表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  三章  焔の少年
70/110

最終話

 様々な勢力が事件の収束に向けて動いている中、築地警察と棚主達の保護下にあった幸太郎は、ある日山田家本家に招待された。


 あくまで穏便に今後のことを話し合いたいと言ってきたのは、先代当主である故・山田栄七郎の正妻、すなわち山田栄八の母親だった。


 幸太郎にとっては曾祖母そうそぼに当たるわけだが、彼女は現在本家を臨時に取り仕切っている立場にあるという。


 新藤警部や森元をはじめとする警官隊の立ち合いのもと、葛びるの面々と共に本家の屋敷を訪れた幸太郎は、出迎えた老婦人にまずは握手を求められた。


 りんとした曾祖母はけっして笑顔を見せなかったが、山田秀人や分家の実力者達のように幸太郎を品定めしたり、見下すような視線を送ったりはしなかった。


 一人前の紳士にするように礼を尽くした挨拶をすると、彼女は幸太郎達を応接間に案内し、茶を出した。


「今回のこと、許して頂こうなどとは思っておりません。我が夫、我が息子、島田、分家の者達があなたがたにしたことはとても償いきれるものではありませんし……私は山田家のために、事件のすべてを闇に葬るつもりです。ならば私もまた、あなたがたにとって許せない敵の一人でしょう」


 曾祖母の言葉に、幸太郎は黙って耳を傾けていた。

 隣では体中に包帯を巻いた棚主が、同じように目の前の老婦人を見つめている。


「しかしながら、山田家はもはや、どうあがいても衰退をまぬがれません。女の私では今の時代、山田家の事業や財産を守りきれませんし、山田秀人のような器と才能を持った男も、もうおりません。

 親戚、分家の者達にいいように切り分けられ、霧散するのが当家の運命なのやも……」


 息をつく曾祖母が、幸太郎の顔を改めて眺めた。「本当に栄八にそっくり」とつぶやくと、わずかに彼女の目じりが下がる。


「夫はあなたを当主にすえようとし、島田は亡き者にしようとした。相反する彼らの思惑が、それでもことごとく私や、他の家族の意志を無視した上で実行されようとしたことが、無念です。――幸太郎、あなたに山田家当主の座は、渡しません」


 はっきりと言った曾祖母に、幸太郎はうなずいた。


 不満の一つも口にしない彼に、曾祖母は目を細める。


「この状況であなたが山田家に戻っても、また悪しき連中に狙われ、操られるでしょう。あなたがこれから平和に生きて行くためには、あなたと山田家との関わりを絶つことが不可欠……島田が持っていた山田栄七郎の遺書は、山田秀人の屋敷から運び出した金庫に入っていました」


 曾祖母が懐から、それを取り出して机の上に置く。


 森元が見つけた遺書と、全く同じものだ。写真が同封された、署名と血判入りの封筒。


 森元が居並ぶ警官の中から進み出て来て、同じように懐から、幸太郎の母が幸太郎の衣類に隠していた遺書を取り出し、机に置く。


 先代当主が残した二つの遺書を、曾祖母は大きな灰皿代わりの貝殻の中に、中身をあけて放り込む。


 そしてマッチ箱を幸太郎に手渡し、じっと彼の顔を見つめた。


「自分で断ち切りなさい。忌まわしい、山田家の血の呪いを」


 幸太郎はマッチ箱から、ゆっくりと木の棒を取り出した。


 その先端をこすると、小さな火が燃え上がる。貝殻の中の遺書に視線を落とせば、ぐっと喉が鳴った。


 母が、貧しい暮らしの中、山田家への復讐だけを願って守り通したものが、この遺書だった。


 遺書を幸太郎の服に縫いつけ、いつか見ていろ、必ず見返してやると、生きる支えにしてきたのだ。


 母の人生が、祈りが詰まった遺書なのだ。


「…………お母さん……」


 つぶやいた幸太郎が、ぐっと目を閉じ、やがて火を、貝殻に落とした。


 燃える遺書の前で、それでも幸太郎は泣かなかった。


 母の憎んだ山田家は、衰退する。幸太郎は自分の人生を生きて行く。

 それを母がどう思うかは分からなかった。


 ただ、今この瞬間まで、母の因縁が燃え尽きるこの時間までをも、自分の涙で濡らしたくなかった。



 曾祖母は幸太郎を見送る時、彼の手に小さなかばんを持たせた。


 手切れ金だと言って渡したその中には、全国の複数の百貨店や呉服店の株関係の権利書と、大阪の製紙会社の土地建物の権利書が入っていた。


 仰天する幸太郎に、曾祖母は全て自分の持ち物だからとこともなげに言った。


 これで関連会社が倒産しない限り、幸太郎の元には自動的にある程度の金銭が届くことになる。


 それは幸太郎一人が生きて行く上では、充分すぎるほどのかてになるだろう。


 曾祖母は最後に幸太郎の許可を得て、彼の体を一度だけ、強く抱きしめた。


 彼女の肌から、化粧品の臭いに混じってわずかに母と同じ匂いがしたのを感じて、幸太郎はとうとう涙をこらえることができなくなった。




 ――人々の行きかう道を、男が一人で歩いている。


 新聞の紙面から一連の事件に関する記事が消え、世の中が鉄道会社に対する非難を声高に叫ぶことも少なくなったある日。


 警官の職を辞した枝野は、ごくふつうの一般人の格好をして、駅に向かって歩いていた。


 裏切り者の自分を、森元は許してくれた。これからも警察にあり、共に戦おうと手を差し出してくれた。


 だが枝野は、その手を握ることができなかった。


 森元の笑顔を、まともに見ることさえできなくなっていた。


 戦友を裏切った過去は、恥は、一生ぬぐうことができないと思った。


 せめて最後に彼の隣で戦えたことが、枝野の人生にとってのなぐさめとなるのだろう。


 枝野は東京の景色を目に焼きつけることもなく、ただ前だけを見て、駅の構内に入って行った。


 これからどうやって生きるのか、考えがあるわけではない。


 ただ生家に帰り、父母に何も語らずに孝行をしようと思った。


 許されるならば、生まれ変わったように彼らのために、い息子として、善い国民として生きたい。


 それが少しでも贖罪しょくざいになればと思った。




 プラット・ホームの人ごみに消える枝野の後方を、二人の男女が通り過ぎる。


 地味な服装に身を包んだ彼らは、枝野とは逆に駅の出口に向かって歩いていた。


 男は古ぼけたこげ茶色の帽子をかぶり、彫刻のように無感情な顔で前を見据えている。顔面には縦に走る深い傷があり、わずかに皮膚がひきつれていた。


 女の方は無造作に垂らした髪の中から鋭い目で周囲をうかがい、片足を引きずるように歩いている。


 彫刻のような男は駅の出口から差し込む光を睨みながら、又の字に言った。


「いつまでついて来るつもりだ。山田秀人が倒された今、俺達が一緒にいる道理はない」


「そんなつれんこと言わんといてや、先輩。敗残兵同士仲良うしよ」


「……一度訊いてみたかった。お前は、関西の生まれか?」


 その方言どおりに。


 そう続ける男に、又の字は鼻の上のそばかすを指でこすりながらフフンと口端を上げる。


「あったり前やん、こっちゃ生粋きっすいの関西女よ。向こうで悪さし過ぎて居づろうなったから上京したんや」


「命拾いしたな」


 短くつぶやく男を、又の字は笑みを消して見つめる。


 彫刻のような男は周囲の東京人達に一瞥いちべつもくれず、まっすぐ光に向かって進んで行く。


 その光の先に一切の希望も映さぬ瞳が、くすぶる火種のような憎悪に小刻みに揺れる。


「俺の行く先には血と惨死しかない。それが俺の目的だ。面白おかしく悪さをして生きたいなら、さっさと失せたほうが賢明だ」


「さあ、秀人の下にいた時とどうちゃうんやろ。先輩はあいつみたいに、ウチの足串刺しにしたりせえへんやろ?」


 又の字の問いに、彫刻のような男は何も答えない。

 又の字は頭の上で両手を組み、光に目を細めながら口笛を吹いた。


「まあ、ええ。どうせ行く当てもないんや。飽きるまではテコでもひっついてまっせ、先輩」


 やがて光の中に、二人は溶けて行く。

 東京のひしめく人の群の中に、彼らの足跡は入り込み、かき消された。





「もう、終わりだな」


 薄暗い病室。カーテンの揺れる窓から細く入り込む日差しが、寝台に横たわった山田秀人の胸元を照らしている。


 寝台のそばに立った軍服の男が、ため息をついてこめかみをかいた。


 彼のすぐ後ろには二人の医師が並んでおり、軍服の男に、ともに眼鏡の奥から視線を向けている。


 医師の一人が、無感情に口を開いた。


「手は尽くしましたが、もはやどうしようもありません。彼の意識は戻らず、実質、生けるしかばねです。食物を煮詰めた汁を水と共に喉に流し込み、肉体だけは生き永らえさせていますが……」


「軍部はすでに山田秀人を見限った。日清戦争の英雄、稀代の大悪党もこのざまではな……俺もこいつとは二十年来のつきあいだが、希望を捨てざるをえない」


「他の陸軍将校の皆様も、同じようなことを仰っておられました」


 二人目の医師が無表情に言うと、軍服の男は肩をすくめ、きびすを返す。


 彼は扉を開ける医師にも山田秀人にも視線をやらず、虚空を眺めてゆったりと病室を出て行く。


「まあ、ヤツも満足だろうよ。あれだけ好き勝手して生きて来られたんだ。あとは夢の中で、とろとろと戦争の思い出とでもたわむれていればいい。

 死ぬまでそうしててくれれば、俺や他の将校もヤツに援助してもらっていた金を返さなくて済むからな」


「我々も病院の運営にあれこれ口を出されずに済みます。彼はぱとろんとしては気前が良く優秀ですが、妙な人体実験の片棒を担がされるのにはまったく閉口しておりましたので」


 病室の扉が閉まり、三人の男達の話し声が遠ざかって行く。


 やがて薄暗い部屋に静寂が訪れると、揺れるカーテンが一際大きく風にあおがれ、日差しが強く部屋に差し込んだ。



 伸びた光の線が、山田秀人のかっと見開かれた片目を照らし出した。


 再び降りてくるカーテンが作り出す薄暗がりの中、扉が開いて、花束を持った巻き毛の女が部屋に入って来た。


 両手首に包帯を巻いた彼女は音もなく寝台に近づき、天井を見上げている山田秀人の耳に濡れた唇を寄せる。その顔には刃物の傷があり、細かい火傷やけどの跡が花びらのように散っていた。


「不実な者には、報いを。分かっております、秀人様」


 山田秀人はごろりと瞳を転がし、巻き毛の女を見た。その目がゆっくりと、を描く。


 巻き毛の女は花束を自分達の鼻先に寄せ、すん、と香りをいだ。しかしよく見ればそれはろうと布で作られた造花で、自然の花の匂いなどしようはずもない。


 小さく歯を見せる山田秀人が、そんな彼女に小さく何かをささやいた。

 巻き毛の女は、それを受けてにっこりと微笑む。


「ええ、楽しいですわね、秀人様。敗北もまた、楽し。苦痛は喜び。死は快楽。分かっております。だって私は、あなたの『一番の良い子』ですもの」


 巻き毛の女は山田秀人の唇に軽く接吻し、そのまま床に膝をつき、彼の手に頬をすりつけた。


 散弾に指を全て吹っ飛ばされた手。その手に愛しげに触れ、女は満面の笑みを浮かべる。


「少し元気になったら、どこか異国にでも行きましょう。残った財産をまとめて、養生を……きっとこの国より、高度な治療のできる国があるはずです」


 不意に窓の外の風がやみ、揺れていたカーテンが完全に降りた。満足げに笑う二人が、闇の中に沈む。


 女の声が、甘く、切なげに、響いた。


「なでてください、愛しい人。誉めてください、お父様・・・――――」






 葛びるの屋上で、棚主が石の囲いにもたれている。


 その前には幸太郎と、大西巡査、そして日本髪の、着物の女性がいる。


 恥ずかしそうに大人達の間で小さくなっている幸太郎を、棚主は心底嬉しそうに見下ろした。


「妙なところに落ち着いたもんだな、幸太郎。まさかの大西夫妻の養子とはね」


「養子じゃない、あくまで同居人だ。元々この子をお前らに預けたのは俺だし……今回の顛末てんまつを話したら、こいつが是非うちに来てもらえって聞かなくてよ」


 大西が女性を指さし、頭をかいた。

 大西の妻は年のわりに若く見える小顔の口を手で覆い、「だって」と小さく笑う。


「うちの旦那を男にしてくれたぼうやだもの。私達、あんなことがあった今の家には住みたくないから、別の家に引っ越すつもりだったんです。どうせならこの子も一緒に住める広い家にしようって思って」


「警官をやめたのにそんな家に住んで大丈夫なのか? 金はどうするんだい」


「嫁さんの実家の家業を手伝うことになった。前に言わなかったっけ? 日本橋じゃけっこう有名な料理屋なんだよ。お義父とうさんが良い人でなあ、結構な高給取りの皿洗いになれそうなんだ」


 夫のふざけた台詞に、大西夫人が「一生皿洗いで食うつもりなの!? ちゃんと修行して料理人になんのよ!」と彼の背中を叩いた。


 咳き込む大西に笑いながら、棚主は幸太郎の頭をなで、「よかったな」としみじみと言った。


「日本橋ならここからも近い。気が向いたら遊びにおいで。みんな、君ならいつでも歓迎だよ」


「はい! 葛びるのこと、ぼく一生忘れません。ちょくちょく来ちゃいますから!」


 笑う幸太郎が、棚主とうなずき合った後、不意に駆け出して階段室の方へ向かった。


 話を続ける棚主と大西夫妻を背に、幸太郎は扉を開き、その裏側に立っていた時計屋の衣の袖を引く。


 暗い視線を向けてくる時計屋を、幸太郎は変わらぬ笑顔で見上げた。


 わずかにひるんだように顔を背ける彼に、幸太郎がはつらつとした声を投げる。


「時計屋さんも、ずっと友達でいてくださいね。ぼく、きっと棚主さんや時計屋さんや、津波さんや、マスターみたいな、立派な大人になりますから!」


 時計屋が目を丸く見開き、がく然として幸太郎を見た。うれしそうに腕にまとわりついてくる彼に言葉を返せずにいると、階下からどたばたとマスターが上がって来て、汗と共にのんきな声を放ってくる。


「森元さん達がいらっしゃいましたよぉ! みなさん、早く降りて来てくださーい! ごちそうが冷めちゃいますよー!」


 「行きましょう!」と袖を引く幸太郎に連れられて、時計屋は階下へ下りて行く。


 後方から棚主達もやって来て、マスターに先導されてミルクホールにたどりつけば、今回の事件に関わった多くの人々がすでに宴会を始めていた。


 木蘭亭の女達や、女形達が寄って来て、大西夫妻と幸太郎の再出発を祝う言葉を向ける。


 森元と横山刑事もそれに続き、津波が料理の大皿を両手にみなに運んで来た。


 隅ではダレカが居心地が悪そうにビールの瓶を傾けていて、彼をちらちらと気にしていた雨音が棚主に気づき、カラス猫を抱いて駆けて来る。


 時計屋は呆然としてその光景を眺めていたが、やがて幸太郎に促され、ミルクホールの真ん中に進み出た。


 そこには大きめのテーブルがあり、グラスに注がれた三鞭シャンパンがいくつも置かれている。


 幸太郎はグラスを二つ手に取り、一つを時計屋に差し出した。


 震える手でそれを受け取ると、幸太郎が満面の笑みでグラスをカチンと合わせてくる。


 時計屋は揺れる三鞭の水面を見つめ、そして幸太郎を見た。


 子供の頃の自分が一度も浮かべられなかった、輝かしい表情で笑う孤児の少年。


 時計屋は少し押し黙った後、ひどく苦労して笑顔を浮かべ、静かに、祝福の言葉を返した。







   了。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ