二十二
頭上から響く銃声は、まるで戦場のように絶え間ない。
山田秀人の口ぶりから、発砲している者の大半が彼の部下であることは疑いがなかった。
今の警察官は、よほどの非常時でなければ拳銃を持ち出すことはできない。
森元達が拳銃武装している可能性は低く、まして銃声には明らかにショットガンや、狙撃銃の発砲音が混じっている。
まがりなりにも警察官が、そんなものを持ち出してくるはずがなかった。
明かり取りのオブジェが被弾するたびに埃や土が落ちてきて、降り注ぐ光が細くなってゆく。視界が利かなくなる前に地下室を出なければならない。
幸太郎を抱えた棚主と、時計屋が、地上への階段のそばにある光の柱までたどり着いた。
不意に背後から「避けろ!」とダレカの声が飛ぶ。
棚主達が光の柱の左右に跳んだ瞬間、後方で発砲音が響き、弾丸が光の中を貫いた。
光源に向かって走っていた棚主達は、後から追って来る者達の目に、その影を浮かび上がらせていたらしい。
発砲した彫刻のような男が、さらに棚主が跳んだ方へ狙いを定める。
だが直後にその銃口を、闇から飛び出したダレカが蹴り飛ばした。
拳銃は闇の中にはじかれ、床をすべってゆく。
彫刻のような男は繰り出されるダレカの拳をかわしながら、仲間に「追え!」と叫んだ。
数人の足音が、棚主達に向かって来る。一瞬背後を振り返った棚主に、ダレカは闇に飛び込みながら、無言で右手の手の平を向けた。
手出し無用。自分は闇に残って戦うという、意志表示。
ダレカを地下室に残すことに迷いはあったが、少なくとも彫刻のような男が『追え』と言った以上、彼以外の敵は棚主達を追って来る。
光の柱にあわくシルエットを浮かび上がらせる無数の追っ手の姿に、棚主と時計屋はそのまま階段を駆け上がった。
自分達以外の足音が次々と階上に消える中、ダレカは敵の息づかいに耳をすました。
地上からの銃声が絶え間なく響く環境で、闇に沈み、離れている敵の位置をつかむのは不可能だ。
ただ、肉薄して来る敵の息づかいだけは聞き逃してはならない。
手刀の形にした左手を前に出し、右手を腰だめにして握る。
ダレカは戦う構えを取ったまま、闇と同化した。
「退避しろ! やつら正気じゃないぞ、武装した援軍を呼んで来るんだ!」
「駄目です、出口がふさがれました! 正門と裏門を封鎖していた警官がやられています!」
屋敷の様々な位置に陣取ったメイド達は、招かれざる客達を銃口で囲み、退路を断った。
廊下の曲がり角や物陰、天窓から銃撃してくる敵に、警官達も記者達も動けない。
銃撃の中、横山刑事がなんとか敵の背後に回ろうと弾除けを探していた。
大きな衣装棚を見つけると仲間の警官と協力し、横に倒す。
するとごつんと中から音がして、悲鳴が上がった。ぎょっとして戸を開けると、中に二人のメイドが横になって隠れていた。
「伏兵か!? 抵抗するんじゃないッ!」
「待って、違います! 私達は違うんです! あの人達とは違うの!」
半泣きで訴えるメイドが、横山刑事の前で首と手を振った。
細くなまっちろい腕をつかむと、骨の感触がある。拳銃を撃つ人間の手ではなかった。
「どういうことだ! お前らは何だ? あの女どもは何故あんな銃を持ってるんだ!!」
「知らない、知らない! あの人達は秀人様の本宅から来たメイドなんです! 私達はこの別荘のメイドだから何も知らないの!」
「本宅!? 別荘!? 何が違うんだ!」
「秀人様はふだん本宅にいらっしゃられて、本宅のメイドは秀人様の秘書のような扱いなんです! 綺麗どころで良い学校出てて、お給料もいっぱいもらってて……私達は別荘に詰めて管理するのが仕事だから、半分雑用みたいなものなんです! 秀人様とろくに話したこともないんです!」
「私達ただの雇われ人なんです! 刑事さんお願いです! 助けて!!」
横山刑事は二人のメイドの言葉に、うなりながら目を剥いた。
彼女達の言葉が真実だとしても、同じ服を着たメイドを本宅詰めだの別荘詰めだのと区別できるわけがない。
事実この状況では銃を持った警官達は、相手が武装していようといまいと、メイドだというだけで射殺しかねなかった。
「くそっ……非武装の使用人はどのくらいいるんだ?」
「銃を持ってるのは、多分本宅のメイドだけです。だから……抵抗してるメイドは三十人ぐらいで……それ以外の娘は十四人います」
「合計四十四人か!? それがみんな同じ服を着て、保護するか応戦するか撃たれてみるまで判断できんのか!!」
もはや、山田秀人の計略のうちかと思えるほどに最悪の状況だった。
頭を抱える横山刑事に、不意に横からマスターが這って来て、「あのう」と場違いにのんきな声をかけてくる。
「そこのお姉さん達に判別してもらえばいいんじゃないですかね。相手が別荘詰めのメイドかどうか、同僚なら分かるでしょ?」
「ふざけるな! こいつらの言ってることが本当か分からんし、相手の顔を区別するにはこいつらも顔を出さにゃならんのだ! 危険すぎる!」
怒鳴る横山刑事に、マスターが床に散乱した家具や調度品の破片の中から、木枠のついたままの割れた鏡を拾い上げる。
それを物陰の外に出し、「見えますか?」と角度を調整する。
横山刑事と二人の女が見つめる中、鏡面にショットガンを構えるメイドの顔が映った。
ぱっと満面の笑みを浮かべるマスター。しかし次の瞬間には鏡にショットガンの弾丸が突き刺さり、粉々に砕け散った。
最高の笑顔のまま硬直するマスターに、横山刑事が「素人考えだったな……」とため息をつく。
その様子を少し離れた柱時計の陰から見ていた津波が、「とりあえずメイドを見たら全員確保すればいいんじゃないか」と声を上げた。
「撃ってくるやつは最初から敵と分かっているわけだろ。それ以外のやつは大声で警告して、腹ばいにでもさせてから、手錠をかけて拘束すればいいさ。とにかく今は、この状況をなんとかしてくれよ」
「……言われなくても分かってる! おい、こいつらを拘束だ!」
横山刑事の指示を受け、警官達が二人のメイドを部屋の奥の物陰に連れて行く。
再び衣装棚に向かい、弾除けのバリケードを作り始める横山刑事達。
彼らをあごをいじりながら眺めている津波の元に、マスターがしゃくとり虫のように這い寄って来た。
「津波さん、私達生きて帰れますかね……」
「マスター。山田秀人ってやつは、いったい何がしたいんだろうな」
マスターの問いかけを無視した津波は、銃撃してくるメイド達を必死にきゃめらに収めようとしている記者達を見た。
彼らの後方では鉄道会社の二人が長椅子の後ろに身を寄せ合っていて、その近くでは新藤署長が、なんとか反撃に出ようと指示を飛ばしている。
城戸警視は、自身をも銃撃し部屋に釘づけにしているメイド達に、犬のように吼え続けていた。
彼の取り巻き達はすでに凶弾に倒れ、部屋の中央付近で死んでいる。
森元と、彼について行った警官達は、中庭方面に行ったきり戻って来ない。
津波は状況を整理しながら、顔も見たことのない山田秀人の意図を考えていた。
無論津波に正答を導き出せるはずもないのだが、彼はハンチング帽を目深にかぶりなおしながら、つぶやくように言った。
「俺達全員、山田秀人に騙されたのかもしれねえな……」
「え? なんですって?」
銃声にまぎれる津波の声に、マスターが聞き返す。
津波が再び口を開く前に、衣装棚を押し出した横山刑事達が咆哮を上げて反撃を開始した。
銃撃戦の騒音に耳をふさぐマスターの横で、津波は壁を睨み、唇を噛んだ。
――ダレカは、思わず口角を吊り上げた。
次々と消える光の柱の中、砕けたオブジェがうまい具合に傾き、逆に地上が大きく覗いた箇所があった。
開いた穴の向こうには、樹と屋敷の外壁が見える。
太い光の筋が降り注ぐその穴の真下に、彫刻のような男が立っていた。
頭上で鳴り響く銃声を気にも留めず、彼はちぎれた右耳を覆っていた包帯をむしり取る。
両腕をだらりと垂らし、こちらを睨む彼に、ダレカは迷わず正面から近づいた。
光の領域にダレカが現れると、彫刻のような男はにこりともせず、顔面を這う青筋を指の腹でこすった。
「お前のことは、山田秀人から聞いている。傷病兵のくせに闘争が忘れられないそうだな……何故だ?」
ダレカは構えを解き、首を傾けた。まるで死んだ獣のような目で見つめてくる敵に、低く答える。
「俺の価値を、確かめたいからだ。俺には戦いしかない」
「優れた兵士だったと聞いた。戦いが、楽しいか」
「敵と殺し合う時以上に生を感じる瞬間がない。それ以外の時は、たいがい死んでいるのだ、俺は」
薄く笑うダレカに対して、彫刻のような男は顔に新たな青筋を這わせる。彼らの頭上を弾丸が飛んでゆき、誰かに命中した。
「――俺は戦いが嫌いだ。敵と殺し合っても何の喜びもない。徴兵された時、周りの連中は男子の本懐だとか何とか気楽なことをぬかしていたが、送り込まれたのは日露最悪の地獄だった」
ダレカの顔から笑みが消え、鋭い視線が交錯した。彫刻のような男は地の底から響くような声で、呪詛のごとき言葉を吐く。
「旅順の要塞を落とすため、火を噴く機関銃に向かってひたすら突撃する恐怖は筆舌に尽くしがたい。お前のように目立つ所を撃たれはしなかったが、この体には弾丸がいくつも埋まっている。
味方の屍の山の中で目を覚ました時、俺の口と鼻には肉を食む虫が詰まっていた」
「戦争を忌避する男が、何故山田秀人につくのだ」
「戦いは嫌いだ。だがやらねばならない。お前や山田秀人のように、好き好んでやるわけではない」
状況を考えれば、今すぐ敵を始末するべきだった。だがダレカは、同じ戦争を生きた男の口上に構えを取らぬまま、耳を傾け続けた。
相手の目に、強い怒りがこもっている。それはダレカもまた戦後に宿していたものだ。
彫刻のような男が……いや、そう呼ぶにはあまりにも苛烈な目をした男が、口を開く。
「お前の出自は知らんが、俺の方は何の変哲もない下流家庭の次男坊だった。同じ町の女と早い結婚をして、うさぎ小屋のような家に住んでいた。今着ているような背広など触ったこともない、粗末な衣を着て、車夫として車を引く毎日だ。徴兵されたのは、娘が産まれて一年後のことだった」
「……一家の主人だ。手心は加えられなかったのか」
「どこそこの地区は何人の男が徴兵された、というようなことが自慢になるような時代だった。近所の顔役が積極的に推してくれたおかげで一発合格だ。……人を殴ったこともなかったのに……」
男はまばたきもせず、ダレカを見た。かつての戦友であっただろう敵に、何かを訴えるように。
「日露戦争は短期決戦だったと人は言う。だが俺にとっては永遠に等しい時間だった。
毎朝毎晩、これが最後になるかもしれないと思いながら妻子のために祈った。家族を恋しがれば白い目で見られるような隊だったから、無言、無表情でだ……神のように、天使のように思って祈った。彼女らは俺の天使だ」
ダレカもまた、戦地においては別の隊にいる父と兄弟の無事を願い、母の健やかなるを祈っていた。
目の前の男と、その時の心情は同じだったはずだ。
だがその祈りが通じていたならば、今この場で、こんな話をしているはずがないのだ。
通じなかったからこそ、目の前の男は憎悪を吐き出している。
「俺は、永遠を生き延びた。終戦前に足を撃ちぬかれ、戦うことができなくなった。生死をさまよい、高熱に冒されながらも帰国することができた。町の連中は俺を蔑むかもしれないが、生きて妻子に会えるならばどんな汚辱も問題ではなかった」
「……」
「日露講和条約の締結を知ったのは、帰りの船の中だった」
――大日本帝国では、日露講和条約の締結の直後、日比谷焼き討ち事件をはじめとする『東京騒擾事件』が起こっている。
外相小村寿太郎が露西亜全権ウィッテと結んだ条約の内容に激怒した一部の民衆が、条約破棄を求めて起こした一連の暴動。
民衆は集会の場を封鎖しようとした警官を襲い、退けたことを皮ぎりに、派出所や警察署、講和条約に肯定的な記事を載せた新聞社などを襲撃、焼き討ちした。
彼らは首相官邸や小村寿太郎の官邸に投石し、油で火をつけた俵を投げ込み、放火した。
日露戦争に関して、民衆の神経を逆なでするようなことを言っていた聖職者のために、キリスト系教会も被害に遭った。
だが、こうした暴動でままあるように、暴力の制裁を受けたのは戦争に直接関係のある者だけではなかった。
民衆は焼き討ちを行った際、派出所につけた火を近隣の民家にまで飛び火させ、多くの無関係の家々を焼いている。
また、たまたま民衆の方へ向かって来た市電を止め、車掌および乗員を引きずり出し、取り囲んで暴行していた。
これは市電に仕事を取られている車夫と、それに同情する者が行った犯行で、講和条約とはなんら関係のない暴力だった。
この市電の中に、妻子がいたのだ。
戦場に行った男が神のように、天使のように愛した妻子は、民衆に市電から降ろされ、騒乱の中に放り出された。
戦地から帰って来る夫、父親を迎えに行く途中だった彼女達は、民衆が走り、投石し、放火を繰り返す中を逃げまどい、そして……
戦場から戻った男は、家にいない妻子を捜して東京中を歩き回った。
凄惨な暴力が荒れ狂う中を、煙にいぶされ、国民にぶつかりなぎ倒されながら、何故、何故と繰り返しながら、道に倒れる人や警官に捕らえられた人の顔を覗いて回った。
そうして紅蓮に照らし出された路上で、仰向けに倒れた妻を見つけたのだ。
彼女の顔には砕けた瓦が突き刺さり、目や鼻骨が異様な方向に飛び出ていた。懐かしい口元のほくろは赤に染まり、舌が唇の外に出ていた。
男は首を絞められた犬のようにあえいで呼吸困難を起こし、物心がついたばかりのはずの娘の姿を探した。
娘は、妻が倒れている道の、すぐそばの側溝に落ちていた。
民衆が投げ上げた瓦に顔を潰された妻が、抱いていた娘を投げ出してしまったのだ。
這うようにして娘を持ち上げた時、すでに彼女の体に体温の名残はなかった。
赤子の頃より大きくなった体はなお小さく、男の腕の中でさなぎのように固まっていた。
泥にまみれ窒息した顔を見た瞬間、男の喉がひしゃげて、人外の咆哮を噴き上げた。
何故、妻子が死なねばならないのだ。
何故、己が生きているのだ。
戦場に行った男が生かされ、祖国に残った女達が殺されたのは何故だ。
男は負傷した足から血が噴き出すのも構わず、娘と、妻の体を持ち上げた。咆哮はもはや自分の意志では止まらず、吐しゃ物とともに地に落ちた。
天使を道端に寝かせるわけにはいかなかった。
死体を引きずり、吼える男にも民衆はほとんど目を向けなかった。
イデオロギーによる熱にうかされた彼らを、男はいつしか彫刻のように感情のない、硬い顔で睨んでいた。
咆哮はやまない。かっと見開いた目から涙は流れても、その瞳は穴のように空虚だった。
いかなる悲劇、喜劇を写してもけっして形を変えることのないきゃめらのレンズのように、男の目と表情は、この日の全てを焼きつけるために、固まっていた。
妻に瓦を投げつけたのは誰だ。娘をどぶに落としたのは誰だ。
それは目の前を通り過ぎる民衆の誰かなのか。
戦場から帰った男に、戦場以上の地獄を見せたのは誰だ。
誰もが罵声を上げている。
誰もが石を、瓦を投げている。
誰もが己の放った瓦の、敵意の落ちる先を保証できないのだ。
妻子を殺したのは誰かではない。全員だ。民衆そのものだ。
この場にいる誰もが、妻を殺せる石と瓦を投げている。
妻子を殺した暴力の流れを作っている。
講和条約破棄。戦争継続。
それを口々に叫ぶ彼らは、男には悪魔にしか見えなかった。
天使を殺した、悪魔だ。
「俺は妻子の亡骸を東京の外に葬った。こんな薄汚い、地獄の土に埋めたくなかったからだ。
あの暴動では後日多くの逮捕者が出たが、ほとんどが証拠不十分で無罪となり、釈放された。だが俺にとっては……無罪なんかじゃない」
軍服姿の敵を睨み続ける男の眼球が、血走ってわずかに外に飛び出してきていた。
黙っている相手に、男は小さく歯を剥く。
彫刻のような無表情は、戦後二度と笑顔を浮かべなくなった。快を表せば、あの日の記憶が消えるように思えたからだ。
あの日すれ違った民衆の顔を、男は一つ残らず鮮明に覚えている。
無表情を崩す時は、いつも怒りや、憎悪や、殺意を表す時だった。
「妻子は帰って来なかったが、負傷した足は癒えた。それからは民衆を監視する警察に入り、隙を見てはやつらを陥れる日々だ。言いがかりをつけ、罪をでっち上げ、誰も見ていなければそれ以上のことをした。
だがそんなことはあまりに小さな行為だ。俺の敵はあの日の暴徒三万人、あるいはそれ以上だ」
「俺はなりゆきで山田栄八の護衛になった。お前は違うようだ」
「妻子を殺した民衆に復讐がしたかった。山田秀人は世に害悪を撒き散らす悪党だ……ヤツなら俺個人よりも、大きな悪をなせると思った。先ほど、その判断が正しかったと確信した」
戦争を望み、戦争の種をまく山田秀人。
男は垂らしていた右手を持ち上げ、ごきごきと骨を鳴らして拳を握り締める。
「不愉快な男だが、ヤツの望みは俺のそれに限りなく近い。戦争を望み妻子を殺したブタどもに、最悪の戦争を味わわせてやる。山田秀人がいずれそれをなすならば、ヤツのために戦い、人を殺す」
「戦争か……血みどろの、総力戦……兵士も、民衆も、全てが死に向かって行く」
「うれしいか? 鳥肌が立つか? 戦いを好むお前には、最高の未来か?」
敵を睨んでいた男の目が、一つまばたきをした。その瞬間眼球の裏側から、水がこぼれる。
「――戦争の、最前線で戦った者にこそ、平和を最も味わう権利があるはずだ。俺達は、戦後の幸福を一番に味わう資格を得ていたはずだ。
……それを、民衆は、戦後のある時期では俺達に罵声を投げつけ、ある時期では英雄ともてはやし、ある時期では小村寿太郎の弱腰外交の犠牲者だと、哀れみを向ける。艦隊が万歳で帰港を祝福される裏で、個人の兵士は役立たずと陰口を叩かれる。
俺はそんな民衆を、一人残らず、地獄に突き落としてやりたいのだ」
男の口にする理屈には、少し冷静な者になら突けるような穴がいくつもあった。
三万人の暴徒を憎む彼が、いつの間にか日本国民全てを憎んでいること。
妻子を愛し、国を守るために戦った彼が、彼女達が育った国を破滅に追いやろうとしていること。
家族を理不尽に奪われた彼が、見ず知らずの幸太郎一家の命を踏み潰すことに、加担したこと。
だが男と同じ戦争を生きたダレカには、そんなことを口にする気はさらさらなかった。
自分達の憎悪は、理屈で片づくようなものではないのだ。
男とて、おそらく妻子のために復讐をしているわけではない。自分の心に食い込んだどうしようもない殺意の棘を、人生をかけて形にしているのだ。
彼にはもう、この生き方しかできないのだろう。
男はダレカに拳を突き出し、口を開いた。
「同じ兵士のよしみで一度だけ答えを聞いてやる。戦争を望み、戦争を起こす山田秀人につくなら、きっと我々の心の飢えも満たされるだろう」
ダレカは男への礼としての意味で、数秒間沈黙した。
こちらを見つめる男に、ややあってうつむき、右足を引く。
手刀と拳でもって構えを取るダレカに、男も黙って、憤怒の形相で拳を構えた。
「…………この国には……母が生きている」
「悪いな」と続けたダレカに、男が咆哮を上げて突っ込んで来た。




