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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  三章  焔の少年
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二十一

 棚主の拳には、明確な殺意が載っている。

 成人男性を何人も殴り殺してきた人殺しの拳骨が、山田秀人の顔面に接触した。


 だが、拳骨は山田秀人の眉間をすべり、こめかみをなでて闇にそれてゆく。弾き飛ばされたのは山田秀人がかぶっていた、棚主自身のハットだけだ。


 山田秀人がヘッドスリップでかわしたのかと思った。だが彼の立ち位置は微塵みじんも動いていない。


 攻撃はかわされたのではなく、そらされたのだ。拳打を放った腕の手首に、山田秀人の手がそえられていることに気づいた直後、棚主の右腕のつけ根に毛深い拳が埋まった。


「うっ!?」


 ぼくりと鈍い音がして、骨と骨の隙間が動く感触があった。激痛よりも速く、山田秀人の靴底が腹に飛んでくる。


 くいを打ち込まれたような衝撃。


 後方に下がりそうになる棚主の体を、山田秀人は先ほどそらした手首をつかみ、ひねると同時に投げ飛ばした。


 明らかに何らかの武術の、有段者の動きだった。

 棚主は驚愕する幸太郎のわきをかすめ、闇の中に叩きつけられる。


 背中は床を打ち、足は積んであった木箱にかかとから激突した。

 骨に響く痛みに、歯を食いしばる。


「当然だがね、僕が弱いなんてことはありえないよ?」


 肩を鳴らし、上着を脱ぎながら山田秀人が笑う。


 棚主は右腕のつけ根に手をやり、骨の状態を確認した。

 うずくような痛みと、動かすたびにごりごりと異様な感触があるが、関節が外れた様子はない。


 床の上で体を転がし、急いで立ち上がった。その途中足を打ちつけた木箱をふと見ると、ふたが動いて中からかすかな、金属の光が見えた。


 山田秀人が、充実感にあふれた笑顔で首を傾ける。


「闇の中には色んなモノが潜んでいる。どうぞ、好きなのを取りたまえ」


 棚主が木箱の中に腕を突っ込み、引き抜くと、そこに詰まっていた陶器の皿や壷、茶碗などがこぼれ、音を立てて床に砕けた。


 つかみ出したのは宝石が散りばめられた刀剣で、青白い鞘を抜くと研ぎ澄まされた光が闇に生じる。


 山田秀人も別の闇に手を入れ、武器を手にしながら言った。


「それは清朝のみかどが愛用していた宝刀だね。無論贋作がんさくだよ。見る人が見れば本物よりよく切れるとすぐにバレる」


「幸太郎! 俺の後ろに回れ!」


 日本刀を鞘入りのまま提げる山田秀人の前で、棚主の声に反応した幸太郎が光の柱から離れた。


 幸太郎が棚主の背後にたどり着こうという瞬間。彼らの前方右側の闇から、又の字が跳びかかって来た。


「こンの腐れ(・・)がァーッ!!」


 後ろ回し蹴りの形で飛来する拍車を、棚主はとっさに刀の刃で受ける。だが又の字の脚力に押し切られ、刀のみねがあごを強打した。


 そのまま又の字が、さらに逆の足も浮かせて、自身も床に倒れ込みながら棚主の下腹部を蹴りつける。


 弾き飛ばされた棚主が幸太郎を巻き込み、転倒した。

 後頭部を打ってうめく幸太郎をかばうひまもなく、新たな足音が棚主に接近して来る。


 棚主は床を蹴り、起き上がりざまに、向かって来ていた山田秀人に蹴りを放った。その靴底を鞘で受け止めると、山田秀人の手が、白刃を抜き放つ。


 両者の握る刃が、次の瞬間交差した。


 無理な姿勢で突き出された棚主の刃は、山田秀人の左耳を飛ばした。

 噴き出す鮮血に、しかし、笑ったのは山田秀人だった。



 棚主は自分の背中に走る激痛と、頬をかすめた日本刀の刃に、一瞬混乱した。刃はかわしたのに、背中を負傷したのだ。


 状況を理解したのは、背後で上がった又の字の高い悲鳴を感知してからだった。

 棚主の背中に拍車と踵を叩き込んだ又の字は、主人の刃に高く上げたふくらはぎを貫かれていた。


 山田秀人が刃を引き抜き、後方に跳ぶと、又の字が床に倒れる。

 彼女は傷口を押さえてもだえながら、山田秀人を血走った目で睨んだ。


「て、てめえ! 何しくさるんじゃボケェッ!!」


「怒るなよ又の字。事故だよ。事故。それに剣戟けんげきの最中に近づいて来る方が悪い」


 どくどくと流れる血を止めようと、又の字は自分のアスコット・タイをほどいて傷口をしばった。

 それでも刃に突き通された穴からは血が染み出し、床を濡らし続ける。


 鼻血がこびりついた顔をゆがめて「ああ、止まらん! 止まらへん!」とあえぐ又の字に、棚主が刀の底の部分、柄頭つかがしらを叩きつけた。


 びくりと肩を震わせる幸太郎の前で、棚主は又の字の頭部を、さらに二度、三度と殴打する。


 彼女が動かなくなるまで攻撃を加えると、棚主は血のにじんだ背中を返し、山田秀人を見た。


 片耳を落とし、部下の足を貫いた男は、依然変わらぬ笑顔を浮かべている。


「いいねえ、戦いとは実に理不尽なものだ。戦場で倒れる将兵の二割から三割は味方の弾丸に貫かれて死ぬと聞いたことがあるよ。とても悲しい、ぞくぞくするような心地だ。実に味わい深い」


「……救いがたいッ!」


 歯を剥いて再び刃を構える棚主に、山田秀人はちらりと頭上を見やった。


 地下室に降り注ぐ光の柱のいくつかが、ゆらいでいる。明かりを取り込むオブジェの、ぎやまんの窓の向こうで、何かが動いているのだ。


 それは、おそらくはオブジェを調べる警官達の手だろう。光の柱のゆらぎは、じょじょに玄関側から、屋敷の奥側へと移動してきている。


 山田秀人は殺気立つ棚主に、人さし指を立ててみせた。そうして不意に笑みを消すと、ささやくように言う。


「更なる戦場の醍醐味だいごみだ。……来るぞ」




 警官の一人が、食堂の扉を開けた。


 天窓からの光が差す空間に、巻き毛のメイドが立っている。


 白いクロスのかけられた長机越しに、無言で視線を向けてくる彼女に、扉を開けた警官は眉を寄せながら食堂に踏み込んだ。


 後からさらに二人、制服警官と角袖かくそで警官が一人ずつ続いて来る。


「警察です。ここを調べさせていただきます。そのまま動かないでください」


「お名前は?」


 メイドの問いに、警官達は顔を見合わせる。

 後から来た二人は無視して食堂を調べ始めたが、最初に扉を開けた警官はメイドに歩み寄り、気をつけの姿勢で名乗りを返した。


近藤弘樹こんどうひろき巡査です。この屋敷は封鎖されました。捜索が終わるまで……」


「近藤さん。良い人ね」


 長机の下に隠されていたメイドの右手が、拳銃をつかんだまま疾風しっぷうのように持ち上がる。

 直後に銃口が火を噴き、弾丸が近藤巡査の眉間に突き刺さった。


 メイドはさらに逆の手の拳銃で角袖警官の背中を撃ち、乾いた発砲音に振り返った三人目の警官の胸を、再び右手の拳銃で撃ちぬいた。


 騒々しく倒れる警官達の内、背中を撃たれた角袖警官だけが即死せずに食器棚によりかかる。


 うめきながら振り向こうとする彼を、巻き毛のメイドは左手の人さし指で指した。


 突然天窓が砕け、屋根の上から狙撃銃の弾丸が飛び込んでくる。

 弾丸は角袖警官の背後の床にめり込むと、さらに数発が発射され、最後の発砲で後頭部を吹き飛ばした。


 角袖警官が仰向けに転がり、絶命する。


 巻き毛のメイドはその光景を見届けると、小さく舌打ちをし、天窓から顔を覗かせている別のメイドに低い声を投げた。


「外しすぎだ。一発で仕留めろ間抜け」


「無理を言うな。必中させるには遠すぎる」


 天窓のそばにいくつも銃を並べているのだろう同僚の返事に、巻き毛のメイドは鼻を鳴らし、自分の拳銃を手に歩き出す。


 彼女の持つ騎兵用の拳銃は、馬の手綱を握ったまま発砲できるよう、片手での連射が可能になっている。そのぶん引き金が重く、命中精度が損なわれているはずなのだが、彼女の弾丸は三人の敵全てに命中していた。


 相当の訓練を積まなければ、できる芸当ではない。


「下手糞なりにしっかり踊れ。秀人様のためのパーティーだ」


「分かっている。『足が壊れるまで』だ」




 地上で発砲音が響いた瞬間、屋敷に踏み込んだ警官達が色めき立った。即座に新藤署長が抜剣を叫び、食堂の方へ行こうとする記者達の制止を命じる。


 警官達のほとんどは、平時と同じくサーベルか警棒しか携帯していない。

 森元の仲間達の何人かのみが拳銃を取り出し、ハンカチーフや制帽で隠しながら危機に備えた。


「向こうへ何人か行かせろ! おい、記者連中を追い出せ! 一般人は退避だ!!」


「危ない!」


 突如大西巡査が新藤署長に突進し、共に床に倒れ込んだ。


 次の瞬間、新藤署長の背にしていた壁に、発砲音と共に弾丸が突き刺さる。

 部屋の入り口にいつの間にかメイドが立っていて、拳銃を新藤署長に向けていた。


 すかさず横山刑事がハンカチーフを捨て、拳銃を発砲する。

 弾丸はメイドの左腕に命中し、彼女が腰を折った隙に別の警官が飛びかかり、銃を奪った。


「こいつ! 見てください、軍部の拳銃です! 軍部とつながりのある山田秀人が自身のメイドに持たせたに違いありません!」


「お、おい! 貴様何故そんなものを持っている!?」


 床に伏せた城戸警視が指さしたのは、取り押さえられたメイドではなく、横山刑事の方だった。「あっ」と半笑いのような表情で顔を引きつらせる横山刑事の代わりに新藤署長が「非常時携行だ! 俺が指示した!」と怒鳴る。


「ふざけやがって、抵抗するのなら容疑を認めたのと同じだ! 山田秀人以下全員を確保して――」


 新藤署長の言葉半ばで、部屋の外から無数の銃声が響き渡った。


 拳銃の発砲音のみならず、ショットガンを撃つ音も混じっている。さっと顔色を変えた新藤署長が、大西巡査と横山刑事を見た。


 青ざめる彼らの横で、山田秀人側の人間であるはずの城戸警視もまた、目を丸くして絶句している。




 捜索の過程で庭園の方に回っていた森元は、他の十名ほどの警官達とともに物陰に隠れ、銃撃にさらされていた。


 突如現れたメイド達の問答無用の銃撃に、すでに数名が倒され、血を流している。


 屋根の上や扉の裏、柱の陰に陣取る敵の持つ武器の強力さは、森元達の予想をはるかに超えていた。


「どういうつもりだ! 山田秀人は何を考えている!? 警官隊に銃を向けるなど、自分の首を絞めるようなものだ!」


「や、山田秀人らしくないと思うのは俺だけか……!? あいつがこんな強引な手に出るなんて! 大騒ぎになるぞ!!」


 噴水の陰に隠れた森元へ、オブジェの足元にうずくまった枝野巡査が怒鳴る。

 一度は山田秀人に下った彼の台詞に、森元は歯軋りをしながらうなずいた。


 山田秀人の目的が、あくまで山田家の当主の座に関連することであると考えている二人には、この銃撃は今まで着々と権謀術数を張り巡らせてきた山田秀人の人物像とは、食い違った性質のもののように思えたのだ。


 警官隊を力づくで排除などしようものなら、いくら山田秀人でもタダでは済まない。

 幸太郎を利用して山田家本家を掌握することも、叶わぬのではないか。


「――おい、てめえら何してやがる! 秀人はどこに……!」


 銃撃の中、突如聞こえた男の声に森元達が目を剥いた。


 不意に銃声がやみ、攻撃が途切れる。物陰に隠れた警官達が、慎重に、しかし次々と顔を出し、声のした方を見る。


 禿げ頭の中年男が、メイド達の真ん中で唖然とこちらを見ていた。


 数人の護衛と思われる男達をともなった彼を見て、枝野巡査が「ああっ!」と声を上げた。


「森元さん! あいつ山田熊之助(くまのすけ)だ! 『忘八ぼうはちの熊』だ! 女を家畜同然に扱ってるってしょっちゅう問題になってる遊女屋だ! あいつも山田家の人間だったんだ!!」


「……吉原を一度出入り禁止になった悪党か! ヤツもこの件に噛んでいたとは……」


「この銃撃はきっとあいつの差し金だ! 道理で秀人らしくないはずだ!!」




 警官達の叫び声に、中年男はようやく自分がとんでもない立場に立たされたことに気づき、あわてて両手を差し出して口を開こうとした。


 だがその瞬間メイド達の銃撃が再開され、中年男の声はかき消される。

 耳をふさぐ彼とその護衛を、ショットガンを持ったメイド数人がかばうような手つきで屋内へいざなった。


 彼らの背には、警官達からは見えない角度で銃口が押しつけられている。


 わめきながら抵抗しようとした護衛の一人が、屋内から早足でやって来た巻き毛のメイドに髪をつかまれ、物陰で後頭部を撃ちぬかれた。


 がく然とする男達に、巻き毛のメイドは口元にかかった返り血を舌で舐め取ってから、歯を剥いて笑う。


「ちゃんと遅れずに来たな」


「……お、お前ら……初めから俺をはめるつもりだったな! 警官なんか呼びやがって!!」


 青ざめる中年男に、メイド達が低く笑う。

 巻き毛のメイドが手にした拳銃で、中年男の額を莫迦にするように押しながら答えた。


「下らん男が王になろうとするからだ。お前が偉そうに怒鳴りつけてた幸太郎の方が、まだ男らしかった」


「何だと!?」


「自分より強い敵に囲まれて、たとえ震えながらでも醜態をさらさずにいられる自信があるか? ……漏れているぞ・・・・・・、莫迦め!」


 巻き毛のメイドの靴先が、小さな染みを作っていた中年男の袴の中に風を切ってめり込んだ。

 牛のような声を上げて体を折る中年男を、さらに拳銃の底で殴打し、這いつくばらせる。


 続いて護衛達に押しつけられていた銃口が、何の警告もなしに火を噴いた。目の前に飛び込んでくる男達の死に顔に、中年男は悲鳴を上げる。


「さあ、楽しめ! 秀人様の趣向だ! 退くも地獄、退かぬはもっと地獄だぞ! 秀人様の前で醜態をさらせ! 無能者め!!」


 メイド達の嘲笑と銃声を背に、中年男は転がるように逃げ出した。


 メイド達の考えも、秀人の考えも、もはや彼には理解できなかった。


 他の三人の分家の仲間達と合流し、この屋敷から逃げなければ。


 この莫迦げた事態を報せなければ。


 中年男は憎らしいほどに広い屋敷を、迷子のようにさまよい始めた。




 頭上の光の柱が、遠い銃声と共に減り始めた。


 弾丸を受けて破壊されたオブジェが、明かり取りの穴をふさぎ始めたのだ。


 棚主は自分の足にしがみついてくる幸太郎をかばいながら、刃を山田秀人に向け続ける。


 向こうではダレカが、闇と光の間を行き来しながら戦っている。彫刻のような男の拳銃が時たま火花を散らし、ダレカや、使用人達を撃つのが見えた。


 異常事態を楽しむかのように、山田秀人は目を閉じて深呼吸をする。

 その音に、又の字の苦しげな呼吸音が重なり、闇に溶けた。


混沌こんとんだ。これを味わうために、僕は生きている」


「――地獄に行けば、好きなだけ味わえるさ」


「そうだと嬉しいがね。さて……かかって来ないのかね?」


 又の字の血のついた日本刀で自身の肩をなでながら、山田秀人が棚主を見る。


 棚主は幸太郎の襟をつかみ、「離れろ」とささやいたが、幸太郎はいやいやをするように首を強く振った。


「逃げましょう棚主さん! この人につき合っちゃダメです!」


「こいつを生かしておけばまた俺達に近づいて来るぞ。どいてろと言うんだ……息の根を止めてやる」


「お願いだから逃げて! こんなことに巻き込んだぼくが悪いんだよ! ぼくのせいでみんなが傷つけられて殺されて……そんなのもう嫌だッ!!」



「幸太郎くぅん。ここまで来てそれはないだろお」


 山田秀人が日本刀で闇を斬り、刀身に付着していた血液を飛ばした。

 上段に振りかぶり、腰を落とす敵に、棚主が幸太郎を初めて怒鳴りつけた。


「ぶった斬られたくなかったらどいてろ!! 死ぬのはヤツの方だッ!!」


 床を蹴り、山田秀人がすさまじい勢いで向かって来る。

 棚主が両手で刃を握り、振りかぶった。

 二つの剣がひらめき、交差する。






「――――見つけた」




 不意に、すぐ近くの闇が声を発した。


 山田秀人も、棚主も、幸太郎も、響く銃声の波にまぎれるようなその声に一瞬表情を失う。


 今正に互いを斬りつけようという二つの刃の間に、三つ目の細く小さい光が走る。


 山田秀人の左目を深々とえぐったそれは、鋭く研ぎすまされた、ドライバーだった。


 闇から伸ばされた手には皮手袋がはめられ、それは黒衣をまとった腕へとつながり……闇と同化した黒の中には、白い、骨のように白い、鳥の仮面が浮かんでいた。



「ほう、君か」


 内包した水分をまきちらし、破裂する眼球の中の瞳が、怪物をじろりと見た。


 山田秀人はそのまま自らの攻撃の勢いのままに転倒し、強い光の中で息絶えている島田の方へ倒れ込む。


 刃で空を切った棚主が幸太郎とともに、突如出現した異形に驚愕の目を向ける。


 異形は闇からわずかに抜け出ると、二人を見て、少し間を空けてから再度声を上げた。


「私だ。逃げるぞ」


「……お前……」


 明瞭に響いた時計屋の声に、棚主が戸惑いと安堵あんどの混じった声をもらした。


 だが次の瞬間、幸太郎がその袖を強く引いて悲鳴を上げる。


 たった今島田の足元に倒れた山田秀人が、消えていた。周囲の喧騒のせいで、山田秀人の動く物音を判別できない。


「くそ! ヤツにとどめを刺しておかないと!」


「今は捨て置け。上がまずい状況になっている……幸太郎が死ぬぞ」


 時計屋の言葉に、棚主がバッと顔を向けた。鳥の仮面の奥で、闇に沈んだ瞳が棚主を見る。


「ヤツの死より、幸太郎の生を優先すべきだ」


 棚主は一度奥歯を鳴らすと、しかしすぐにうなずいた。迷っている時間はなかった。幸太郎の腕を取ると、時計屋と共に闇に飛び込む。


 立ち去る前に、幸太郎が一度、床に倒れた又の字を見た。


 気を失っていたはずの彼女は、いつのまにか血まみれの顔を上げ、ふくらはぎの傷を止血しようと音もなくもがいていた。


 ズボンのベルトで足を縛る彼女の目と、幸太郎の目が合う。哀れみを顔に出してしまった幸太郎を、次の瞬間又の字は、手負いの獣のような目で睨んだ。


 凄まじい、拒否の意志。棚主に腕を引かれながら、幸太郎は唇を噛んで、顔を前に戻した。



「出口に走れ。向かって右奥の光のそばが、階段だ」


 時計屋が先導し、三人が闇を走る。


 息を切らして乱闘を続けているダレカのそばを走り抜けざま、棚主が「退け!」と叫ぶと、三人の後を複数の足跡が遅れて追い始めた。


 ダレカと、彼に数を減らされた使用人達。彫刻のような男と、そしておそらく山田秀人が闇を駆けて来る。


 棚主は幸太郎を抱え上げ、時計屋と共に全速力で出口へと走った。

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