人斬り探偵(田所十吾) 二
直子の家は木蘭亭から歩いて十分ほどの距離にあり、本屋と豆腐屋の間に埋もれるようにして建っていた。
平屋の木造家屋で、門もなければ庭もなく、玄関と居間と、あとは台所と便所しかない。
直子の母親は娘が連れて来た探偵を厳しい目で迎え、茶と梅干を出した。
直子の母親にしては、ひどく年をとっているように見える。下手をすれば田所の方が若々しいぐらいだ。
長女を失った心労で一気に老けてしまったのかもしれないな、と思いながら、田所は畳の上に正座して茶をすすった。
「一円で娘に雇われたとうかがいましたが」
対面に座った母親が、やつれた頬をひきつらせながら言った。
「探偵の依頼料としては、ずいぶんお安いのじゃありませんか」
「ええ、まあ。人探し、それも相手が犯罪者や探偵とくれば、ふつうはもっと取るでしょうな。ただ俺、いや私は、老い先短い身ですから」
「そんなに溜め込んでもしょうがありません」と頭をかく田所に、母親はふっと息をつく。直子は外に、明日の朝飯のおかずを買いに出ていた。
母親の目がちらりと、田所のわきに置かれた新聞紙の塊を見る。
中身が日本刀であることを知るはずもないが、何かろくでもない品であることは察したようだった。その目に、警戒の色がにじむ。
「娘からことの経緯はお聞きでしょうが、私は探偵が嫌いです。世の中の探偵小説好きの連中は、みんな莫迦な夢想家だと思っています」
「でしょうな」
「娘があなたを雇ったのは、ただ百合子……姉の無念を晴らしたい一心です。家族を奪った仇と同業の人間を頼らねばならないなんて、なんと情けないことか……」
「そのことなんですがね。警察は今回のことで、ちゃんと捜査を進めているんですか? 直ちゃんの話では、どうも彼らにはやる気がないようだとか」
娘を馴れ馴れしく呼ぶ田所に母親はじろりと視線を向けたが、すぐにため息をついて目を閉じた。
隣の豆腐屋から、店を閉める物音が聞こえてくる。
「やる気なんか、ありませんよ。警察は三村探偵社を追う気がないんです」
「どうして? おたくの長女さんが殺されたのは、連中の行為が原因でしょう」
「警察はそう思ってないんですよ。私も直子もさんざ訴えましたけど、結局取り合ってもらえませんでした」
母親は田所に出した梅干のひとつをつまみ、口に放り込んだ。
眉間にしわを寄せ、目を閉じたまま低く続ける。
「百合子を殺したのはあくまでその夫。三村探偵社はきっかけを作ったかもしれないが、彼らが介入しなくても遅かれ早かれ殺人は起こったというのが、警察の見解です」
「でも、脅迫の事実はあったんでしょう? 三村探偵社が夫を脅迫し、追い詰め、殺人に及ばせた。逮捕された夫がそう証言したと」
「事件の加害者の言葉を信じる警察がどこにいる、どうせ罪を軽くするための方便だ、と言われました」
納得のいかない田所に、母親はゆっくりと目を開け、またため息をつく。
几帳面な性格のようで、彼女の出した梅干は全て種が取り除かれていた。
「食い下がれば食い下がるほど、警察の態度は冷たくなっていきました。殺人犯が捕まっているのに、何故これ以上捜査を続ける必要がある、警察もひまじゃないんだ、他にもたくさん事件がある。
三村探偵社の殺人事件を誘発した『言葉』が罪になるなら、殺人犯の周囲の人間のほとんどをしょっぴくことになる。そんなことをすれば社会が崩壊する、と」
「分からないこともないが、しかし……」
「警察は、きっと百合子が探偵に夫を探らせていたのが、気に入らないんだと思います」
眉を寄せる田所を、母親はじっと見つめる。
「田所さんは幕末期の動乱を知っておられると聞いております。あの時は確か、維新政府が『四民平等』を掲げて民を味方につけようとしたのでしたね」
「ええ、まあ。新しい世の素晴らしさを強調して、そういうことを宣伝しておりました」
「民は平等。人は平等。幕末以降も色んな民権運動が起こって、平等な社会とやらを実現しようとみながやっきになっています。でも、男女はいまだ平等ではありません」
彼女の言葉に、田所は何となく事情を察して腕を組む。母親は虚空に視線をそらし、口元をゆがめて言った。
「もちろん、男女は体のつくりからして違います。完全に平等に、仕事や役割を振るのが難しいことは分かっています。でも社会を作る一員として、少なくともどちらも人として尊重されるべきです。
男が劣っているわけでも、女が劣っているわけでもない。男女それぞれにできることとできないことがあります。ただ、それだけです」
「警察はつまり、被害者を人として扱わなかったと?」
「妻は夫を信じるもの。それが妻の当然のつとめ。多少暴力を振るわれたぐらいで夫を裏切り、探偵などという臭い者に売り渡すはけしからんことだと。そう言った刑事がいました」
悔しげに唇を噛む母親が、首を振って「莫迦なことを」とうなった。
「人を傷つけることは罪になる、でも私の娘は、いくらでも殴られていいと言ってるんです。警察は家庭に立ち入らないものだとか、そんなことばかり言って……警察が守ってくれないからあの子は、自分の知恵で自分を守ろうとしたんです。それを咎めるだなんて。警察は娘を、家畜か何かだと思ってるんですよ」
「だから警察は、被害者の遺族の言葉を聞かないわけですか。夫を裏切った妻が、夫に撲殺された。夫は逮捕された。どちらも悪い。はい、おしまいか」
母親が目元を押さえたところで、玄関の扉が開いた。
買い物かごを提げた直子が居間に入って来る。
田所は涙を拭う母親の前で腕組を解き、直子に向かって笑いかけた。
「直ちゃん、とりあえず明日、三村探偵社の広告を出した新聞社に行ってみる。きっと手がかりが残ってるはずだ」
「大丈夫ですか? 田所さん言っちゃなんですけど浮浪者だし、身元のはっきりしない人は門前払いにされるんじゃ」
「余計なお世話よ。ただ、三村探偵社の連中を捕まえたとして、警察に連れて行っても罪に問えるかどうかは分からんぞ」
直子がちらりと母親を見、それから田所のわきに置いてある、新聞紙に包まれた日本刀を見た。
むっと口を引き結ぶ田所に、直子は無表情に言葉を返す。
「警察が見逃しても、絶対に許さない。どんなことをしてでも罰を与えてやります。田所さんは、やつらの居場所さえ突き止めてくれればいいんです」
「これは貸さんぞ。お前さんの持つ物じゃない」
「何言ってるんですか?」
ふっと笑う直子の顔が、田所には妙に危なげに見えた。
だがその表情もすぐにかき消え、直子は買い物かごを置いて部屋の奥に歩いて行く。
押入れを開けて木綿布団を取り出し「田所さん大きいから二枚要るかなあ」とわざとらしく大きな声で言う直子。
田所は彼女の母親と視線をかわし、しばらく押し黙った後、おもむろに目の前の梅干を茶に全部落とし入れて、一気にすすり込んだ。
翌日、田所は朝八時に間宮家を出て、広告に社名が記載されていた新聞社へ向かった。
屋根の下で、それも布団にくるまって眠ったのは久方ぶりで、浮浪生活の疲れが驚くほどに吹き飛んでいる。
直子がたらいに湯を張って湯浴みもさせてくれたので、筋肉のこりも癒えて快調そのものだった。
鼻下とあごに生えた白ひげは短く切り整え、伸びた髪はやはり直子からもらった元結で、後頭部でひとまとめにくくった。
元結とは髪を結い、まとめるための糸や紐のことだが、直子の元結は上等の和紙でできていて、紫色をしていた。
少々気恥ずかしい気もするが、髪をまとめたおかげで視界がずいぶんとすっきりしている。
履き古した革靴には靴墨が塗られ、一張羅のズボンとワイシャツも夜のうちに石鹸で洗濯してもらい、火に当てられて乾いていた。
温かい飯としじみの味噌汁も腹に入れ、正に生まれ変わったかのような爽快感と共に道を歩く。
左手に新聞紙の塊を持つ田所を、屋台の焼き鳥屋が怪訝そうに見る。
はつらつと歩く巨大な老人は、大きな手を振り上げて初対面の相手に「よう!」と挨拶した。
つい同じように挨拶を返した焼き鳥屋が、はて、あんなデカブツの知り合いがいたかと首をひねっているのを取り残し、田所はずんずんと銀座を行く。
目指す新聞社は大手のものではなく、どちらかと言えば雑誌に近い物を発行している弱小会社だった。
銀座に社屋を構えているものの、目の前に立ってみればそれはかろうじて二階建ての、古ぼけたみすぼらしい建物だ。
下手をすれば隣に立つ立派なビヤホールの倉庫か、物置に見えるかもしれない。
玄関扉を開くと、薄暗い廊下に足の置き場もないほど箱や紙切れが転がっていて、奥から男達のがなり声が聞こえてきた。
田所が慎重に足を踏み出すとほぼ同時に、廊下の途中にある階段から男が一人駆け降りて来る。
彼は田所を見るや、眉を寄せて露骨に嫌そうな顔をした。
「何だね君、何の用だ? 我が社はいつも取り込み中なんだがね」
結構な台詞を言う相手に、田所は額をかきながら答える。
「そちらの紙面に載った広告のことで話があるんだが……」
「広告? なんだ、苦情か。てきとうに若いのをくれてやるから好きに叱りつけてくれたまえ」
身もふたもないことを言う男が、階段の下に置いてあった木箱を踏み抜いた。
ぐちゃっという音に男が悲鳴をあげ、奥に向かって怒鳴り声を上げる。
「莫迦野郎! 誰だッ! こんな所に食い物を置いたのは!? あんこが靴についたじゃないか!」
「あー、踏んじまったか。後で食おうと思ってたのによ」
奥から出て来た年配の痩せた男が、伸ばしっぱなしの髪をかきながらぼやいた。
厚い唇をもぞもぞと動かして、くわえていたスルメを口中に吸い込む。
微妙に焦点の合っていないはれぼったい目をしばたかせる彼に、あんこを靴につけた男が目を吊り上げて怒鳴った。
「困るなミワさん! 会社を自宅みたいに使われちゃ! ただでさえウチの記者は生理整頓がなっちゃいないんだから……なんだこれ、まんじゅうか!?」
「たい焼きですよ。今人気なんです。ちょっと舐めてみたら」
「結構だ! それよりミワさん客だよ!」
あんこのついた靴底を壁にこすりつけながら、男が田所を指さした。
ミワさんと呼ばれた男が田所を見て、首を傾げる。田所もまた首を傾げ返した。
「我が社の広告のことでお話があるそうだ! 日がなぼけーっとしてでかいネタもつかめんならせめて苦情処理ぐらいしてくれよ、ミワさん!」
「でかいネタはこないだつかんだでしょ。山田秀人の大陰謀。社長が握りつぶしちゃったから記事にできなかったのに、俺のせいにするなんてひでえや」
ぼへっとした顔でのんびり言うミワさんに、社長らしい男は両手をお手上げとばかりに振り上げ、階上に戻って行く。
やがて二階で扉が閉まる音が響くと、喧騒の中、田所とミワさんが二人きりで取り残される。
肩をすくめる田所に、ミワさんは頭をかきながら「ま、まあ」と玄関を指さした。
「お話は外でお聞きしましょ。ここはやかましいですから。ちょうど飲みたかったんで珈琲おごってください」
「俺が払うのか? ふざけた人だな」
呆れて言う田所に、ミワさんはにっと歯を剥いて笑って見せた。
ミワさんに連れられて、田所は新聞社の四軒隣にある食堂に入った。
汚い店で、手垢だらけの窓からは中を覗くこともできない。
テーブル席は五つあったが、うち二つはテーブルか椅子が壊れていた。
飲食をするには論外の環境だったが、そのぶんメニューは異常なほど安い。珈琲など、一銭で飲み放題だった。
湯で極限まで薄めた、何故か塩味のする珈琲を飲みながら、田所は対面に座ったミワさんに用件を話す。
「――だから、三村探偵社の広告を出した人間の情報が欲しい。広告が紙面に載るまでの間にやりとりがあっただろう。どんな些細なことでもいいから、頼むよ」
「ふうん。でも、こっちとしちゃ一応商売相手だしな。勝手にそういうことを漏らすのは、こう、道義に反するな」
「悪いやつらだよ。連中のせいで若い女の子と親御さんが泣いてる。それに警察は三村探偵社に罪はないようなことを言ってるが、罪のないやつが行方をくらます道理がない。やましいところがあるから逃げたんだ。違うかね」
「まあな。実際、三村探偵社のあった建物は今はもぬけの殻になってる。夜逃げでもしたのかと思ってたが、そういうことだったか、いやはや」
ミワさんはまずい珈琲をお代わりしながら、じっと田所を見た。
正確には体格差のために顔を見上げる形だったが、やがてミワさんの顔に、ぎゅっと顔全体の皮を絞るようにしわが寄る。
まるでひょっとこのような顔をする彼が、首を傾けて口を開く。
「なあ、あんた。名前何て言うんだ? 俺、三輪徳広」
「田所十吾である」
「…………やっぱり。人斬り十吾か」
ミワさんの目の奥で、何かが光った。
田所は珈琲のカップを口につけたまま、相手をじっと見つめる。
「不本意だ。当時は俺を人斬りなどと呼んだ者はいなかった」
「ああ、幕末の剣士や暗殺者を人斬りと呼ぶようになったのは、明治政府ができてからだって話だな。新政府にとって都合の悪い人間や、敵をおとしめるための蔑称って説もあるが、ほんとかい」
「知らん。だいたいあの時期、人を斬ったことのある人間など珍しくもなかった。……脱線するな、三村探偵社の話だ」
「俺にとっちゃそんな雑魚より、あんたの方が興味深い。死んでなかったのか、あんた確か、新政府に二十年間牢に……」
田所がカップを置き、身を乗り出した。暗雲のように自分を影で覆う相手に、ミワさんは両手を向けて首を振る。
「おいおい、落ち着けよじい様。こんなガキに目くじら立ててもしょうがねえだろうよ」
「三十年だ」
「えっ?」
「二十年じゃない、三十年投獄された。記者のくせに勉強不足だな、ミワさんとやら」
ゆっくりと椅子に深く腰かける田所に、ミワさんは頭をかきながら唖然とした。
幕末の亡霊は珈琲を飲み干すと、カップを置いて腕を組む。
その巨体を、ミワさんはあらためて眺めながら息を吐いた。
「三十年? とんでもねえ時間だ。投獄し続けた政府のやつらもたいがいだが、生きぬいたあんたも化物だ。しかもそのすげえ体。何があったんだ?」
「三村探偵社の情報」
低く言う田所に、ミワさんは対抗するように腕を組んで笑う。
「知りたいことってのは、タダじゃ手に入らんもんだ。人斬り十吾の維新後を話してくれたら、俺もあんたの質問に答える」
「記事にならんぞ。俺は幕末の傑物達に比べれば、はるかに劣る小物だ。他人の尻拭いばかりしてきた男だぞ」
「懐が暖まらなくても、好奇心は満たされる。興味あるぜ。人斬りってのはふつう数人がかりで標的を二、三人も斬ればそう呼ばれるもんだが、あんたは違う。なにせ、襲い来る人斬りを撃退した人斬りだからな」
「一人で数人を斬った男だ」とらんらんと目を輝かせるミワさんが、懐から紙とペンを取り出して、田所を催促するように上目づかいをした。
田所はしばらく押し黙った後、やがて頭を乱暴にかき、新聞記者に手招きをする。
質問を受けつけるというジェスチャーに、ミワさんはにかっと笑い、身を乗り出した。




