぶと呼ばれるみぞで囲まれており、大門(正門)の先に仲の町通りという大通りが走っている。


 この仲の町通りから左右に無数の道が枝分かれし、街中の店に続いているという構成となっていた。


 基本的に、仲の町通りに沿った店ほど立派な建物に、美人で格の高い遊女をそろえている。


 大門をくぐった男達にまず吉原最高の美女達をずらりと並べて見せ、吉原という街自体に対する期待をあおり、金を落とさせるのだ。


 だがもちろん、そんな最高級の美女と遊べるほどの金を持った客はほとんどいない。

 多くの客は仲の町通りの美女を目だけで楽しんで、より値段の安い遊女を捜して左右の道へと折れて行く。


 街の中心から離れるほど遊女達の、いわゆる質は落ちてゆき、お歯黒どぶに面したあたりの店に行けば器量の良くない、あるいは年を食いすぎて他の店を追い出された、最下級の遊女達が待っている。


 吉原という土地にとって、あらゆる遊女は商品にすぎない。美しく、頭と品の良い女を最前線に置き、そうでない女を日の当たらぬ陰に追いやるのは、経営者達の当然の生存戦略だった。


「旦那、旦那ぁ。遊んでっておくんなまし」


 大門をくぐった直後、ミワさんに店の格子こうしの中から女の声が飛んだ。


 ミワさんは耳をほじくりながら声の主を見る。薄化粧の、島田髷しまだまげを結った美しい女が、笑顔で手招きをしていた。


 きらびやかな着物を着た彼女が、立ち止まったミワさんにちょこんと小首を傾げてみせる。


「あちきを買っておくんなまし、十八でありんす」


「ありんす? 慣れねえ郭言葉くるわことば使っちゃってまあ」


 郭言葉とは、吉原の女が使う独特の言葉づかいのことだ。


 様々な地方から売られてくる女達の中には、お世辞にも洗練された言葉とは言えない口をきく者が少なからずいる。


 客のきょうをそがぬため、また遊女としての価値を底上げするため、女達に叩き込むべく独自に発展したのが郭言葉である。


生憎あいにくお前さんを買えるほどの金はねえよ。他を当たりな」


「では、そちらのお兄様、いかがでござんしょう?」


 お兄様、と呼ばれて仰天したのは田所だ。

 目を丸くして周囲をきょろきょろする彼に代わって、ミワさんが「こら!」と遊女に人さし指を突きつける。


「俺が『旦那』でこっちが『お兄様』たあどういう了見だい! どう見てもジジイだろうが! 可愛い顔してあざといったらありゃしねえ!」


「殿方は年ではありんせん。顔つきでありんす。旦那よりそちらの方が、若々しく男前。……好みでありんす」


 着物の袖で口元を隠し、恥らうような仕草をする女に、ミワさんが「かーっ!」と憤慨ふんがいして田所の腕を力づくで引っ張る。


 なおも声を投げてくる女から遠ざかりながら、「真に受けなさんなよ」と釘を刺した。


「連中は客をいい気にさせて店に上げるのが仕事なんだ。金のためなら男前だの好みだの、何だって言うさ」


「見損なうな、あんな若い娘に老いた体の相手をさせるほど、俺は外道ではないわ」


 その台詞に、ちょうど二人とすれ違った老齢の男が、ぎょっとしたように連れの遊女の尻から手を離した。


 ミワさんは咳払いをしながら、逃げるように遊女を連れて走り去る老齢の男を横目で見、歩き続ける。


 仲の町通りは至極賑やかで、高い遊女を物色する金持ちや、冷やかして歩くために来た文無しなどが、ひしめいていた。


「不思議なもんだな。人斬り、鬼畜として名を残したあんたがそんな台詞を言って、おそらく警察のやっかいになったことのない年寄りが、若くて良い女を金で買って抱いている」


「……俺自身のあり方の問題だ。他人が遊女を買うことをどうこう言う気はない。それに彼女達も、客が手をつけてくれねばどんどん安い店に落とされて、生きていけなくなるのだろう。客は、必要だ」


「本当にそう思うかい?」


 ミワさんが田所を振り返り、見つめた。


「あんたの今の口ぶりじゃ、まるで遊女に良い客さえつけば、彼女らの生活が保証されるみたいに聞こえるんだがな」


「そこまでは言っていない。過去の稼ぎ方がどうあれ、売れなくなれば切り捨てられるのが遊女だ。

 だが、それでも客を取っていればまともな食事にありつけるし、金持ちの客をれさせれば店に残りの借金を払ってもらい、吉原から出してもらえる道も開ける。そうでなくとも、規定の年季を勤め上げれば外に出してもらえるはずだ」


「年季? ああ……あんたが投獄されてる間に、吉原の年季奉公制は廃止になったんだよ。つまり、前借金で遊女を縛ることは法律で禁止された」


 田所は片眉を上げ、ミワさんを見る。


 幕末後の時代の流れは日々集めた古新聞を読むことで消化しているが、未だに三十年の出来事を全て把握するには至っていない。吉原の年季の制度が変わっていたことは、田所にとっては初耳だった。


 かつて吉原に女を売った親は、前借金という形で店から現金を受け取っていた。これは親が店からした借金であり、以降売られた女はその借金分の年季を、遊女として働くわけだ。


 年季は、およそ十年。その期間を勤め上げれば遊女は自由の身になれるという仕組みだった。


 だがミワさんの話を聞いた田所の目は、懐疑的な色をおびていた。


 法的に吉原の仕組みが変えられたと言うが、吉原にまつわる不幸な出来事の報せは、今でも世間に飛び交っている。前借金と年季の制度がなくなったのなら、現在の遊女達は何に縛られているのか。


 ミワさんは道行く人々を眺めながら、鼻を鳴らして言った。


「明治政府は吉原の実態を事実上の人身売買として、女達の解放を命じたのさ。こいつは明治の初めの頃の話だ。当時はそりゃあもう、近代政府の大英断ともてはやされたもんだぜ。幕府が長年続けていた悪行に終止符を打ったってな。

 だが、この解放令は別に遊女達のためのもんじゃなかった。当時国際社会で人権がらみのゴタゴタがあってよ、その時に外国から『日本に遊女って名の奴隷がいる』って指摘されたんで、対外的なポオズとして、日本はここまで人権に配慮してますよと急きょ作られた法律だった。

 だから中身はスカスカで、吉原から解放された女達の生活保障、行き先ってもんを考えた法律じゃなかったのさ。ただ解放しただけ。あとはどうぞみなさんご自由に、だ」


「ご自由にだと……家に帰れる娘ばかりじゃないだろう」


「おうよ。帰る家がねえ、家があっても帰るための旅費がねえって娘が、ちまたにあふれかえるわな。すると女達は生きていくために私娼になる。

 だから政府は東京の風紀が乱れるのを防ぐために、あらかじめ法律に抜け道を空けといた。人身売買はいかんが、女達の自由意志による、公的な場所での売春ならこれを認める、って話にしたのさ」


 自由意志。聞こえのいい言葉に田所の表情が険しくなる。ミワさんは肩をすくめ、続ける。


「法律に抜け道があるなら、吉原側もそれに乗っかるわな。女を集めて営業を再開しますが、当店の女は全員自由意志で春を売ってございます。人格を尊重し、あこぎな真似は一切しとりません。店の名も制度の名も変えまして、新生吉原の誕生でございます。

 結果、法律は形骸化さ。元の木阿弥もくあみ。女を縛る方法も多少やり口が変わっただけで、借金を背負わせることに変わりはねえ。世界は、なーんも、解決しちゃいねえのさ」


「無様だ……」


「もっと言えばこの法律ができたことで、遊女達は公的に管理されることになった。

 健康診断も受けられるし、病気になれば売れっ子以外はほったらかしだった過去を思えばずいぶんマシだなんて声もあるが、見方によっちゃ役人側も遊女を縛る側に回ったとも言える。

 自由意志で店で働いていた女が、自由意志でこさえた借金を返さずに逃げ出しました。この悪党を捕まえておくんなさい、なんて店が訴えてみなよ。警察が遊女を捕まえて、店に引き渡すんだ。その後どんな折檻せっかんが加えられるかなんて、警察はいちいち確かめねえだろう。

 政府が吉原の経営にからんだおかげで、昔みたいに遊女が暴力で店に押し込められることはなくなったなんて、そんなのんきな認識は恥だぜ。借金の縛りがある限り、遊女はやっぱりかごの鳥なんだよ」


 店が遊女の稼ぎを多分に吸い上げ、逆に借金をふくらませる仕組みを作っているのだと、ミワさんは続ける。


 現在ではかつての大夫たゆう花魁おいらんといった高級遊女は姿を消しつつあるが、彼女らのような吉原の人気者ですら、借金から逃れることは容易ではなかったのだという。


 遊女として名が売れ、格が上がると、その位に見合った衣装や装飾品などを身につけることが義務付けられる。


 それらは全て遊女自身が自腹で購入しなければならず、他にも様々な必要経費が、名が売れる以前よりも重くのしかかる。


 妹分の遊女の世話や、裏方の男への心づけなど、金はいくらあっても足りない。よっぽどの上客をものにしない限り、吉原を脱出することはできなかったのだ。


 名が売れなければ借金を返せない、名が売れても、稼ぎ以上の出費がかさむ。

 そして彼女らの日々の食事代、衣装代、仕事道具の賃貸料に病にかかった時の治療費などは、黙っていても懐から流れ出ていく。払えなくなれば、その分の金は借金に上乗せされる。


 吉原が築き上げた、遊女を逃がさないための仕組みは並大抵では破れない。そこにメスを入れずに、吉原に結果的に公的な管理を受けているというお墨付きを与えたのが、明治政府の解放令だったわけだ。


 ミワさんは一通りの説明をした後で、「へっ」と何かを鼻で笑った。その目は吉原の、虚空を見ている。


「客が毎晩女を抱いてやったところで、政府が半端はんぱな介入をしたところで、現状は変わらねえよ。

 あんたの言うとおり、金持ちが遊女を身請みうけしてやればその女は吉原から出られる。それ以外は無意味だ。地獄で貧しく暮らすか、一瞬の贅沢をして暮らすかの違いでしかねえ。

 売れっ子になれば客と一緒に美味い飯を食って、綺麗な着物を着られる。だが借金は減らねえんだよ。体が崩れて、追い出されるまでな。

 年季という期限がなくなった分、骨までしゃぶられる女が増えたって話もあるぜ。もっとも、年季があった頃もそれまで生き延びられない遊女が多かったって話だがな」


 遊女の寿命は短かった。売れない女は過酷な生活環境に病み、売れっ子も性病や、稚拙ちせつな堕胎手術の犠牲になった。


 そう続けたミワさんに、突然背後から「おい」と話しかける者がいた。


 ミワさんと田所が目をやると、藍色あいいろの着物を着た男が二人、腕を組んでこちらを睨んでいる。


 『まずい』という表情で口をゆがめるミワさんに、男の一人が道に唾を吐きながら低い声を投げた。


「さっきから聞いてりゃ、何だあんた。吉原に来て吉原の悪口を垂れるたあ、ずいぶん行儀が悪いじゃねえか」


「別にあんたらに聞かせたわけじゃねえよ」


「聞こえちまったんだよ。おかげで良い気分が台無しだぜ。ちょっと、あっち見てみろよ」


 男が指さす方向を、田所達は素直に見る。


 大通りのど真ん中を、数人の男女に囲まれた遊女がしゃなりしゃなりと歩いていた。


 高価な衣をまとった、輝くような女だった。

 最初に格子の中から田所達に声をかけてきた遊女も相当なものだったが、今目の前を歩いている女の方が、仕草と雰囲気が洗練されている。


 顔を見合わせる田所達の前で、藍色の着物の男達が顔をほころばせてうなずいていた。


「どうでえ、あれこそが新吉原の顔、最高の女の一人よ。三松楼みまつろう虎音とらねと言えば、東京じゃ知らねえやつぁいねえってほどの女傑にょけつだぜ」


 小さく「知ってたか?」とささやいてくるミワさんを、田所がひじで突く。


 鎖骨をどすりと突かれて腰を折るミワさんを、男達が睥睨へいげいする。


「吉原の悪い噂なんてのは、俗説ってやつよ。いいか? この街は日本文化の発展の要なんだぜ。遊女達が新作の衣や飾り物を見事に着飾ることで、それが帝国に広まっていくのさ。

 あんな贅沢に着飾った奴隷がこの世のどこにいるってんだよ? 遊女は奴隷でもなけりゃかごの鳥でもねえ。男も女も、名のある遊女をあこがれの目で見る。けっして卑しい存在じゃねえんだ」


「だいたいよ、あんた肝心なことを分かってねえよ。吉原は性欲のけ口じゃねえんだぜ。ここは格式高い、女との恋愛を楽しむための場所なんだ」


 「ちょっとこれ見てみな」と、男達はまたもや懐から何かを取り出し、田所達の視線を求める。


 差し出されたのは一枚の和紙で、図説つきで吉原での遊び方を記したものだった。おそらくそのへんの店で売っているのだろう。


「そこらの岡場所おかばしょ(私娼窟)と違ってよ、吉原じゃ座敷に上がってすぐ女を抱けるわけじゃねえんだ。最低でも三回は通わないと床に入れねえ。遊女に何度も会って、顔なじみになって、遊女が心を許してくれて初めて同じ布団に入れるのさ」


「遊女にだって客を選ぶ権利があるんだぜ。どんなに通ってもなびいてくれない女もいるんだ。しかも、一度女を狙ったら他の女に会うのはご法度はっとだ。浮気をするような不義理な客は店側が許さねえ。

 遊女の気持ちだってちゃあんと保護されてるんだ」


「だからさ、遊女が無理やり客に股を開かされてるなんて非難は、的外まとはずれなんだよ」


 男達の弁舌を一通り聞いてから、田所はミワさんを横目に見た。


 ミワさんは相手が一応資料を示して議論をする態度を見せたからか、腰を折って尻を突き出したまま不敵に笑っている。


 すっと人さし指を出して、男達を指した。


「あんちゃん達、さては冷やかし専門だな。店に入ったこと、ねえだろ」


 男達の表情が、ぴくりと動いた。顔を見合わせる彼らが、「な、なんでだよ」と返す。


 ミワさんは背筋を伸ばし、はっはっ、と笑いながら差し出されていた和紙を指ではじく。


「こんなもん、何十年も昔の話だよ。それも高級店の花魁級の女の話だ。初期の吉原はこういう面倒な手順を設けることで、女の価値の底上げをしてたんだよ。

 手が届かねえ美女ほど金持ちはやっきになるからな。でも深川や、他の土地にもっと手軽に美女を抱ける非合法の遊女屋ができて、客がそっちに流れちまった。

 吉原も幕府に密告して摘発させたりして、商売敵を潰しにかかったんだが、いたちごっこでよ。結局下級の遊女は手順を省いて抱けるようにしたりして、安売りに走った。

 そのうち保護されるのは高級遊女だけになり、今じゃほれ、そこかしこで綺麗な姐ちゃんが手招きしてるってわけよ」


 こういう議論は慣れていると見えて、水を得た魚のようにまくしたてるミワさん。


 男達はじょじょにのけぞりながら、それでも夢を壊されまいと食ってかかる。


「でも、花魁や大夫は人気だったろ! 世間に認められていたから、特に貧しくもねえ家の親が器量の良い娘を遊女にしようとしたりするんだろうが!」


「そういう変人の親もいるなあ。他にも辛い仕事をしている女工なんかが、遊女に憧れて吉原に入ったりするねえ。でも、憧れと現実は別だぜ。遊女になっちまった後で後悔しても手遅れさ」


「食うのに困るほどの家が、せめて娘だけでも生かそうと思って送り出すこともあるじゃねえか!」


「そんな極端な例を持ち出されてもな。議論のじくがずれていってるぜ。吉原が遊女をどう扱ってるかって話だったんじゃねえのか。いいか、そもそも吉原ってのは……」


 そこまで言ったミワさんの顔に、吉原案内の和紙がばしりと張りついた。「バカヤロー!」「お歯黒どぶにはまっちまえー!」と罵声ばせいを吐きながら、男達が傷ついたような面持ちで去って行く。


 田所は固まっているミワさんを見下ろして、息をついた。


「まあ……郷に入っては郷に従え、とは言うがな。往来で話すべき内容じゃなかったかもしれん」


「人は真実を言われると怒るのさ」


 和紙をはがしながら、ミワさんが肩をすくめる。


 見れば、先ほどの男達一押しの遊女、虎音はまだ通りにいる。


 取り巻きと共に彼女が視線を投げる先には、同じように数人の男女に囲まれて、別の遊女が歩いて来ていた。


 こちらもきらびやかな衣装を身にまとった麗人で、通行人に「いよっ! 砂菊すなぎく!」と名を呼ばれていた。相応に、人気の遊女らしい。


 二人の遊女は互いの距離が近づくと、ゆっくりと上品にお辞儀をした。ただそれだけのことなのだが、その様子を見ていた観衆の中から、どっと拍手が巻き起こる。


 人気者同士が同じ風景に収まっていることへの賞賛なのだろうが、日本において、拍手という行為の歴史は浅い。


 少し前まで、人に対して大勢が手を叩くという行為は無礼であるとされる場合もあった。


 遊女の一人、虎音が一瞬きゅっと目をとがらせたが、砂菊の方は微塵みじんも表情を動かすことなく、往来を歩いて行く。


 田所達の前にいる人々がそれに対して、小声で砂菊の方が女前が上だとささやいた。


 高級遊女も気苦労が絶えないのだなと、改めて目を細める田所の横で、ミワさんがまた余計なことを言った。


「まあ、確かに二人ともすげえ美人だけどよ。もうちょっとこう、にじみ出るようなつやが欲しいね」


 また誰かに絡まれる前に、田所はミワさんの襟をつかんで脇道へ引きずって行く。「いてえいてえ」と騒ぐミワさんに、うんざりした声で言った。


「真実を追い求めることと、なんでもずけずけ口にすることは別だろうが」


「あっ! じいさま! あれ! あれ!」


「やかましいわ!」


「すっげえ上玉!!」


 ミワさんが何度も指さす方向を見ると、道の先を丸髷まるまげを結った女が、青地に銀色の模様が入った衣を揺らして歩いている。


 丸髷とは、髷の形がその名の通り丸くふくれたもので、日本髪の最も典型的な型の一つだ。これに対して島田髷は髷を前後に長く太く結ったもので、様々な種類がある。


 日本髪に詳しくない者には区別がつきにくいのだが、基本的に丸髷は既婚女性が結うものであり、島田髷は未婚の女性が結う髪型である。


 ミワさんが目をつけた女は通りの先を右に向かって歩いて行き、すぐに視界から消えた。


 襟をつかむ田所の手を払いながら、「見た? 見た?」とミワさんが声を上げる。


「とんでもない麗人だったぜ、今のは! びっくりしたなあ!」


「よく見えなかったが……」


「老眼なんじゃねえか? 雪のような肌に名馬の毛並みみたいな髪とまつ毛だ、唇は薄すぎず厚すぎず形が良い、それと腰つきだ! あんな見事な形は見たことねえ! 扇情的せんじょうてきだが、下品じゃねえ!」


 田所は記者としての表現力を尽くして女を褒めちぎるミワさんに、露骨にうさん臭そうな顔をした。


 仲の町通りの人気者二人を艶がないと切り捨てた男が、脇道で見かけた女をべた褒めにするとは。


「吉原をさんざ悪の巣窟のように言っておきながら……」


「それはそれ。吉原を叩くのと吉原にいる女を褒めるのとは別さ。なあ、ちょっとついてってみようぜ。気になる」


「たわけ! 俺達は何をしに来たんだ!?」


 叱責しっせきされたミワさんが、今更ながらに「あっ」と手を叩いた。


 厳しい目を向ける田所に笑いながら「そうだったそうだった」と道を先に歩き出す。


「三村探偵社のひいきの茶屋だったな。お歯黒どぶに面した場所にあるんだ。最低の立地さ」


「なるべく静かに案内してくれ。俺の仕事は連中の居所を調べることだ。踏み込むわけじゃないからな」


「つまんねえな。いや、ま……そう遠くねえよ」


 田所に睨まれ、ミワさんは道の先を、左に曲がる。


 二人はそのままいくつか道を曲がり、仲の町通りからどんどん離れて行く。お歯黒どぶは吉原を囲む仕切りだ。当然それに面する茶屋は、吉原の末端にある。


 しばらく歩くと通行人とすれ違わなくなり、どぶの臭いが漂って来た。


 華やかな大通りから一転、質素なあばら屋が立ち並ぶ、吉原の最下層の風景が広がった。


 立ち並ぶ家や店のすぐ前に幅の広いどぶが走っていて、覗き込むと深く溜まった黒い泥から、得体の知れないゴミや虫が顔を出している。


 田所は顔をそむけ、先を行くミワさんを追った。


 途中髪を乱した、顔面に刃物傷のある遊女が二人を見つけ、引きつった笑顔で近づいて来る。「あるだけでいいよ」とかすれた声で言うと、遊女は帯を解いて着物をはだけた。


 一目見て剃刀を当てられたと分かる傷が無数に走る体に、田所が眉間にしわを刻む。「何か食ってくれよ」とミワさんがポケットから硬貨を取り出し、遊女に向かってはじいた。


 同情ではなく、面倒ごとを避けたのだろう。ミワさんのポケットは、たくさんの安い硬貨の形にふくれていた。


 何が自由意志での売春だ。何が公的な管理だ。


 胸中でうなる田所の前で、やがてミワさんが立ち止まった。


 呆然と目の前を眺めている。


 その視線の先には、お歯黒どぶに面した、小奇麗な洋風の建物があった。


 二階建てのレンガ造りで、窓には色つきのぎやまんがはまっている。あばら屋だらけの風景の中、その色鮮やかな建物だけが奇妙に浮いていた。


「ひょっとして、ここか? 汚い茶屋じゃなかったのか」


「前来た時はそうだったんだが……おかしいな、看板がある。『東城とうじょう専門耳かき店』」


「『東城耳かき専門店』じゃないのか?」


 どちらにせよ、奇妙な店だ。耳かきを売る店なのか、耳かきをしてくれる店なのか。


 ミワさんは頭をかきながら、うーんとうなって田所を振り返る。


「店が変わったのかな……とりあえず、三村探偵社の連中が使ってた茶屋は、ここにあったんだが……」


 田所は腕を組み、考え込む。


 目の前の建物の小奇麗さと、殺人に関与して姿をくらました三村探偵社のイメージが、どうしても合致しないのだ。


 人知れず世間から姿を消すような連中が、こんな目立つ建物に隠れるものだろうか。


 試しに窓のぎやまんに触れてみるとぴかぴかで、触れた田所の指にはちりひとつついていない。こまめに清掃されているらしい。


 うーん、とうなる田所が、次の瞬間頭上に視線を感じて窓から飛びのいた。


 ばっ、と上を見上げると、二階の開け放たれた窓から、丸い二つの物体が覗いている。


 目を細めた田所が、それが衣に包まれた女性の乳房だと気づいた直後、乳房の上に乗った顔がにやりと笑った。


「あーあ、ついて来ちゃったよ。そんなにおいしそうだったかな? 私」


 銀色の、おそらくなめくじを模した模様が這う、青い着物の女。


 ぽかんと口を開けたミワさんが「あの女だ」とうめいた。


 ミワさんが言葉の限りをつくして褒めちぎっていた、丸髷の遊女。


「どうしたあ、肉袋にくぶくろ君」


 店の奥から、男の声が響いた。


 肉袋? 顔を見合わせる田所達の頭上で、女が「はーい」と返事をする。『どうした』と訊かれて、『はーい』もないものだが。


 女は田所達を見下ろすと、ちょいちょいと返した右手の人さし指をしゃくった。「上がっておいで」と言う彼女が、窓枠に両ひじを置いて、頬杖をつく。


 判断に困った田所達が二の足を踏んでいると、続いてバン! と何の前触れもなく建物の玄関扉が開く。


 顔を出したのは背の高い若い男で、黒の革靴に黒のズボンを履き、細いタイを締めたワイシャツの上に、灰色のジレ(中衣)を着ている。


 髪を七三に分けた、しゅっと引き締まった顔立ちの男だったが、その目にはどういうわけか、赤い色つきのレンズがはまった眼鏡をかけていた。


「君達、早く入りなさい。時間は待ってくれないぞ、早速本題に入ろうじゃないか」


 先ほど建物の奥から響いた声だった。


 田所はミワさんにそっと「三村探偵社の人間か」と訊いてみたが、ミワさんは無言で首を横に振る。


 赤い眼鏡の男はタンタンと床を鳴らしながら「早くしたまえ。この東城蕎麦太郎とうじょうそばたろうをいらつかせるんじゃないっ」とかす。


 東城はいいが、蕎麦太郎とは珍妙な名前だ。


 田所は少し考えた後、左手に握った新聞紙の塊に一度目を落としてから、東城の方へ踏み出した。


 踏み込むつもりはなかったが、この状況で逃げても仕方がない。


 ミワさんは外に残すべきかと思ったが、東城が「ハリー!」と英語で急かした途端、ミワさんの方から建物の方へ走り寄っていた。


 田所は周囲に他に人の気配がないことを確認してから、ミワさんと共に、東城専門耳かき店へと足を踏み入れた。

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