三十一
天からこぼれるしずくはすぐに勢いを増し、豪雨になった。
燃焼剤、特に油を使ったものによる火災では、雨が燃える油を流れに浮かせて押し流し、二次的な被害を生むことがある。
しかし着火から充分な時間が過ぎていたこともあり、山田秀人邸に生まれた水の流れは油と炎を運ぶこともなかった。
爆裂弾で吹き飛ばされた屋根の穴から、あるいは炎を屋敷内に注ぎ込んだ雨どいから、冷えた雨水が一気に流し込まれ、火災の勢いを削いでいく。
中庭に外部からの救援の手が届いたのは、雨が降り出してから二時間後のことだった。
西平野警察署の署員達と、消防団員達が未だ白煙の漂う中をやって来て、生存者に濡れた布をかぶせ、避難させた。
死者とけが人は担架で運び出され、横山刑事をはじめとする負傷警官達もすぐに病院に搬送された。
屋敷の外では警官隊による包囲網が敷かれており、門前には、雨に流されつつも大きな血痕が残っていた。
「逮捕すべき人間は全て確保している。そちらに引き渡したいが、よろしいか」
新藤署長が、警官隊の中にいた西平野警察署の署長に頭を下げ、訊いた。
まだ若い署長は手錠をかけられたメイド達や分家の四人、そして担架から垂れている血まみれの山田秀人の手を見ながら、つばを飲み込む。
その視線が最後に雨の中をふらふらとさまよっている城戸警視をとらえると、新藤署長に動揺を隠しきれない、震える声を放った。
「山田家の実力者達が縄をかけられ、その屋敷の中には死体の山。大量の銃器と爆裂弾が使用され、城戸警視があのざま……何より、一番理解できないのは、お飾りのはずのあなたがまるで英雄のような面をしていることです。何があったんです? 新藤さん」
「全部説明する。そちらにも、上にも。……ところで、この包囲はいつから敷いているんだ?」
「一時間ほど前からです。なにぶん突然のことで、警官隊の召集と武装の手続きに手間取りまして。ですから、その、非常に言いづらいのですが、その間に中の者に逃げられた可能性があります」
担架に乗せられて近くで話を聞いていた棚主が、幸太郎と津波に手を握られながら周囲に視線を巡らせた。
あわただしく歩き回る人々と縄を打たれた者達の中に、時計屋の姿はない。ダレカも彫刻のような男を捜していたが、見当たらなかった。
新藤署長は屋敷の方を振り返り、門前の血痕を指さして言った。
「門番は誰が倒したんだ。屋敷を封鎖していたメイドは」
「確認中ですが、俺が来た時にはもう……ただ、警官装備のサーベルの傷がありましたので、部下の誰かが格闘したものかと」
ダレカがわずかに署長達の方を見、すぐに視線をそらした。「逃げたのか」と小さくつぶやく彼のわきを、棚主が担架で運ばれて行く。
その担架のすぐ前に、数台の馬車が割り込んで来て停まった。担架を運ぶ警官達が驚いて見上げると、馬の手綱を握る角刈りの女形がにまっと笑う。
車の扉を開けて、中から木蘭とお近と、佳代が出て来た。
「うわっ! 棚主さん大丈夫!? 血まみれじゃない!」
「お巡りさん良かったらこの車使ってちょうだいな、けが人、病院まで運んでくわよ」
ごつい御者の女言葉に顔を見合わせる警官達が、背後の署長を振り返った。
首を傾げる新藤署長の横へ、横山刑事についていた森元が進み出て来る。
棚主は森元に向かって、静かにうなずいた。
「知り合いだ。信用できる人だよ」
「だ、そうです。署長」
森元に顔を向けた新藤署長が、肩をすくめて警官達に「乗せてもらえ」と声を放つ。
馬車に乗り込む寸前、棚主は木蘭亭の女達と津波とマスター、ダレカと、幸太郎に片手を上げた。
「お疲れさん。みんなも早く帰れ、風邪引くぞ」
「口の減らねえ野郎だ」
笑う津波に、他の者も多少の笑みを見せる。
一人口を引き結んでこちらを見つめる幸太郎に、棚主は閉まる扉の向こうから最後に言った。
「葛びるで会おう」
幸太郎が何と答えたのか、棚主には聞こえなかった。
だがその顔がぎやまんの向こうで一度だけ、しぼり出すように小さな笑みを浮かべたのを見て、安心して目を閉じる。
走り出す馬車。他の車にもけが人が乗せられて行くのを見ながら、新藤署長は森元に低く問いかけた。
「あの男はどういう素性の人間なんだ?」
「味方です。それ以上は、ご勘弁願えませんか」
「俺がかばわねばならんわけか。お前の仲間達同様」
森元は自分を不思議そうに見つめている西平野の署長の視線に横目を返しながら、口端を引き上げてうなずいた。
「是非に。お願いします。けっして合法とは言えない私の正義に賛同してくださるのなら、彼と彼の仲間達にも、私と同じ扱いを」
「……分かった」
「代わりに、どこまでもお供しますよ。法廷だろうと、獄中だろうとね」
微笑む森元が、馬車に乗せられる横山刑事に向かって歩き出した。
新藤署長はその背中を見つめながら、長く息を吐いて空を仰いだ。そのままおもむろに西平野の署長の肩に手を置くと、雨に顔を打たれながら言葉を投げる。
「知ってたか?」
「は?」
「山田家と警察組織とのつながり。汚職の実態を、西平野の連中は把握していたのか?」
「……知らなかった、とは言えないでしょう。東京の警官はみんな知っています。公然の秘密でしたから」
「そうか。そして偉いやつらは誰も、それを是正しようとしなかったわけだ。あんたも、俺も、あそこの城戸警視も、な」
雨の中を亡者のようにさまよう老人を、二人の署長は見た。
目を見開く西平野の署長が、「まさか」と口を動かす。
「城戸警視……山田家に取り入っていたという噂は、本当だったのか」
「さっきの眼鏡の男が、件の森元だ。俺はヤツについて山田秀人に牙を剥いた。――なあ、質問があるんだ。ずっと考えているが、まったく答えが出ない」
新藤署長の言葉に、若い署長が見開いたままの目を向ける。
強まる雨音に混じるように、イボ蛙の声が低く鳴いた。
「法と正義と、どちらが重い? 警察の上層部が悪とつながり、法の行使を制限しているなら……警察が守っている悪人は、誰が捕まえればいいんだ? 法が沈黙している時、誰が被害者を守れるんだ?」
「警察官は、法にのっとっている時のみ正しい」
「そうだ。だがその建前では、誰一人守れない。最悪、犯罪者と戦うことが罪とみなされる。山田家と上層部の悪行に沈黙していた俺達は、警察官ではあっても正義の人ではない。暴力と沈黙は同罪だ。……教えてくれ。『正しい警察官』なら、どう行動するべきなんだ? 俺には、完璧な答えは出せん」
相手が黙っているのを見て、新藤署長は再び空を見上げた。
自分が行っていることがまぎれもない正義だと、血と欺瞞にまみれながらも胸を張って叫ぶことができる森元がうらやましかった。
屋敷の窓の中では、まだ火が揺れている。
雨はひたすら激しく世界を叩き、惨劇のなごりを洗い流していった。
それからの世間の流れは、新藤署長が考えていたほど激しい混乱をともなったものではなかった。
深川の豪邸で巻き起こった惨劇は、渦中にいた新聞記者達の詳細なレポートにより世を震撼させたが、その内容と本来つながっているはずの放火殺人事件や、山田家の相続争いを抱き合わせで紙面に載せた新聞社は一つもなかった。
多くの不祥事の露見を恐れた警察上層部の圧力、緘口令によって、真実は無理やり切り分けられ、それぞれが別の事件として報道された。
放火殺人事件の主犯、河合雅男は依然獄中にあり、黒幕は変わらず鉄道会社である可能性が高い。
深川の惨劇は何らかの事情で賊に襲撃された山田秀人の私兵達が、自衛のために応戦したところに警官隊が出動、混戦となり誤射のため双方が死亡。
不幸な事故が起こったという、かなり無理のある記事が書かれた。
これは山田家や山田秀人にすり寄っていた警察幹部達、さらには各方面の高官達が自分達の身を守るため、山田家本家の要請を受けて全力で事実を捏造した結果だった。
山田家本家にとっても、当主不在の今、自分達の相続争いで世を騒がし、醜態をさらすことは避けねばならなかったのだろう。
多くの死者が出たにもかかわらず、名家としての権力と人脈、はては莫大な金をばらまくことによって、事件の矮小化を成功させてしまったのだ。
「――俺は納得いかねえ。どうかしてるぜ、会社も、世間もよ」
ついたてで仕切られたカッフェのテーブル席で、記者の一人がうなった。
珈琲のカップを両手で持つ若い記者の前には、年配の痩せた記者が、腕を組んで座っている。
年配の記者がはれぼったい目を閉じ、かすかに笑って言った。
「そんなこと言ったって、お前さんとこは昔から『うそつき新聞』じゃねえか。でたらめ書き連ねるのはいつものことだろう」
「俺はなあ! 事件のまっただ中で命がけでつかんで来たんだよ! 『真実』ってやつをよ! それを腐れ上司め、叩いて切り分けていらねえ所は捨てっちまいやがって……今回の事件の真相を葬るってことはな、俺の命を葬るのと同じなんだよ!!」
「そうさなあ、つかんで来た真実を殺されるのは、悔しいわなあ」
年配の記者が目を横にやり、長い髪の女給を見た。
視線に気づくと女給はすぐに笑顔を浮かべてやって来て、着物の胸元を記者に寄せて来る。
その胸の谷間にポケットから取り出した紙幣を突っ込みながら、年配の記者は「だが」ともう一人の記者に口を開いた。
「会社にとっちゃ、真実ってのは命をかけるほどの代物じゃねえんだろうよ。圧力をかけられりゃ、簡単に放り出しちまう程度のものなのさ。だから本当に悪いヤツはいつまでも野放し、鉄道会社もいつまでも、放火殺人事件の黒幕ってことになっちまうのさ」
「そうだ、鉄道会社だよ! 現場にはあそこの関係者もいたはずだぜ、あいつら何やってんだ?」
「向こうも圧力をかけられたんだろうが……たぶん、鉄道院から何か言われたんだろう。特に事件の真相に関連して動いてる様子はねえ。
ただ、うちには鉄道会社を叩く記事はもう書くなとお達しが来たよ。鉄道関係以外の事件を大きく派手に扱って、小さな事件も大事件みたいに飛躍させて書けってさ。多分、それが鉄道会社が黙る条件なんだろう。
民の関心は移ろいやすいからな、大事件の記事をたくさん読ませりゃ、今回のことも忘れちまうって寸法さあ」
女給の胸を愛でながらの言葉に、若い記者は怒り狂って珈琲をあおった。
腐ってる、間違ってると繰り返す同業者を、年配の記者は女給の胸にさらにチップをねじこみながら、あくびまじりに見る。
真実の価値を痛いほど感じているのだろう彼は、今後どういう記事を書くのだろうか。
圧力に屈することなく、世のために情報を発信しようと、あがき続けられるだろうか。
真実を、報道の責任を放り捨てた記者は、ただの物書きになる。真実を書くべき場所で嘘八百を書き立て、世をかき乱す、最低の物書きに堕ちてしまう。
報道という『道』に立つ本物の新聞記者は、それではいけないのだ。
日本の報道業界が記者の職場になるか、最低レベルの物書きのたまり場になるかは、これから十年、二十年の自分達の態度で決まる。
年配の記者はそんな勝手なことを胸中でつぶやきながら、今月の小遣いを全て巻き上げて去って行く女給の尻を未練がましく眺めていた。
「――やはり――駄目だったか――――」
築地警察署の一室。警察署長の机があるその部屋で、森元が床を睨んでうめいた。
室内には森元の他に、杖を突いた横山刑事と、イボ蛙こと新藤、そして署長の椅子に座った、初老の警官がいた。
初老の警官は先日大西巡査が新藤に直談判に来た際、新藤に警官の招集を命じられた、築地警察署の幹部だった。
彼は机の上で指を組み、一同を見回して、静かに言った。
「上は今回の事件の真相を公にすることで、山田秀人、およびかつての山田栄八と癒着していた警官を全て処分しなければならなくなることを忌避したのだ。それはけっして少なくない警官、幹部を失うことになる。
すねに傷を持ち保身に走った幹部だけでなく、山田家とは直接関係のなかった幹部までもが、山田家から提案された事件の矮小化に協力すべきとの結論を出した」
「山田栄八の影響力は、警視庁内部まで届いていたということでしょうか」
横山刑事の問いに、初老の警官はあいまいに首を振った。
「山田栄八にべったりだった者は基本、築地警察署の警官と、城戸警視だけだ。だが他の部署にも、山田栄八と個人的な付き合いをしていた者や、将来世話になりたいと思って多少の便宜を図っていた者はいたらしい。これはおそらく、山田秀人に関しても同様だ。
権力者とお近づきになりたいヤツは多い……つまり、山田家とつながりを持った者に対する汚職警官狩りを行った場合、ほんの少しでも接点のある者が疑われ、巻き添えを食らう可能性があるわけだ」
「さらに、それほどの警官、幹部が一度に処分されれば、警察の威信そのものが失墜する。幹部を守るためだけではなく、警察という組織の正常な運営のため、真実を伏せるべきという判断なのだろう」
新藤の言葉に、森元が顔を上げ、虚空を睨んだ。
真実を殺し、圧力で関係者を黙らせた上での、警察組織の正常な運営。
詭弁だ。そんなものは、卑怯な言い逃れに過ぎない。
怒りを噛み殺している森元の横顔を見つめ、新藤がさらにゆっくりと、言葉を続ける。
「幸か不幸か、上が真実を伏せたがために、違法な活動をした俺達への追求もかなり弱いものになった。俺は警部への降格、部下を死なせてこの処遇というのは、かなり温情的だ。間違いなく口封じのための餌だがな」
「森元、君の復職の手続きも済ませておいた。城戸警視を法廷で裁こうとしていたのを見てしぶる連中もいたが、なんとか階級も警部補のままにできた」
初老の警官、築地警察署の新署長の言葉に、横山刑事がけがも忘れて拳を握り締め「ぃよォしッ!」と声を上げた。
銃弾を分厚い筋肉で受け止めた彼は、本来出歩くことも許されないはずだった。
にも関わらず弾丸の摘出手術後、その日の晩飯に粥と、差し入れられた握り飯を十個も完食した彼は、ひと月も経たぬ内にこうして主治医の目を盗み、会議に参加している。
森元は他の三人の視線を受け、目を閉じた。新藤が進み出て、その肩を強くつかむ。
「城戸警視や汚職警官達が一掃されなかったのは残念だが、俺やお前や、志のある警官達もまた追放はされなかった。そこの新署長も、俺の信用できる友人だ。少なくとも築地警察署は、これから再生する。お前の戦いの成果だよ」
「……新藤、警部」
「正義は、ここから始めよう。ここから育てていくんだ」
我々の手で。
そう続ける新藤に、森元はゆっくりと、うなずいた。
夕陽を背に、海原を船が行く。
舟遊びのための小船には、船頭の他に七人の男が乗り込んでいて、静かに無表情に酒を酌み交わしていた。
その中に、城戸警視と二人の部下がいる。
ちらちらと岸の方に視線をやる城戸警視に、対面に座った男が低く声を放った。
「びくびくすんじゃねえ。あの辺は打ち捨てられた埋め立て工事の基地があるだけで、人なんかいやしねえよ。通りがかった釣り人に見られたって、どうってことねえだろうが」
「いや……先日あんなことがあったばかりだから。しかし、あんたもよく逃げ切れたものだな」
目の前に座っている寄桜会の会長に、城戸警視は引きつった笑顔を向けた。
ガラの悪いヤクザに囲まれた会長はふんと鼻を鳴らし、飲みかけの酒を盃ごと海に投げ捨てる。
「山田秀人の護衛の二人が道を開いて行ってくれてよ。なんとか屋敷から逃げ出せたのさ……子分が何人か火にまかれたが、この際しゃぁねえやな」
その火にまかれた子分の中に、彼の身代わりをさせられていた穴鳥というヤクザもいた。
果敢に先頭を歩いていた彼は焼け落ちてきた天井と柱の下敷きになり、仲間の見ている前で焼け死んだのだ。
彼に出世を約束していた会長は、さすがに気が滅入って、彼を思い出させる物品をすべて寄桜会の建物から撤去させた。
彼の子分、元穴鳥組の組員達に対しても、組長が最後まで会長である自分を守りきれなかったことを理由に、絶縁状を叩きつけていた。
その一方的な処置に対して寄桜会の幹部の中にも不満を口にする者がいるが、会長には一切取り合う気がなかった。
未来のぱとろんとなるはずだった山田秀人を失った今、彼は崖っぷちに立たされていたのだ。
身内の不満なぞより、今後他のヤクザ組織とどうやり合って行くかを考える方が重要だった。
「山田家本家を、いったい誰が継ぐかが問題だ。秀人の野郎はもうダメなんだろ、城戸さんよ」
「……二階から落ちた時に首と腰を損傷したらしく、未だ意識が戻らない。医者の話だと、仮に目が覚めても二度と起き上がれないだろうと。彼の部下や協力者達は、すでに彼の遺産を切り取る準備を進めている有様で」
「それじゃ死んだも同然じゃねえか。となると、やはり次の当主は……」
会長は目を細め、城戸警視に向かって裏返した人さし指をくいくいと動かした。こちらへ寄れというジェスチャーに、城戸警視だけでなく、周囲の者全員が顔を寄せて来る。
会長は声を申し訳程度に潜め、ゆっくりとした口調で言った。
「あのガキをなんとかこっちにつけよう。山田栄八に寄生していた鴨山組みてえに、ヤツの弱みを握るんだ」
「弱みって、たかが十才やそこらの子供にそんなものがあるわけが」
「どんな手を使ってもいい、あのガキを俺達に依存させるんだ。……実は、阿片を扱ってる異人の売人とツテがある。手に入れてあのガキに仕込むことができれば……」
「阿片だと?」
さっと顔色を変える城戸警視に、会長は歯を見せて笑った。
他のヤクザ達も、なるほど名案だとばかりにうなずき合っている。
「少しずつ阿片を盛って、虜にするんだよ。未来の当主様って言ったって外食ぐらいするだろ。生活を調べ上げて、阿片を盛れる人間を買収するのさ。気がついた時には阿片が欲しくて仕方なくなってる。そこで俺達から近づいて、阿片を売ってやれるのは寄桜会だけだと……あとはクスリ欲しさになんでも言うことを聞くさ」
「……少々強引だが、いや、しかし……そうなれば我々の立場も、元々の理想どおりか」
「理想どおりなんてもんじゃねえ。うまくすりゃあ当主を下僕にできるぜ。あんたは今までやってきたとおり、警察に手を回してガキの身辺に隙を作ってくれればいい」
分け前はたっぷりくれてやる。そう言って笑った会長の背後で、今まで背を向けていた船頭がこちらを振り向いた。
城戸警視を含めた数人がその不審な動きに視線をやる。
船頭は夕陽を背に、こちらに何かを掲げていた。
四角い、妙な形のそれを、船頭は大きく振りかぶる。城戸警視が「あっ」と声を上げた直後、四角い物体が放物線を描いて彼らの元に飛んで来た。
ヤクザの会長の、振り返った瞳に、逆光で闇の塊のようになった物体に刻まれた『罰』の文字が映った。
船頭が水の中に飛び込む音が響いた直後、会長の顔の真上で爆裂弾が爆ぜた。
顔を寄せていた他の男達にもその破片と、中に詰められていた金属球の散弾が襲いかかる。
悲鳴を上げる者は誰一人いなかった。一瞬でその場の全員がなぎ倒され、血しぶきを上げて船上に転がった。
高価な火薬を限界まで詰め込んだ爆裂弾の破裂音は海原に響き、空に吸い込まれていく。
顔面がまるでざくろのように開いた寄桜会の会長の手が、城戸警視の足をつかんでいた。
数秒後、その手を城戸警視が、うめきながら払いのける。
頬と右腿に金属片を受けた城戸警視は、激痛に声を上げながら周囲を見回した。
彼の他に、動いている者はいない。
惨状に唖然とする彼の視界の隅で、船体の向こうから伸びてきた手が、船べりをつかんだ。
「……何だ……」
湿った音を立てて、船頭が船に上がって来る。
海草のような髪が衣にはりつき、水死体のようなよどんだ眼が城戸警視を睨んだ。
再び船上に立った船頭は、真っ白な鳥の仮面をつけていた。
「――森元の仲間か……? それとも、山田家の……?」
城戸警視の問いに船頭は言葉を返さず、ごきりと肩の骨を鳴らす。
船上での対談は、寄桜会側が申し出たことだった。当然場をあつらえたのも、船頭を用意したのも、連中のはずだ。
いったい、どんな間抜けな手違いをしたのか。
連中が一人残らず爆死した今、城戸警視にそれを知るすべはなかった。
ごつり、と靴が板子を鳴らす。
城戸警視はサーベルも拳銃もない腰を探りながら、ひきつった顔で叫ぶ。
「貴様らなど、ただのクズだ! 俺の……俺の価値など、何一つ分からんくせに!」
ごつりと、板子が鳴る。
「俺を始末しても、いずれほえ面をかくことになる! 俺には、俺には全てを託した息子がいるんだ!」
ごつりと、近づいて来る。
「偉大な政治家になる息子だ! 俺の意志はあいつが継ぐ! すでにあいつは人心を集め結社を作っているんだ! 帝国救民党という――」
影が、覆いかぶさって来る。
「息子がお前を殺す!! くびり殺すんだッ!!」
怪物が腰を折り、鳥の仮面が、城戸警視に肉薄した。
その奥から、血の通わぬ機械のように冷え切った、声が這い出てくる。
「死人に私は殺せない」
城戸警視の顔から、表情が吹き飛んだ。
呆然としているその顔の下の喉に手を伸ばすと、怪物は筋肉を震わせるほどの力を込める。
やがて枯れかけた竹が砕けるような音が響くと、城戸警視の体は、深い海へと投げ捨てられた。




