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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵3 ~探偵賛歌~
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人斬り探偵(田所十吾) 四

面白おもしれえ。たまらんな、こりゃ」


 話を聞きながら紙にペンを走らせるミワさんが、口端をにやにや歪めてつぶやいた。


 眉間に深いしわを刻んだ田所に、ミワさんはペン先を舐めながら「それで」と目を上げる。


「獄中生活はどうだった? 他の囚人と喧嘩したり、殺し合ったりしたのかい。政府から刺客が送り込まれてたりしたら最高なんだがな」


「俺は独房に入れられたんだ。他の囚人とはほとんど会ってない」


「三十年、ずっと?」


「ずっとだ。ずっと一人で、四畳ほどの牢の中にいた」


 ミワさんは一瞬拍子抜けしたような顔をしたが、四畳ほど、という言葉に再び目を輝かせる。新しい紙を取り出しながら、食いつくように訊いた。


「ずっとと言っても、風呂や便所の時くらいは出してもらったんだろう」


「風呂に入ったことはない。便所も、部屋の隅に穴が空いていて、そこから下を通るみぞに用を足した。詰まった時は自分で掃除するか、看守が気づくまでそのままだった」


「臭くて狭くて最悪だな。実に面白い。囚人とはいえ、この扱いは前時代的な人権無視の蛮行ばんこうと言える。その筋の組合が喜ぶぜ」


「罪人に人権などあるのか」


 細い目を返す田所に、ミワさんは肩をすくめる。


 議論する気はない、とばかりにまずい珈琲をすすり、またもや「それで」と目を上げる。


「風呂に入れねえ、ケツも拭けねえ、そんな環境でよく病気にならなかったな」


「飲み水を節約したり、牢の中に生えた雑草をしぼった汁で少しずつ体を洗っていた。搾った草は乾かして、便所紙の代わりに使った」


「土の床だったのか!? ますますひでえな、あんたをおとしいれた何某なにがしがわざとあてがったに違いねえぜ。獄中死させる気だったんだ……ちなみに、飯は?」


雑穀ざっこくかゆが、一日二杯」


 ミワさんは疑わしげな目を田所に向け、じろじろとその体を見た。


「信じられねえな。三十年間お粥だけでその体を維持できるわけがねえ。足腰が立たなくなるはずだ……絶対に肉を食ってた」


「鼠がいた」


 ミワさんの目は、細められたり見開かれたりと忙しい。


 ペンをがりがりと動かしながら、身を乗り出して言葉の続きを待っている。


「独房は、監獄の隅にあった。看守は飯を運ぶ時と、便所代わりの溝を掃除する時以外には近づかない……だから、鼠がたくさんいた。ヤモリもいたし、雨の日には蛙やへびも入り込んだ。足元の土を掘れば、太った白い幼虫がたくさん出てきた。掘りすぎると件のみぞに突き抜けちまうがな」


「それを食ったのか。火を通さずに?」


「火の気などなかった。だが鼠は不潔だし、ヤモリやへびは生食すると臓腑ぞうふが痛んだ。だから乾いた草をんで縄にして、頭の上にわたして、そこに肉を干した。

 幸い天井に明かり取りの穴があったから、いつかは干し肉になった」


「なあ、この話どっかに載せていいかな」


 田所は目を閉じて「名前は伏せてもらう」と短く答えた。


 うなずくミワさんが紙を使い果たし、きょろきょろと首を巡らせると、自分の手の甲に続きをメモし始める。


「食事は分かった。で、食い物を作る時以外は何をして過ごしたんだい?」


「壁に、割った茶碗の欠片かけらで記録を書いていた」


「何の記録?」


「幕末の記録よ。俺が何をして、何故牢に入れられたのか。俺は何者で、何をこころざし、どんな敵を倒さねばならぬのか。それを壁にしたため、読み返した。

 忘れぬよう、しばらく経ったら文字を消して、同じことを書き続けた。それが終わったら、あとは寝るか、体を動かしていた。運動をして、壁を殴っていた」


「目的は復讐か」


 すぐに手の甲を文字で埋めたミワさんが、袖をまくりながら興奮した様子で言う。


 だが田所は三十年の鍛錬で巨木の枝のようになった腕をなでながら、ため息をついた。


「同士の無念を晴らしたかった。年を取ると、つい過去のしがらみを引きずっているのがみっともなく思えたり、何もかも許すことが正しいのでは、と思ってしまうこともあったが……そうした時、必ず始末組の同士が枕元に立つんだ。

 何を言うわけでもないが、みんなじっと俺を見下ろしている」


「分かるぜ。諦めるなって言ってるんだな。それで……牢を出た後、あんたは」


「三十年だ」


 低く言う田所に、ミワさんは片眉を上げる。


 田所はテーブルの上に目を落とし、もう一度「三十年だ」とつぶやくように言った。


「俺達始末組をいいように使い、切り捨てた男も、その側近達も、かたきといえる人間はみんな死んでいたよ。俺が牢を出た頃には、誰もこの世に残ってなかった。

 必死に牙が抜け落ちないようにぎ続けてきたのに、突き立てる相手が天寿をまっとうしていたんだ。この莫迦でかい体だけが、意味もなく丈夫に生き残っちまった」


 ごつごつとした自分の手を見つめる田所に、ミワさんは口端を上げたままひじまで文字を書き連ねる。


 はぁ、と満足したような吐息をもらす彼に、田所はじろりと目をやった。


「不愉快な人種だな。新聞記者というのは」


「そりゃ、聖人君子せいじんくんしにはできない仕事なんでね。しかし実に面白い……三十年の悲願を諦めたあんたは、その頑強な体ゆえに死ぬこともできず、復讐のための刃を他人のために使っている、と。演劇屋あたりが喜びそうなネタだなあ」


「ぬかせ。あんたなんかに、俺の人生が分かってたまるか」


 傍らの新聞紙の塊に目をやるミワさんに、田所は足を組みながら「さあ」と鋭い声を向ける。


「次はあんたがしゃべる番だ。三村探偵社の連中の居所を吐いてもらおう」


「やつらを締め上げるんなら、俺も連れてってくれるかい?」


「調子に乗るなよ」


 田所の顔を見ずに、ミワさんは鼻をかきながらくい、と首を傾ける。


 少し黙ってから、視線を外したまま、話し出した。


「さっき言ったように、三村探偵社のあった建物はもぬけの殻だ。どこに行ったか、はっきりとしたことは言えねえ。ただ……なんとなくでいいなら、心当たりがある」


「どこだ?」


吉原よしわら


 ミワさんは首を逆の方向に傾ける。田所は眉を寄せ、「吉原……」と彼の言葉を繰り返した。


「我が国きっての遊里か。確か少し前に大火事で燃えたはずだが」


「ああ、風にあおられた火に有名な店がいくつも灰にされた。ちょうど廃娼運動もさかんだったから、吉原再建に反対の声も多かったんだが……性欲に直結する街はやっぱり莫大な金の流れを生むしな。一年とかからず、元通りよ」


 男にとっては極楽、女にとっては、地獄。


 借金のかたに売り払われたり、一身上の都合等で自ら足を運んで来た女達が、好むと好まざるとにかかわらず春を売る政府公認の色街。それが吉原だ。


 田所のかつての同士にも、親の都合で吉原に売られ、囲いの中で病死した姉だか妹だかをもつという志士がいた。


 四民平等、ひいては貧しい女達がしいたげられぬ世のためにと口癖のように言っていた彼の悲願は、明治、大正と二度世界が変わっても、叶う様子はない。


 だがそもそも吉原のような遊里をなくせば女達が救われるのかと言うと、それもまた疑問だと田所は思う。


 おそらく、吉原が存在することが悪なのではない。


 吉原に嫌がる女を無理やり押し込め、尊厳を奪い、彼女らの売れ方次第ではさらに劣悪な環境において、搾取さくしゅする。


 そんなことが公然と行われている現状こそが、悪なのだ。


 貧しさはいつの世もあり、そのために誰かの娘や妻が売られる。


 吉原は貧しさに耐えかねた人々が訪ねる、いわば窓口の一つにすぎない。


 世の中から遊里が消えれば、女達が売られない代わりに別の何かが犠牲になる。


 犠牲を払わねば生きていけない人は、必ずいる。


 彼らに『犠牲の払い方』を教える連中がいる限り、不幸な出来事はなくならないだろう。


 国全体の貧しさを解消し、その上で人間を売ることが許されぬことだと、当然のように認知される世を作る。

 それもまた田所達、四民平等を掲げた志士の本来なさねばならなかったことの一つだったはずだ。


 その点では、現在の吉原の実態を事実上良しとしている政府は、田所にとっては恥以外の何ものでもなかった。


 大火後の吉原が『元通り』だと言うのならば、吉原の下級娼婦達の生活は、いまだに人間らしさのかけらもないということだ。


「その吉原に三村探偵社の連中が隠れていると? 根拠を聞こうか」


「うちはあくまで連中とは広告掲載の取引をしただけだから、それほど深い関係にあるわけじゃない。ただ、三村探偵社は何というか……その筋では有名でね」


 その筋。田所はミワさんの言葉に首を傾げ、「どの筋だ?」と問うた。


 ミワさんは田所の顔を見上げながら、文字でいっぱいになった手を組んで唇を舐める。


「つまり、吉原に関係する筋さ……探偵ってのはさ、あんたみたいに志がどうの、義理がどうのとかっこつけたヤツばっかりじゃないんだ。シャーロック・ホームズは異国の話だ。それも想像上の産物。かっこよろしい名探偵なんざ現実にはまずいねえ」


「やつらはどんな格好の悪いことをしでかしたんだ?」


「たとえば浮気調査の依頼が来たとするわな」


 ミワさんが鼻を鳴らし、目を細める。


「どこぞの夫が、妻の素行を調査しろと言ってくる。三村探偵社はそこそこ優秀だから、その程度の依頼は難なくこなす。

 妻が潔白なら、それを夫に報せて喜ばせて終わり。逆に本当に浮気をしていたなら、妻の方をおどして口止め料をせしめる。で、夫にはやっぱり潔白だと報告する。

 すると、三村探偵社が扱う浮気調査は、全部空振りって結果になる」


「サギだな」


「うん。でもこの程度のことは、探偵業界じゃ珍しくない。よっぽどスキモノの女じゃなけりゃ、そんな目に遭えば金輪際こんりんざい浮気からは足を洗うからな。

 依頼主に嘘をついたことが露見する心配もほとんどない。女の浮気に限っては姦通罪が発生するから、彼女達は弱気にならざるをえないのさ。男の浮気は罪が軽い分、開き直るヤツもいるだろうけどよ」


 田所は直子の母親の言葉を思い出した。

 浮気は不義なことだが、それでも男女は、大正の今もなお平等ではない。

 同じ不義を犯しても、裁かれ方が違うのだ。


 ミワさんが「それで」と、頭をかきながら続ける。


「浮気者の嫁が、とびっきりの美人だった場合。三村探偵社はさらにかっこ悪いことをしでかすのさ」


「……」


「何となく想像がつくだろ? 三村探偵社……社長の三村以下、二人の社員がいるんだが……こいつらが美人の嫁さんを、全力でおどしにかかるんだよ。そりゃもう、ヤクザばりのあくどさで。

 やれ旦那に言うぞ、東京にいられなくしてやるぞ、姦通罪で投獄されるぞ、三人がかりであることないこと騒ぎ立てる。頭の弱い嫁さんほど一発で参っちまう。どうか秘密にしてください、お金なら払いますから、とね。だがもちろん、三村探偵社は金だけじゃ引き下がらない」


「まさか吉原に売っぱらうなんて言わんだろう」


「ああ、そんなこたしねえよ。ただ連中、吉原の隅っこにひいきの店を持っていてな……きったねえ下級茶屋なんだが、そこに嫁さんを連れ込んでいただいちまう・・・・・・・のさ」


 左手の親指と人さし指で輪を作り、そこに逆の手の親指を突っ込むミワさんに、田所の眉間に亀裂のようなしわが何本も走る。


 小さく「ゲスめ」とうなる田所に、ミワさんがゆったりとうなずきながら言う。


「そうやって社員全員で楽しんだことも、嫁さんにとっての浮気の前科になるわな。

 俺がこんなことを知ってるのはさ、三村探偵社の社員が、酒の席で同業者にそのことを武勇伝みたいに自慢げに話したって、ネタを仕入れたことがあるからなんだよ。

 あいにく有名人の場合と違って、探偵が酔ってもらした失言なんか記事にできなかったけどな。さすがに調査の名人相手じゃ現場を押さえるのも無理だったし」


「つまり、今までの話はあくまでうわさか?」


「まあね。だが有名なうわさだ。俺達記者の間じゃあな。吉原はある意味治外法権みたいなところがあるし……全財産持ち出してひいきの店に閉じこもってるってのは、案外賢い逃げ方かもしれねえよ」


「そのひいきの店に連れ込まれた嫁は、最終的にどうなるんだ」


 ミワさんは「さあ?」と天井をあおいでから、また鼻を鳴らした。

 ふご、と、家畜小屋の豚が立てるような音がする。


「そっから先は酒の席でも話さなかったらしいが、見当はつくだろ。あんたの依頼主の姉さんの殺され方を考えりゃあな。

 同じ家に住んでる暴力癖のある夫を、その妻の名を出しておどせばどうなるか。彼女がボコボコに殴られて殺されちまうことぐらい、誰だって予想がつく。

 三村探偵社は、他人の嫁さんの命なんてどうとも思ってねえってこったよ。茶屋に連れ込まれた女達も、都合の良い時に呼び出される情婦にされるか、それとも茶屋の中で『小遣い稼ぎ』をさせられるか」


「茶屋の名前は」


 田所は訊きながら席を立つ。


 ミワさんも同じように椅子から尻を上げるが、右の手の平を差し出して「おっとっと」となにやらほざいている。


「俺が案内するよ。ネタを仕入れた時に半年ほど張り込んだから間違いようもねえ」


「三村探偵社に悪党の疑いがあったのに広告を引き受けたのか、あんたは」


「別に俺が引き受けると決めたわけじゃねえが、こっちも商売なんでね……おっとっと、じいさまどこ行くんだい」


 テーブルに金を置いて店を出て行く田所に、ミワさんが追いすがる。


 田所は前を向いたまま、吐き捨てるように言った。


「『義を見てせざるは勇なきなり』だ! あんたは気に食わん!!」


「俺はお強い志士じゃないもんね。ただのか弱い新聞記者様さあ。ま、ま、そう意地を張りなさんなよじいさま。あんた最後に吉原行ったのいつだい? 土地勘のないやつがふらふらしてたらおっぱいのおっきなおねえさんに一銭残らずむしり取られちゃうぜ」


 巨大な田所がミワさんを振り返り、ぎろりと子供のように見下ろした。

 その視線を真正面から受け、ミワさんが笑う。


「義を見て勇を示すのはあんたの仕事。それ見て飯の種にするのが俺の仕事。心配すんなって、俺だってあんたにぶった斬られたくないからよ、迷惑かけるような記事にはしねえからさ」


「俺が、たやすく人を斬ってきたと思うのか」


「思うねえ。人斬り十吾は便所に行ったらその帰りに首を持って来たって、本に書いてあったぜ」


 田所の目が、わずかに見開かれる。

 「本?」とつぶやく彼に、ミワさんはその胸のあたりを指さしながら言った。


「とある明治政府のお大尽だいじんがご一新以前を振り返って、書き記した自伝があってさ。基本的に自慢話ばかりだから誰も読まなくて、全然売れなかった。

 でも一応お偉いさんの著作だから俺は読んだんだよ。揚げ足取れねえかなってさ。そこにあんたのことが載ってたんだ。ご丁寧に似顔絵つきでさ」


「似顔絵」


「実物を前にしたら、けっこう上手い絵だったんだなって思うよ。いや、若い頃の顔を描いたはずだから、下手だったのかな。まあどっちでもいいや。とにかくあんたのことが書いてあった」


 ゆっくりと体を向ける田所に人さし指を引っ込め、ミワさんは笑顔を消す。


「人斬り十吾は、目的のために人を斬るのではなく、人を斬るために目的を選んでいたってさ。その脳漿のうしょうには大義や道理、人の情といったものはなく、代わりに鬼がみついていたって。人を斬れ、斬り殺せ、そう命じる悪鬼がいたのだと」


「気取った文章だ」


「自伝なんざだいたいそんなもんさ。あんたは志士の面汚しで、自分の欲望のために刃を振るった悪党だと書いてあった。みんなあんたを信用しなかったし、恐れていたってさ」


 じっと自分を見つめる田所に、ミワさんは少し間を置いた後、低く「それでいいのか」と問う。


 田所は即座に鼻で笑い、また背を向けて歩き出す。その後に続きながら、ミワさんが声を放つ。


「『勝てば官軍』でいいのか。勝者側だろうと敗者側だろうと、立派なやつは立派だしクズはクズだ! クズに悪党呼ばわりされて死んでいくのが悔しくねえのか!」


「俺達志士は、厳密には元々悪党側だ。まだ幕府が日本の中枢ちゅうすうだった頃に、その転覆てんぷくを狙って行動していた。後に朝廷のお墨付きを得たとしても、反逆者だった過去は否定できん」


 だが、悪の汚泥おでいをかぶってでも見たい世があった。


 それは、今のこの世界じゃない。


 そう続ける田所に、ミワさんが早足で並んだ。はれぼったいまぶたの奥から、鷹の目のような鋭い光が田所を射抜く。


「真実が見てえんだよ。糞みてえな自伝のぺーじに押し込められてる人斬りの真実は、どこの新聞取ってたって拝めねえ。

 ほんとはな、あんたの話が売れるかどうかはどうでもいいんだ。俺は真実を崇拝してる。誰も知らない真実を知ることが喜びなんだ」


「変人だな」


「悪役だったはずの男が何をするのか見てえ。だから案内させろや。じいさまよ」


 ミワさんが、巨大な背中を腕を伸ばして叩く。


 田所は再び彼を容赦なく睨んでから、無言で吉原の方へ歩き続けた。

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