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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  三章  焔の少年
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十二

 ――真夜中になった。


 山田秀人が呼び寄せた分家の実力者達は、自分にあてがわれた客室に行って休む気配もなく、未だに口論を続けている。


 疲れを知らないのか、それとも幸太郎への執着が体力を凌駕りょうがしているのか、主に白髪の老人と禿げ頭の中年男が舌戦を繰り広げていた。


 彼らに飲み物を運ぶメイド達の間で、幸太郎は椅子に座ったまま、うつらうつらと舟をこいでいる。


 当初は恐怖と緊張に身を硬くしていたが、何時間も張り詰めていた精神はとうに限界を超えていた。


 聞こえる怒鳴り声が怖くないわけではないが、昼間の逃走劇のこともあって、体力的にも体が休息を欲しているのだ。


 何度か便所に避難してこもったりもしたが、あまり長居すると中年男が怒鳴りまくって扉を蹴破ってくる。


 あらゆる意味で、逃げる隙がなかった。



「かわいそうにね。眠いでしょうに」


 口論の声に混じって届いた言葉に、幸太郎は目を開けた。瞬間、全身が跳ね上がる。


 幸太郎のすぐ隣に椅子を移動させて来た女が、円卓に肘をついて顔を覗き込んでいたのだ。


 部屋にいる山田家分家の実力者は、白髪の老人と中年男、信也という名の若い男、そして今目の前にいる女の、計四人だ。


 女はヨーロッパの貴婦人が着るような青いドレスを着ていて、ばっくりと開いた胸元から豊かな膨らみが、半ば潰されるような形で覗いていた。


 肌は少々地黒じぐろで、手入れが行き届いている。そして髪は、なんと金髪だった。


 もちろん自前ではなく、異人の髪で作ったかつらなのだろう。女の顔立ちには、異人との混血を思わせるような特徴は何一つ見当たらない。


 幸太郎がまぶたをひくつかせて固まっていると、女がくすりと笑った。


「ねえ、幸太郎さん。こんなおじさん達のことはほうっておいて、寝ちゃいましょうよ。私達がここにいる意味がないわ」


 幸太郎が返事をするより早く、中年男がぎろりと女を睨みつけて円卓を叩いた。

 派手な音と振動に、女は円卓から体を離して冷めた目を返す。


「ああもう、うるさいわね。そのうち床が抜けちゃうわよ」


「誰が寝ていいと言ったあ!? 増子ますこ! 勝手なことをしやがると……」


「だって全然話が進まないんだもの。みんな自分の都合ばかり押しつけあって、喧嘩してるだけじゃない。分かってないわねえ、おじさん」


 増子と呼ばれた女が席を立ち、肩に垂れる金髪を指でくるくると巻いた。


 ただでさえ痛んでいるかつらの髪に、さらにつけ毛を盛って高く飾っているらしく、巻いた髪が引っ張られて数本が引きちぎれる。


 だが女はそんなことは意に介さず、自分を憎しみの目で見る男三人に、ふんと鼻息を噴いてみせた。


「秀人さんがどういう人か、知らないわけじゃないでしょう? あの人は私達がどんな良い条件を提示するかなんて、これっぽっちも興味がないのよ。私達が取り乱して、ののしり合って、目の下にくまを作りながら傷つけ合っているのを面白がってるだけ。

 ひょっとしたらこれを機会に、本家だけじゃなくて分家までバラバラに分断して、潰しちゃう気かもね」


 女の台詞に、男達の顔色が変わった。

 顔を見合わせる中、白髪の老人が咳払いをして訊く。


「増子ちゃん、それはどういうことかな。秀人さんが何をする気だと?」


大伯父おおおじ様、言葉どおりよ。秀人さんはいつだってそうじゃない。優しい顔をして、人にもうけさせてやる素振りで、実は裏でその何倍もの利益を独り占めにしてる。抜け目がなくて、その上身勝手で、意地悪。不義理で、平気な顔で肉親を裏切る人だわ」


「それはちょっと言いすぎだと思うけど……」


 信也という名の若い男が苦笑すると、女はきっ、とその横顔を睨んだ。「おお、こわ」と肩をすくめる男を無視して、白髪の老人がさらに女に向かって身を乗り出す。


「幸太郎君を養子にして本家を乗っ取るより、もっと利益になることを考えていると?」


「そんなわけあるかぁ! 山田家本家の当主が、どれほどの金と権力を手にすると思ってんだ!」


「べつに純粋な利益が目当てとは限らないわ。秀人さんは、何と言うか、ちょっと変わった価値観の持ち主でしょ? あの人にはきっと、他に目的というか、興味のあることがあるのよ。でなきゃ、わざわざ私達を呼び寄せて甘い汁を吸わせようとはしないわ」


 女はちらっと幸太郎を見て、にこりと笑った。


 おそらく世の男性の大半が好ましいと思う笑顔なのだろうが、幸太郎には何か、その奥に潜んでいる嫌なものの気配を感じずにはいられなかった。


 円卓に座った他の男達は、あごに手を当てたり顔を見合わせたりしながら考え込んでいるようだったが、女は構わずに幸太郎に手を差し出し、言った。


「最初は殺すつもりだったけど、気が変わって養い親をつのることにしたとか、いかにも怪しいわ。とにかくこのまま秀人さんの思惑おもわくどおりに動くのは危険よ。明日、改めてみんなで問い詰めましょう。口喧嘩はそれからでもいいでしょ」


「お、おい増子……!」


「どうせ養い親は秀人さんが決めるのよ、今幸太郎さんを束縛しても意味ないわ。さ、幸太郎さん、もう寝ましょ。それともまだここにいたい?」


 幸太郎は目の前の女の笑顔と、円卓の男達の顔を見比べた。


 誰一人信用はならない。だが部屋にいる山田秀人のメイド達には、幸太郎を寝室に連れて行こうとする素振りはなかった。誰かが迎えに来る気配も、ない。


 幸太郎は立ち上がり、女の細い綺麗な指に手を伸ばした。頭の隅で何かが『ダメだ!』と叫んだが、これ以上この険悪な雰囲気の部屋にいるのは耐えられなかった。


 女の指が、がしりと幸太郎の手首をつかんできた。

 ぎょっとして見上げると、女が笑顔を浮かべたまま、わずかに舌を出しているのに気づいた。


 中年男の怒鳴る声を背に、女に手を引かれて部屋の入り口に向かう。


 巻き毛のメイドが無表情に扉の鍵を開けると、女はそのメイドの肩を押しのけて扉を開き、外に出て行く。


 かつかつと、女の靴音が高く廊下に響く。


 その歩き方が、円卓の部屋に連行された時、幸太郎を強引に引きずって行った又の字達のそれと何も変わらぬものだと気づくと、幸太郎はさぁっ、と頭が冷えていくのを感じた。


 やがて廊下の先に屈強な男が二人で番をしている扉が見えると、女が「開けなさい」と声を上げる。


 即座に扉を開く男の肩を軽く叩き、女は幸太郎をともなって部屋に駆け込んだ。


 豪華な部屋の、大きな寝台に幸太郎と共に飛び込むと、後方で勢い良く扉が閉まる。

 バタンという音を聞くと同時に、女が噴き出し、笑い出した。


 唖然とする幸太郎を見るその目は、ぐにゃりといやらしい形に歪んでいて、優しさを偽装するものは何一つ残っていなかった。


「本当に、男って莫迦ね。単純なんだから」


「……あ……」


「やっと二人きりになれたぁ」


 女が寝転んだまま幸太郎の顔を手で挟み、鼻面に接吻せっぷんした。

 一瞬赤くなりかけた幸太郎だが、相手の表情を見て凍りつく。


 まるで、欲しくて欲しくてたまらなかった珍しい虫を手に入れた子供のように、女は幸太郎の全身を舐め回すように見ていたのだ。


 円卓の部屋で終始怒鳴り散らしていた中年男に感じた恐怖などとは、比較にならないほどの怖気おぞけが背骨を走った。


「細いわねえ。でも、色が白くて、お人形みたいで好きよ。醜く太った洟垂れのガキなんか、いくらお金のなる木でも家に入れたくないし」


 恐ろしく汚い口を利く女に、幸太郎はもう泣きそうだった。

 円卓を囲む四人の中で一番まともそうに見えたのも、錯覚だったのだ。


 この屋敷の人間は、みんな異常だ。


 幸太郎が両手を口に当てて息を殺しているのが気に入ったのか、女は先ほどよりもいくぶんおとなしい笑い方をして、幸太郎の髪を指でいてきた。


「幸太郎さん、よく聞いて。今あなたが寝転んでいる寝台は私にあてがわれた物なの。あなたは私の部屋の、私の寝台に寝ているの。だから、眠りたかったら私の許可が要るの。分かる?」


「……」


「分かる?」


 顔を近づけてくる女に、幸太郎はあわててうなずいた。


 女は笑みを深め、なれなれしく、親しげに、言った。



「一晩中起きてるか、私の言うことを聞くか。選んで」






 ――分家の四人がどんな回答を用意するか、ほんのちょっぴりだが、興味はあった。


 連中に山田家というパイを切り分ける技量はないだろう。四人全員が、ひとかけも残さず全てを手に入れたいのだ。


 ならば真夜中に及ぶ話し合いなど、何の意味もない。



 客達にあてがった寝室よりもさらに一回り大きい部屋で、山田秀人は寝台に腰を下ろした。


 洋服は脱ぎ捨て、今は薄いきぬの衣を着ている。そばにはべる二人のメイドがその隙間に手を差し込み、濡れた布で体を清めてきた。


 まるで王族のような山田秀人を目を細めて眺めるのは、彼に比べてあまりに貧相な老人達だ。


 今回の騒動で自ら山田秀人に近づき、協力を申し出た城戸警視と、寄桜会の会長が、並んで立っていた。


 城戸警視は警察幹部として築地警察署に手を回し、河合雅男の放火殺人の関連と、幸太郎の身柄の確保に際して多分に骨を折り、山田秀人にびを売った。


 一方寄桜会の会長は、銀座界隈(かいわい)のヤクザの顔役として頼まれてもいないのに兵隊を供出し、馬車屋の三吉の襲撃に関与した。


 もっともその兵隊達は襲撃に失敗して逮捕されたばかりか、山田秀人に独断で粛清されてしまったため、寄桜会の会長の顔つきは城戸警視よりもはるかに厳しい。


「他を蹴落として自分一人が全てを手に入れる。そういった欲望を持った人間の話し合いなど、嘘と揺さぶりを駆使した騙し合いに決まっている。ようは誰が一番ずる賢いかだ……君らはどうだい? 一番ずる賢いかい?」


 山田秀人の質問に、警察官とヤクザは顔を見合わせた。


 背が高く白髪だらけの城戸警視に比べて、寄桜会の会長は標準的な身長で、髪はまだ黒い部分がかなり残っている。


 咳払いと共に、城戸警視が口を開いた。


「少なくとも警察組織において、今回の件で私ほど閣下の前に素早くはせ参じた者はおりません。そういう意味では私が最も見る目がある警察幹部かと……」


「見る目がある、とは微妙に答えを逃げたねえ。僕は賢いかどうかを訊いているのに」


 山田秀人が、メイドの一人のうなじに手を伸ばし、指の腹でなで上げた。


 メイドのささやかな「あっ」というあえぎに、城戸警視は顔を引きつらせる。山田秀人が、そんな彼に口をひんまげて言った。


「幸太郎君の居場所の件も、結局突き止めたのは僕の部下だったしな」


「いえ、しかし、その部下というのは以前私が閣下に密告した、森元の元同僚達ですし……確かに彼らをこちら側につけたのは、閣下のたくみな弁舌ではありますが……」


「そうだ、その元同僚達からの連絡が途絶えてるぞ。ひょっとして森元に確保されたんじゃないか? 君は確か前に会った時、森元は自分の手で処分するとか何とか言ってなかったかね。……いずれにせよ、彼ら『寝返り組』は切り捨てるしかないな」


 城戸警視は「うう」だの「でも」だのと口をもごもご動かしてうめいていたが、やがて部屋にいる全員から向けられる視線に耐え切れなくなり、がっくりと肩を落として黙り込んだ。





 寄桜会の会長は、そんな城戸警視の様子を見ていて、いたたまれなくなった。


 自分が十年経ってこの警視と同じような年齢になった時、こんな情けない表情をするのは耐えがたいと思った。


 そもそも、自分はまがりなりにも天下の東京・銀座のヤクザ組織の中で、一二を争う『会』の長なのだ。

 それが椅子も出されず、部下のように立たされているのが納得できない。


 引き連れてきた子分達も、今は別室に押し込められている。


 山田秀人の態度は、とうてい対等の立場の協力者を迎えるようなものではなかった。


 完全に主導権を握られている城戸警視の前で、あえて強く出て格の違いを見せる必要がある。


 そう判断した寄桜会の会長は、不意に部屋の隅に歩いて行くと、大きな蓄音機が載せられている机に腰を下ろし、右足を左の膝にかけて息をついてみせた。


 はかまから覗くすね毛の生えた足。露骨に嫌そうな顔をする山田秀人に、会長は背中を曲げ、覗き込むような視線を送る。


「山田さん。あんたは勘違いしてなさる。同盟相手としての俺達を値踏みしているようだが、あんたが気に入ろうと気に入るまいと、あんたはもう寄桜会からは離れられないんだぜ」


「何で?」


「何でじゃねえだろう。こっちはあんたのために、大事な子分を何人も失ってるんだぜ。ヤクザにタマを差し出させといて、そりゃねえだろう」


 不敵に笑った会長だったが、その笑みは山田秀人に乳房をつかまれたメイドが嬌声きょうせいを上げた瞬間にかき消えた。


 頬肉をひきつらせる会長の前で山田秀人はメイド達をで、彼女達もまたヤクザである会長を気にする様子がない。


 見事な脚線美きゃくせんびに指を這わせる山田秀人が、氷のように凍てついた眼で会長を射抜く。


「優秀な兵士には対価を払おう。だが役立たずのクズの『タマ』なんぞ、塵芥ちりあくたの価値もない」


「クズだと!? てめえ何様のつもりだ!!」


 会長の怒号どごうに、室内で身をすくませたのは城戸警視だけだった。


 山田秀人はもちろん、彼にもてあそばれているメイド達のきもも相当に太い。


 あらわになった太ももを差し出してくる女達に挟まれた山田秀人が、身を乗り出して、ヤクザの大親分に敵意のこもった笑みを向ける。


「虚勢を張るな、会長。君の組織が銀座に君臨し続けるためには、どうしても山田家の力が必要なんだろう。山田栄八が唯一繋がっていた鴨山組の立ち位置に、彼ら亡き今必死にすべり込もうとしている。山田家のお抱えヤクザになった者が、銀座を制する。そう考えているんだ」


「他の会に近づいてみやがれ、ぶっ殺してやる……!」


「山田栄八と共に『消滅』した鴨山組。そのシマは、現在誰のものになっているのかな」


 山田秀人の言葉に、会長はぐっと喉を詰まらせた。


 衣類を乱し、肌をさらしてからみつく女体の中で、山田秀人の眼が糸のように細く、弧を描いた。


 全てお見通し。


 そんな山田秀人の表情に、会長はこれまでの自分の行動を思い返した。



 山田家の相続争いの気配を察知し、一番の有望株である山田秀人に近づいたのが、約一ヶ月前。


 彼が良からぬことを企んでいるのを察し、兵隊を貸すことで『弱み』を握ろうとした。


 自分が積極的に動いたのはそこまでであり、馬車屋の三吉や幸太郎に関する陰謀の詳細すら、ほとんど聞かされてはいない。


 山田秀人の思惑おもわくを理解すらしていない自分が、逆に山田秀人に、思惑を看破されているのか。



 寄桜会の会長は、糸のような視線からついに顔を背けた。

 そしてさらに、今までも、これからも、誰にも語るつもりのない忌まわしい記憶を思い返す。



 それは彼が山田秀人に近づく以前。

 山田家の次期当主と目されていた山田栄八が死んで、すぐの日のことだった。


 銀座の一等地とも言える地区をシマにしていた鴨山組が、事務所を残して一人残らずこの世から消えた。


 それを受けて急きょ銀座界隈のヤクザが、鴨山組のシマの権利をめぐって集結したのだ。


 料亭をまるごと貸し切っての首脳会議には、銀座にシマを持つ四つの会、一家などの長が顔を並べた。寄桜会の会長も当然、その席に呼ばれた。


 その状況はしくも、今回の山田家の当主の座を狙う、分家達の争いに似ていた。


 持ち主のいなくなったシマの今後を、赤の他人同士が協議し、決定しようと言うのだ。


 寄桜会と、もう一つ命和会めいわかいというヤクザ組織の長は、お互いに鴨山組のシマの権利を主張して譲らなかった。


 本来どちらの会にもシマを取り込む筋はなかったのだが、血を流さずに一等地のシマを得られるかもしれない機会を棒に振るのは、あまりに惜しい。


 考えられる限りの屁理屈を並べ立て、自分達こそがシマを受け継ぐにふさわしいと怒鳴り合った。


 しかし、山田家の相続争いと違ったのは、残る二つの組織の長は無理にシマを得ようとはしなかったことだ。


 怒鳴り合う寄桜会と命和会を尻目に、彼らは酒をみ交わし、ほとんど口を利かなかった。


 その二つの組織とは、銀座の北端にシマを持つ青橋一家あおはしいっか、そして銀座にあるたった一軒のカッフェをシマとして寄桜会から譲り受けた、緋扇組ひおうぎぐみだった。



 緋扇組はかつて天道雨音をめぐって寄桜会と関わり、彼女の保護を名目にカッフェの土地の権利を得ていた。


 寄桜会は多少迷惑をかけた緋扇組への義理立てとご機嫌取り程度の意識でこれを与えたが、緋扇組はそのことを逆手に取ってきたのだ。


 たとえどんなに小さなものであろうと、シマはシマ。


 千住に本家を構えたよその土地の極道でありながら、緋扇組は遠く離れた銀座のシマ争いに顔を出してきたのだ。


 これには寄桜会の会長も激怒したが、緋扇組は東京でも名の通った武闘派集団。

 幹部から下っ端にいたるまで腕利きが揃っており、敵に回すとやっかい極まりない連中だった。


 そして彼らを交渉の席に着かせたことが、鴨山組のシマが欲しい寄桜会と命和会にとっては最悪のあだとなった。


 お互いに一歩も譲らず、深夜まで怒鳴り合った二つの組の長の喉が枯れた頃、緋扇組の若頭であり、組長の代理であるという緋田四郎という男が一つの提案をした。


『どうもこのままではらちが明かんようです。寄桜会さんのおっしゃることも、命和会さんの仰ることももっともや。もっともな者同士、いくら話しうても決着は着きまへん。

 そんならいっそのこと、鴨山組さんのシマは《中立地》いうことにしたらどうでっしゃろ』


 この言葉を聞いた瞬間、寄桜会の会長は自分がとんでもない過ちを犯していたことに気づいた。


 緋田は時間をかけて親睦しんぼくを深めた青橋一家の頭領と笑みを交わしながら、ぬけぬけと言ってのけた。


『ここにいる全員、自分以外のどの組織がシマを手に入れても気に食わんのです。そんならいっそのこと、どこの組織の持ち物でもないっちゅうことにしたらどないです? シマとシマの間にある、敷居しきいみたいなもんですわ。そうすりゃあ今の銀座の力関係も変わらず、だーれも損せんで済みますやん』


 寄桜会と命和会はいっせいにこの提案に異議を唱えたが、緋扇組の次にシマの少ない青橋一家は緋田の肩を持った。


 青橋一家もシマは欲しいはずだったが、棚から落ちてきたぼた餅のように降ってわいた鴨山組のシマを取り込む正当性が、どの組織にもないことを冷静に理解していた。


 そんなシマを取り合って、まかり間違って抗争にでもなれば、一番不利なのは自分の一家だ。危なくなれば千住に撤退できる緋扇組と違い、銀座に本家を持つ青橋一家には逃げ場がない。


 そう判断したらしい青橋一家の頭領は、銀座で幅を利かせている両組織の歯軋りの音を聞く代金に、シマの権利を諦めたのだ。


 緋扇組さえこの場に来なければ、青橋一家がそんな判断をすることはなかったはずだ。


 四つの組織の長が完全に半々に分かれたことで、どの組織もシマの権利を強奪することができなくなった。


 ヤクザの世界にも面目というものがある。


 まがりなりにも首脳会議を開き、かつこの状況で寄桜会か命和会がシマの強奪に走れば、残る三つの組織が協力して抜け駆けした者を攻撃するだろう。


 そうするための大義名分を、緋扇組はこさえたのだ。


 緋扇組さえいなければ、最も力の弱い青橋一家を何らかの餌でつり、味方につけた方の組織がシマを手に入れるという可能性もあった。


 だがその青橋一家がシマの中立化を提案する緋扇組についた以上、パワーバランスは修復不可能なまでに硬化した。


 たった一つの土地。たった一軒のカッフェ。


 それを寄桜会が緋扇組にゆずったばかりに、鴨山組のシマは、ヤクザの手の届かぬ場所になってしまったのだ。




「――君は、僕に取り入ることでそのシマを手に入れられるかも――と、思っているんじゃないかねえ」


 悪意に満ちた緋田の横顔を思い出していた寄桜会の会長が、山田秀人の声にはっと顔を上げた。


 見ればメイド達は乱れていた衣類をきちんと整え、何事もなかったかのようにすました顔で主人から離れている。


 寝台に座った山田秀人はわずかに歯を見せて笑い、目の前のヤクザをはるか格下の相手のように見る。


「鴨山組のシマは元々彼らの持ち物だったが、その管理には山田栄八が長年力を貸してきた。彼の後継者となる僕が君の側につけば、今からでも他の組織にシマの権利を主張できる可能性がある……とか?」


「いや……そんなまどろっこしい話じゃねえ。当主となるあんたの後ろ盾がありゃ、それだけで他の会へのけん制になる。鴨山組のシマなんぞ、目じゃねえほどのモンがぶん取れる」


 その台詞には、多分に負け惜しみの響きが含まれていた。


 首脳会議での出来事は、単にシマの権利だけではなく、寄桜会と命和会の面子と評判に関わることでもあったのだ。


 彼らがあれほどに怒鳴りまくり、傍目はためにも全力で取り合っていたと分かる鴨山組のシマを、緋田はいとも簡単に中立地帯などという莫迦げたものに変えてしまった。


 あの場でいったい誰が議論の流れを決定づけ、優位にことを進めたかは、居並ぶ各組織の構成員達にも一目瞭然だったはずだ。



 寄桜会が脇役ながら、今回の事件にかなり早い段階からからんでいたのは、ひとえに緋扇組から受けた屈辱をすすぎたい一心だったのだ。



 かつて山田栄八を後ろ盾にしていた鴨山組は、弱小の組にもかかわらず銀座でやりたい放題の横暴を働いていた。


 銀座舗装工事計画などという公共工事をお題目に、よその組のシマにまで土足で踏み込み、地上げの手を伸ばしていたその態度。


 本来なら袋叩きに遭うところを、やつらは山田家の威光を借りてそれを逃れていた。

 ヤクザ達は山田家を恐れていたのみならず、その恩恵に自分もあずかりたいという下心から、拳を振り上げられずにいたのだ。


 鴨山組ではなく、その背後にいる山田栄八に牙を剥いたと受け取られることを忌避していた。


 即ち、山田家と繋がったヤクザ組織は、そういった特権階級に居座れる。

 多少の抜け駆け、横暴が許される立場になれるのだ。



 寄桜会の会長は、山田秀人を指さし、強く睨みつけて口を開いた。

 釘を刺すように、有無を言わさぬ口調で告げる。


「鴨山組の後釜は、俺の寄桜会だ。山田家当主と繋がるヤクザは、銀座を取り仕切る組織は、寄桜会だけでいい。あんたは俺の兵隊を使ったんだ……裏切れば、死ぬほどの報いを受けることになるぜ」


 山田秀人はその恫喝に対し、部屋を出て行くメイド達の丸い尻を観賞しながら、満面の笑みで答えた。


「分かったよ、僕が当主になったあかつきには、寄桜会をお抱えにしよう。約束するよ」






「――山田秀人は、山田家本家の屋敷にいるそうだ」


 暗い部屋の中、刑事が低い声で報告する。


 天井から吊るされたランプが、その場にいる数人の警官達の姿を、闇に浮かび上がらせる。


 後ろ手に手錠をかけられ、地べたに座り込む枝野巡査を、森元は表情を影に沈めた顔で見下ろした。


 森元の指示で確保された裏切り者達は、全員築地警察署の近くにある、工場の倉庫に連れ込まれていた。


 工場主が元警察関係者で、森元達のために場所を提供してくれたのだ。

 森元は顔を背けている枝野巡査を見つめたまま、周囲の仲間達に質問した。


「尋問したのか?」


「尋問というより、拷問だ。あんたが嫌がるだろうから、大急ぎでやった……なに、大したことはしてない。見てのとおり、巡査は元気いっぱいだ」


 吐き捨てるように答えた刑事が、枝野巡査の左手の、折れた小指と薬指を示した。


 大西巡査が受けた暴行を、そのまま彼の護衛を買って出た枝野巡査に加えたわけだ。


 森元は数秒沈黙した後、ゆっくりと右手を上げ、後方の扉を指さした。「出てくれ」と低く言う彼に警官達は顔を見合わせ、言われたとおりに部屋の出口へと去って行く。


 背後で扉の閉まる音が響くと、森元は枝野巡査の名を呼んだ。


 静かな、亡霊の呪詛じゅそのような声に、枝野巡査は顔を背けたまま歯を食いしばる。


 山田栄八と戦うために、森元は枝野巡査を仲間として選んだ。


 その心意気と、警察官としての姿勢を信頼して、真実を話し、同志に引き入れたのだ。


 その信頼を、枝野巡査は裏切った。守るべき者を悪人に差し出すという、最悪の形で。



 森元が一歩近づく。床板に響く靴音に、枝野巡査は何かをごまかすように、舌打ちをした。


 枝野巡査の体に影が覆いかぶさり、吐息がかかる。


 壁を睨み続ける枝野巡査の腕が、不意にゆるんだ。



 ごとりという音が、鍵を外された手錠が床に落ちる音だと理解すると、枝野巡査は初めて森元に顔を向けた。


 鍵を握った森元が、目の前にいる。影に沈んだ表情が、わずかに、おぼろげに浮かび上がった。



「何故だ」



 眉間にしわを刻み、枝野巡査を睨む森元の眼から、一筋の水が流れて床に落ちた。


 唖然とする枝野巡査につかみかかるでもなく、頬を張るでもなく。


 森元はただ小さな鍵を握ったまま、一度ぶるりと身を震わせ、しぼり出すような、悲鳴を上げた。



「信じていた――――君を――――信じていたんだ――私は――」

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