十六
客間の扉が開いた時、山田秀人はじっと幸太郎の顔を見つめていた。
自分に肩を抱かれ、同じ長椅子に座っている少年の表情を監視していた。
案の定、幸太郎は扉の開閉音が響いた瞬間に目を丸くして、部屋の入り口の方を凝視し、やがてくしゃくしゃに顔をゆがめて声もなく泣いた。
山田秀人の横顔に、刃のような鋭い視線が刺さる。
長椅子から二十歩ほど離れた入り口に、臭うような殺気の気配がたたずんでいた。
「秀人様、お連れしましたが……」
来訪者を案内してきた使用人が、緊張した声を放る。
山田秀人は未知のワインを味わう時のように、すぐにはお目当てのものには目を向けず、その周囲の変化を味わおうとした。
空気に混じったワインの芳香を楽しみ、色を楽しみ、最後に味を楽しむ。
幸太郎の表情と、使用人の緊張の後は、両脇に立つ護衛達の顔色を覗き込んだ。
彫刻のような男は、そう形容するにふさわしいほどに変わらず無表情だ。
だが又の字は来訪者の方を敵意に満ちた目で見ていて、肩に力が入っている。
二人の反応の違いは、おそらく戦場に足を運んだ経験の有無によるものだと思った。日露戦争の地獄を見てきた男には、戦場に現れる非日常的な敵との遭遇に対して、耐性があるのだ。
……いったい、部屋の入り口にいる男は、どんな顔をしているのだろう。
どんなに恐ろしげに歪んだ顔をして、自分を睨んでいるのだろう。
山田秀人は存分に期待が高まったところで、ようやく首をひねり、来訪者を見た。
「――――やあ――――」
素晴らしい。
背広姿の、ハットを被った男の涼しげな表情に、山田秀人は歓喜した。
予想していたのは醜い鬼のような形相だったが、来訪者はそれを、顔の皮一枚下に見事に封じ込めていた。
冷静な表情。しかしその目の周辺には、猛毒のような憎悪と殺気が、じくじくとにじみ出ている。
人を何人も殺した人間にしかできない、山田秀人の好きな表情だった。
「待っていたよ。君。…………よく来てくれたね」
山田秀人の言葉に、来訪者はわずかに眉を寄せた。「君を待っていた」と小さく繰り返す山田秀人が、強張った表情の使用人を指さし、次に部屋の隅にある戸棚を指した。
指の先、戸棚のぎやまんの向こうに洋酒のボトルとグラスを確認すると、使用人は慌てて一礼し、戸棚に向かう。
使用人に酒の用意をさせておいて、山田秀人は来訪者へ手招きした。逆の手は変わらず幸太郎の肩をつかんでいて、離さない。
ゆっくりと歩いて来る来訪者に、又の字が長椅子の横にあった木椅子を取り上げ、彼の前に置いた。
上目づかいに睨んでくる女を、来訪者は一瞥する。
「あんたとは一度会ったな」
「おう、又の字っちゅうんや。よくも蹴っとばしてくれたなあ。生かして帰さんで」
軽く白い歯を剥いた後、又の字は木椅子の背を叩き、「座り」と命じる。
無言で木椅子を眺める来訪者。そのわきを彫刻のような男が歩き過ぎ、客間の入り口の扉に施錠して、さらに背中でふさぐようにして立った。
客間には窓があるが、窓の下には防犯用の尖った鉄柵が茨のように据えつけてある。
「逃げ道なんかないで。早ぅ座らんかい」
威圧するように顔を覗き込んでくる又の字に鼻息を吹きかけると、来訪者は木椅子の背をつかんでいた彼女の手を払い、どっかりと木椅子に腰掛けた。
彼の目の前、数歩の距離に山田秀人と、幸太郎がいる。
「――あんたが山田秀人か。俺を待っていたと言ったが、どういう意味だ」
来訪者の問いに、山田秀人はうきうきと答える。
「そのままの意味だ。君が現れることは分かっていた。……しかし、先日の仮面の男とは別人だな。声も体格も違う。それは意外だった。いや、嬉しい誤算と言うべきか」
「何を言っているのか分からない。あんた、俺を知っているのか?」
「まさか、我々は初対面じゃないか」
眉間にしわを寄せる来訪者に、使用人が洋酒の注がれたグラスを持ってきた。「どうぞ」と差し出されるそれを、来訪者は無言で受け取る。
受け取るが、口はつけない。
山田秀人は使用人から同じように自分に差し出されたグラスを取りながら、低く笑った。
「毒なんか入っちゃいないよ」
「話の途中だ。俺を知らないあんたが、何故俺が会いに来ることを知っていた? きちんと分かる言葉で説明して欲しい」
「馬車業者の三吉をヤクザから助けたのは君だろう?」
その言葉に、来訪者は一瞬幸太郎を見た。幸太郎が自分のことを山田秀人に話したのかと思ったらしい。
だが、幸太郎が口を開く前に山田秀人が「違う違う」とグラスを持った方の手を振った。
洋酒がこぼれ、使用人の胸にかかる。唖然とする使用人を無視して、山田秀人は来訪者に向かってわずかに身を乗り出して口角を吊り上げた。
「幸太郎君から聞いたわけじゃない。僕には最初から分かっていたんだよ。彼が東京に来てからの一連の出来事の裏に、君のような常軌を逸した殺人者がいることがね」
「……」
「鼻が利くんだ。でなきゃ、殺人者を収集なんかできやしない。僕の趣味は知ってるだろう? 先代が囲っていた護衛屋と接触して色々聞き出したんじゃないか? こっちは推測だがね」
又の字に笑顔を向けると、彼女は山田秀人から目をそらして舌打ちをした。
自分の存在に漠然とではあるが気づいていたと話し、ダレカと手を組んだことまで言い当てた相手に、棚主は努めて狼狽を気取られないように振る舞おうとした。
目の前の男の意図は分からないが、仮に今度の事件に関わった棚主に興味を持ち、こうして会うためにおびき出そうとしていたのなら、まんまとその計略に乗ったことになる。
不意に又の字が、背後から棚主の肩に手をのせた。
ぎろりと彼女を睨む棚主。又の字は同じような目で相手を睨み返しながら、細い指で棚主のハットのつばをつまむ。
「メイドのしつけがなってないな。秀人さんよ」
棚主の台詞を聞いた瞬間、又の字の胸が持ち上がり、鋭く息を吸う音が部屋に響いた。
ハットをつまむ指が離れたと思うやいなや、又の字の靴についた拍車が棚主の頭からハットのみを弾き飛ばし、ズボンに包まれた肉厚の太ももが黒髪をこすった。
拍車に削られて裂けたハットは山田秀人の方へと飛び、彼の大きな手にキャッチされる。
睨み合う男女に向かって、山田秀人が高く声を上げて笑った。
「それはメイドじゃない。僕の護衛だ。そのふざけた蹴りで九人は殺してる」
「この拍車で動脈でも切るのか? 大道芸だな」
「馬の毛皮を裂くための拍車だ。人間に大怪我させるぐらいわけはないさ」
「たくさんだ」
上げられたままの又の字の太ももを拳で押しのけると、棚主は手にしていたグラスを返して酒を全て床に捨てた。
びちゃびちゃという音を心地よさそうに聞きながら、山田秀人は裂けたハットを自分の頭に載せる。
空になったグラスを彼に突きつけて、棚主が低い声を出す。
「あんたの思惑なんざどうでもいい。幸太郎をこっちによこしてもらおう」
「やはり彼がお目当てか」
「代わりに先代の遺書を渡す。島田が持っていたものとは違う、刈田美穂が持っていた遺書だ」
山田秀人は、心底興味のなさそうな顔をして天井を見上げた。
その反応が演技ではないらしいと分かると、棚主は初めて大きく顔をゆがめ、再び幸太郎を見る。
幸太郎は首を横に振り、困惑した表情を浮かべている。
やがて山田秀人が「遺書ねえ……」とつぶやくと、グラスにわずかに残った酒を舐めるように飲んだ。
睨め上げるように、棚主を見る。
「察するにそれは今、君の手にはないな」
「当たり前だ。別の場所に隠してある」
「……先代の護衛屋から遺書の存在を聞いただけじゃないのか。二つあると聞いて、手に入れてもいない遺書を取引のネタに使っている」
「疑うのは勝手だが、あんたも二つめの遺書の所在はつかんでないんだろう。もしそれが本家の連中や分家の他の実力者の手に渡れば、あんたは困るんじゃないか」
「何故?」
山田秀人の白けた顔を前にしても、棚主はもはや口上を言い切るしかなかった。
葛びるで森元やダレカと共に練り上げた推理が外れていたことは間違いない。だがとにかく口にして、相手の出方を見るしかない。
遺書に関して、刈田美穂の分の遺書を森元が手に入れたことを聞かされてはいたが、それを握っているのは依然森元自身だった。
棚主はそれを見たこともないし、現在どこにあるのかも知らない。
ブラフの材料に、遺書の存在を口にしただけだ。
「あんたの狙いが本家当主の座につくことなら遺書の存在は邪魔になるだろうし、幸太郎の養父になることなら、遺書が他の人間に渡ればどんな横槍の材料になるか分からん。あんたは所詮分家の人間だし、本家の連中はあんたが当主の座に関わることを嫌がるだろうからな」
「なるほど、なかなか面白い推理だ。外野の立場でよくそこまで想像を巡らせたもんだと感心する。だが的外れだということに、薄々気づいてるんだろう?」
「あんたの態度を見ればな。どこが間違ってる?」
「僕は先代の遺書なんて欲しくないし、当主の座もどうでもいい。正直、この子本人にも、ほとんど興味がない」
棚主と幸太郎が同時に顔をしかめ、山田秀人の護衛達も厳しい顔で視線を交わした。使用人は呆然と立ち尽くしている。
山田秀人は空になったグラスを使用人に放ると、深く息を吐いて足を組んだ。
護衛を控えさせているとはいえ、棚主が襲いかかればすぐには対応できない姿勢だ。
深い沼の底にたまった泥のような瞳が、棚主を見た。吊り上がったままの唇が、ゆっくりと開かれる。
「君の名前を教えてくれないか」
「嫌だね」
「では、幸太郎君との関係は」
「友達だ」
友達? 声を出さずに唇を動かした山田秀人が、肩を震わせた。
無表情な棚主に、ハリネズミのようにとがったあごひげをなでながら問う。
「幸太郎君を助けに来たのは、友情ゆえかね。それとも、正義感や義侠心からかね」
「あんたに関係ないだろう」
「あるさ。僕は君を待っていたんだ。幸太郎君ではなく、殺人鬼である君が目当てだった。君と会うことが、目的だったんだ」
棚主の目がわずかに見開かれた後、やがて刃のように細く研ぎ澄まされ、眉間に深いしわが刻まれた。
唖然とする幸太郎の視線と、軽蔑に満ちた護衛達の視線を受けながら、狂人、山田秀人は話し始めた。
自分の目的、行動動機。他の誰もが想像し得なかった、あまりにも利己的で、理解しがたい……狂い果てた思考を。
「……あれは、何だ?」
屋敷の周囲を巡回していた守衛の一人が、煉瓦の壁を見上げて声を上げた。
壁の上、薄暗い空を突き上げるように設置された鉄柵の槍に、何かが引っかかって風になびいている。
その場にいたもう一人の守衛はそれに視線を向けると首をかしげ、「ゴミじゃないのか」と返した。
「だんだん風が強くなってきている。よそから飛んできたのが引っかかったんだろう」
「念のため調べてみる。肩を貸してくれ」
頼まれた守衛は「俺が下かよ……」とぼやきながら、煉瓦の壁の前で膝を曲げ、額と両手を壁についた。
その肩に靴を乗せると、もう一人の守衛は自身も壁に手をつきながら「いいぞ、立ってくれ」と指示する。
下になった守衛はうめきながら膝を伸ばし、ゆっくりと立ち上がる。
大の男二人の身長を合わせて、ようやく手が届く場所に鉄柵はあった。
それに引っかかっているのは細長い何かの切れ端で、先端に金属性の物がくくりつけられている。
守衛が慎重に手を伸ばして鉄柵から取り外してみると、それは黒い塗料が塗られた、縄だった。
金属の方はやはり黒く塗られた小さなレンチで、縄はその中央にくくりつけられ、鉄柵の隙間に挟まっていた。
「……まさか、鉤縄か!」
「おい」
不意に低い声が上がったかと思うと、下で仲間を支えていた守衛の腰に、音を立てて軍靴がめり込んだ。
土台になっていた守衛が蹴り飛ばされると、当然上に乗っていた守衛もバランスを崩して落下する。
悲鳴を上げて背中から地面に叩きつけられた守衛が、縄つきのレンチを取り落としてうめいた。
胸を押さえて苦しげに息をする守衛を、蹴りを放った男が覗き込む。
破れた軍帽から黒髪を覗かせる、片目の男。
唖然とする守衛のわきで、蹴り飛ばされた方の守衛がうめきながら立ち上がる。片目の男を見て、その口が「お前は……」と緊張した声を出した。
「先代の雇っていた、片目の護衛屋……! 何のまねだ!?」
「寝ぼけるな、守衛。又の字の招待を受けたから来てやったのだ。ヤツと山田秀人に会わせてもらおうか」
「こいつ……協力は拒んだはずだぞ」
背中から落下した守衛もようやく立ち上がり、片目の男から一歩下がった。
臨戦態勢をとる彼らに、片目の男は空洞の左目を大きく見開いた。めりっと音を立てて、肉色の穴が広がる。
たじろぐ守衛達に、片目の男はあごをしゃくって、屋敷の入り口である門の方を示した。
「中に入れろ、番犬ども。外で大騒ぎすることもあるまい……屋敷の中の方が、俺を始末するのに都合が良いはずだ」
「い、いや、今は客人が……」
口ごもる守衛達に背を向けて、片目の男は門の方に歩いて行く。
残された二人は顔を見合わせて、仕方なくその背を追うことにした。
走り出す前に縄つきのレンチを拾っておく。これは後で、上司に渡さなければならない。
ダレカが門をくぐり、屋敷の中に入って行くのを、少し離れた路地から津波とマスターと、お近が見ていた。
彼らが深川に到着したのはつい今しがたのことだが、その前に葛びるを出た棚主が、すでに屋敷の中に入っているはずだった。
「ねえ、あの人達大丈夫なの? 二人ともついて来るなって言ってたけどさ、山田秀人ってすごく悪いヤツなんでしょ」
「棚主だって悪いヤツだよ。大丈夫かどうかは知らねえが、あいつらはあいつらの作戦を立ててんだろ。俺達も自分達の作戦でやればいい」
お近に答えた津波が、懐中時計を取り出して時刻を確認した。「遅いな」と苛立った声をもらす彼に、マスターが不安そうな顔を寄せてくる。
「時計屋さんも姿が見えませんが……いいんですかね、こんなバラバラで」
「バラバラに、色んなことを試してみるしかないんだ。有効な手立てなんか誰も思いつかねえ。森元さんが言ってたとおり警察も、幸太郎を助ける気はさらさらないみたいだしな」
「築地警察署じゃなくて、警視庁に通報したんですけどね。まさか門前払いされるなんて……」
「件の城戸警視とやらが手を回したんだろ。警視庁の入り口に手下を配置しときゃ、都合の悪い情報は上に届く前にもみ消せるってわけだ。だが、そうは問屋が卸さねえ」
津波の言葉に、お近が「良い手があるのかい」と問うた時だった。道の向こうから、無数の足音と人の話し声が聞こえてきた。
見れば、背広やワイシャツ姿の男達が二十人あまり歩いて来る。
その手に手帳や、きゃめらを持っている者がいるのを見て、お近はなるほどと手を打った。
一方男達の正体に検討がつかなかったらしいマスターは、ぽかんと阿呆面をさらしている。
「おう津波、待たせたな。こちら鉄道会社の……」
「知ってるよ、この間仕事をもらったんだ。今日はよろしくお願いします」
津波がかぶっていたハンチング帽を取って頭を下げたのは、以前駅の写真を撮ってくれと彼に依頼してきた鉄道会社の社員だった。
彼は強張った表情で頭を下げ返すと、自分のすぐ後ろにいる太った男を手で示し「社長です」と紹介した。
鉄道会社の社長は挨拶をする前に津波の手を取り、ぎゅっと握りながら「このたびは重大な情報をお寄せいただき感謝致します。正直お電話を頂いた時は半信半疑でしたが、我々の名誉が回復される見込みがあるならば喜んで協力させて頂きます」と、早口でまくし立てた。
一人、話についていけないマスターはきょろきょろと人々の顔を見回し、津波の肩を遠慮がちに指でつついた。
「あのー、この人達はいったい……? そちらの駅員さんはお会いしたことがありますけども」
「駅員と言うより、鉄道会社の社員さんだ。この間の仕事で名刺をもらってな、一つ電話をかけさせてもらった」
「今回の一連の事件の真犯人を知っていると連絡を頂きました。鉄道会社に対する世間の誤解を解く唯一の機会なので、我が社の代表と一緒に来るようにとも」
社員の言葉に、ようやく事態が飲み込めたらしいマスターは「あーあー!」と声を上げて手を叩く。
「なるほど! ということはそちらの手帳やきゃめらを持ってる人達は」
「津波君の新聞社時代の仲間ですよ。いや、商売敵もいますが……主に弱小新聞社や、雑誌を刊行している出版社の記者です。美味しいご飯のタネに釣られましてね」
「大手の連中は鉄道会社叩きに没頭してるからな。誘っても集まらねえと思ってさ」
津波は鼻を指でかくと、山田秀人の屋敷を見て言った。
「これから山田秀人に、会見を申し込むわけだ。放火殺人事件や山田家の相続争い、幸太郎の拉致に関してな。事件の黒幕の濡れ衣を着せられた鉄道会社の社長の一人と、対談もしてもらう。
拒否すれば拒否したということも含めて、疑惑を全部紙面に載せる。もちろん尾ひれをつけるかどうかは、各社の気分次第だ」
「し、しかし応じますかね、失礼ですが大手でない会社の記事に載ったところで……」
「大手じゃないから権力者の検閲が入らねえんだよ。うちの会社はな、『うそつき新聞』で有名なんだぜ」
記者の一人が笑いながら答える。それはそれで大問題なのだが、今は気にしている場合でもなかった。
「記者はともかく、事件の渦中にいる鉄道会社の長が直接対談を希望していることは事実だ。俺達は門前で、せいぜい大騒ぎをすればいい。刈田幸太郎が屋敷にいることも、調べはついてるってな。まさか全員始末するわけにはいかんだろう……みんな、ここに来ることは会社に言ってきただろうな?」
津波の問いに、記者達と鉄道会社の二人が同時にうなずく。津波はマスターとお近を見て、「それじゃ」と片手を上げた。
「少なくとも俺達が騒ぐことで、幸太郎がまだ生きているなら、これから始末されるおそれはなくなる。と思う。先に行った棚主達や、まだ来てない森元さん達にも危害を加えにくくなるはずだ。どんな顛末になるか分からねえが、俺は行くよ」
「がんばってよ」
お近の声に手を振って、津波は男達と一緒に路地から屋敷へと向かって行った。
その後姿を見送り、お近はマスターと顔を見合わせる。
「で、あんたは何をするつもりなの?」
「お、お近ちゃんこそ……何か考えが?」
「あたしは木蘭姐さん達を待ってるの。最初に殺された馬車屋の三吉には家族がいなかったらしいんだけど、代わりに廃業した元同業者達が彼のことを気にかけてたみたいなのよ。だからその連中に声をかけて……」
「三吉さんの弔い合戦をやろうってんですね!?」
「たかが馬車屋に何ができんのよ。棚主さん達や幸太郎が屋敷から逃げ出して来た時に、馬車の一台でも用意してもらって足になってもらおうと思って、姐さん達が頼んでるところよ」
マスターががくっとうなだれて「そんな中途半端な」とぼやくと、お近はむすっと口をヘの字に曲げて彼の鼻面を指で弾いた。
「これでもあたしらの人脈を総動員した精一杯の協力よ! それで、あんたは何をするんだって訊いてんのよ!」
「わ、私はみなさんのご無事を祈ろうかと……」
お近の形相が怒りに歪み切る前に、マスターは「行ってきます!」と言い残して津波達の後を追った。
門前ではすでに鉄道会社の社長が、わざとらしくきゃめらに囲まれながら守衛達に話を通そうとしていた。
にわかに騒がしくなった門の内側、大きな庭樹の陰に、黒衣の端が覗いている。
一人の使用人が駆けて来て、門へと向かうのと入れ違いに、黒衣は彼の背後を素早くすりぬけて屋敷の外壁に取りついた。
ペスト医師の鳥の仮面が、侵入口を探してせわしなく動く。やがて頭上に半開きになった窓を見つけると、雨どいを両足ではさみ、音もなく登って行く。
窓にたどり着くと、室内では一人のメイドが掃除をしていた。
扉は向かって正面と右側にあり、正面の扉だけが開いている。
時計屋は防犯用の鉄柵を皮手袋の指でつついて確かめると、室内のメイドの動向を影のようになってうかがった。
やがて彼女が窓に背を向け、部屋の右手の扉を開けて入って行くと、時計屋はまるで風のように雨どいから離れ、鉄柵と窓枠の隙間から体を窓に滑り込ませた。
そのまま絨毯の上を踵を浮かせて渡って行き、正面の扉の向こうに抜け出す。
メイドはそれから数秒後に右の扉から戻ってきて、そっと扉を閉め、今度は寝台の清掃にとりかかった。




