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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵3 ~探偵賛歌~
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序章

 帝都東京に、粉雪が舞い落ちる。


 十一月に入って間もない今日、風は冷たく世は冷えているが、積雪の季節まではまだ猶予ゆうよがある。


 灰色の空の下、一人の女が手袋をはめた両手をこすり合わせながら裏路地を歩いていた。


 顔立ちに幼さの残る女は髪を頭の後ろで短くまとめていて、小柄な体は紺色こんいろ外套がいとうをまとってもなおか細く、頼りない。


 彼女は時折ポケットからくしゃくしゃの手書きの地図を取り出しては、自分の今いる位置を確認していた。


 そこは東京の隅っこ、華々しい大通りから離れた、廃屋や空き地の多い地区だった。


 やがて裏路地を抜け、寒々しい広場に出る。


 はるか向こうに川原の土手が見えるその場所には、散在する枯れ木や打ち捨てられた廃材に寄りそうようにして、浮浪者達がき火をしていた。


 彼らは空き瓶にめた雨水や得体の知れない干し肉をかじりながら、裏路地から出て来た女に一斉に視線を向けた。


 自分達より清潔で温かそうな格好をしている女への、ねたましげな、あるいは胡散臭うさんくさそうな視線。


 女は数秒ひるんで立ち尽くしていたが、ぐっと唾を飲み込むとそのまま広場の方へと歩み出す。


「歩いて来るぞ」「どこの莫迦だ」と、川原からの風が浮浪者達のささやき声を運んでくる。


 外套の前を手で押さえながら、浮浪者達の間を縫うように歩く女。


 廃材を利用して作られた風除けの囲いの中から、異人の老婆が「煙草ない?」と流暢りゅうちょうな日本語で話しかけてきた。


 女は必死に手を振って持っていないことを示しながら、好奇と敵意の入り混じった視線の中をさまよう。


 そうして浮浪者達の多くが、中々去って行かない女に迷惑そうな顔をし始めた頃。一番川原に近い、枝に雨除けの板が打ちつけられた唯一枯れていない木の根元に、目的のものを見つけた。


『探偵屋、食事提供必須、一円カラ』


 地面に突き立てられた古めかしい卒塔婆そとばおどるその文字。


 女が顔を上げると、木の向こう側にも同じような卒塔婆が何本か立っている。それらの間には荒縄が蜘蛛くもの巣のように通され、のりを塗った新聞紙が風除けとしてりつけられていた。


 簡易テントと言うべきか、家と言うべきか。


 木の向こうに回ってみれば新聞紙の壁は三方向にしかなく、川原に向かって口を開けた面からは、黒いズボンと靴を履いた大きな足が放り出されていた。


 新聞紙の囲いの中、にぶく光る双眸そうぼうが、女を静かに見る。


「あの――」


 口を開いた瞬間、女の両肩を誰かが背後からつかみ、力任せに押し下げた。


 落ちるように尻餅をついた女が声を上げる間もなく、その体を背後から、男が抱きすくめる。あかと泥とごみの臭いが、鼻を突き刺した。


「うぉおお! あったけえー!」


 ほおずりする男のひげがちくちくと肌に刺さり、怖気おぞけが走る。


 押しのけようと振り上げた手を、わきから伸びてきた別の手がつかんだ。


 若い男女の浮浪者が四人、女を取り囲んでいた。


 さっと青ざめる女の前に、得体の知れない汚れでまだらに変色した軍服をまとった男が立つ。


 彼はカビの生えたハンチング帽を指で押し上げながら、「どこだい?」とねばつくような声を投げた。


「金、持ってんだろ。札入れはどこだ」


「何を……!」


「そこかな?」


 軍服の男が女の胸を指さすと、女の手をつかんでいた浮浪者が外套のえりをつかみ、力任せに引き裂いた。


 はじけ飛ぶボタンがその顔を打つと、まるで女が抵抗したかのように、ぎらつく目で女を睨む。


 身を硬くする女の前を開くと、遠慮のない手つきで体と外套の内側をまさぐり「ねえぞ!!」と怒鳴った。


 軍服の男、おそらく四人の頭目だろう男は、両目をしばたかせて人さし指をくるくるとさまよわせた。


「じゃあ……下かな? 最近の服はどこにでも物を入れるみぞがついているからな」


 スカートを指さす頭目に、女はたまらずに「右側の靴!」と叫んだ。


 一瞬顔を見合わせる浮浪者達。女の体を調べていた浮浪者が靴を脱がすと、確かに靴の底に、一円券の入った小袋が隠されていた。


「おいおい、何のマネだこりゃあ。お金を踏みつけにするたあ育ちの悪いお嬢ちゃんだ。お父さんお母さんに代わって教育してあげなきゃあな」


 投げよこされた小袋をつかむ頭目の言葉に、女は悔しげに顔をゆがめる。


「何よ! あんた達みたいなのから守るためじゃない! それあげるから放してよ!」


「おいおいおい、言葉づかいもなっちゃあいねえな。女は殿方とのがたうやまってきれいな言葉を使わなきゃだろ。ああ、ああ、教育してあげなきゃあな。ますますな」


 頭目があごをしゃくると、周囲の者達全員が女の手足を押さえつけにかかった。


 悲鳴を上げる女に、遠くにいた浮浪者達が寄って来る。


 焚き火に当たったまま顔を背けたり耳をふさぐ者もいたが、寄って来た連中はみな面白そうに、あるいは興奮した表情で女を見るだけで、助けるそぶりもない。


 特に心ない者達は「ひん剥け」「犯せ」ととんでもないことを口走り始めた。


 場の異常な雰囲気にパニックになり、暴れる女をさらに数人が押さえつけにかかる。


 最初に女を襲った浮浪者達の頭目が、そんな光景を鼻で笑いながら、小袋から一円券を取り出した。



 その手を、大きなふしくれ立った指がつかんだ。


 頭目が顔を上げると、新聞紙の家で寝ていたはずの男の双眸が、頭一つぶん高い位置から見下ろしている。


 巨大な男だった。


 頭目も世間一般から見れば背が高い方だったが、目の前の男はさらにその上をいっている。


 まるで熊のような男の手足は丸太のように太く、腕には太い血管がいくつも走っている。


 身につけている黒いズボンもそでをまくったシャツも、すりきれてはいるが清潔で、川の水でひんぱんに洗濯せんたくされているようだった。


 その髪は白く、わずかにちぢれてえりに伸びている。額や顔の端々にしわが寄っているが骨格はたくましく、引き締まっていた。


 老人。そう形容するのがためらわれるほど、頑強な男。


 わずかに目じりの下がった、しかし鋭い光をおびた目が、浮浪者の頭目を射抜く。


「一円券が、一枚か。だったらそれは、俺の金だ」


 重厚な弦楽器の音色のような声に、頭目は「ああ!?」とすごむ。


 しかし手首をつかんだ指の力はすさまじく、締め上げられると簡単に一円券が手から落ちた。


 男はそれを逆の手で受け止めると、もはや用はないとばかりに頭目の手を振り捨てるように解放する。


 地面に膝をつく頭目を捨て置き、男は組み伏せられた女のスカートに手を突っ込んでいる浮浪者の横腹を、大きな靴先で蹴り飛ばした。


 まるで子供のように吹っ飛ぶ浮浪者を一瞥いちべつもせず、さらにズボンを下ろして女に群がっている何人かを蹴り散らす。


 仰天して女から離れる浮浪者達に、男は特に興奮した様子もなく肩をすくめてみせる。


 頭目はその時になって初めて、男が左手に持っている、新聞紙に巻かれた棒のような物に目をやった。


「その人は俺の客だ。俺の店の看板を見てた。強姦ごうかんに手を出して人間やめたいんなら、他を当たってもらおうか」


「店だ? 新聞紙のかたまりじゃねえか!!」


 女の前にかがみ込んだ男の後方で、頭目が軍服の懐からさびた包丁を取り出した。


 そのまま腰だめにして突っ込んでくる頭目に、半裸の女が「危ない!」と叫ぶ。


 彼女の目の前で、一瞬、金属の光がまたたいた。


 破れた新聞紙が舞い散り、瞬時に敵に振り向いた男がたずさえていた棒状の物を突きつけている。


 包丁を握ったまま目を剥く頭目の眉間には、日本刀の刃先がぴたりとあてがわれていた。


 薄皮一枚傷つけずに抜刀の勢いを殺した男が、左手に新聞紙の残るさや、右手に日本刀を握り、口をへの字にゆがめて訊いた。


なます・・・にされてまで通す意地か? ああ?」

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