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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  三章  焔の少年
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二十八

 棚主の血を吸った上着が、刃にずっしりと巻きつく。


 そのまま左腕を引いて太刀先をそらすと、棚主は急いで殴りかかるようなことはせず、両手で上着を握って振り回した。


 山田秀人が体を引きずられ、体勢を崩す。

 だが日本刀を握った手は決してゆるめず、こちらも両手で柄を握り、離さない。


 体を突かれないように、全身のバネを使って敵の体を様々な方向に引き回す棚主。


 彼を睨む山田秀人の視界の端で、幸太郎が重そうに銃を構え、狙いを定めようとしていた。


「……分業、というわけか」


 小さくつぶやいた山田秀人が、突然引きずられていた足を踏ん張り、全体重をかけてその場に留まった。


 棚主の体が上着を通して引き止められ、生地がわずかに裂ける音が響く。


 渾身こんしんの力で上着を引くが、山田秀人の小山のような体は微動だにしない。


 上着に巻かれた日本刀すら、わずかに震えるだけで動かなくなった。


 凄まじい筋力。だが体を固定させた山田秀人は、幸太郎のリボルバーに完全に頭部をポイントされていた。


 山田秀人は引き金に指をかける幸太郎が、一瞬戸惑とまどった表情を浮かべたのを見逃さなかった。


 棚主と力比べをしながら、口端を上げて笑いかける。


「さあ、幸太郎君。この状況における問題点は三つだ。君は僕を撃つために、三つの問題を解決しなければならない」


「問題……?」


「一つは、君にはおそらく射撃と殺人の経験がないということだ。銃を撃つというのは勇気がいるものだろう? 引き金を引くということは、殺人を試みるということだ。

 そのちっぽけな金属部品をちょっと動かせば、弾丸が銃口から飛び出して、僕の頭を割るかもしれない。脳味噌が飛び散り、僕は死ぬ。君が殺しの初体験を敢行かんこうするには、とても勇気がいる。それが第一の問題だ」


 全身の力を駆使しながら、それでもすらすらと口上を述べる山田秀人。

 棚主が身をひねり、日本刀につながった上着にぶらさがるようにして、蹴りを放つ。


 両手で柄を握っていた山田秀人は、蹴りをまともにすねに食らい、床に膝をついた。瞬間、ばきりと音がする。


 床を転がる棚主が急いで立ち上がると、手にした上着から折れた白刃がこぼれ落ちた。


 見れば山田秀人の握る日本刀は、刃の半ばほどまでしか残っていない。


「……二つめの問題は、もっと単純だ。君は撃鉄を起こしていない。そのリボルバーは引き金を引く前に、撃鉄という部分を起こさないと弾が出ないんだよ。それじゃあ僕を殺せない」


 刃を折られたことを全く意に介さず、山田秀人が口上を続ける。


 彼は、あわてて手元のリボルバーを探る幸太郎に「違う、もっと上だ」「そう、それを指で起こせ」などと、優しげな声で撃鉄の位置を教えてやる。


 棚主はその様子を前に歯を軋ませながら落ちた刃を拾い上げ、上着の上から握り込んだ。


 元々、リボルバーに弾は残っていない。それを山田秀人が知るはずもないが、このに及んでの余裕たっぷりの態度に、無性に腹が立った。


 ヤツは幸太郎を、全く警戒していない。敵として認めていないのだ。


 じりじりと間合いを詰める棚主を横目に、山田秀人はさらに口端を持ち上げ、声を放った。


「そして、三つめの問題。それは君の立ち位置だよ。君は拳銃の射程距離を完全に見誤っている」


 言葉半ばで、棚主が山田秀人に襲いかかった。


 突き出される刃を折れた刀ではじき、さらに繰り出される棚主の刺突しとつを軽やかにかわすと、山田秀人はくるりと背を向けて走り出し、距離をとった。


 その莫迦にしたような仕草に歯を剥いた棚主は、しかし息が切れて追うことができない。


 呼吸を整えながらすり足で動く彼を振り返りながら、山田秀人は台詞を続ける。


「拳銃というのは金属の弾を飛ばすから、非常に射程の長い武器だと誤解されやすいが、実際は至近距離でなきゃ当たらないものなんだ。狙った場所に命中する限界距離は数メートル。訓練を積んだ者ならもう少しだけ伸びるという程度のものなんだよ。そこにきて君は僕から、たっぷり10メートル以上離れている」


 幸太郎はおそらくメートルという距離の単位が分からなかっただろうが、山田秀人の言わんとしていることは理解できたらしかった。


 つまり、仮にリボルバーに弾が残っていたとしても、今の幸太郎に山田秀人を射殺することはほぼ不可能なのだ。


 山田秀人を警戒させるには、もっと近く、リボルバーの弾がまっすぐ彼に届く範囲まで近づかなければならない。


 そうでなければ実質、幸太郎は戦いの場にいないも同然なのだ。


 幸太郎はリボルバーを構え、二人に一歩近づいた。

 だがその瞬間棚主が幸太郎に鋭い視線を放つ。


 その目は『動くな』と言っていた。


 いつでも逃げられるようにしておけと、さもなければ一瞬で山田秀人に斬り倒されると、そう告げていた。


 幸太郎は山田秀人の笑顔を見、つばを飲み込んだ。

 先ほどの二人の攻防を見ても、棚主より山田秀人の方が軽やかに動けている。


 幸太郎が不用意に接近すれば、山田秀人は棚主との戦いを突如放棄して、一直線に幸太郎を殺しに向かって来るだろう。


 その時幸太郎は弾の出ないリボルバーで、この狂人を迎え撃たねばならなくなるのだ。


「残念だねえ幸太郎君。強い武器を持っていても、結局君は蚊帳かやの外。何もできない、小虫こむし同然のお子様なわけだ」


 ぐっと唇を噛む幸太郎に、山田秀人は笑いかける。


 棚主が瞬時に殺気をまとい接近するが、山田秀人は踊るように後退し、さらに幸太郎から離れて行く。


 聖人の絵のそばまで下がると、山田秀人は折れた日本刀を床に投げ落とした。肩で息をしながら目を細める棚主に、両腕を広げて声を飛ばす。


「愉快だね、棚主君。幸太郎君は今、ひどく悔しい思いをしている。それは彼が、殺人の才能と経験を持っていないがための悔しさだ。僕や君が持っている反社会的な暴力の才能。それを彼は、喉から手が出るほど欲しいんだとよ」


「その臭い口を今すぐ閉じろ……!」


「君こそ黙って聞けよ。いいところなんだから」


 刃を持ち上げて向かって来ようとする棚主に、山田秀人は左手の人さし指を立て、騎手が乗馬の気を引く時に鳴らす舌呼ぜっこのような音を立てた。


 舌が口中で踊る「チッチッチッ」という音。


 その音を出す陰で、右手が絵画の裏側に、これ見よがしに差し込まれている。


 がちりとじょうが外れるような音がして、山田秀人の右手が絵画の裏側から、長い金属の筒と、それに直結した灰色の袋をつかみ出した。


 ――河合雅男が持っていた、燃焼剤の噴射機だ。金属製だが、全く同じ形をしている。


 とっさに幸太郎がリボルバーを掲げ、山田秀人をけん制しようとした。だが棚主もまた、敵と幸太郎を結ぶ線上におどり出る。


 山田秀人は灰色の袋をゆさぶって、中身が入っていることを確かめながら微笑んだ。


「河合の武器は、僕が彼に合わせて作ってやったんだよ。彼は性根の邪悪さと放火の才能にはけていたが、学がなくてね。こういう洒落しゃれた兵器には縁のない男だった」


「……屋敷の雨どいに仕込まれていた燃焼剤も、河合が使ったのと同じものだった」


「よく見てるじゃないか。あの仕掛けは僕が材料を用意して、河合に作らせたのさ。回廊の二階に雨どいに燃料を流す場所があって、そこから屋敷全体に燃料が行き渡る。マッチを擦って放り込めば一気に燃焼剤に火がつき、普段は閉じられている木製の弁を焼き破り、各部屋に炎が注ぎ込まれるんだよ。今回は爆裂弾もあぶって回廊自体を吹き飛ばしたけどね」


豪勢ごうせいな火遊びだな」


 吐き捨てるように言った棚主に、山田秀人は眉を寄せて心外そうな顔をした。


「――別に、遊び半分でこんな仕組みを作ったわけじゃない。これも『戦争の種』だよ。

 東京中の照明用や調理用のガス管を一新、増設しようという政府の計画があってね。まだ企画段階だが、そこに工作員を送り込めば似たような仕組みが作れるんじゃないかと思ったんだよ。正規のガス管の他に秘密の管を作って、大きな施設や金持ちの家につなぐんだ。そうして僕の好きな時に、大量の燃焼剤を送り込んで火をつける。もちろん稼動している正規のガス管にも火が行くように細工する。

 上手くすれば、今日この屋敷で起きたことが帝都中で起こるわけだ」


 最悪の発想を喜々として語る山田秀人に、棚主と幸太郎が頬を引きつらせた。


 屋敷一つを火の海にした細工は、東京全体を燃やすプランの、いわばサンプルだったわけだ。


 地下で語られた偽札の話といい、今回の事件に直接関係のない悪巧わるだくみを、この男はいったいいくつ抱えているのか。


 山田秀人は遠くに聞こえる炎の音に耳を傾けながら、深く息をついて目を細めた。


「何故そんな酷いことを思いつくんだ、って顔だね。僕の動機についてはさんざ語ったからいいかげん理解してくれているだろうが……そういえば、以前河合がこんなことを言っていたよ」


 燃焼剤の袋をわきにはさみ、噴射機を握った山田秀人が、逆の手で懐をあさりながら首を傾ける。


「明確な目的さえあれば、そして多くの人を巻き込む事案であれば。放火と殺人は罪にはならない、とね」


「……何だと?」


「彼は多分、日比谷焼き討ち事件のことを言いたかったんだろうよ」


 懐から魔法マッチを取り出し、山田秀人が歯を剥いて笑う。

 気持ちが悪いほどに真っ白で大きな歯が、ガチガチと音を立てて言葉をつむぐ。


「江戸での放火は死罪に値する、などと人は言うが、かの最悪の暴動、日比谷焼き討ち事件では東京を燃やした放火魔のほとんどが無罪になった。多くの派出所と、新聞社や罪なき人の家々を焼き払い、恐怖のどん底に突き落としたにも関わらずだ。首謀者とされる者までもが証拠不十分として釈放され、罪を問われることはなかった。河合はそこに法治国家の限界を見たんだろうよ」


 魔法マッチが擦られ、火がつく。


 刃とリボルバーを構えて後ずさる二人に、山田秀人はゆっくりと近づいて行く。


「どんなに世界を燃やしても、どんなに人を死傷させても、それが限度を超えた歴史的な大事件ならうやむやになるって前例なのさ、日比谷焼き討ち事件は。そうでなければ、あの暴動で暴れた民衆と河合が別の裁かれ方をするのはおかしい。民衆が無罪なら、河合も無罪になるべきだ。同じ放火魔なんだからな」


「……」


「一人殺せば悪党、千人殺せば英雄さ。殺人事件は裁かれても、戦争は裁かれない。実に素晴らしい『現実』だ。ゆえに僕は常に戦争を起こそうとするんだよ。中途半端はいけない。より多くの人間を牙にかけて大事件にしなきゃあ駄目だ」


 瞬間、山田秀人が魔法マッチを棚主に向けて放った。飛来する火に、棚主が「走れ!」と幸太郎に叫ぶ。


 噴射機から、まるで弾丸のように燃焼剤が飛び出した。


 河合の噴射機よりはるかに強い勢いで放たれた燃焼剤が、魔法マッチを飛び越えて棚主の胸に命中する。


 飛び散る燃焼剤が、魔法マッチに降り注ぐ。

 異臭を放つ水滴を、炎が蛇のように伝い始めた。


 叫ぶ幸太郎。棚主が上着でくるんでいた刃を抜き、素手で山田秀人に向かって投げつけた。


 くるくると回転しながら飛ぶ白刃が、山田秀人の左の肩に突き刺さる。


 だが山田秀人は笑顔を浮かべたまま、微動だにしない。

 噴射機が吐き出す燃焼剤が、床を燃やす炎に直に噴きつけられた。


 一気に燃え上がる炎が、次の瞬間、棚主の目の前に迫った。




 ――棚主の体が、熱い痛みに包まれた。


 右半身に瞬時に広がった感覚が、棚主の体を床に倒す。


 頬や腕や、足に走る痛み。


 反射的に閉じていた目を開けると、目の前には燃焼剤に濡れた床がある。


 棚主は死を覚悟したが、半身に広がった痛みは一瞬でピークに達した後、波のように引いていった。


 違和感に右腕に触れると、づくりと小さな痛みがある。


 体が燃えていないことに気づくと、身を起こしながらに半身に目をやった。


 腕や足に、ささくれ立った小さな木の欠片がいくつも突き刺さっている。


 それが砕かれた床板の破片だと気づいた直後、死の予感ににぶっていた聴覚が、その『音』を捉える。


 鈍い銃声。棚主のすぐわきを弾丸が通り過ぎ、前方で何かを破壊した。


 視線を上げれば腕で体をかばう山田秀人と、弾丸を受けて破裂する燃焼剤の袋。


 何者かが、棚主の後方から銃を撃ってきている。


 その一撃目が棚主の足元の床板を撃ち砕き、転倒させて炎の直撃から守り、二撃目が山田秀人の噴射機を破壊した。


 そう理解した瞬間、棚主の腕を背後から『誰か』が引き、床に散った炎から彼を遠ざけた。



 自分の腕をつかんでいる、見覚えのある手。


 棚主は思わず息をつき、ダレカを振り返っていた。



「――山田秀人! 誘拐、殺人、その他の容疑で逮捕する! その場にひざまずけ!!」



 幸太郎の前に立った森元が、ショットガンを構えて叫んでいた。


 ホールを這う白煙。まるで引きちぎられた蛇の死骸しがいのように、まばらに床を焦がす炎。


 自分の前に立つ四人の男の視線を受け、山田秀人は獣のように口角を吊り上げ、低く笑った。

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