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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  三章  焔の少年
68/110

三十

 山田秀人には欠けているものがある。


 父はそれを恐怖を感じる神経だと言い、母は善の心だと言った。


 ある意味では、彼らの答えは正しい。だが正しいだけで、なんら意味のない答えだった。


 それらが絶望的に欠けているからと言って、本人が人生を生きていく上では、何の問題もなかったからだ。


 父母が我が子に恐怖や善が備わっていないことを嘆いたのは、単に彼らの無知と誤解によるものに過ぎなかった。


 恐怖が備わっていれば、我が子が好んで戦場に行くことはなかったと思ったのだ。

 善が備わっていれば、弱者をいつくしみ、家族を大切にしたと思ったのだ。


 そして自分達の理想の息子が、今現在と同様の資産と権力を手にして、帝都に光り輝く偉人、賢人けんじんとして君臨したと、そう思っていたのだ。


 あまりに無知で、あまりに独りよがりな皮算用。


 大鳥が重石おもしをつけて飛べないように、大魚が水から上げられて泳げないように。


 山田秀人に恐怖を与え、悪を奪うことは、殺すことと同じなのだ。


 自分と他人の命を玩具のように扱う底抜けの凶悪さこそが、彼が強大な存在で在るための絶対条件だった。


 痛みを恐れ真の善性を抱える者に、権力者としての成功はない。


 山田秀人は悪人であればこそ、真価を発揮する男だった。


 父母はそんな彼を世に生み出したことを最期まで悔やみながら、僻地へきちで寂しく死んでいった。


 山田秀人には欠けているものがある。


 それは快楽に対して、心から満足し、もう充分だと感じた経験だった。


 何かに時を忘れて打ち込んでも、腹いっぱいご馳走を食べても、毛が逆立つほどの美女を一日中抱き通しても、だるくなるのは肉体だけで、心はいつまでも欲望を解消できずにくすぶっている。


 それは文武や食事や性行為が、彼が本当に望んでいるものではないからだ。


 山田秀人が自分の魂が真に望むものを存分に吸収し、心からの満足を得られるのは。


 今日が、生まれて初めてだった。





 棚主の拳が山田秀人の顔面をとらえた。

 時計屋にえぐられた片目から体液を噴き出し、山田秀人の上半身が倒れていく。


 だが、右足を一歩引いたその体は拳打の衝撃に耐えて踏みとどまる。

 ゆっくりとのけぞった上体を戻す敵を、棚主はさらに殴打した。


 頬を殴りぬけ、さらに胸に左の拳を放つ。命中の寸前、その手首を山田秀人が抱え込み、肘をまっすぐに棚主のあごに叩きつけた。


 今度は棚主の首がのけぞるが、手首をつかまえた山田秀人は彼が退くことも許さない。


 肘を戻すと即座に同じ腕で裏拳を繰り出し、戻ってきた棚主のこめかみを弾いた。


 うめく棚主の膝に足をかけ、そのまま跳び上がって首筋にかかとを振り下ろす。


 ばきりと音がして、棚主が床に手をついた。


 肥満体からは想像もできないような、鮮やかな動きだ。しかし、直後に床に落ちてきた山田秀人の足を、棚主もまた両腕で抱え込み、引き倒す。


 床に後頭部を打ちつける山田秀人が、顔中から血を流し、咳き込みながら楽しげに笑った。


 両者のすぐわきで、燃焼剤の炎が頭上高く噴き上がっている。


「暗いな」


 棚主の頭を何度も蹴りつけ、押しのけながら狂人が言った。「こんなに燃えているのに」と、炎に指の吹き飛んだ右手をかざす。


「血を流し過ぎた。死が近づいている証拠だ。じわじわと、視界を闇が侵食してくる……君も同じか?」


 床を拳で押し、必死に立ち上がろうとする棚主。


 彼よりもいくぶん早く立ち上がった山田秀人が、炎の向こうを走る足音に目を向けた。


 森元やダレカの声がする。燃焼剤が噴き上げた炎は周囲の燃えやすい家具や絨毯に延焼し、聖人の巨大な絵画をあぶり、天井を焦がしていた。


 じわじわと這い寄る炎から距離をとりながら、山田秀人は周囲を見回した。


 炎の壁は周囲をほとんど取り囲んでいたが、燃焼剤が直接まかれた場所以外はまだ火の勢いも強くはない。


 薄い炎のまくの向こうに壁際の窓を見つけると、山田秀人は棚主を見て口端を引き上げた。


「そら、そこに窓がある。このままじゃ炎にまかれて一巻の終わりだ……いちかばちか飛び出せば、ひょっとしたら助かるかもしれないよ。窓の外は中庭だ。ここは二階だがね、運が良ければ骨を数本折るだけで済むかも」


 獣のような声を上げて立ち上がった棚主が、そのまま山田秀人に突進して来た。


 突き刺さるように腹にめりこむ拳に、山田秀人は嘔吐する。だがすぐに棚主の首と腕を取り、膝を胸に打ち込んだ。


 長い苦悶くもんの声を上げ、よろめきながら下がる棚主が、炎に左足を突っ込んだ。


 靴が焦げる臭いに、山田秀人が唾を吐きながら笑いかける。


「気をつけてくれ、それ以上退いたら火達磨ひだるまだぞ」


「俺達が外に出るのは、あんたの死を見届けてからだ……窓からじゃなく、階段で一階まで下りて行く……」


 炎から足を抜き、ズボンのすそについた火を消すのも忘れて、棚主は歯を食いしばる。


 山田秀人はその面構えに心底嬉しそうに笑い、炎の中におもむろに手を突っ込むと、悲鳴とも哄笑ともつかぬ声を上げて火元を物色した。


 やがて焼けただれた手に燃える木片をつかんで引き抜くと、先端に炎のついたそれを棚主に突きつけた。


「上着は捨てたようだが、その肌や髪にもまだ燃焼剤は染みついてるだろう? こいつを押しつければ燃え上がるかな? 生きたまま焼かれた、ヨーロッパの魔女のようにな」


「燃焼剤はあんたもかぶったんじゃないか。袋を撃たれた時に……」


「ああ、足にたっぷりと。だから僕を炎に倒れ込ませでもすれば、君の勝ちだな」


 ぶん、と燃える木片が振り回されると、火の粉が棚主のすぐそばまで飛んできた。


 棚主は楽しげに笑う山田秀人を睨み、そして、まっすぐに近づく。


 腕を構えもせずに進み出てくる敵に、山田秀人は一瞬眉を寄せてから、得心したようにうれしげにうなずいた。


「相打ち覚悟か。火をつけられたら僕に抱きついて、一緒に燃え尽きるかい。それも面白そうだ」


「元よりそのつもりだ。あんただけは絶対に殺す。幸太郎の未来にあんたの影は残さない」


「教えてくれよ。何故そんなに彼が、幸太郎君が大事だ?」


 「所詮他人だろう」と首を傾ける山田秀人に、棚主は初めて、小さく笑みを浮かべた。


 怪訝そうな狂人へ、棚主が彼とは別の色の狂気をにじませた目を向けて答える。


「あいつは俺なんだよ。薄汚い邪悪な大人どもに足蹴にされて育った、昔の俺なんだ。歪んじまう前のな……

 俺達孤児にとって、世界はこの焼けただれた部屋と何も変わらない。いつ焼け死ぬか分からない、地獄さ」


「ほう」


ほむらの中で俺達は生きている。生きていくしかない。身を焼きながら、乾きながら……それでもいつか、自力で抜け出す。

 俺の役目は、幸太郎が燃え尽きてしまわないように、少しだけ陰を作ってやることだ。あんたみたいな『敵』を、除いてやることだ」


 次第に笑みを消し、獣の形相に戻る棚主を、山田秀人はまるで長年の親友に向けるような笑顔で見た。


 再度木片の炎を振り回し、火の粉を飛ばしながら前に出る。


「実に好ましい。明確な答えをありがとう、棚主君」


 木片が相手に届く距離まで近づくと、山田秀人は一瞬目を閉じ、それからゆっくりと開きながら、笑みを消した。


「――ならば僕が、二人とも焔に投げ込んでやるよ」


 寂しくないように。


 棚主と同じ形相を浮かべた山田秀人が、瞬間炎を棚主に振り下ろした。


 残る全生命力を振り絞る気で、棚主は身をひるがえし、炎を避けざまに右足の靴底を敵のあごに放つ。


 棚主の靴は山田秀人の胸元をなで、空中へすべった。首をのけぞらせた山田秀人が、血走った目で棚主を見下ろした。


 かわされた。悪魔のような笑みに顔を歪ませる敵が、蹴りを放った直後の棚主の胸に、炎を差し出してくる。



 ――――その手が、びくりと震えて止まった。



 それは戦いに慣れた者の、ほとんど反射的な行動だった。


 身をよじらせて木片で顔を守ってしまった山田秀人が、目を見開いて棚主の後方を見る。


 炎の向こうを走り回っていた者が、燃え盛る炎の壁がわずかに途切れた場所に屈み込み、拳銃をこちらに向けて構えていた。


 子供の目線でしか気づかないような、低い位置に空いた狙撃点。

 数メートル向こうの幸太郎が、引き金を音を立ててしぼっていた。


 撃鉄が落ちる音。


 発射されない弾丸に、山田秀人がさらにこぼれ落ちんほどに目を見開き、焔の中の少年を見た。


 口を引き結び、こちらを見つめてくる幸太郎は、今、確かに山田秀人を『撃った』のだ。


 その命運を、絶ったのだ。


「『信じて』――か!!」


 棚主の声に目線を落とした山田秀人の顔面に、炎をまとった足が突き刺さった。


 振り上げていた足を下ろす勢いで床に手をついた棚主が、身をひねりながら、逆立ちの姿勢で蹴りを放っていた。


 ダレカの十八番おはこを見よう見まねで盗んだ、最後の一撃だ。


 身をのけぞらせ後方に吹っ飛ぶ山田秀人が、衝撃に耐えられずに背中から窓に突っ込んだ。


 炎の膜とぎやまんをつき抜け、その体が空中に放り出される。


 下には崩壊した回廊の屋根にえぐられた地面の穴から、地下室が口を開けて待ち構えていた。


 山田秀人はズボンから噴き上がる炎に焼かれながら、落下して行く地下室の陰に島田の頭を見る。


 地の底の死体が目の前に迫って来る。


 驚がくに染まっていた顔面が、瞬時に凄まじい興奮と満足に歪み哄笑を上げた。


「わははははは!! すげえぇえええーー!!」


 最高の演出に震える彼の声が、三階分下の地の底に吸い込まれて行くのを聞きながら、棚主は床に横たわって、目を閉じかけた。


 周囲で燃え盛る炎の向こうから、幸太郎が呼びかけてくる。


 やがてダレカと森元の声が近づいて来て、炎の中にまだ燃えていない机や、家具を放り込む音がした。


 ほんの一時炎をかき分けた中を、ダレカが転がるように駆け抜けて来る。

 軍服のコートを素早く脱ぐと、棚主のズボンのすそを燃やす火を叩き消し、そのまま頭からかぶせた。


「ヤツはどうした? 倒したのか」


「……ああ」


「しっかりしろ。救いっぱなしで死なれたら一生あの子の負い目になるぞ」


 肩をつかんでくるダレカに、棚主は半分目を閉じたまま、眉間にしわを寄せてうなった。


 足に力を入れ、ダレカに支えられながら立ち上がると、一瞬闇に落ちるような強烈なめまいがした。

 わきばらの傷をえぐろうとすると、ダレカが指をつかんで止める。


「俺について来い。足だけ動かしてればいい」


 棚主はうなずき、ダレカの肩につかまって目を開いた。コートの前をしっかりとつかんで閉じると、ダレカとともに火の中に飛び込む。


 頭を下げて走ればすぐに火を抜け、幸太郎と森元が二人の体についた火を叩いて消してくれた。すでに燃焼剤は燃え尽きたと見えて、周囲に広がるのは木や布を燃やす純粋な炎だった。


「こっちへ! ホールの向こう側は石床が通ってるんです、火の勢いが弱まるはずです!」


 森元がショットガンを捨て、自身の上着を幸太郎にかぶせて抱き上げた。

 棚主達は燃え上がるホールを、なるべく火勢の弱い場所を選んで駆け抜ける。


 火と煙の中を行くと、やがて前方に階段が見えた。駆け下りた先の階下もまた火の手が上がっていたが、すぐそこに中庭に続く回廊への扉が開いていた。


 脇目わきめも振らず飛び出し、回廊を走る。

 白煙は漂っているものの、回廊は完全な石造りだった。

 燃える屋内から、炎を遮断している。


「……棚主!!」


 中庭から、津波の声がした。見れば回廊の内側には、大勢の人間が屋敷から這い出して来ている。


 雨どいから上がっていた炎は既に消えており、今は石の回廊の外側、建物の中からのみ火の手が上がっていた。


 四人が草と土の中に踏み込んで行くと、警官達や確保されたメイド達の間をぬって津波がやって来る。


 遅れてマスターと、太ったにきび顔の警官も駆けて来て、四人を広い中庭の中心、噴水の方へと誘導した。

 にきび顔の警官は築地警察署の新藤署長だと、森元が棚主達に説明する。


「山田秀人が落ちて来たんだ! 今部下を地下へやっているが……何があったんだ!?」


 叫ぶ新藤署長が指さす方向を見ると、ぽっかりと空いた地面の穴に人々が集まっており、そのそばで年を食った警官が、一人呆然と膝をついていた。


 彼を見た森元が「城戸警視」と小さくその名をつぶやく。次いで首を振りながら幸太郎を地面に下ろし、新藤署長へ、視線を向けずに声を放った。


「抵抗しましたので……」


 その一言で、新藤署長が口を引き結んだ。


 心配そうな幸太郎の視線からすら顔を背け、地を見つめる森元の肩を、新藤署長が強く、しかし優しくつかむ。


「ご苦労だった。警部補。後のことは俺が、何とかする」


「…………署長」


「けが人を脱出させたいのだが、見てのとおりの有様でな。心得のある者が応急処置をしているが……外からの助けを待つしかない状況だ。森元、横山の所に行ってやれ。血の気の多い男だから大丈夫だろうが、お前を待ってる」


 その言葉に森元が棚主達を見る。「行ってこいよ」と返す棚主に、森元は一瞬唇を噛んだ後、深々と頭を下げ、警官達の群に走って行った。


 津波とマスターがどこから見つけて来たのか、バケツに噴水の水をくんで来て、棚主達に頭からぶっかけた。


 ぶるぶると身を震わせて水を飛ばす幸太郎を、マスターが抱きしめる。「良かったね良かったね」と繰り返す彼の横で、津波が棚主とダレカを眺めて深く息をついた。


「よくわからねえけどよ……つまり、一件落着、なのか?」


「さあな。とにかく、山田秀人は仕留められた。幸太郎も帰って来た。あとは、どうやって全員無事に脱出するかだ」


「この中庭に残ってていいのかどうかだな。さすがにこれだけ派手に燃えてりゃ外の連中も助けに来てくれてるだろうし……そこの穴の下はどうなってんだ? 石造りなら避難するってのも」


 津波の言葉半ばで、突然女の悲鳴が上がった。

 棚主達が視線をやると、ぼろぼろのドレスを着た女がこちらに転びながら走って来る。


 彼女の後方では禿げた中年男と白髪の老人、半笑いで宙を眺めている若い男が、警官達に追いかけられ、取り押さえられていた。


 女はわけのわからないことを叫びながら、追いかけて来る警官に自分の金髪をつかんで投げつけた。


 一瞬唖然とした棚主達だが、女の頭に黒髪が載っているのを見て、投げつけたのがかつらだったとすぐに理解する。


 女はこげた白いドレスのすそを踏みつけ、びりびりと破り散らしながら、やがて幸太郎の元に飛び込んでその身を抱きすくめようとした。


「なっ、何ですかアナタ!? やめてくださいよ!」


「幸太郎さん助けて! 私よ、増子よォ!」


 すでに抱きついていたマスターが抵抗するのを手で払いながら、増子と名乗る女は幸太郎の足にすがりついた。


 唖然とする幸太郎の前で、増子を追って来た警官が彼女の腰を抱え込み、引き剥がそうとする。


「こら! 神妙にせんか!」


「やだやだ! やめて! この子に話を聞いてよ! 私何もしてないんだからあ!! ただの招待客の一人なんですぅ!!」


 増子が泣きわめきながら、幸太郎に涙で化粧の崩れた顔を向ける。


 ひそかに拳を固めていた棚主やダレカの前で、新藤署長が警官に「何ごとだ!?」と問いかけた。


 警官は増子の腰から手を離し、起立しながら答える。


「この女と向こうの三人が回廊をうろついていたもので。御存知のとおり、彼女らは山田家分家の有名人です。山田秀人と共謀して今回の事件を起こしたに違いありません」


「違うの、違うの! 私達も秀人さんに騙されたのよ! 全部あの人が一人でしたことなんです!」


 叫びながら増子が、幸太郎に抱きついてわんわん泣き散らした。

 その手が幸太郎の手に、何かを握らせる。


 視線をやると、それは幸太郎の名前と血判が押された、誓約書だった。

 幸太郎の目が、わずかに見開かれる。


 棚主とダレカの疑わしげな視線を受けながら、増子は幸太郎にしゃくりあげながら懇願する。


「お願いです幸太郎さん、助けて……私、何もいらない。秀人さんの口車に乗せられて、つい色気を出しただけなのよ。本家の連中を見返せるって、上前をはねられるって……まさかこんなひどいことをするなんて……」


「……」


 黙っている幸太郎に、増子は震えながら涙と鼻水を垂らし、その場に土下座の姿勢ではいつくばった。


 彼女のすぐそばを、手錠をかけられた他の分家の三人が悪態をつきながら通り過ぎて行く。


 増子は絞め殺される寸前の鼠のように、みじめにちぢこまりながら「助けて」「勘弁して」と繰り返している。


「幸太郎」


 津波が声を向けたのをきっかけに、その場の全員の視線が幸太郎に注がれた。


 幸太郎は増子の、今は自分よりも幼く見える表情を見つめ、続いて先ほど連行されて行った三人を振り返った。


「……この人達は……山田秀人に呼ばれて、この別荘に来ていた……ただの、お客です」


 増子が息を呑む気配があった。

 幸太郎は正面に顔を向け、増子を追って来た警官をまっすぐに見る。


「山田家本家の血を引くぼくを養子にすれば、分家の人でも本家当主の親になれると、そう山田秀人に言われて集まったんです。ぼくの養い親に誰がなるか、相談してました……でもたぶん、ぼくが山田秀人にさらわれて連れて来られたことは、知らなかったと思います」


「でもね、君……」


「少なくともぼくはこの人達には、何もされませんでした。だから……あまり、乱暴にしないであげてください」


 うつむく幸太郎に、警官は頭をかきながら新藤署長を見た。


 新藤署長は肩をすくめ、増子を示して「一応、手錠だけかけておけ」と命じる。


 増子は警官に腕を取られて立ち上がり、連行されながら、幸太郎に鼻をすすりつつ小さく礼をつぶやいた。


 彼女が去った後、新藤署長も部下の指揮を執るため、人の群に向かって走って行った。


 残された者はなるべく中庭の中心に陣取り、めいめい体を休める。

 津波や幸太郎が時計屋の姿を捜したのだが、中庭に彼はいなかった。


 屋敷にはまだ炎が回っていない場所もある。無事に逃げ延びていることを祈るしかなかった。


「情けをかけたのかい?」


 棚主が草の上に座り、遠くで拘束されている分家の四人を親指で示しながら、幸太郎に訊いた。


 幸太郎は増子から渡された誓約書を見つめ、息をつく。そしてゆっくりと破り捨てながら「いいえ」と答えた。


 炎が巻き起こす風に乗って、紙片が飛び散っていく。


「何もされなかったというのは、嘘ですけど……でも、あの人達にされたことなんて、全然たいしたことじゃありませんから。怒鳴られたり、指先をちょっと傷つけられたことなんか、どうでもいいんです」


 「あの人達のことなんか、どうでもいい」……そうつぶやく幸太郎が、棚主達に顔を向けた。


「ぼくを迎えに来てくれた人が、こんなにいるんですから。……もう、だめかと思ってました……本当に……本当に……」


 ありがとうございました。そう続ける幸太郎に、棚主達は笑みを向ける。


 幸太郎の肩を抱き寄せた棚主が、保留していた言うべき言葉を返すため、口を開く。


「いつでも迎えに行くさ。呼んでくれれば、どこにだってな」


 幸太郎が棚主の胸に顔を埋め、うなずいた。


 その頭をなでながら空を見上げた棚主の目に、火の粉や煙にまぎれて、屋根の上に人影が見えたような気がした。


 海草のような黒髪を風に揺らすその影を再び瞳にとらえる前に、鉛色の曇天から、ぽつぽつと、水の滴が落ちてきた。

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