十八
「何やら、廊下が騒がしいが……」
「秀人さんがまた何か悪ふざけを始めたんでしょう。ほっときなさいよ」
西側の客室に、山田秀人に招かれた分家の四人が揃っていた。
朝食後、お互いを監視するように同じ部屋に集った彼らは、部屋の四隅に離れて陣取り、めいめい好き勝手なことをしていた。
禿げた中年男は早くもウイスキーを空けて他の三人を睨めまわし、洋装の老人は椅子に腰かけてひたすらパイプをふかしている。
幸太郎の血判入りの誓約書を手に入れた増子は、窓辺に腰かけて比較的余裕の表情ですましていた。
そして残る最後の一人である信也という名の若者は、上着を脱いでシャツの袖をまくり、コカインの溶液を皮下注射していた。
長い息を吐きながら自らの腕から注射針を抜く彼に、パイプをくわえた老人が侮蔑の表情を向けて言った。
「阿片中毒の分際で、よくも幸太郎の養父に名乗りを上げたものだな」
「コカインですよ。阿片じゃない……コカインはね、阿片よりずっと健全なんです。何しろ昨日幸太郎君に出したコカ・コオラだって、以前はコカの葉が材料に使われていたんですからね」
「それが何の証明になるってんだよ。アホが」
中年男が空になったウイスキーのボトルを放り、信也のすぐそばの床に転がした。
それをとろんとした目で見ながら、コカインの快楽に溺れる若者は低く笑う。
「かのシャーロック・ホームズだってコカイン愛好者だったんですよ。探偵小説なんて、古い人には興味がないかもしれませんがね。……ああ、良い気持ちだ。コカインを嗜むと生存本能が刺激されます」
「わけわかんねえこと言い出したぞ」
「ここのメイドは綺麗な子ばかりですね。誰か一人ぐらいお世話してくれないかな……でなきゃ増子さん、僕の寝室に行きませんか。僕、女性の扱いは上手なんですよ」
増子は視線もやらず、麻薬中毒者を鼻で笑って「厩舎にでも行きなさいな、ぼうや」と言い捨てた。
牝馬にでもまたがってろと言ったのだが、信也はそれを上出来のジョークを返されたように大喜びして手を叩き、引きつった声で高く笑った。
眼前で笑い転げる若者に、老人が眉間に指を当ててため息混じりにうめく。
「今の若い世代は莫迦ばかりだ。品がなく、節操もない」
「……限界だな」
おもむろに中年男が立ち上がり、部屋の外に待たせていた護衛に声を投げた。
扉が開き、柿色の着物を着た男が四人ほど入ってくる。その向こうには、他の三人の護衛達も廊下に控えていた。
「俺ぁ秀人どんとサシで話す。お前らとは付き合いきれねえ」
「抜け駆けか。まあ、勝手にせい。うるさいのがいなくなってせいせいするわ」
「がんばってね。秀人さんに下手なことを言えば、あの人簡単にへそを曲げるわよ」
老人と増子の言葉に、中年男は無言で床に唾を吐いた。そのまま護衛を引きつれ、廊下に出て行く。
広い屋敷を、山田秀人を探して歩き回るつもりはなかった。階段のわきにこちらへ背を向けて立っている巻き毛のメイドを見つけると、「おい」と声をかける。
わずかに首をひねり、横目を向けてくる彼女に、中年男は護衛達と共に肩で風を切って歩きながら凄んだ。
「秀人どんはどこにいる? 腹ァ決まったからよ、案内しろや。……てめえ、使用人のくせに客を横目で見るんじゃねえ! こっちに体向けろッ!」
この巻き毛のメイドは、屋敷にいるメイドの中でも特に鼻につく態度の女だった。
仕草や目つきに、自分達分家の実力者に対する侮りがにじみ出ている。
元来遊女を扱う商売をしている中年男は、そういう自分の顔立ちの良さを鼻にかけているような、生意気な女が嫌いだった。
山田秀人のメイドをぶん殴るのはまずいが、護衛の飢えた男達に乱暴させて、他人に言えないような恥をかかせてやるぐらいはしてやってもいいかと思った。
都合の良いことに、彼女の向こうには物置のような目立たない部屋がある。
唇を舐める中年男に、巻き毛のメイドはゆっくりと体ごと振り返った。
いつもは下ろされている彼女の袖が、今はまくり上げられ、そこから妙な腕が伸びている。妙な、とは、中年男が普段目にする女の腕とは、筋肉の形が違うのだ。
通常生活では盛り上がらないような部分が、突出して発達している。その部分だけが、男の肉体労働者のように力強く、こぶになっていた。
何をしてそのような腕になったのか……答えは彼女の、両手の先にあった。
回転式の、騎兵用の拳銃。銀色に光るそれを見て、中年男と護衛達の顔色が変わった。
「……何を持ってやがる!?」
「お部屋にお戻り下さい」
メイドの唇から、少女のような高い声が放たれた。思えば彼女が言葉を発するのは、分家の四人が屋敷に来てから初めてのことだった。
メイドの後方、物置のような部屋の扉が開き、中から別のメイド達が数人出てくる。
彼女達が拳銃や、ショットガンや、得体の知れない銃器の入った箱を台車に載せて運んでいるの目にすると、中年男はすっかり気を呑まれて後ずさった。
「いったい……何事だ……? お前ら、女のくせに、何を……」
「おっしゃるとおり、銃は女子供の持つものではありません」
巻き毛のメイドが、左手をゆっくりと上げて、拳銃を唇に押し当てた。
短く響く接吻の音に、中年男と護衛達が顔を引きつらせる。巻き毛のメイドは口元を拳銃で隠したまま、彼らを見て、目だけで笑った。
「――ゆえに――私達は、男になるのです。有事にあっては女であることを捨て、男の兵士となんら変わらぬ形で、無残に無慈悲に死ぬ前提で振る舞うのです。それが銃を持つ女の心得だと、秀人様に教わりました」
「何の話をしてやがる! 俺は今何が起きてるのかと……」
「あんたじゃ本家の当主は無理だ。その、器じゃない」
突然敬語をかなぐり捨て、低く言ったメイドに、男達は唖然と立ち尽くした。
武器を運ぶメイド達は彼らを無視して廊下を歩き、いずこかへと去って行く。「パーティーには遅れないように」と意味の分からぬ言葉を言い残して、巻き毛のメイドもそれに続いた。
どこか外国の歌を口ずさむ彼女が廊下の曲がり角に消えると、中年男はたまらず護衛の男達と顔を見合わせ、「パーティーだと?」とつぶやいた。
それから数度、禿げ頭を勢い良く振ると、階段を一気に駆け上がった。あわててついて来る護衛達に、中年男が怒鳴る。
「秀人を探せ! あの野郎……やっぱり何か企んでやがった! みすみす罠にゃかからねえぞ!!」
空は変わらず鉛のような雲が立ち込め、世界は暗く沈んでいる。
屋敷の外、お近が身を隠している路地に、三吉のかつての同僚であった元馬車業者達が、数台の馬車を駆って集まって来た。
くもの巣の張った車から飛び降りて来る木蘭と佳代に、お近が駆け寄る。
「お近、進展はあったかい?」
「分からないけど、門のところはちょっとした騒ぎですよ。さっき森元さんも来たみたい」
屋敷の門前に目をやれば、様々な格好をした男達が睨み合っているのが見て取れる。
木蘭は右手の親指の爪を噛み、普段ならめったにすることのない貧乏ゆすりを始めた。
「ああ、歯がゆいねえ。幸太郎はちゃんと無事でいるんだろうね」
「分かりません……鴨山組の時といい、お上がきちんと仕事をしてくれりゃこんなことにはならなかったのに。本当に、税金泥棒の、ド悪党の、犬のクソ野郎ども……」
「ちょっとぉ。年頃の女の子の台詞じゃないわよ。汚いわね!」
馬車上から降ってきた野太い声に、ぎょっとしてお近が顔を上げた。
見れば駆けつけた馬車を運転していた御者は、いつかの三人の女形だった。にこーっと笑顔を向けてくる彼らに、お近があっけにとられてぽかんと口を開ける。
「ええっ! 三吉の元同業者ってあんたらだったの!?」
「別にアタシ達だけじゃないんだけどさあ、廃業後も馬と車を処分しなかったのはこの三人だけだったのよねえ」
「女形に転身したのはずいぶん前だけどね。でもやっぱり、陰間茶屋の収入だけじゃやってけなくてさあ。観光客相手に乗馬を教えたりして日銭稼いでんの。だからお馬さんは毛並みツヤツヤ、元気いっぱいよ」
「車は埃まみれの物置から引っ張り出してきたんだけどねえー」
彼らが笑うと、年季の入った車はぎしぎしと危うい音を立てて揺れる。
世間は本当に狭いものだとお近が額に手を当てた直後、屋敷の門の方に動きがあった。
ざわめきが起こり、人の波が動いている。見れば、門前にさらに新しい人の群が駆けつけて来ていた。
森元の仲間達や、記者達の間に分け入るようになだれ込むその群は、警官の制服をまとっていた。
「……新藤署長!」
城戸警視の安堵の声を聞きながら、森元は驚愕の表情でこちらに歩いて来る男の顔を見た。
山田栄八の死後、築地警察署の長に就いたという、噂の醜男。
既に警察官を辞めている森元が会うのは初めてだったが、何故この男が今、この場にやって来るのか。
善人だが、覇気がない。警察官でありながら悪を退ける気概を持たない、根性なし。それが森元の仲間達の、新藤署長に対する評価だった。
新藤署長は森元達よりも多くの警官を引き連れ、城戸警視の前に進み出てくる。
そうして森元の隣に立つと、じろりと森元の無精ひげの生えた顔を見た。
「君が森元か。噂は聞いているぞ」
「新藤署長、いい所に来た! 君に訊きたいのだが、この連中に山田邸を捜索する許可を出したかね!?」
城戸警視の問いに、新藤署長は首を巡らせ、森元達の顔を一つずつ見回した。
ある者はたじろぎ、ある者は決死の形相でその視線を受け止め、またある者は強い非難の目を返す。
新藤署長は深く息を吸い、森元に向かって「まさか」とつぶやくように言った。
「この男は、築地警察署の警察官ではない。警察官でない者に、どうして私がそんな許可を出せるものか」
「貴様……!」
うなる森元の声をかき消すように、城戸警視が「違法捜査だ!」と叫んだ。
森元を指さし、森元の仲間達に向かって鬼の形相で怒鳴る。
「お前達、この悪漢を取り押さえろ! 警察官の身分を詐称し国民の権利を蹂躙した犯罪者だ! 今からでも職務を遂行した者は始末書だけで済ませてやるぞ!」
その言葉に、横山刑事と数人の警官が反射的に森元を守るように円陣を組んだ。
だが同時に、新藤署長が一歩前に出て、激しく両の手を叩いて「鋭っ!!」と、信じられないような大きな気合を吐く。
腹の底から吐き出された空気を震わすような声に、警官達も、記者達も、城戸警視さえもが目を丸くして新藤署長を見た。
「――捜索許可は出していない――ゆえに、捜索の命令もしていない。森元氏には、私が個人的に捜索の『見届け人』の役目をお願いしました。城戸警視」
「な……」
「ここで指揮を執るのは、私だということだ。即ちこれは合法捜査である」
新藤署長の背は、脂汗でぐっしょりと濡れていた。
成り行きを理解できない森元があっけにとられていると、その肩をつつく者がある。
振り向けば、手に包帯を巻いた大西巡査がえへえへと照れくさそうに笑っていた。この場にいるはずのない男が、森元に誇らしげに報告する。
「あの署長は味方ですよ、警部補殿。私が辞表を提出ついでに担ぎ出しました」
「担ぎ出した……? 君が、説得したと言うのか?」
「はい。どうです、お役に立てましたか」
にやにやと笑う大西巡査に、森元は少しの間を置いてから、にじみ出るような笑みを口元に浮かべた。「最高だ」と大西巡査の肩を叩く森元の前で、新藤署長がさらに城戸警視に近づく。
「城戸警視、正式な手続きや命令系統をうんぬんするなら、あなたが個人的に山田秀人のために動いていることも問題です。出るところに出たいなら、とことんお付き合いしますよ……とにかく、あなたに築地警察署の行う捜査に口出しはさせません」
「貴様自分のしていることが分かっているのかッ!」
城戸警視が新藤署長の胸倉をつかみ、乱暴に引き寄せた。
太った新藤署長の体は城戸警視の腕力では持ち上げられなかったが、城戸警視は相手のできものだらけの顔に、剥いた歯を近づけて威圧する。
「よく考えろ間抜けめ! いったいどちらに分があると思ってる!? 一時の下らん正義感でこいつらについて、一生を棒に振りたいか……貴様の一族郎党、山田秀人閣下に死ぬまでつけ狙われるぞ!」
「生憎、言われるまでもなくよく考えた結果でして……この界隈に配属されてから、お飾りの署長にすえられてから、ずっと考えていたことでして……」
新藤署長の細い目の奥から、黒い瞳が相手を睨めつけた。
さながらしめる寸前の鶏に人間の目つきで睨まれたかのように、城戸警視がぎょっとしてあごを引く。
「……警視なんて偉い人が、うす汚い悪党を『閣下』なんて呼ぶようじゃ……現場も、胸を張れないんじゃねえだろうか、と……老後の安寧欲しさにそれを許容してちゃあ、仏様に地獄に落とされるんじゃねえか……と」
「きっ」
「舐めるな貴様ァッ!! 貴様や山田栄八と違って俺達は下からの叩き上げなんだッ!! 命張って警官やってんだよッ!!」
吼えたイボ蛙が、城戸警視の腕を力任せに弾き飛ばした。
上からの圧力におとなしく従っていた、お飾りとしての相手しか知らぬのだろう城戸警視は、思わぬ反撃にたたらを踏み、自分のたった数人の部下に腕を支えられて愕然とする。
新藤署長は森元達と、自分の部下を振り返り、額の汗を右手で一気にぬぐって地面に振り捨てた。
そうして屋敷の方を指さし、絶叫に近い大声を上げる。
「隅々まで捜索しろ! 妥協するな! あらゆる犯罪の痕跡を見逃すな! 俺が全責任を持つ!! 帝都を悪党から取り戻せ!! 応えろ、警察官ッ!!」
轟音のような返事とともに、その場にいた全ての警官が動き出した。屋敷の守衛達が制止しようとするが、止まるものではない。押しのけられ、門が、玄関が開放される。
屋敷になだれ込む警官達の後を追って、記者達も勝手に中に侵入する。城戸警視も部下と共に、何ごとかわめきながら屋敷の中に戻った。
残った数人の警官が門前を固めるのを背に、新藤署長は服の前を開けながら森元に問うた。
「この屋敷には、裏口はあるのか?」
「ええ、ですから私の仲間を何人かやっています。他は鉄柵で囲まれていて、出口はないかと」
「優秀だな。復職したら俺のそばに来い」
ぐっしょりと濡れたシャツをしぼりながら、新藤署長も屋敷の中に向かう。誰に言われるでもなく、森元と大西巡査、横山刑事がそのわきを固める。
そうして最後に森元の視線を受けて、その場に残っていた津波とマスターと、鉄道会社の二人が彼らの後に続き、事件の核へと踏み込んだ。
路地から全てを見ていた木蘭達は、息を呑みながら、屋敷にいる男達の無事を祈っていた。




