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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  三章  焔の少年
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二十

 地下室への入り口は、ごく目立たない小部屋にあった。


 廊下に並んだ無数の扉の一つ。それを開けた向こうの五畳程度の空間に、地下へと降りる石造りの階段が口を開けている。


 黙ってその先へと進む山田秀人に、彼の部下達も、棚主達も続いた。

 闇のこもる階下へ、硬い靴音がいくつも落ちてゆく。


 やがて地下階に着くと、複数の淡い光の柱が闇に差し込んでいた。光に近づいてみれば、頭上に鉄の格子と、その先にはめられたぎやまんの窓を通して、空が見える。


 屋敷の庭園や、敷地内に散在していた奇妙なオブジェは、地下室への明かり取りだったようだ。


 闇をつらぬく無数の光の柱が、地下室の広大さを唯一視覚に訴えていた。おそらくこの地下空間は、屋敷の敷地内いっぱいに広がっている。


「これは……何のための空間だ……?」


 棚主の隣を歩くダレカのつぶやきに、山田秀人が首をひねって愉快そうに笑った。


「僕の別荘には必ずこういう『密室』がある。法に触れる物を貯蔵したり、法に触れる『遊び』をしたりするための空間だよ。一人で闇に埋もれて考え事をしたい時にも使っている」


 山田秀人が闇に腕を突っ込むと、そこから魔法のように、黒いかばんを持ち出してきた。

 目をこらせば闇の中に、うっすらと木箱やかばんの山が無造作に置かれているのが見える。


 山田秀人がかばんをダレカに放る。受け止めたダレカは、少し考えてから用心深くかばんを、銃を構えている彫刻のような男に向けて開いた。


 じろりと視線をくれる男の前に、かばんからどさどさ・・・・と紙幣の束が落ちる。


 周囲を固める使用人達が、息を呑んだ。棚主が束の一つを拾い上げてみると、それは日本の円ではなく、最近発行された100ドル紙幣だった。


 束から紙幣を二枚抜き出して光の柱にかざし、指でなでたり臭いをかいだりしていた棚主が、やがてニヤついている山田秀人に鋭い視線を向けた。


「偽物だな」


「君はいったいどういう人間なんだ!? 外国の紙幣の真贋しんがんまで見極めるとは、ますます素性を知りたくなってきたよ!」


「ふざけるな、外国の金のことなんざ知るか。この二枚、紙の材質が違う。どちらか一方は確実に偽札だ」


 100ドル紙幣を指で弾いて捨てる相手に、山田秀人は満足げに何度もうなずく。「何故紙質の違う紙幣を同じ束に混ぜる?」と問う棚主へ、山田秀人は再び背を向けて歩き出しながら答えた。


「そのドルは全部偽札さ。僕が職人を囲って作らせてるんだよ。腕の良いのや、悪いの、色々ね。中には新聞紙みたいに印刷機械で量産されたのも混じってる。

 ずさんな作りの偽札は、すぐに誰かに看破されるだろう。もちろん僕が使うための金じゃないよ。僕が持っている輸入業の会社を通して、海外にバラまいてみようと思ってね」


「偽札を製造流通させることは国際規模の犯罪だ。亜米利加は血眼で出どころを探ってくるぞ。日本だと分かれば……」


「戦争になるかな」


 棚主は返ってきた言葉に、口を引き結んだ。彼に銃を向け続ける彫刻のような男が、目を丸くして山田秀人を見る。


 山田秀人は軽く笑いながら、「そこまではいかないかな」と続けた。


「でも、国際社会での日本の評判は大いに損なわれるだろうね。……僕はね、こういう小さな災厄をちょくちょく世界にバラまいて、微力ながら戦争の再発・・・・・に貢献しているのさ。偽札はその活動の一つに過ぎないわけだが、この空間にはそういう『戦争の種』が色々たくわえられているのだよ」


「例のあんたの狂った趣向か。自分が戦場に行きたいがために、戦争を起こそうってのか」


「戦争は必ず起きるよ。近いうちに、大きな戦争がね。僕はそれを待ちわびているだけさ。……未来の戦火に燃料をくべているんだ。

 それに今度は兵卒としてではなく、違う立場で参戦したい。兵士をたくさん従える臨時将校にしてくれないかと、軍部の友人に頼んでいるところさ。中々首を縦に振らんがね」


「狂ってる。戦争を望んでるだなんて」


 消えゆくような声で言った幸太郎に、その身を抱えている又の字が目をそらしながら『ホンマにな』と唇だけを動かした。


 山田秀人はそんな二人に右手をくるくると振りながら笑う。


「そんなことを言ったら、今の世の中の人間の何割が狂っていることになるんだろうね。日露戦争の時は大衆の少なからずが戦争を望み、警察や公務員、戦争を終結させた小村寿太郎の家を襲撃した。今だってことあるごとに国威高揚こくいこうよう、新たな戦争をあおる新聞社や政治屋は多いじゃないか。

 僕のこの行為を知って、非難でなく拍手を送るような連中が国内にどれほどいることか……」


「大衆は戦争それ自体を望んだわけじゃない。戦時を生き抜いた対価としての、貧困からの脱出を夢見ていただけだ。あんたとは違う」


 吐き捨てるように言う棚主に、山田秀人が笑う。


「正論だね。だがその方がよけいにタチが悪いとは思わないのかい?」


 ダレカが、口中の肉を噛んで目を細めた。

 日露戦争で地獄を見た兵士の前で、山田秀人が低い声で言う。


「戦争の最も悲惨な部分を知らずに、戦争の先にある繁栄を夢想するその神経。僕はそれこそめられたものじゃないと思うがね。……僕が戦争を再発させたいのは、自分が戦争を味わいたいのと同時に、そういった『戦争を望んだ大衆』に最も悲惨な戦争を体験させてみたいからさ。

 自分達がどれほど悪しきものを望んだのか、教えてやりたいのさ。国対国の、総力戦。できればそれを招いてみたい。そして戦争の本性というものをみなで味わい……」


「糞のような野望を垂れるのも今日までだ」


 辺りにこもる闇よりも暗い声。山田秀人はそれが棚主から放たれたものだと確認すると、心底うれしそうに笑った。


 棚主の喉が、さらに闇のような声を吐き出す。


「戦争をよく理解せずに、手前勝手な感情で暴動に参加した連中もいただろう。だが戦争は兵士だけではできない。兵士を送り出した家族や、兵士を支えるために国内で働いていた人々が、戦死した同胞や苦労してきた仲間のために、犠牲に報いるだけの戦果を望んで声を上げた。それが日比谷焼き討ち事件の側面の一つでもある」


「無知と暴力で国を破滅に追いやろうとした連中に、ずいぶんとお優しいことだね」


「彼らを擁護ようごするつもりはない。暴動は暴動だ。だが、よりによってあんたが彼らを笑うのが気に入らん」


「そうかね。まあ、いい。幸太郎君のために無謀な戦いを挑むような男だ、根はお優しいんだろう。それにこの話は今は大して重要ではないしな。重要なのは」


 不意に山田秀人が足を止め、前方の光の柱を見た。気がつけば光のほとんどは後方にあり、棚主達の前にある光源は、その光の柱一つだけになっていた。


「……重要なのは、僕がそういう男だということさ。普段から色々な悪事に手を染めているが、その先に望むものは結局刺激に満ちた戦争と、殺人鬼達との邂逅かいこうでしかない。何か面白い殺し合いはないかな。起こせないかな。そんなことばかり考えている。今回も、動機は同じさ。少なくとも君の存在に気づいてからはね」


 光の柱は、天井の鉄格子の向こうから降り注いでいる。だがそれは、曇天の空から降る淡い光ではない。

 人工の光……おそらくは屋敷内の照明を、反射鏡を介して取り入れた異常に強い光だった。


 その光の中に、誰かがいる。


 金属の柱に、いばらのような針金で全裸で縛りつけられているのが見える。


 それが誰か、考えるまでもなかった。



 島田の前で、山田秀人が振り返る。両手を合わせ、他の者を睨め上げるように、笑う。


「この男のおかげで、今回は最高の戦争にありつけそうだ。山のような偽札をばらまいても国家間戦争が起こる可能性は低い。それを思えば感謝すべきだろう。

 僕にとっての戦争とはたくさん敵がいて、味方がいて、殺人鬼がいて、それ以外の有象無象うぞうむぞうと僕を含めた全員が血にまみれていればそれでいいのさ。殺人鬼の収集だけでも楽しいが、それを惜しみなく使って『遊ぶ』のはもっと好きだよ」


「……秀人……」


 光の中の島田が声を上げた。


 山田秀人は数歩左に退いて島田の姿を衆目にさらす。

 光に焼かれた老人が、すでに視力の失せているらしい目を転がしてうめいた。


「貴様は……ゲスだ……」


「ずっとここに放置しているが、水だけは与えているから喋るのに不自由はないはずだよ」


 島田を、両手の人さし指で指して言う山田秀人に、棚主とダレカが無言で拳を握り締めた。島田のいる場所まで到達した以上、これから山田秀人が再び棚主達を地下室の出口まで案内するはずもなかった。


 戦いが起きるとすれば、この場所だ。身構える二人の前で、山田秀人が又の字を手招きして呼び寄せながら、言った。


「島田君、死にかけているところ悪いんだがね、ここに件の幸太郎君がいるんだが何か言うことはないかい?」


 島田の目が見開かれ、誰もいない方向に視線がさまよった。

 様々な感情に顔をひきつらせる幸太郎を、又の字が山田秀人に差し出す。


 幸太郎の肩を左手でがっちりとつかんだ山田秀人が、逆の手で島田のあごをつかみ、幸太郎の方を向かせる。「さあ」と楽しげにうながす山田秀人。島田は長いあごひげの生えた口を牛のように動かしてから、言葉を吐いた。


「――幸太郎か……」


 幸太郎は、答えない。


 両親を殺し、世話になった三吉を殺し、幸太郎の人生の全てを奪うことを画策かくさくした張本人が、目の前にいる。


 山田秀人が覗き込む幸太郎の顔は、本来怒りに染まっているべきだった。


 憎み、恨み、罵声を投げつける権利が幸太郎にはあるはずだった。


 だが、幸太郎の顔には苦痛しかなかった。


 広大な闇の中で、降り注ぐ光に責め続けられる老人に、幸太郎の喉はただ苦しげに、よじれるような音を立てただけだった。


 島田はその音を聞いてから、また口を開き、言葉を吐く。


「先代……山田栄七郎様……お前の……曽祖父そうそふ……に、なるのか…………あのお方は……立派な、当主だった……」


「……」


「聡明で……山田家の名に恥じない……傑物けつぶつ……しかし……その息子、栄八は……凡愚ぼんぐであった……」


 闇の中に響く島田の声は、小さくも次第に弱々しさが消え、明瞭めいりょうになってゆく。


 幸太郎は島田の顔を見つめながら、自分の体をつかんでいる山田秀人の手を、そっと押しのけた。

 山田秀人は少し意外そうな表情をしながらも、面白そうに幸太郎と島田から手を離す。


 棚主は一瞬迷ったが、動かずにその場に立ち続ける。

 ダレカもかつての同僚の声に、耳を傾けている。


「栄八は……息子、栄治を、さらなる愚物に育て……ともに、野垂れ死に……挙句あげく、お前という、争いの種を世に残した……」


「……争いの種……?」


「そうだ……お前は、お前達一家は、災いの種だった」


 幸太郎の目から、しずくがこぼれた。だがその表情は変わらず、島田をじっと見つめている。


 島田はそんな幸太郎の前で、「ああ」と頭上をあおいでうめいた。


「栄八が、先代の才気を受け継いでおれば……栄治が、人並みに賢ければ…………せめて……お前の母親が、山田家への恨みを捨てておれば……そこの、悪魔のような秀人に頼る以外の道も、あったものを……」


 山田秀人は腕を組み、ただ静かにほくそ笑む。

 島田は見えぬ目を光の筋にさらしながら、静かに言葉を続けた。


「幸太郎、お前に罪はない。罪があるのは、我々大人だ……仕える家の存続を、何よりも……主人の血筋よりも上に置いたことは、間違っているとは思わん…………だが、山田家を潰すのは……私の罪だ……」


「…………勝手だよ」


 幸太郎が、苦しげな表情を硬直させたまま、言った。雫をいくつも目からこぼして、うめいた。


「ぼく達は……『家』のために、何人も死ななきゃいけなかった…………住んだこともない、立派なお屋敷のために……地面に寝て、空を屋根にして、生きてきたぼく達が……」


「お前は産まれてはならなかったのだ。お前の母親も、産まれるべきではなかった。お前の祖母もまた、栄八と出会うべきではなかったのだ」


 闇の中に立つ大人達は、咳ひとつせずにその光景を見ていた。

 幸太郎の肩が震え、硬直した表情が濡れていく。


 だが、と。島田は光に臨んだまま言った。


「お前に罪はない。罪はないのだ、哀れな、子供よ」


 島田が眉間にしわを寄せた。深い、亀裂のようなしわを。そして、見えぬ目を幸太郎に向けた。




 ぶつりと、音がした。




『許せ、幸太郎』




 唇がそう動くと、島田の口から血液があふれ出た。舌を噛んだのだ。


 幸太郎の表情が動いた。島田の体から力が抜け、頭ががくりと垂れると、幸太郎の口から短い悲鳴が上がった。


 自分の身を抱き、泣く幸太郎の横で、山田秀人が島田の代わりに光を見上げた。

 満面の笑みで笑う彼は、やがて両手を上げ、耳のそばにそえた。そのままじっとしている山田秀人に、又の字が苦々しげに声をかける。


「何のまねです?」


「……聞こえないのか、又の字」


 楽しげな主人の声に、又の字は他の部下達と顔を見合わせる。

 そして彫刻のような男を振り返った時、ようやくその『音』に気づいた。


 耳をましても、ほとんど聞こえることのない音。


 彫刻のような男が拳銃で狙い続ける敵の拳から、血がしたたり落ちていた。


 震える手に食い込んだ爪が皮を破り、血液を床に落とす、音。


 それに耳を傾ける山田秀人が、低く、笑った。


「頃合だな。諸君」


 山田秀人が、泣いている幸太郎から、一歩離れた。



「楽しみたまえ」




 棚主が走り出すのと、ダレカが使用人の一人の足を払うのは同時だった。


 突然の動きに驚愕する使用人達と、すかさず発砲する彫刻のような男。


 拳銃弾はまっすぐに棚主の後頭部に向かったが、そこに到達する前に、ダレカに足を払われ、姿勢を崩した使用人のわき腹に命中した。


 ダレカはそのまま周囲の別の敵に掌打しょうだや蹴りを繰り出し、乱闘を始める。彫刻のような男はすぐに次の弾丸を発射しようとしたが、射線をはばむ味方の使用人と守衛達が邪魔で狙いが定められない。


 そしてもっとも山田秀人の近くにいた又の字が、向かって来る敵に気合と共に跳び蹴りを放った。


 肉食の獣のような筋肉質な下半身から繰り出された足技は、棚主の胸板に炸裂さくれつするように命中し、その体を床に倒す。


 だが同時に又の字の右足は倒れる敵に抱き込まれていて、声を上げる間もなく顔から床に叩きつけられた。


 鈍い音がして又の字の鼻が曲がり、鮮血が飛び散る。


 床に手をついて起き上がろうとする彼女の背を、受身を取った棚主の靴底が蹴り倒していった。


 自分に向かって来る棚主を、山田秀人は歓迎する。固めた両の拳を前に出し、腰を落として構えた。



 鬼の形相の棚主が、悪魔のような笑みをたたえた山田秀人に、咆哮ほうこうとともに拳打を繰り出した。

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