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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  三章  焔の少年
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二十三

 男の拳が風を切り、ダレカの手刀のガードをはじいて頬に炸裂した。


 めきりと骨がきしむ音を聞きながら、ダレカは殴られた勢いのままに体を反転させ、右の靴先を繰り出す。


 軍靴は男のこめかみをとらえたが、手ごたえはほとんどない。かすめるように男を蹴ったダレカは敵に背を向け、続けて後ろ回し蹴りを放つ。


 今度は渾身こんしんの力を込めた攻撃だ。


 男がとっさに立てた腕に命中した蹴りは、そのまま相手の体をはじき飛ばす。


 わずかに両者の距離が開くと、ダレカは再び構えを取って唾を吐いた。血の混じった唾液が、男の靴にはねる。


 地上で被弾したオブジェが、土ぼこりを二人の頭に落とした。


 男が跳び、一気にダレカに肉薄する。豪腕が闇を切り、ダレカの軍帽を飛ばした。


 直後に腰を落としたダレカの拳が左右、交互に男の胸を打つ。


 分厚い筋肉の感触。浅いと見たダレカはそのまま男の眉間を打ち上げ、反撃に出ようとする左腕を取り、足を払って床に投げ倒した。


 男の体重は、ダレカよりも明らかに重い。

 敵との体重差はそのまま打撃の威力に響く。


 自分よりも重い相手を打撃で倒すのは、軽い相手を倒すよりずっと困難だ。


 ダレカは身をひねり、仰向けになった敵の顔面に倒れ込むように肘鉄を叩きつけた。


 肘の先に骨をうがつ感触が伝わり、男が短くうめく。

 だが次の瞬間、叩き込んだ肘と手首を取られた。


 凄まじい握力が関節を伸ばし、男が倒れたまま、ダレカの腰を蹴る。


 さらに振り落とされる靴底から、ダレカは後転するようにして逃れ、肘と手首の拘束を無理やり解いた。


 息を切らしながら流れるような動作で立ち上がるダレカの前で、男はゆっくりと身を起こす。


 口と鼻から垂れる血をぬぐう敵は、恐ろしく頑丈だった。


 攻撃の速さと身軽さはダレカの方が上だったが、肉体の頑強さでは男の方が勝っている。


 目にみなぎる憎悪と殺意が、常識的な人間のタフネスを凌駕りょうがさせていた。


「……恵まれた男だ」


 不意に、男がつぶやく。


 いつしかダレカの顔には、裂けるような笑みが浮かんでいた。


 緊張と殺意、喜びがないまぜになり、狼のように剥き出した犬歯が血に濡れている。


 最初に拳を食らった時に唇を切ったのだが、そのしびれるような痛みすら心地良かった。


 そんなダレカに男はもう一度「恵まれている」とつぶやき、直後地を蹴って靴底を放った。


 短く吼えるダレカが両腕でそれを受けるが、蹴りの威力に体がのけぞり、防御が崩れた。


 間髪をいれず、男が両手の拳をそろえて振りかぶり、ダレカの胸にそれを落とす。


 衝撃と息苦しさが胸に満ちた後、心臓がどくりと跳ねた。刺すような痛みに声を上げたダレカは、退こうとして闇の中の木箱につまずき、転倒する。


 ショックを受けた心臓がばくばくと跳ねる。

 地面に体をこすりつけ、もだえるダレカの顔を、男は膝を折って覗き込んだ。


 脂汗を浮かべ胸を押さえるダレカは、依然笑っていた。

 狼のような眼差しを向けてくる彼に、男は膝を伸ばし、歩きながら口を開く。


「俺達の境遇は似ている。日露戦争に人生を奪われた。お前の経歴も、多少は聞いている……」


「……や……山田、秀人からか……?」


「最初は新聞で読んだ。終戦直後に国民を殺害した、帰還兵の事件をな。お前は政府の弱腰外交に激高して、抗議の意味で騒ぎを起こしたと書いてあった」


「信じたか!?」


 牙を剥くように笑うダレカに、男は鼻を鳴らす。


 ダレカは終戦後に降り立った港で、兵士を迎えに来ていた民衆の一人の老人に殴打されていた。


 ダレカは老人を暴行、死に至らしめたとがで入牢し、その間に唯一家族の中で存命だった母が失踪。出て来た時には、独りになっていたのだ。


「事件の起きた時と場所を考えれば、おおかたの想像はつく。愚民どもに人生を潰されたな」


「戦友の遺族だった! 自分の家族が死に、俺が帰って来たことが気に入らなかったらしい……誰も家族の死に報いる戦果を持って帰らなかったと、怒っていた! 泥と血肉にまみれた俺達の思いも知らずにな! だから頭を割って殺してやった!!」


 息荒く笑って立ち上がろうとするダレカに、男は闇の中を物色しながら目を向ける。


 響き渡る哄笑を聞くと、男の眉間に深いしわが走った。


「俺達はまるで生贄いけにえだ。国民と新聞社の気分で振り回され、最後には悪役にされる……だが、やはりお前は恵まれている。そうやって笑うことができるのだからな」


「野の獣の顔が、最も人の笑顔に近づくのはいつか分かるか!? それは敵とった時だ! 威嚇いかくし、噛みつき、命を奪う時だ!!」


 立ち上がったダレカが吼えると、男が闇の中から武器を取り出し、一つをダレカに投げた。


 受け取るとそれは小さな木箱で、ふたを開ければ拳銃と、弾丸が詰まっている。


 鋭い視線を向けてくるダレカに、男は自分の拳銃に弾丸を装填しながら言った。


「獣にせるのも、幸せなことだ。俺はどんなに憎悪にまみれても、人の親であることをやめられん」


 ばちん、と拳銃を鳴らす男に、ダレカは素早くもう一度木箱に視線を落とす。

 だが弾丸を装填することはせず、拳銃を木箱ごと投げ捨てた。


 片眉を上げる男の前で、ダレカは先ほどつまずいた木箱を手で探った。


 やがて古めかしいナイフを見つけると、鞘を捨てて逆手に持ち、構える。


 男は一度首を傾けたが、そのまま銃口を上げ、容赦なく撃ってきた。

 とっさに身をひるがえしたダレカのいた空間を、弾丸が通り過ぎる。


 向かって右方向から接近してくるダレカにさらに男が発砲すると、弾丸がダレカの肩口をぜさせた。

 衣類の破片と血液が飛ぶが、ダレカの腕の動きが止まることはない。弾丸は肩の肉をわずかにこそいだだけだった。


 男は全速力で向かって来るダレカに三発目を撃つのを諦め、銃を握ったまま逆の拳を構える。


 逆手で握られたダレカのナイフが、男の喉めがけて振りながれた。


 ナイフはまっすぐに握って突き出すよりも、逆手で握って振った方が素早い攻撃ができる。


 手首を曲げて刃を突き出すのに比べて、打撃のフォームと速度でそのまま敵を切り裂くことができるからだ。


 ダレカのナイフは男が立てた拳銃を削りながら、男の手の甲を深く切りつけた。


 そのまま刃を戻して頬に突き立てようとするが、寸前で男の拳がダレカのわき腹に叩き込まれる。


 腰を折ったダレカのナイフは男のあごを浅く裂き、次いで男の拳銃が、ダレカの眉間につきつけられた。


 乾いた発砲音。


 だが弾丸を発射した銃口の先には舞い散る数本の毛髪しかなく、男が気づいた時には地面に手をついたダレカが、体をコマのように回して逆立ちの姿勢で蹴りを繰り出していた。


 目を見開く男の顔面に軍靴が突き刺さり、鼻が異様な音を立てる。

 たたらを踏む男に、体勢を立て直したダレカがナイフを振り上げた。


 ざっくりとあご下から額まで、刃が肉を切り裂く。降り注ぐ血液に歯を剥いて笑うダレカの前で、男は長い息を吐いた。


 血の雨の中、変わらぬ眼差しがダレカを見下ろす。



 ――お前は、恵まれている。



 裂けた唇の動きを読み、ダレカは一つ後ろに飛び退いた。


 だらだらと流れる血液をそのままに、男はゆっくりと折れた鼻を両手ではさみ、ごきりとその位置を直した。


 真っ赤に染まった男の顔に、さらに濃い鼻血の線が流れる。


 ナイフに削られ、血が入り込んだ拳銃はおそらくもう使えない。


 拳銃を手元で回転させ、銃身の方を持つと、男はまっすぐに屹立きつりつして目を一本の線のように細めた。


「笑うことができる。もだえることができる。怒りに拳を振るい、戦いに興じ、生を感じることができる。……俺の妻子には、できないことばかりだ」


「そうだ。俺は戦いに興じることで、自分の兵士としての価値と命を認識できる。血まみれになって戦うことで苦しみを、絶望を忘れることができる。お前の妻子とは違う」


 血をしたたらせるナイフを構えたまま、ダレカは不意に笑みを消した。


「――俺がしていることは、強い酒に溺れるのと同じだ。目的があって敵と戦っているわけではない。戦うために目的を探している。……この糞のような人生から、戦争の因果から、逃れられないことを知っている。だからさ晴らしをしている」


「……」


「お前は違う。妻子と自分の復讐のために戦いを選んだ。お前の戦いには、目的がある」


 「だから強い」。そう続けるダレカに、男は目を開く。



 そう認識した瞬間、ダレカの頭蓋が音を立ててきしんだ。


 男が振り下ろした拳銃の底がダレカの頭を打ち、脳を揺らす。


 ぐっとうめいた相手の髪を、男の指がつかんだ。

 ふしくれ立った、傷だらけの指。

 戦場をくぐりぬけ、なお鍛え続けてきた、殺人者の指だ。


 さらに後頭部を拳銃で打たれたダレカは、耐え切れず膝をつく。

 無意識に指が震え、ナイフを取り落とした。


 そのナイフに、落下してきた血まみれの拳銃が重なる。


 つかまれた髪を引き上げられ、持ち上がったダレカの空洞の左目に、節くれ立った指が突き刺さった。


 絶叫するダレカの眼前で、男が空虚な顔をさらしていた。


 眼窩をえぐる指を引き抜こうと、手首をつかんでくる敵に、男は低く落ち着いた声を落とす。


「言葉を交わしたことがなかった」


 ダレカの手が、男の手を押し返す。


「娘と別れた時、あの子は一歳だった」


 ダレカの拳が、男の膝にめり込んだ。


「どんな声だったのだ」


 指を、引き抜く。


「妻と、何を話していたのだ」


 ダレカの拳が、男の腹に叩き込まれる。


「……健やかに……過ごせていたの、か」


 男の拳が、ダレカのこめかみを打つ。


「父がいなくても、平気だったか」


 ダレカのあごを蹴り上げる。


「幸せだったか」


 ダレカの手刀が肩に突き刺さる。


「俺は、何一つ知らない」


 組みつき、膝を叩き込む。


「知らないまま……終わってしまった」


 ダレカの拳が、男の引きちぎれた耳を殴り飛ばした。男が血を吐き、闇の中の木箱を巻き込んで転倒する。


 眼窩がんかから血を流しながら、荒く息をするダレカの前で、男はまたもや、ゆっくりと立ち上がる。


 獣のように口を吊り上げた敵の前で、男は地面を見下ろした。

 赤いしずくが、音を立てて闇に落ちていく。


「俺達は戦争で多くのものを失った。戦中、敵に奪われたものは諦めがつく……だが……一番大事なものは、戦後に味方に奪われた」


「三万の暴動は民意と認めるに十分な数字だ」


 うつむいたままの男に、ダレカは口に垂れてくる血を吹き飛ばしながら言った。


「だが東京には、二百三十万の人がいた」


 男の顔が瞬時にはね上がり、ダレカを見た。「だから何だ」と低く濁った声が問う。


「残りの二百二十七万人は無実だと? 俺にとっては同じだ。東京で戦争継続を支持する声が多かったからこそ三万人が動いた」


「説教をする気はない。俺も港で老人を殺した時、東京中の人間を憎んだものだ。お前のように憎悪を行動には移さなかったがな……」


 ダレカが息をつき、眼窩の血をぬぐった。そうして拳を構えながらに、最後に、少し迷ってから、言う。


「だがその二百三十万人の中に、幸太郎は確実にいなかった」


 男の顔がゆがみ、鬼のようになった。ダレカは軍靴で一度地面を強く叩き「来い!」と怒鳴る。


 男が拳を振りかぶり、迫った。ダレカもまた拳打を放つと、お互いの顔面に拳骨が突き刺さる。


 よろめく二人が、すぐに体勢を立て直して第二撃を繰り出す。


 男の拳がダレカの頬を打ち、ダレカの拳が男の喉を打った。

 血を吐く男の靴先に、ダレカがかかとを突き立てる。


 血走った目を向ける男を、ダレカが打った。腹に二発入れると、反撃があごを突き上げてくる。


 口中の奥の方の歯が、欠けたのが分かった。


 舌で転がし、追い討ちをかけにくる男の顔に欠けた歯を、含み針のように飛ばす。


 一瞬気を取られた男の顔面に拳打を叩き込むと、ナイフで裂いた傷口から勢い良く血液が噴き出した。


 よろけながらダレカの肩をつかんだ男が、そのまま角を持つ獣がするように、頭部を振るって敵のあごに叩きつける。


 ダレカの上下の歯がガチッ! と鳴り、衝撃が鼻まで上って来た。


 男の頭部を、左右の拳ではさむように打つ。


 両者とも、すでに常人ならば息絶えているほどのダメージを受けていた。


 それでも倒れないのは、互いに人生をかけて追い求めたものに、魂を捧げているからだ。


 だが戦いには、殺し合いには、必ず勝者がいる。決着の時は迫っていた。


 ダレカはすでに拳が震え出し、体が服の重みに沈み始めていた。男の方は血を流しすぎ、膝と背が伸びなくなってきている。


「この血が、大衆の流す血であればよかった…………俺が殺したかったのは……兵士では……」


 民衆を憎む男が、つぶやきながらに敵のこめかみに拳を叩きつけた。


 男が殺したかったのは、兵士ではなかった。そして幸太郎でもなかったはずだ。


 ダレカは相手の靴を踏みしめながら、既に限界まで吊り上がっていた口角を、さらに持ち上げた。


 唇が切れ、血がしたたる。持ち上げた顔はすでに笑顔ではなく、牙を剥いた獣のかおだった。


「止めてやる」


 その、因果を。


 血を吐くように吼える男が逆の拳を振りかぶる。


 ダレカがそれに応え、敵の腕と腕を交差させた。


 服に付着した血液がこすれ飛び、風を切る拳が互いの眉間に、迫る。






『――早く、帰ってくださいましね』


『分かった』



 なるべく早く。そう約束したのは、戦場行きが決まった夜のこと。


 己を着飾ることを知らない妻が、仲の良くない両親から化粧道具を借りてきて、その夜だけへたくそに化けていた。


 彼女に何度綺麗だと言ったか分からない。


 跡継ぎの長男と違い、いてもいなくても変わらぬ次男坊と冷遇されてきた自分に、初めて『あなたが良いのです』と言ってくれたのが妻という人だった。


 彼女との間にできた子は、その日も夜泣きをしていた。

 よく泣く子で、そのぶん元気に育つと思っていた。


 小さすぎる手に指で触れると、必死に握り返してくる。


 この手にいつか箸が握られ、花が握られることを願った。


 家事の道具だけではなく、鉛筆や、楽器や、彼女の望む物が握られる未来を思った。


 人を殺すための道具だけは握らないようにと、祈った。



『お風呂を沸かして、待っていますから』



 娘をあやしながら、妻が言った。


 その後どう答えたのか、男にはもう、思い出せない。


 妻子の記憶は、おびただしい民衆の顔に置き換わるからだ。



 一生忘れることのできない、仇の顔。暴動の光景。



 娘に持たせたくなかった道具は、全て手にしてきた。



 その刃先を、銃口を、憎い顔に向け続けた。




 ――仇の顔の中に、記憶にはない子供の顔がある。


 縁もゆかりもない、少年の顔がある。


 恐怖に歪んだその顔は、目は…………




 どぶの中で再会した娘と、同じ形をしていた。









「殺してくれ」


 倒れた男が、空を見つめながら言った。


 天井に空いた穴からは、相も変わらぬ暗い曇天が覗き、銃声が響いている。


 少し離れた場所で膝をついて休んでいたダレカが、血の混じった唾を吐いて立ち上がった。


 両手を一度力強く握ると、すぐに指を離し、わきに落ちている木箱を拾い上げる。


 ダレカが投げ捨てた、拳銃の入った木箱だった。弾丸を装填するダレカに、男はそっと横目を向ける。


 ダレカは無言で男に銃口を向けた。そうして無言のまま、引き金を引く。


 立て続けに発砲音が響き、弾丸が発射された。全ての弾丸を撃ち尽くすと、ダレカは拳銃を地面に叩きつける。




 男は顔をしかめ、ダレカを睨んだ。


 弾丸は全てあらぬ方向に飛んで行き、一発も男に命中していない。「ふざけるな」と低く言う男に、ダレカは空洞の眼窩を指しながら同じように顔をしかめる。


「これが俺が戦争で失ったものだ。どんなに狙っても、当たらん」


「他の武器を使え」


「お前がかかって来たら使ってやる」


 男は舌打ちをし、地面に手をついて身を起こそうとした。だが一度倒れてしまった肉体は、容易には持ち上がらない。


 黙って自分を見ているダレカに、男は再度いらだった声を投げる。


「なぶるのもたいがいにしろ……」


「かかって来れないのなら、殺さない。俺は闘争が好きなだけで殺しが好きなわけじゃない。死にたいなら自分で死ね」


「……ふざけたことを。生かしておけば、後悔するぞ」


 ダレカがにやりと笑うのを見て、男は頭を再び地面につけて息をついた。


 ダレカは、落ちていた自分の軍帽を拾い上げ、それを見つめる。


「俺はそもそも、誰かのためにここに来たわけではない。お前達が俺にちょっかいを出してきたから応じただけ……そして、山田家の行く末に少しだけ興味があった。それだけだ」


「……」


「……それに、自分を倒した敵に生かされる屈辱を、一度誰かに味わわせてみたくてな。俺は山田栄八が死んだ夜にそれを味わった」


 『中々に辛いものがあるだろう』と笑うダレカに、男は一瞬考えるような顔をした後、すぐに目を閉じて鼻息を吹いた。


「どうせもう戦えん。山田秀人を守りに行けないなら、俺が生きていようが死んでいようが同じことだ。ヤツが勝てば迎えをよこすかもしれん。屋敷を捨てて逃走したなら、それはそれで俺の役割は果たせたことになるからな」


「……世に災厄と、戦争の種をまくため、か」


「一人でも多くの大衆を地獄に落とすためだ」


「お前の妻子は大衆ではなかったのか?」


 男が、空を睨む気配があった。ダレカは軍帽をかぶり、彼に視線を投げる。


「俺の母は大衆だった。父も、兄弟もだ。我々兵士も、結局は大衆の一人だ」


「言うな」


「妻を殺した瓦を誰が投げたか分からない。だから三万人の暴徒全てを憎むしかなかった。そして三万人に報いを受けさせるには、東京全てを地獄に沈めるほどの害悪が必要だった。

 無関係な人間すら害するためには、大衆全てを憎む必要があった。だがその中にはお前の妻子と同じ、一人の男を愛しているだけの、罪なき人間が必ずいる」


「説教はしないと言ったはずだぞ」


「説教を嫌うのは、今言ったことをお前自身がよく分かっているからだ。そんな戦友を進んで殺したいとは、俺は思わんよ」


 そう言って男に背を向けるダレカが、階段の方へと歩いて行く。



 男は空を見たまま、最後に「山田秀人を殺すのか?」と問いを投げた。


「ヤツは俺の希望だ。国を滅ぼす悪意と、力を持っている」


「その希望を砕いたらお前はどうする? 自殺でもするのか?」


「……いや、また一人で復讐をするだけだ……」



 ダレカが男をわずかに振り返り、声もなく笑った。





 遠ざかって行く軍靴の足音が、やがて地上の銃声にまぎれて消えた。


 天井の穴から吹き込んできた風が、闇をなでていく。


 地下空間の光の柱は、いつのまにかもうほとんど消えてなくなっていた。


 しばらく黙って空を見つめていた男が、やがて痛む体を引きずり、苦労して横を向く。




 闇から這い出て来ていた又の字が、男を見つめていた。


 負傷した足はベルトと引き裂いた上着で止血されていて、木箱の板で添え木がしてある。


 又の字はゆっくりと男に近づくと、その血まみれの顔を見下ろして口を開いた。


「ウチはもうたくさんや。旦那さん……いや、秀人の野郎に振り回されるんは、もう嫌や」


「……勝手に消えればいい」


「この足じゃ逃げられへん! 先輩、あんたまがりなりにも警官やろ? 外に来とる連中……築地署の警官にまじって、脱出できるんちゃうの?」


 又の字の双眸そうぼうがうるむのを見て、男は目をそらした。


 この肝の太い女が、本当に泣くわけがない。


 女としての媚びを使ってでも生き延びようとするしたたかさに、ほんの少し嫌悪を抱いた。


「我々の顔を知っている警官にえば一発で看破かんぱされる。幸太郎を奪取する際に使い捨てた警官どもから、我々の素性が森元に流れている可能性も高い」


「可能性とかどうでもええから助けてぇな! 先輩、一緒に行こ? ウチ、あんたがええんや!」


 くしくも妻と同じような台詞を吐く又の字に、男は一瞬凄まじい目で又の字を睨んだ。


 ひるまずに媚びた目を向け続ける又の字が、逆に憎たらしい。


 男はしばらく又の字を睨み続けた後、吐き捨てるように「立たせろ」と言った。


 嬉々として地面に尻をつき、男の体を持ち上げる又の字の腕は存外力強い。足を負傷し、顔面を何度か殴られただけなのだから余力はあるのだろう。


 男は全身に走る痛みに声を上げながら、又の字の体にしがみつき、なんとか立ち上がった。


「……メイドどもを利用して警官隊の後方へ回る……二階に俺の制服があるはずだ。着替えて、裏口から脱出する。又の字」


「なぁに?」


 足を引きずりながら立ち上がった又の字の鼻を、男はおもむろに両手ではさんだ。「曲がってるぞ」と言うやいなや、ぼきりと音を立てて折れた鼻を戻す。


 悲鳴を上げる又の字の口を無慈悲にふさぐと、男は静かに、ダレカの上がって行った階段を睨んだ。

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