十四
カーテンを開けると、外界から申し訳程度の光が部屋に差し込んだ。
金髪のかつらを外した女は、本来のくせっ毛の黒髪をなでながら、伸びをする。
背後の寝台には、幸太郎が頭から毛布をかぶって座っていた。
寝台のそばには女の脱ぎ捨てた衣類とかつら、血のついたハンカチーフ、そして小さな、剃刀が落ちている。
「眠れた?」
短く問う女に幸太郎は応えない。背を向けたまま、裂かれた親指の先端を見つめている。
とはいえ、出血はとうに止まり、かさぶたが傷口をふさいでいた。
女は薄く笑って寝台に近づき、ボリュームのあるかつらをつかみ、幸太郎の頭に載せた。
かつらからは細い紐が数本垂れている。自前の髪にくくりつけて固定するタイプらしい。
「すねてるのね。それとも怖がってる? 子供の肌は敏感だものね。痛かったでしょう」
足元の剃刀を拾い上げる女に、幸太郎は初めて視線を向けた。
ろくに眠れなかった目元にはくまが浮かんでいて、恨めしそうに女を見る。女はそんな彼に、剃刀の刃に息を吹きかけながらなおも笑った。
「でも、先代よりは優しくしてあげたつもりよ。体に十字傷を刻まれることを思えば、血判を押すぐらいどうってことないわよ」
女は下着姿のまま自分の衣類をあさり、ドレスの隙間から取り出した西洋紙を満足げに見つめる。
けっして達筆とはいえない字で書かれた誓約書に記された幸太郎の署名と、血判を見ながら、くつくつと喉を鳴らした。
「山田幸太郎は、山田増子様の養子となることをここに誓約いたします。と。ふふ――この年で子持ちってのはちょいと納得いかないけど、転がり込んでくるモノを思えばね……」
「そんな誓約書、意味があるんですか?」
笑顔で首を傾げる女こと、増子に、幸太郎は毛布にくるまったまま低い声を放つ。
「大人の署名や血判と違って、子供の書いたものなんかたいした意味がないと思うんですけど。子供の気持ちや約束ごとなんか、大人の世界じゃ無視されるんじゃないですか。……ぼくにそんなもの書かせたって、どうにもなりませんよ」
「あら、小賢しいことを言うじゃない」
「みんな山田家の財産が欲しいんだ。他の人達だって、認めませんよ」
増子が幸太郎の前に屈み込み、その頭に載ったかつらを手で叩き落とした。
思わず片目を閉じる幸太郎に、増子はしかし特に機嫌を悪くした様子もなく、上目づかいに笑いかける。
「あなたはね、私の子供になるのよ」
「……」
「この屋敷でどんな話し合いがされて、どんな結果に落ち着いても、それは所詮分家同士の取り決めでしかないの。分かる? あなたが山田家の当主になるためには、どうしても本家に行って、本家の残党どもにそのことを認めさせなきゃいけないわけ。
つまりあなたが確かに本家の血を継ぐ者で、先代が当主の座に着くことを望んでいたと証明する手続きが必要なの」
剃刀を持ったままの手が、幸太郎の体から毛布をゆっくりと剥ぎ取った。
増子は幸太郎の首筋を、指の背でなでた。
「先代の遺書を見せて、本家の連中にあなたを調べさせるの。そうしてようやく、あなたの処遇を決める段取りになるわけ。幸太郎さん、あなたはその時、はっきりとこう言うの。『山田増子さんの子供になります』って。そしたら私も、この誓約書を出すわ」
「……」
「もちろん分家の連中も、本家の連中も納得しないでしょうよ。でもね、今、山田家にはあなた以上に支配者になるにふさわしい人間はいないの。
先代の遺志に認められた本家筋の跡継ぎ様だもの。意見できる輩はいないわ……そのあなたがはっきりと意志を表明すれば、時間はかかってもきっとその意志は通る」
何故自分が、そこまでしてこの女の養子となることを望まねばならないのか。
じとりと睨みつけるような視線を送る幸太郎にもお構いなしに、増子は剃刀を放り出し、部屋の隅の衣装棚を開けながら続けた。
「いいこと。この屋敷の中では私もあなたもおとなしくしとくの。男どもが勝手に噛み合って議論して、あなたを奪い合うわ。でもその後に会う本家の連中の前では、絶対に私の養子になるって言うのよ。
親戚一堂の前なら、秀人さんも身分を越えた無茶な振る舞いはできないわ」
「ぼくは」
口を開いた幸太郎の目の前で、増子が白いドレスを振り回すように引き出し、空中に裾を舞わせた。
それを自分の胸に両手で押しつけながら、媚びるような目で幸太郎を見る。
「ねえ、よく考えて幸太郎さん。あなたにはもう誰一人家族がいないのよ? 誰にも守ってもらえずにこの先、生きていけると思う? 分家の四人のうちの誰かの子供にならなきゃ、この屋敷からも出られないのよ」
「……だからって……なんであなたに……」
「じゃ、他の三人がいいの? 詐欺師の若造に、粗暴な遊女屋のオヤジ。もう一人は老い先短いジジイよ。しかも実子が三人もいるわ。幸太郎さん、きっといじめられるわよ」
口を引き結んでうつむく幸太郎の前で、増子はドレスに身をすべり込ませる。
「私は確かに年も若いし、女よ。でも死んだ父から継いだ輸入業の会社を持ってるし、何より結婚するつもりがないの。旦那に尽くすなんて嫌だし、体の線を崩してまで子供を産みたいなんて思わないわ。だから幸太郎さんだけを家族として守ってあげられるのよ」
「……死んだ父……じゃあ、お母さんは……?」
「いないわ。幸太郎さんと同じね」
思わず顔を上げた幸太郎は、しかし悲しげな女が吐いた次の言葉に頬を引きつらせた。
「父と一緒に、車の事故で死んだの。新車の試運転だったんだけど、私が技師にお小遣いを渡してエンジンをいじらせたのよ。酷い死に方だったわ。すごく燃えたし……でも、そのおかげで私はお見合いを迫られることもなくなったし、帝国でも珍しい婦人社長になれたの。
幸太郎さんだって、どうせ養子になるなら莫迦な男どもより、優しくて知的な職業婦人の所に行きたいでしょ?」
親を殺しておいて、何が優しくて知的だ。
増子は身だしなみを整えると、一度は叩き落としたかつらを着けながら幸太郎に真剣な目を向けた。
「他のやつらは、幸太郎さんを最後まで面倒見るつもりはないわよ。当主にして、遺産を全部ぶんどったらこっそり殺してしまうわ。
私が両親を殺したのは、彼らが私の人生を支配しようとしたからよ。だから幸太郎さんが私の人生を狂わせようとさえしなければ、私は幸太郎さんをおじいさんになるまで養ってあげるわ。どっちがいいか、子供でも分かるでしょ」
「……」
「会社だって遺産だって、遺してあげる。どうせ私が死んだ後の世界になんか興味はないわ。……あなたがまともな人生を送るには、私の養子になる以外にないのよ。分かったわね」
増子は誓約書を、化粧台の上に置いてあった札入れにしまい込むと、「もう出るわよ」と幸太郎の手を引いて扉に歩き出した。
幸太郎に着替えをさせるつもりはないらしい。
もっとも、子供用の服などこの部屋にはなさそうだが。
取っ手をつかみ、扉を開ける。
二人の目の前に、笑顔の山田秀人が立っていた。
思わず同じ表情で硬直する増子と幸太郎に、この屋敷の主人は手を後ろで組んだまま、にこにこと挨拶をする。
「おはよう。ずいぶん仲良くなったようだねえ」
「――秀人さん」
「朝食だよ」
室内の会話に、聞き耳を立てていたのは間違いない。
山田秀人は増子の肩に大きな手をのせ、笑みを深めた。
引きつった笑顔を返す増子。その肩から腕へと毛深い手はすべり、最後に幸太郎の手をつかんでいる指にそえられた。
細い指の、磨き上げられた爪を、山田秀人の厚い爪が引っかく。
耳元に「おいたはダメだよ」と低くささやかれると、増子はたまらず幸太郎から手を引いた。
貼りつけたような笑顔からにじみ出る、黒い威圧感。増子は大人に脅されている子供のようにあごを引き、顔を背けた。
山田秀人はひとつうなずくと、増子の代わりに幸太郎の肩をつかみ、引き寄せる。
見れば山田秀人の後方には、又の字と彫刻のような男が控えていた。
彼らの表情は主人とは対照的に、みるからに不機嫌そうで、増子と幸太郎を無言で睨んでいる。
増子は又の字達に対してはこっそりと睨みを返したが、幸太郎の方は一気に張り詰めた空気にまたもや息を殺し、身をちぢこまらせなければならなかった。
「それで、話し合いは進みましたか? 昨夜はずいぶん遅くまで議論されていたようですが」
キャビアをたっぷりと盛ったトーストをかじる山田秀人に、分家の四人は顔を見合わせた。
広大な食堂。はめ殺しの天窓からは鉛色の雲が覗き、白いテーブルクロスの上には朝食にしてはボリュームのある料理が並んでいる。
幸太郎は味のしないカボチャと芝海老のポタージュを飲みながら、山田秀人のすぐ隣に座っていた。
「いやあ……なにぶん、大変な議題ですから。そう簡単には……」
信也という名の若い男が、なるべくあっさりした料理を選びながら愛想笑いをする。
ポテトサラド(サラダ)にフォークを伸ばそうとした彼の前に、巻き毛のメイドが割り込むように、じゅうじゅうと音を立てる鴨のローストの皿を置いた。
げんなりと顔をゆがめる男に、フンと口角を上げて背を向けるメイド。
彼女が背後を通り過ぎるのを待ってから、禿げ頭の中年男が咳払いをして、対面の席に座った白髪の老人をじろりと見た。
プディングをつついていた老人は中年男の視線を受け、山田秀人を見る。
だが真っ黒に焼かれた牛ヒレ肉の塊を口に運ぶ山田秀人を見て、小さく「うっ」とうめいて目をそらした。
山田秀人は朝っぱらから肉を食らい、ワインをがぶがぶ飲む。そして一向に酔う気配がない。
彼は離れた席から唇を噛んで自分と幸太郎を見ている増子に気を良くしながら、メイドにさらに鹿のレバーを運ばせ、フォークを突きたてた。
「生ですか? 体に悪いですよ」
「寄生虫なら戦場でたっぷり胃に入れて耐性をつけたよ。信也君も一度泥にまみれて死にかけた方がいい。清潔な場所で健康に良いものばかり食べていたら早死にするよ」
レバーを咀嚼する戦争の英雄が、不意に幸太郎を見た。
スプーンを持ったまま肩をはねさせた幸太郎が、そっと視線を返す。
山田秀人はワイングラスを持ち上げながら、つまらなそうに幸太郎の手元を指した。
「完璧なテーブルマナーだね。母親から教わったのかい」
「……いずれ、必要になるからって……」
「なるほど。教育熱心な女だったわけだ。貧しくとも志は高くか……泣けてくるね」
今は亡き母親を莫迦にされたようで、幸太郎は思わず暴君に顔を向けた。
厳しい顔をする幸太郎に、山田秀人は今度は目も合わせない。
レバーを食い終わると、伊勢海老の残酷焼を素手でつかみ、殻を真っ二つに音を立てて引きちぎった。
飛んでくる海老のかけらが、幸太郎の目に入る。「あっ」と声を上げて顔を伏せると、目をこすろうとする前に誰かが濡れた布を顔に寄せてきた。
見れば、先ほどの巻き毛のメイドが幸太郎のうなじに手をそえ、目を傷つけないようにかけらを取ろうとしている。
優しげな手つき。だがそれとは裏腹に、メイドの目は冷ややかだった。
生きた子供ではなく、貴重な調度品を掃除するような態度で用を済ませると、彼女は口も利かずに山田秀人の世話に戻る。
屈辱に目を伏せる幸太郎に、山田秀人は伊勢海老の肉を噛みちぎりながら思いついたように口を開いた。
「幸太郎君、食事が済んだらちょっと庭に出ようよ。良い天気だし」
「良い天気?」
幸太郎だけでなく、分家の四人もほぼ同時に天窓を見上げた。
重く垂れ込めた鉛色の雲の下で、山田秀人が低く笑う。
「どうせみなさんはまだしばらくは議論なさるんだ。僕と同じで、君もずっとつき合う必要はないだろう。さあ、済んだぞ。出よう出よう」
「あっ! 秀人どんちょっと!」
中年男が手を差し出したが、山田秀人は勢い良く立ち上がって幸太郎の手をつかみ、背を返す。
食事が済んだら、とは、自分の食事がという意味らしい。
幸太郎はポタージュの入った小壷を持ったまま、あわてて山田秀人について行く。
増子が何か、念を押すような視線を送ってきたが、幸太郎にはそれに反応を返す余裕もなかった。
廊下を少し歩くと、開け放された大きな扉から風が吹き込んできていた。
その向こうには石造りの回廊と古い噴水のある庭園があり、得体の知れないオブジェのようなものがいくつもたたずんでいる。
子供の背丈程度の大きさで、ひしゃげた木のような形をしており、空に向かって空いた穴にぎやまんがはめ込まれていた。用途は想像もつかない。
庭に出る幸太郎達の後ろから、又の字と彫刻のような男もついて来る。
草の上で山田秀人が、突然仰向けに倒れた。手を引かれた幸太郎も、悲鳴を上げながら地面に尻餅をつく。
速く動く雲を眺め、山田秀人が「食った食った」と伸びをした。
がっちりと手をつかんだまま動き回る山田秀人に振り回されながら、幸太郎は「やめて!」と怒鳴った。
「そう邪険にするなよ幸太郎君。遠いとはいえ、親戚同士じゃないか」
「あなたなんか知りません! お母さんを……お父さんを殺した人なんか!」
ポタージュの小壷を激昂して振りかぶる幸太郎の手首を、背後から彫刻のような男がつかんだ。
小壷を取り上げられながらわめく子供に、山田秀人は空を爽快そうに眺めたまま告げる。
「君の両親を殺したのは僕じゃない。河合という老人だ。彼は電気椅子という処刑器具の実験台になって、死んじまったよ」
「えっ……」
その言葉に、幸太郎の目が丸くなった。
悪夢の中で炎をまとい、こちらに笑いかけていた放火魔が、死んでいた。
両親と三吉の仇の死を突然知らされた幸太郎は、山田秀人と彫刻のような男に手を取られたまま、しばし呼吸も忘れて沈黙する。
「少々椅子の調整を間違えたらしくてね、見えない電気にズタズタに全身を焼き裂かれた、無残な死に方だった。ちなみに放火の実行犯は河合以外にもう一人いてね、島田という男が片棒を担いだんだが……知ってるだろ? 先代当主の秘書だよ」
そっと視線を向けてくる幸太郎を、山田秀人は愉快そうに見返す。
「彼に会いたいかい?」
上体を起こし、顔を近づけて来る山田秀人に、幸太郎は唾を飲み込んだ。
背後で又の字が深く息を吸う音がする。
黙っている幸太郎に山田秀人がさらに口を開こうとした時、庭園の草を踏む足音が聞こえた。
瞬時に笑みを引っ込める山田秀人。彼の護衛達が、足音の方を見る。
背広姿の、体格の良い使用人が、少し離れた場所で気をつけの姿勢で立ち止まっていた。
「秀人様。よろしいでしょうか」
「何だい、いいところなのに」
「門前に人が来ております」
ゆっくりと振り向く主人に、使用人は深々と頭を下げて言った。
「見知らぬ男ですが、山田栄七郎の遺書を持参したと言っております」
数度まばたきをした山田秀人が、幸太郎を見て、次いで又の字達を見上げた。
全員が無言で自分を見つめているのを確認してから、山田秀人は少し間を置き、小さく、噴き出した。
「……なるほど。そうきたか」
「いかがいたしましょう」
「お通ししてくれ。南の客間がいい」
使用人が頭を上げて去って行くと、山田秀人は幸太郎と共に立ち上がり、にっ、と笑う。
「案外早かったな。吐いたのは、森元の仲間達か……幸太郎君、話の続きは『彼』と一緒にしようか」
「彼?」
山田秀人は眉を寄せる幸太郎を引きずり、護衛達を引き連れて、庭園を出て行った。
「どうぞ。主人がお会いいたします」
大きな鉄門の前に戻って来た使用人が、じろりと相手を見て言う。
門前には三人の守衛が立ち、来訪者の行く手を阻んでいた。
彼らのわきを通り過ぎ、来訪者は先を案内する使用人に続く。
「ところで、先代……山田栄七郎とは、どういったご関係で?」
顔も向けずに問う使用人に、ハットの奥から低い声が答える。
「さあ、赤の他人です」




