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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  三章  焔の少年
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十五

 築地警察署の一室に、ノックの音が響いた。

 うす暗い朝の窓辺には一人の太った男が立ち、細い目で外を眺めている。


 彼は風に揺れるイチョウの木の枝に視線を向けたまま、牛の鳴くような声で「どうぞ」と応じた。


 背後の扉が開き、大西巡査が姿を見せる。




 大西巡査は折れた指を使わないように気をつけながら後ろ手に扉を閉め、敬礼した。

 背を向けたまま視線もくれない相手に、普段より強張った声で挨拶する。


「おはようございます、新藤しんどう署長。大西正行まさゆき巡査、辞表を持参いたしました」


「……一介の巡査が、わざわざご苦労なことだな」


 署長のふさふさとした黒髪を見つめ、大西巡査は「はっ」と短く応える。


 山田栄八の後釜として築地警察署の署長に就任したこの男に、大西巡査はこれまで一対一で会ったことがなかった。


 階級のへだたりもあり、こうして声を交わすのも初めてのことだ。しかし、新藤署長は大西巡査を、おそらく知っている。


 室内を歩き、大西巡査は署長の広い机の前に行く。そうして懐から辞表を取り出し、机上に置くと、初めて新藤署長が首をひねり、顔を見せた。


 醜男ぶおとこだった。


 細い目の上には極端に薄い眉があり、額にはいくつもの横じわが走っている。

 鼻は平たく潰れていて、唇は異常に厚い。


 そして顔中に先端が白くはれ上がった無数のできものがあった。


 かげで署員に『イボ蛙』とあざ笑われている彼は、辞表と大西巡査を交互に見て、無表情に口を開いた。黄ばんだ、並びの悪い歯が覗いた。


「辞める理由は何だ?」


「ご存知ぞんじかと思いますが、先日住居を襲撃されました。相手は同僚の枝野巡査と、刑事達です」


「言っておくがその話には緘口令かんこうれいを敷いた。辞職するからといって外部に漏らしたら、一般人として逮捕されることになるぞ」


「……逮捕の指示を出すのは、署長ご自身ですか?」


 問うた大西巡査に、新藤署長は無言で体を向けた。


 本来、署長と巡査が対等に話すことなど許されない。


 余計な質問をした大西巡査は謝るべきだったが、彼は汗をかいている手の平を握りしめただけで、頭も下げなかった。


 巡査の視線は、署長の顔にまっすぐに注がれている。


 新藤署長は相手のその態度に尋常じんじょうならざるものを感じたのか、黙って言葉の続きを待っていた。


 大西巡査は意を決して、再び口を開く。


「襲撃を行った者達は、私が保護していた刈田幸太郎の誘拐を目的としていたようです。ことの詳細は横山さんが報告したかと思いますが……つまり、その……襲撃によって負傷した私を見た妻の、たっての願いで、私は職を辞する決意をしたのです」


「妻、か。危ないことはもうやめてくれと、言われたわけか」


 署長の細い目の奥にわずかにとがめるような光が浮き、すぐにかき消えた。


 ……とがめる。何を?


 大西巡査はここにきて、相手の一瞬の表情の変化にある確信を得た。


 山田秀人の傀儡かいらいとして、その悪行を隠匿する立場にある者が、どのような事情であれ自分のような邪魔者の退場を喜ばぬはずがない。


 目の前の署長はおそらく、妻の懇願こんがんなどに折れて警察官としての使命と戦いを放棄する、大西巡査の軟弱さをとがめたのだ。



 棚主に救出された後、報せを受けて半狂乱で駆けつけた妻と話し合ったその足で警察署に来たかい・・があった。



 大西巡査の前に立つ太った醜男はおもむろに頬をかき、できものを一つ潰した。

 飛び出したうみが辞表に落ち、不潔な染みを作る。


 思わず顔をしかめた大西巡査に、新藤署長は「おい」と声を上げ、身を乗り出してくる。


「俺が何も知らないと思っているわけじゃないだろう。前の署長の関係で、お前や横山が勝手に動いていたことぐらい、俺の耳にも入ってきてるんだぞ」


「お察しいたします。さぞ城戸警視からの脅迫も激しかったことかと……」


 そう言った瞬間、新藤署長の手が大西巡査の胸倉をつかみ上げた。


 内心恐怖に目が回りそうだったが、大西巡査は両の目を限界までかっぴらき、跳ねる心臓を感じながら相手を見下ろした。


 醜男の鋭い視線が、刃のように大西巡査の喉もとにあてがわれていた。


「事前に連絡もしないで、たかが巡査が朝っぱらから、直接俺に辞表を持ってきた。……喧嘩を売りに来たことぐらい察しがつくわ! 言いたいことがあればはっきり言えばいい!」


「……! か、刈田幸太郎の両親と、馬車業者の殺害……その実行犯達の、口封じと、奪還……! 城戸警視と、山田家の陰謀! 署長が、どこまで関わっておられるかは知りませんが……完全に無関係なはずはない……そう考えた上で、お訊きします!」


 脂汗が、大西巡査の額を伝って鼻まで下りてきた。


 以前木蘭が『たかが警察署長』という言い方をしていたのを思い出す。

 彼女は警察署の長が、どれほど怖い人間か、理解していない。


 恐怖に遠のきそうな意識を必死に捕まえながら、大西巡査は目玉が飛び出すかというほどにまぶたを剥き、まっすぐに署長を見た。


「刈田幸太郎を、どうなさるおつもりですか?」


 その言葉に、新藤署長の表情が苛烈かれつな形のまま硬直する。


 大西巡査は死にかけている犬のような呼吸で、さらに言葉を吐いた。


「私が襲撃を受け、刈田幸太郎が連れ去られたことはご存知のはず。誰の指示でさらわれたのかも、あるいは……しかし、山田秀人に対しても、路上で倒された彼の配下の者達に対しても、尋問らしきものは一切行われる見込みがない。

 そういった動きは一切ないと、同僚から聞きました」


「同僚とは横山か! それとも他の警察官か! 貴様らはいったい……」


「奪還された河合雅男に関しても、横山さんは一応署長に報告はしたはずです! しかしヤツの行方が捜査されることはなく、誰もが沈黙した! 今回の事件は初めからそういうことの連続だったように思えます!」


 汗が目に入り、署長の顔がよく見えなくなった。ただお互いの呼吸の音が、やけにうるさく耳に響いてくる。


 いいかげんに腕力が尽きたのか、大西巡査の胸倉をつかんでいた手が不意に解かれた。


 たたらを踏んで後方によろけながら大西巡査は目をぬぐい、息を整えてから、顔を上げる。


 こちらを歪んだ顔で見ている新藤署長に、勇気をふりしぼって、口を開いた。


「署長は―――――刈田幸太郎を、見殺しにするおつもりですね?」


「行きがけの駄賃に、署長に対して安い正義感を振りかざす。一巡査の老後の自慢話には最高のネタだな。……だが俺の堪忍袋かんにんぶくろにも、限度がある」


「署長。森元警部補は、山田秀人の別荘に乗り込むつもりです」


 新藤署長の表情に、わずかに驚きの色が混じった。

 黙っている相手に、大西巡査はさらに続ける。


「私も行くかと訊かれましたが、辞退しました。負傷のためでもあります。妻の願いのためでもあります。……しかし……辞表を書いている内に、もう一つの理由を見つけました。署長、あなたを、説得することです」


「何っ」


「本当は、何もかもご存知なのでしょう? そうでなければ、いくら城戸警視の要求とはいえ……ここまでの無法を、署内で許すはずがない」


 新藤署長が、一瞬目をそらした。その隙を逃さず、大西巡査はがくがくと震えていた膝を叩いて叱咤しったし、背を伸ばす。


「河合雅男の奪還に、現職の刑事達が手を貸していた。そして捜査の方向づけは恣意的しいてきに歪められている。城戸警視が山田秀人に便宜べんぎを図るためにこれらの裏工作を行うにあたり……一番に働きかけるべき人物は、あなたです、新藤署長。あなたは今回の『裏』に、確実に関わっている」


「……俺が山田家の警察支配に、手を貸したと言うのか。連中から甘い汁を吸わせてもらうために、職権を濫用らんようしたと」


「おそらくいなでしょう。あなたは城戸警視とは、違う」


 目を剥く新藤署長に、大西巡査はあえぐように大きく息を吸った。


 警察官になって二十余年、これほどに勇気のいる仕事をしたことはなかった。


 そしてこれが、大西巡査が森元の下でできる、最後の戦いになるはずだった。


 退くわけにはいかない。退くことは、許されない。


 枝野巡査達の拷問に屈し、幸太郎の居場所を吐いてしまった負い目もある。


 しかし何よりも、規則を逸脱し、心から尊敬する男と共に警察組織内の悪に立ち向かうことを選んだ……過去の自分の決断を嘘にしないための、もはや唯一のチャンスだったのだ。



 大西巡査の妻は、夫が同僚の暴力に傷ついたことに耐えられなかった。


 自分の伴侶はんりょを、年中派出所でぼけっと立番をしているだけの男だと思っていた彼女は、大西巡査が水面下で森元のような男に手を貸していたことを知り、怒り、泣いた。


 けっして強い男ではない夫が、分不相応な、違法性を伴う正義に身を捧げていたことに。そして妻に何の相談もしなかったことに、声をからして号泣した。


 そんな妻に何度も謝りながらも、大西巡査はだからこそ、彼女が警察官を辞めることを要求した時、何らかの形で最後の仕事をしなければならないと思った。


 人には身の丈に合った生き方があるのだと、悪から離れ、正義を放棄する。妻を愛するただの男ならば、それも選択肢の内だろう。


 だが自分は警察官で、彼女は警察官の妻なのだ。



 かつて警察署長であった山田栄八に結束を悟られぬため、森元に協力する者は誰もが黙って、自分一人の意志で参戦を決めねばならなかった。


 大西巡査の場合、それは妻に対する、裏切りだったかもしれない。

 だがその決断は、警察官の誰かがやらねばならなかったのだ。


 警察官としてのあり方を問われる決断を、正しいと信じた態度を、全て無にして、自分は妻を愛せるのか。


 愛する資格があるのか。



 彼女はまた怒るかもしれない。だが彼女がいつか年を取って、自分の夫を唾棄だきし、恥じるようなことだけは避けねばならない。


 最低限誇れるような、警察官としての行為が、物語が、必要だった。


 事件に中途半端に首を突っ込み、最後の戦いに関与せずに警察を去ることだけは、受け入れられなかった。



 大西巡査は目を閉じ、拳を握り締め、気合を吐いた。


「――新藤署長は、警察官の使命と誇りを信じるお方です。私利私欲で警察の権力を使うことを、恥じるお方です。だから城戸警視に協力したのは、欲ゆえではない。ただご自分の力だけで城戸警視と、彼の背後にいる山田秀人に立ち向かうことができなかっただけです。

 性根がしかったのではなく、強靭ではなかっただけです」


「貴様! 雑兵の分際で俺を評価するかッ!!」


 至近で浴びせられる怒声に肌がびりびりと震える。だが、がむしゃらに、怒鳴り返した。


「雑兵ごときと口論を続けておられるのがその証拠です! 己を恥じているから……言い訳をせずにはいられないんだッ!!」


 新藤署長の顔から表情が消し飛んだ瞬間、扉を強くノックする音が響いた。


 汗でびっしょりと制服を濡らした大西巡査の後方で、野太い声が「署長、何事ですか!」と問うてくる。


 新藤署長はさらに数秒ノックの音を聞いていたが、室外の署員が扉の取っ手に手をかけた音が響いたとたん「何でもない、入るな!」と怒鳴った。


 扉の向こうの声は「はっ、失礼しました!」と返事をすると、少し間を置いてから、靴音を高く鳴らして遠ざかって行く。


 深く息をつき、新藤署長は自分の椅子に腰を下ろした。


 今にも倒れそうな顔で下唇を噛んでいる大西巡査をちらりと見ると、また頬をかいて、できものを一つ潰す。


「……大西。一つ質問に答えろ。貴様は、森元の腹心なのか? 他の仲間より、信頼を得ているのか」


「いえ……私は、森元警部補の『同志』の一人です」


「なるほど。つまり、貴様らの誰もが貴様と同程度に、今回の裏を知っているということか」


「森元警部補は同志に対して真実を隠しません。真実と正義は直結するからです」


 新藤署長は「正義か」とつぶやき、初めて笑った。おそらくは自嘲じちょうの笑みだ。


「――築地警察署の腐敗は、以前から耳にしていた。名家である山田家が、その中核に深く食い込んでいる警察署だとな。山田栄八の後釜にすえられた時、俺の所に誰よりも早く飛んで来た連中がいた。誰か分かるか」


「城戸警視でしょう」


「ヤツだけじゃない。管轄内のヤクザ連中が次々と挨拶に来た。連中の要求は、俺に『何もするな』ってことだった。銀座の支配は、山田栄八によって行われてきた。だからいずれ山田家から、新しい権力者がやって来る。その時にそっくり築地警察署を献上するから、何も触るな、とな……そして事実、山田秀人が現れた」


 新藤署長の目が、怒りの形に歪んだ。「ふざけやがって」とうなると、さらにもう一つ顔のできものを引き裂く。


「警察の高級幹部も、ヤクザも、莫大な金と権力を持つ山田家に取り入りたかった。そのためには山田家の実力者を、自分達の活動領域に招く必要がある……築地警察署の署長だった山田栄八が死んだ今、山田秀人に同じ席に座って欲しいというわけだ。

 いや、ヤツは署長になんざならんだろうが、とにかく警察の権力の一部を握ってもらわんことには話が進まん。

 だから俺を山田秀人の傀儡かいらいにして、銀座の警察活動を掌握させようというわけだ」


 真実を語り出した新藤署長に、大西巡査の張り詰めた神経がわずかにゆるむ。

 そのまま気絶してしまわないうちに、大西巡査も言葉を連ねて、会話を進めた。


「山田秀人は刈田幸太郎を確保するために、差し出された権力を利用した。……城戸警視はそのことを恩に着せ、山田秀人に『ぱとろん』の役目をさせようとしたわけですね。

 そしてヤクザ達は、かつての山田栄八が抱えていた鴨山組のような、山田秀人のお抱えヤクザの立場を得ようとする」


「その通りだ。そしてこの築地警察署の署員達も、半分は山田秀人に支配されたがっている。彼らと真逆の態度を示したのが、森元というわけだ……彼のことは以前から城戸警視から聞かされていた。隙があれば逮捕しろとな」


「だがあなたは逮捕しなかった。少なくとも森元警部補を、警察が表立って追ったことはないはずです。強引に逮捕しようと思えばできたはずなのに」


「俺は根性なしかもしれんが、素直ってわけでもない。城戸警視の敵になるのは怖いが、森元を逮捕できない無能者になるぐらいの抵抗はしたいじゃないか」


 口元に小さな笑みを浮かべる新藤署長に、大西巡査はさらに緊張が解けてその場にへたり込みそうになった。


 単なる思いつきとはいえ、山田秀人側の人間である可能性が極めて高い新藤署長を説得しようなどと考えたのは、ひとえに森元が逮捕されていないという事実があればこそだった。


 河合雅男を牢から脱出させ、幸太郎を刑事達にさらわせようとしたのが新藤署長ならば、築地警察署をうろついていた森元も当然何らかの理由をつけて確保しようとしたはずだ。


 新藤署長は部下の警官達が山田秀人の下に走るのを止めはしなかったが、彼自身は積極的には恭順きょうじゅんしていなかった。


 むしろ森元をかばっていた節もあったのではないかと、大西巡査は思ったのだ。


 山田栄八や山田秀人に抗い、立ち向かう森元に対して、新藤署長は大西巡査が感じていたのと同じ種類の、尊敬や希望を抱いていたのかもしれない。



 この人も、警察が悪人の手に落ちることを許したくなかったのだ。


 そう思うと大西巡査は、無意識に新藤署長の前で床に片膝をつき、制帽を取っていた。

 眉を寄せる新藤署長に、最後の力を振り絞って声を出す。


「署長、山田秀人は刈田幸太郎を誘拐し、山田家当主の継承争いに利用する気です。脅迫して養子にするか、あるいは殺害する気かもしれません。城戸警視達はそうして山田家を掌握した山田秀人に取り入り、更なる悪事を重ねる気でしょう。これを許せば、連中を倒す機会は永遠に失われます」


「今が連中を倒す機会だと言うのか? とても勝機があるとは思えんが」


「森元警部補は……彼の同志達は、今日、決着をつけるつもりです。山田秀人の別荘に刈田幸太郎か、彼の痕跡があると踏んでいます。山田秀人の犯罪の証拠をつかみ、そこからヤツに、致命傷を与える」


「無理だ」


 ため息混じりに言う新藤署長が、今更にハンカチーフを取り出し、潰れたできものをぬぐった。


「山田栄八や山田秀人がこの銀座で無法を繰り返せたのは、彼らが警察のみならず、政界財界、司法に食い込めるからだ。証拠を固めて逮捕したところで、すぐに出てくるぞ」


「各界そのものが名家やその当主に屈することなどありえません。山田秀人が買収できるのは、あくまで個人個人です。警視や裁判官や、政治家、一人一人です。ならば事態に直面した重要な個人が悪を拒めば、正義はなされます」


「逆に言えば司法に正義を行う個人がいなければ、無駄骨ということだ。俺にも、家族はいる」


「みんなそうです。この戦いに関わった者全員の家族が、山田秀人の報復の標的になるおそれがある。……しかしそれは、山田秀人に限らず、犯罪者と戦う者は常に覚悟していることだったはずです」



 新藤署長の表情が険しくなるのを見る前に、大西巡査は顔を伏せ、両手を合掌の形にして前に差し出した。


「警察は警察として、しかるべき態度で悪にのぞむのです。たとえ山田秀人を逮捕した後、司法が買収され罪に問えなかったとしても……少なくとも、刈田幸太郎や森元警部補は見殺しにせずに済むかもしれない。

 築地警察署を、ヤツに支配されずに済むかもしれない」


「俺に戦えと言うのか。今更」


「勝てないかもしれない。しかしそもそも戦いもしないのなら、我々が警察官を名乗る意味がありません。

 悪人が笑う世を作ることは……死に値する、大罪です」


 大西巡査は両手をさらに高く上げ、「辞表を提出した後で、ずうずうしいかもしれませんが」と声をしぼり出して言う。


「どうか、雑兵の願いをお聞き届けください。署長に立って頂かねば――――始まりません」



 眉間にしわを寄せ、無言で大西巡査を見つめていた新藤署長が、次の瞬間はじけるように席を立っていた。


 ごとっと音を立てて、大西巡査が前のめりに床に崩れたのだ。「どうした!」と問う新藤署長に、大西巡査は合掌した手をそのままにうめいた。


「……い、いえ……緊張が限界を超えまして…………それに普段言い慣れないような格好の良いことを言ったもので、めまいが……」


「何だッ! ふざけた野郎だ!」


「申し訳ありません! ……白状しますが、口上の後半部分は森元警部補殿の受け売りです……一度言ってみたくて……」


 心底呆れたというふうに息を吐いた新藤署長が、大西巡査の頭をはたいて床にあぐらをかいた。



 世界は未だ薄暗く、窓の外の曇天から光が差す気配もない。



 わけのわからない格好でくたばっている大西巡査を横目に、新藤署長は何度か大きくため息をつくと……やがてあぐらをかいたまま、「誰かいるか!」と大声で扉の外に怒鳴った。


 すぐに足音が近づいて来て、今度はノックもせずに扉を開ける。


 顔を出したのはひょろりとした初老の署員で、築地警察署でも階級の高い警察官だった。


 彼は尻を向けて倒れている大西巡査に一瞥いちべつをくれると、何事もなかったかのように新藤署長に口を開く。


「署長、何でしょうか」


「君は山田家の犬か?」


 返ってきた質問に目を丸くしたのもつかの間、署員は憮然ぶぜんとした態度で首を振った。


「私はまっとうな警察官であります、署長」


「そうか、俺もそうありたいもんだな。――署長命令だ、手の空いてる署員を集められるだけ庭に集めろ! この大西巡査殿が、俺達を男にしてくださるそうだ!」


 ばしっ、と頭を叩いてくる新藤署長の言葉に、大西巡査は今度こそ感極まって、気絶した。

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