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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  三章  焔の少年
49/110

十一

「旦那さん、正直に答えてもらえませんか」


 屋敷の二階の窓から中庭を見下ろしていた山田秀人に、又の字が背中から声をかけた。


 新作の国産ワインをグラスの中で揺らしながら、山田秀人は顔も向けずに「ダメだね」と笑う。


「人の上に立つ者は、おいそれと本音を部下に話さない。嘘と秘密が成功の秘訣ひけつだよ、又の字」


「旦那さんのことが、よう、分からんようになったんです」


 拍車の音が背後に近づいて来ると、山田秀人はグラスを持っている方とは逆の手を、懐に差し込んだ。


 首を曲げて振り返ると、又の字が厳しい表情でこちらを見ている。


 シャンデリアの光が無数の反射鏡で増幅された室内は、必要以上にまぶしい。熱さえ感じる光のシャワーの中で、又の字はさらに口を開いた。


「さっき分家の連中に話したこと、ありゃ、旦那さんの部下としては納得できんことです。島田の思惑に乗って、河合のおっちゃんを『遊ばせて』やった……それを、旦那さんも楽しんだ。ここまでは、まあ分かります」


「だろう? 僕は楽しいことが大好きなんだ。殺人者をこれくしょんするのなら、鑑賞するのではなく、暴れさせなきゃ面白くない。銃を集めるのと同じだよ。優れた暴力の化身は、壁に飾るのではなく実際に撃ってみなければ、価値を味わえんものだ」


「けど、おっちゃんは思いがけずしくじった。放火騒ぎは起こしたけど、標的を逃がしてしもうた。旦那さんはおっちゃんに見切りをつけて、電気椅子の実験台にした……ここも、分かります」


 又の字の指が、山田秀人の腕に伸ばされた。


 瞬間、山田秀人の手が懐から目にも留まらぬ速さで抜き出され、その手に握られた拳銃の銃口が、又の字の左の乳房ちぶさに埋まった。


 歯を剥いて笑う山田秀人に、又の字は表情を変えない。ただ主人を睨んで、舌打ちをした。


「しょうもない悪戯いたずらはやめてもらえませんか。撃つ気がないことぐらい分かってます」


「撃つよ。撃つともさ。君が妙なことを考える雌狐めぎつねだったなら、喜んでこの豊かな肉の塊を吹き飛ばそう。君も僕の腕をへし折り、存分に戦えばいい。殺し合いは、大好きだ」


「ウチが雌狐なら、旦那さんはたぬきです」


 又の字がゆっくりと右手を上げ、親指で後方を示した。


 いつのまにか部屋の入り口に彫刻のような男が立っていて、光の中で、拳銃を又の字の背中にポイントしている。


 山田秀人は声を上げて笑い、乳房から銃口を離す。「流石だ」と白々しい賛美を口にする主人に、又の字は初めて顔を歪ませた。


「常に計算高く、人をあざむいて喜ぶような性格のあんたが、計画の途中で『気が変わった』なんてことがあるわけないやろ。旦那さんが計画を変える時は、状況が変わった時だけや」


「だから、状況が変わったんだよ。河合がミスをした。逮捕されるだけならまだしも、年端としはも行かない子供ごときを捕捉できず、まんまと逃げられた。これは河合の今までの殺人の実績を考えれば、信じられんことだ」


「それが幸太郎を殺さず分家連中にくれてやる理由に……」


「なるんだよ。又の字、君は可愛い女性だが、男性の気持ちを察する才能に欠けるねえ」


 拳銃を懐にしまいながら「そんなことじゃあ、行き遅れちゃうよ」と山田秀人が言った瞬間、又の字が握った拳を、わきに飾ってあった青磁せいじの壷に叩き込んだ。


 凄まじい音とともに高価な壷が砕け散り、又の字の拳に赤い線が走る。


 短く口笛を吹いて笑う山田秀人に、又の字が顔を近づける。

 背中に向けられる銃口の気配にも構わず、低く男のような声を出した。


「ご自分の異常性を自覚しはった方がええです、旦那さん。あんたの思考なんか誰にも分からん。河合のおっちゃんは阿呆やけど、おっちゃんもウチも、旦那さんのために体を張って、駆けずり回ったんです。

 なのに、いざ幸太郎を手にしたら殺さずに売り飛ばすなんて……納得できません。島田をあざむくのはええ。でもウチらにまで本音を隠したのが、気に入らん」


「僕が殺人者を愛するのは何故だと思う? それはね、法に背いて殺人を生業なりわいにする人間が、この世で一番僕に近しい人種だからさ」


 山田秀人は又の字の頬を愛しげになで、笑みを消した。


 光に満ちた空間の中、山田秀人の眼の中には、闇がある。黒く黒く、醜悪なよどみを秘めた沼のような瞳が、又の字を射抜く。


 顔を引きつらせた又の字の肩を、山田秀人は抱き寄せた。


 そのまま恋人をともなうようにして部屋を歩き、入り口の扉へと軽やかに進んで行く。

 手にしていたグラスは青磁の壷が置いてあった場所に、代わりに置き去りにした。


「殺人者が好きだ。異常な殺人鬼が、心から愛しい。見事な手際で法をあざむき、己のエゴを満たすために暴力を駆使する邪悪さに、何よりも憧れる。河合には失望したが、それでもかなり長い間楽しませてもらった。

 あの老人の行う放火殺人が、相手を選ばぬ最低の殺人行為が、我が魂に得がたい興奮をもたらしていたのは事実だ」


「でも、最期は旦那さんに処分されました」


「価値がなくなったからだよ。これは河合が幸太郎君殺しに失敗したからという意味じゃないぞ」


 怪訝な顔をする又の字の前で、彫刻のような男が拳銃を構えたまま、扉を開ける。


 廊下に出る主人達を追いながら、彼は銃口を又の字の後頭部に押しつけた。


 だが山田秀人は「いい、いい」と手を振り、又の字をさらに深く抱き寄せる。

 男は黙って銃口を上げ、拳銃をしまった。


「『状況が変わった』……さっきも言ったが、そういうことなんだよ、又の字。僕は初めから島田の願いを聞く気はなかった。幸太郎君を殺した後、僕を当主にすえたい彼の前で舌を出して『やっぱりやだよぉーん』と言ってやって、梯子はしごを外してやるつもりだったんだ。悪意だね、これは。

 山田家がめちゃくちゃになって、誰もが泡を吹いて慌てるのを笑ってやるつもりだった。逆に言えば、僕にとって今回のことは『その程度のこと』でしかなかったってわけだ」


「旦那さんは……山田家を憎んでらしたんで……?」


しいたげられた分家の恨みかね? ははは、まさか。確かに冷遇はされたが、僕は有り余る才気の持ち主だ。山田家抜きで成功し、完全に別の勢力として確立している。本家も分家も関係ない……僕はね、人の嫌がる顔が大好きなんだよ」


 おもむろに又の字の顔に手を伸ばし、頬をぎゅっとつねった。


 容赦のないつねり方に案の定睨んできた又の字に、山田秀人は満足そうに歯を見せる。


「だが、河合がしくじったのは、本当に予想外だった。彼は無闇に派手で悪質な殺人を行う男だが、僕の期待を裏切ったことは数えるほどしかない。ましてあの逮捕のされ方だ……手ごわい敵と遭遇したことは、明白だった」


「居合わせた一般人が取り押さえたっちゅうことですが」


「嘘だね。僕には分かっていた。善良な一般人はあんな取り押さえ方はしない。それに……前日に馬車業者を襲ったヤクザ達の証言もあった。君が警察署で話を聞いてきてくれたんだったな、『口封じ』の前に」


 背後の男を振り返り、山田秀人はにやりと笑った。男は人間味のない顔面を主人に向けて、うなずく。


「灯りを消され……闇の中、突然襲われたと……おそらく『一人』に、やられたと」


「一人だという根拠は?」


「全員が倒された後、遠ざかって行った足音が、一つだけだったと」


「又の字、これだよ」


 これだよ、と言われても分からないとばかりに、又の字は眉を寄せる。その髪に鼻を突っ込みながら、山田秀人は耳元に愛のように言葉をささやいた。


「ヤクザ数人を叩きのめせる人間。殺人鬼の河合を倒せる人間。今日、僕らの前に現れた仮面の男……幸太郎君の周りには、いつも驚くほど、暴力にけた人間が現れる。……はたして、全員が別の人物なのだろうか」


 はっとして顔を向ける又の字に、山田秀人は引き裂けんばかりに口角を吊り上げる。


 それは山田秀人が、初めて殺人者としての又の字や、河合を見つけた時に浮かべた笑みと、同じものだった。

 『同属』を見つけたぞ、という、歓喜の表情だった。


「ヤクザ達も、河合も、本来倒される予定ではなかった。彼らが叩き伏せられたからこそ、僕は確信したのさ。この案件には、少なくとも一人以上の優れた殺人者に類する人間がからんでいる。そしてそいつはきっと、幸太郎君の味方なんだろう、とね」


「まさか」


「又の字、僕は『そいつ』に会いたいんだよ。河合を処分したのは、『そいつ』の方が、ずっと、魅力的に思えたからだ。河合より、確実に、優れている」


 一言一言をかみ締めるように言う山田秀人が、又の字の眉間に接吻し、声を上げた。


 かつて床を共にした時と同じ、上ずった絶頂を感じさせる声に、又の字がたまらずに毛深い手を払い、主人の腕から抜け出す。


 嫌悪の目を向けてくる女に、山田秀人は両手を上げて笑った。


「おぼろげだった魅力的な殺人鬼の気配が、情報を収集するうちに明確に形を成していった。そしてついに、昼間の男は幸太郎君の名を呼び、助けようと襲いかかって来たのだ」


「幸太郎を生け捕りにしようと考えたんは、そのためですか? 幸太郎が危険にさらされるたびに出てくる、得体の知れん敵を捕まえるために……計画の変更を?」


「そうだよ。納得したかい、又の字。山田家の当主の座も、財産も、権力も、島田の願いも、幸太郎君の生命も、何もかも僕にとっては無価値だ。僕は初めから、そういう男だっただろう」


 両腕を差し出し、「おいでおいで」と指をうごめかす。


 だが又の字は、顔を紅潮させて一歩退いた。怒りに肩を震わせる彼女に、山田秀人は笑顔で首をかしげる。


「どうした、又の字。何を怒ってる。幸太郎君を手元に置いておけば、未知の素敵な同属が現れるんだぞ。楽しみじゃないのか」


「……分家の連中を呼んだんは、何故です」


「連中は『ついで』だよ。幸太郎君がとんでもない爆弾を呼び寄せるとも知らないで、欲丸出しで取り合っている。それはそれで、笑えるじゃないか」


「……」


「又の字」


 主人の呼びかけも無視して、又の字は廊下を足早に歩いて行った。


 曲がり角に消えるその姿を苦笑して見送りながら、山田秀人は背後の、もう一人の部下に言う。


「殺人者が好きだ。暴力は、殺人は、美しい――君は分かってくれるね?」


「いえ」


 顔色一つ変えずに、彼は「楽しいのは、あなただけです」と答えた。

 山田秀人は声を上げて笑い、愉快そうに「そうか」と歩き出す。


「だが、これだけはどうしようもない。生まれ持ったサガというやつだ。人や動物を解体して『達して』しまうのも、敵兵に半殺しにされて興奮してしまうのも、宿命と言うべきものだ。

 性交中に相手をぶん殴らないと満足できない変態や、首を絞められるのが好きなヤツがたまにいるだろう? 僕のはアレの、もっと深刻な症状だと理解してくれればいい」


「……殺人者を飼うのがお好きなのは……」


「そうだ。君らを屈服させるのも、それが叶わずに敵対するのも、たまらん。……そして、もっともっと、危険な相手と、出遭いたくなるのさ」


 階段を上り、屋敷の最上階へと向かう山田秀人の背中を、背後の男は無言で見上げた。


 そうして、ほんの一瞬。今まで波一つ立たなかったその目に、激しい嫌悪の色が浮かんだ。


 山田秀人はその様子を、壁にかかった反射鏡ごしに見ながら、なおも笑う。


「大部分の人には暴力を好む心があるのだよ。死刑は東洋西洋を問わず長く庶民の娯楽であったし、今でも男前の正義漢が醜悪な悪人を斬り殺す芝居は大人気だろう。義憤をあおるような物語さえ整えてやれば、人間が血を吐いて八つ裂きにされる光景に誰もが拍手を送る」


「……」


「だがね、僕の趣向はもっともっと低劣だ。殺人を見るのも好きだが、行うのも好きだ。相手に反撃されて死にそうになるのも好きだ。そもそも物語など必要ない。善人も悪人もないまぜになって惨死ざんしするのがとても楽しいんだ」


「全ては、趣向のために」


 つぶやいた部下に、山田秀人は足を止める。


 階段の上で立ち止まった二人の男は、お互いの呼吸の音に耳をすました。

 山田秀人の呼吸は穏やかだが、その部下の呼吸は、わずかにペースが速まっていた。


 大きく息を吸う唇が、主人に声を放つ。


「あなたの歪んだ趣味のために、みなが死ぬ。いずれは、あなた自身も……」


「不満かね」


「正直、そんなくだらない理由で振り回されたことに又の字と同じ怒りを感じます。あなたはうすっぺらい卑劣漢ひれつかんだ。我々は、あなたをもっと偉大な人だと思っていました」


 山田秀人が静かに声を上げて笑った。笑いながら、ゆっくりと背後を振り返る。


「偉大? 権謀術数けんぼうじゅっすうを巡らせ、山田家を乗っ取ったりその権力を駆使して国を陰から支配したり、そういうことをすれば君は僕を偉大と評価したのかね? 僕の動機が、偉大な王と評するには不足だと?」


「世を破壊するでも戦争を起こすでもない、暴力が好きだと豪語ごうごしながらあなたが画策したことは、結局はたった一人の敵を呼び寄せただけ。あまりに、小さすぎる」


「君の名前は何だったかな」


 山田秀人が階段に腰を下ろし、両手の指を組んだ。

 黙っている部下に、その顔を見下ろして続ける。


「山田家の力は凄まじい。悪用すれば、帝都だけでなく日本全体を混乱におとしいれることも可能だろう。財力と権力は、確かに最高の凶器だ……ただし、世を破壊するのに必須ひっすのものではない」


「どういう意味です?」


「国を潰すには財力も権力も必要ないのさ。特別な大悪党の存在も、大英雄の存在も必要ない。山田家も軍隊も政府も無関係のところで、国は傾き得るのだよ」


 山田秀人は口角を上げ、鼻面にわずかにしわを寄せた。


 無知な生徒に物事を教える教師のように、その言葉は明朗めいろうにつむがれる。


「日露戦争終結後、帝国内では講和条約の破棄と、戦争続行を望む国民が暴動を起こし、各所を襲撃して回った。君が憎む『日比谷焼き討ち事件』だな。

 約三万人が暴徒と化し、政府への怒りをわめき散らしながら恐怖の行進をしたわけだ。この後この事件の影響は全国に飛び火するわけだが……」


「戦中の悲惨な経済状況を生き抜いた国民が、賠償金を取れなかった政府を弱腰と非難して起こした事件です。

 だが、あの時点での講和の判断は正しかった。戦争を続行していれば、国は滅んでいたかもしれない。わが国にはあれ以上、戦争を続ける力が既になかった」


「三万人の願いが叶っていたら、今の日本はなかったかもしれないわけだ」


 片眉を上げる部下に、山田秀人はまたもや「これだよ」と人さし指を立てた。


「国際情勢も自国の戦力も読めない無知な国民が、何の見通しもないのに戦争続行を要求した。暴力で政府をおどし、兵士達をさらに死戦に追いやろうとした。

 これは民主主義の名を借りた国の破壊だ。知恵も教養もないバカどもが戦後の平和な世を破壊しようとした」


「……結果論ですが……民意の暴走と言うべきか……」


「違うね。民衆は踊らされただけだ。あの騒動を引き起こした犯人は民衆の中にいる、民衆とは異質の存在だ」


「犯人?」


「暴動を指揮した、対露西亜強硬派の思想を持つ集団。そして民衆を扇動した、新聞社だ」


 山田秀人の双眸が、目の前の日露戦争の亡霊を射抜いた。

 亡霊は彫刻のようだった顔を歪ませ、黙って耳を傾けている。


「戦後経済の回復を期待していた国民に、新聞社がそれが成らぬことを伝え、絶望させた。そして全ての原因が政府の弱腰姿勢と戦争の終結にあると(あお)り立て、戦争の続行こそが事態を好転させる唯一の方法であると吹き込んだのだ。

 国民の間に憎悪が伝播でんぱしたところを、対露西亜強硬派の集団がいかにも民衆の代表のようなつらをして、政府に立ち向かおうと呼びかけた。これが日比谷焼き討ち事件の顛末てんまつだ」


「……話を先に」


「たかが新聞社、たかが思想集団ごときが、国を滅ぼそうとした。取るに足らん記者の握るペン一つ、取るに足らん政治屋くずれの妄言もうげん一つで、国は滅びかける。これが現実だ」


 階段の下に、酒を載せた盆を持ったメイドがやって来た。

 階上に上がろうと足を持ち上げかけた彼女が、山田秀人の視線に気づいて一礼し、きびすを返す。


 続いて吐かれた山田秀人の声は、階段を蛇のようにのたくり、彼女の耳にも届いたはずだ。


「人を殺すのに、銃は要らない。国を滅ぼすのに、大計画など必要ない。脳味噌の足りないクズが一人いて、そこに最悪の時期が重なればことは成るのさ」


「話が見えません。何をおっしゃりたいのか……」


「この世に存在する全ての人間が国を滅ぼし得る。特に戦争という出来事の周辺では、その傾向が顕著けんちょだ。たった一人の行為、発言が、世界を変える。……良くも、悪くもね」


 山田秀人が一瞬、かっと大口を開けて歯をむき出した。

 何事かと男は身構えたが、その後に続いたのは間延びした欠伸あくびだった。


 唖然とする部下に、山田秀人は目をこすりながら笑う。


「僕が山田家という権力に固執しない理由は、そこなんだよ。僕が従軍したのは日清戦争だが、戦場に行ってつくづくと痛感した。山田家の名家としての力など、この場所では時代を変え得る勢力の一つに過ぎないと。匹敵するものは、いくらでもあるのだとね」


「いったいどういう……」


「山田家の全力をもって清を倒そうとするのと、一人の兵士が清を倒そうとするのは、効果としては同じなんだよ」


 即座に反論しようとした部下を、山田秀人は手で制した。その姿勢のまま、続ける。


「山田家が財力を惜しまず、豊富な資金と兵隊を軍に供出して清を攻めれば、当然勝利に貢献できるだろう。

 だがその一方で、優秀な、あるいは幸運な一人の兵士が敵の部隊長や司令官を殺害すれば、戦闘は一瞬で日本の勝利に傾く。戦争の結果をどちらが変えるかという可能性は、五分と五分だ」


「極論です。莫迦げている」


「そうだろうか。山田家の私兵が全員戦死して、一般兵卒が敵の息の根を止めることもありうる。僕は一人の兵士として戦場に行って、そう思ったよ。時代を変える可能性は誰にでもある。一人一人に、備わっている。山田家の当主だけの、特権じゃあない」


 山田秀人は膝の上に手を置き、顔をうつむかせて、上目づかいに相手を見た。口を歪ませ、よこしまに笑っている。


「戦場には、時代を変える可能性達が満ちていた。それらは殺し、殺され、その多くは屍として転がった。可能性の墓場だ……僕は、その光景を死ぬほど美しいと思った。その光景の一部として息づいている自分を、心底誇りに思った」


「理解できません」


「後方の安全地帯で時代を動かそうとやっきになっている将校達や、政治屋達より遥かに尊い。正直山田家が組織として戦争に介入できるのは、そういった後方の計画や、政争段階での話が主だ。

 実際の戦場で可能性を発揮するのは、たった一人の兵士。言い方を変えれば、より多くの敵を殺すことのできる……『殺人者』だ」


 男は階段を一歩降り、山田秀人を睨んだ。


 いつのまにか大きく乱れていた呼吸を整えながら、「まるで宗教だ」と吐き捨てる。


「あなたはまるで詩的に戦争を語る。だが、戦争はそんな、幻想的なものではない。あなたの言うことは、何一つ理解できない」


「少々話が難しすぎたかな。だが、君が悪いんだよ。『たった一人の敵を呼び寄せただけ』なんて言い方をするから」


「一人は一人に過ぎない! 戦争の結果を左右するのは所詮上の連中の手管てくだだ! 我々は使い捨てられるだけだッ!」


 怒鳴る部下に、山田秀人は肩をすくめた。


 ゆっくりと立ち上がり、尻を手で払うと、軽く伸びをする。


 ぽきぽきと骨を鳴らすと、やはりゆっくりと、踵を返した。


「ま、僕の言葉を全部理解する必要はないよ。気取った言い方が気にさわったなら謝ろう……ようは、僕にとって山田家なんてものは、特に欲しがるべき財産じゃないってことだ。もっと魅力的なものを、戦場で見かけた。時代を変え得る、殺人者。殺人鬼。僕と同じ人種だ」


「……戦死者を殺人鬼などと呼ぶな」


「時代を転がす才に秀でた者。それが戦場における殺人鬼の定義だ。息を吸うように人を殺せる者が、最も英雄と呼ばれる。……僕はね、山田家なんかさっさと潰して、殺人鬼の収集にいそしみたいんだ。

 たった一人の殺人鬼と、死ぬまで向き合っていたい。そうすることで『時代』を、身近に感じられるんだよ」


 山田秀人が階段を上って行く。


 狂人が、広い肩を揺らして。




 過剰な修飾や比喩を多分に盛り込んだ、難解でご大層な演説だった。


 だが結局山田秀人の話の要旨は、彼にとって、山田家の莫大な財産の相続より、稀有けうな殺人鬼の研究の方が興味があるというだけのことだった。


 彼はあくまで自分自身の、歪んだ興味と趣味のために動いている。


 それだけのことだった。



 男は山田秀人の背中を見上げたまま数秒沈黙していたが、主の語った言葉の一つ一つを思い出すにつれ胸糞が悪くなり、ついには踵を返して階段を降り始めた。


 山田秀人の話は、何一つ理解できない。ヤツの語ることは、全て非合理なたわ言だと思うことにした。


 嫌いな又の字に会って、山田秀人の悪口を聞いて欲しかった。


 そしてそんなことを考えた自分自身に対して、男は腹を立て、壁に拳を叩きつけた。

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