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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  三章  焔の少年
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 目を見開いて顔を向ける幸太郎に、山田秀人は貼りつけたような笑みを返す。


 円卓に座った見知らぬ人々……四人の男女が、身構えたのが分かった。


 その中の一番恰幅かっぷくの良い、紋付羽織袴もんつきはおりはかまの中年男が、幸太郎を太い指で指して言った。


「秀人どん、確かかよ? このガキが本家筋の最後の血統、栄八の忘れ形見ってのは、間違いのねぇことなのか?」


 中年男は禿げ上がった頭を揺らしながら、大きな声で話す。


 山田秀人は笑みを浮かべたまま、無造作に幸太郎の座っている椅子を、幸太郎ごと回転させた。


 何をされるのかと身を硬くする幸太郎のシャツに背中から手を入れ、引き上げる。


 ボタンがいくつかはじけ飛び、白い背中があらわになった。

 肩甲骨の下の十字傷を見ると、円卓の面々が感嘆の声を上げる。


「島田の持っていた写真の赤ん坊の、『十』の傷と同じ……!」


「古い傷だ。簡単に替え玉を用意できるもんじゃないな」


「この『十』の傷は、山田家本家の当主となる人物として、十番目の正当性の持ち主、という意味です。七代目当主、山田栄七郎、その実子であり、本来八代目となるはずだった、山田栄八。その息子の、山田栄治が、九番目。幸太郎君はその後にひかえる、十番目の男というわけですね」


 山田秀人の手を払いのけ、幸太郎がシャツを引き下ろす。

 恐怖と屈辱に震える幸太郎の座る椅子を、又の字が再び動かして正面に向けた。


 円卓に座る幸太郎と山田秀人以外の四人は、みんな良い身なりをして、偉そうにしている。


 彼らが山田家の分家の実力者であることは、幸太郎にもすでに察しがついていた。


 先ほどの禿げた中年男の右に座った男が、幸太郎に「やあ」と声を向けてきた。


 猫なで声の男は、一同の中で最も若く見える。おそらく、まだ二十代だ。


「大変だったね、話は聞いたよ。こちらの秀人さんにずいぶん酷い目に遭わされたんだろ? 僕は……」


「やめねえか信也しんや! てめえ抜け駆けしてんじゃねえ!」


 横から怒鳴り声を上げる中年男に、若い男は片耳をふさぐ。


 彼はおびえる幸太郎に苦笑を向けると、円卓を指でトントンと叩き、壁際に目を走らせた。


 緊張して今まで気がつかなかったが、部屋の奥の方に数人のメイドが並んで立っていた。

 彼女達のそばには円卓とは別の小さなテーブルがあり、飲み物やグラスが並んでいる。


「誰か幸太郎君に飲み物を。『コカ・コオラ』がいい。外国のサイダーみたいなものでね、味と色が濃いんだ……お菓子もどう? チョコレイトとか」


「やめろって言ってんだ、この詐欺師さぎしが! おいガキ、こいつは山田信也といってな、異人相手に普段からあこぎな商売をしてる極悪人なんだ!

 二束三文のガラクタを室町時代の名物茶器だの陶器だのと言って法外な値段で売りつける、国際犯罪人よ! こいつの養子になんかなったらな、しまいにゃてめえも牢屋入りだぞ!」


 一方的に怒鳴りまくる中年男に、幸太郎は返事もできずに唇を噛んで萎縮いしゅくした。


 怖い。帰りたい。そんな気持ちが顔に出ていたのだろう、信也という名の若い男が、勝ち誇ったように肩をすくめて言った。


「これだから遊女屋さんは困る。女子供は怖がらせれば言うことを聞くと思ってるんだからな」


「うるせえ! てめえいつから俺に意見できるほど偉くなった!? 小便臭い若造が図に乗って!」


「黙らんかい、二人とも」


 声を上げたのは、三人目だ。洋装の老人が、真っ白な髪をしわくちゃの顔に垂らした奥から、じろりと若輩達を睨む。


「話が進まんではないか――秀人さんが、怒っておられるぞ」


 はっとして若輩二人が目を向けると、山田秀人が笑みを浮かべたまま、目を一本の線のように細めていた。


 歪んだ唇が小さく開閉し、耳をすませばその奥から、舌打ちらしき音が断続的に聞こえてくる。


 円卓の面々は口を閉じ、ある者は居ずまいをただし、ある者は咳払いをして、目をそらした。


 山田秀人は室内が完全に静まるのを待ってから、壁際のメイドに片手を上げて見せた。

 コカ・コオラの入ったグラスとチョコレイトを載せた盆を持って、メイドが幸太郎のもとにやって来る。


 白い綺麗な手がそれらを幸太郎の前に差し出すのを見ながら、山田秀人は再び口を開いた。


「……まず、幸太郎君には自分が本来何者であるのかを既に説明してあります。故・山田栄八の直系にして、山田家の次期当主たる資格を持つ本家筋の唯一の生存者。

 彼の母親がそれを知っていて、また、先代当主である山田栄七郎の協力を得て、彼を当主の座に滑り込ませようとしたこと。そうすることで山田家の莫大な財産と、権力を意のままにしようと企んでいたことも、理解しています」


 幸太郎は膝の上で拳を握り、目の前の炭酸水の入ったグラスを睨んだ。

 山田秀人はそれを意に介した様子もなく、続ける。


「だが、その企みを実行する上での協力者であるはずだった、先代当主の秘書、島田が彼女を裏切った。そして彼女の企みと、先代当主の遺書を、分家最大の実力者である僕に流してきたのです。そしてこう依頼した。幸太郎君一家を亡き者にし、自分が山田家を継いでくれと。山田家を守ってくれと、そう言ってきたのです」


 山田秀人の手が、幸太郎の肩をつかんだ。


 幸太郎は一瞬また払いのけてやろうかと思ったが、肩をつかむ握力は強く、逆らえば華奢な子供の骨格ぐらい、簡単に握り潰してしまいそうだった。


 小さくうめく幸太郎の横で、山田秀人は「だがね」と一同を見回す。


「僕は、正直山田家なんぞどうでもいいんですよ。当主なんて立場に収まって、一族の命運を背負うなんてまっぴらなんです。山田秀人はね、自由を好むんですよ。好きなことをして、好きな時に、好きな方法で死にたいのです。ならば必要以上の権力は、足かせでしかない」


「だから、幸太郎君を殺さずに連れて来たわけですか……島田の願いを、蹴って」


 信也という名の男が上目づかいに訊く。山田秀人は笑みを広げて、白い歯を見せた。


「部下の河合には、殺すように命じましたがね。あの男は放火狂で、たまに火遊びをさせないと文句を言うのです。島田の依頼は彼の気をしずめるのにちょうどいいネタでしたから、当主になるうんぬんは置いといて、手を貸してやったわけですよ。

 ……しかし皆殺しに失敗して、幸太郎君の行方を追っている内に、気が変わったのです」


 幸太郎の肩をつかむ手にさらに力が加わり、幸太郎はたまらず「痛い!」と声を上げた。

 円卓の面々が慌てた素振りを見せるが、山田秀人はそのまま、平然と言葉を続ける。


「幸太郎君をただ殺害して当主の座を空けてしまうよりは、彼をみなさんの内の誰かに『お譲り』した方が面白かろうと、ね。実際、本家の当主の座を分家の人間で奪い合った場合、どうしても当主継承の正当性の面でケチがつく。

 正常な山田家の運営のためには、唯一絶対の正当性を持った人物が、独裁的に取り仕切る方が都合が良い」


「つまり、当主となる正当な権利を持つ幸太郎君を、養子にするということですな」


 白髪の老人が愛想笑いを浮かべて言うと、山田秀人はようやく幸太郎を解放し、青ざめたその顔を親指の背でなでた。


「そうです。みなさんの内のどなたかが幸太郎君を養子として引き取り、その上で幸太郎君を本家に紹介、当主の座につけるわけです。幸太郎君はまだ十一歳、当然山田家の運営は、その親である人物が代理として行うことになる」


「しかし、それは幸太郎君が大人になるまでの期限つきの権限……いずれは幸太郎君が、当主として実権を握ることに」


「その時は殺してしまえばいいでしょう」


 今度は円卓の面々どころか、幸太郎の背後に立つ又の字までもがつばを呑んだ。


 さも当然といった様子の山田秀人は、肩をすくめてなおも言う。


「あるいは幸太郎君を当主にした瞬間から、座敷牢にでも監禁してしまえばいい。大病をわずらったということにでもすれば、後はやりたい放題でしょう。よくある手ですよ」


「……趣味が悪いぜ、秀人どん」


 小さく笑う中年男に、山田秀人は逆に貼りつけていた笑みを消した。


 無感情な目に見つめられると、中年男は顔を引きつらせて目をそらす。


「まあ、どうするかはみなさんの勝手です……とにかく、幸太郎君を手中にした人間が今後の山田家を独裁支配するということです。それは、分家の人間にとっては夢のような話でしょう?

 幸太郎君の値段は、みなさん自身に決めていただきます。もちろん金銭である必要はありませんよ。事業、土地建物、人材……僕の働きに最も見合った対価を提示してくださった方に、幸太郎君を差し上げようじゃありませんか」


 山田秀人はそう言うと突然立ち上がり、幸太郎の頭をガシガシとかいた。


 自分を絶望に染まった顔で見上げてくる哀れな子供に、山田秀人は気持ち良さそうに鼻を鳴らし、くるりときびすを返す。


 護衛二人を伴って、踊るように部屋を後にする。


「時間はありますので、各人心ゆくまで考えて答えをご用意ください。必要なら何日でも滞在を。話し合いも禁止しません……それでは夕食まで、ごきげんよう」


 上機嫌で去って行く山田秀人の背中を見つめていた幸太郎は、やがてすぐに、自分に注がれる無数の視線の気配に震え上がった。


 振り返れば、円卓の四人がそろって幸太郎を見ている。


 それは、人間に向ける目ではなかった。


 もの欲しそうな、欲望にまみれた目。獲物を狙う、獣のまなざし。


 得がたい他人の財宝を見るような、そんな目だった。



 不意に幸太郎の背後で、扉が閉まる音がした。


 メイドの一人が、山田秀人の出て行った入り口を閉め、鍵をかけている。


 緊張の限界に達した幸太郎は、円卓の四人に見つめられたまま席を立ち、たった今扉に鍵をかけたメイドに歩み寄った。


 美しいが冷たい目をした、巻き毛のメイドだった。

 どことなく日本人離れした高い鼻を持つ彼女を見上げ、幸太郎は精一杯力んだ声で言う。


「あの、ご不浄(お手洗い)に!」


 メイドが幸太郎を見る目も、また、人を見る目ではなかった。


 沈黙しているメイドと、背後からの視線に挟まれながら、幸太郎はいつしか唇を噛み、涙をこぼすまいと踏ん張っていた。






「……それじゃ先生、お気をつけて」


「ん」


 葛びるの玄関前に、マスターと老人が立っている。


 老人はフォードにはねられた時計屋の治療に呼ばれた老医師だ。

 着物姿に診療かばんを提げ、石段を降りて行く。


 その足がふ、と止まった。見送りに出ていたマスターが首をひねると、老医師が顔だけで振り向き、言う。


「頑丈な患者だ。自動車にまともにはねられて、肩と手、首と顔面をやられたが、どこも重傷には至っていない」


「はい、本当に不幸中の幸いで」


「命に別状はない。肉体は治るだろう、ほうっておいても」


 何かを含ませるような老医師の物言いに、マスターは石段の上で眉を寄せる。


 老医師が口元の髭を指でつまみながら、少し間を空けて、言った。


「――痛みは激しいはずだ。腕を上げるのも、本来は、つらい。だがあの患者に、そういう素振りは見られない。やせ我慢をしているようにも見えん……」


「あの……?」


「わしが見たところ、彼は病気だな。精神が死んでいる」


 老医師の言葉に、マスターはぽかんと口を開けた。

 その口の中に、湿り気を帯びた夜風が吹き込んで来る。


 老医師は髭を数本、ぷつりと引き抜くと、それを闇の中に吹き飛ばした。


「たまに、いるんだ。痛みに慣れてしまった患者が。無痛症むつうしょうとでも言うべきか……彼は、かなり劣悪な環境にいたんだろう。だから痛みを感じる神経が、磨耗まもうしているのか」


「痛みに強いってことですか?」


「違う。痛みに鈍感どんかんなんだ。けっして良いことではないぞ。痛みは肉体を守るための仕組みだ。痛みを感じるからこそ、人は負傷した部位を守れるのだ。痛みを無視して動き続ければ、肉体はどんどん傷ついてゆく。それに――」


「それに?」


「痛みを感じない人間は、他人の痛みにも鈍感だ。他人が痛がることを、平気でするようになる」


 マスターはそこで初めて不服そうな顔をしたが、老医師は黙らない。

 横顔だけを向けたまま、細い視線を闇に投げる。


「今日、おたくらが話していたことは、わしにはよく分からん。ただ、これから一騒動あることだけは察した。血生臭い騒動がな」


「……別に、銀座で起こるわけじゃないと思いますよ。それに私には、どうせ何もできませんし……」


「わしの患者はどうだ。血生臭いことに加担かたんするのか?」


 老医師が息をつき、再び前を向いた。薄くなり始めている頭髪を、大事そうに指でなでる。


「別に平和主義者ではない。非暴力主義者でもない。ただ、あの患者が暴力を振るうのなら、それは恐ろしく残酷なものだろう。他人の痛みを想像できない人間の拳ほど、硬いものはないんだ」


「先生、今日のことはどうか……」


「他言しないさ。しても意味がない。ただね、マスター、誰かを守るためとはいえ、他人の肉体を物のように壊すような人間は……その精神のゆがみは、どんな医者にだって治せやしないんだ。説教臭くて悪いがね、あの患者に、そう、言っておいてくれないか」


 そんなこと、言えるわけがないじゃないか。

 そう胸中でつぶやいたマスターを置いて、老医師は自分の家へと帰って行く。


 やがてその背が闇に溶けて見えなくなると、マスターはため息をつき、石段に腰掛けた。


 そのまましばらく夜風に当たっていると、背後の扉が開き、足音が二つ、近づいて来る。


 自分の膝頭ひざがしらを見つめているマスターの隣に、津波が腰を下ろした。

 背後に立った時計屋の影が、マスターの視界に覆いかぶさってくる。


「……俺さ、新聞社にいた頃、『様』づけで呼ばれてたんだよ」


 突然津波が口を開いた。


 返事はないが、他の二人の視線は津波に注がれている。

 ハンチング帽を取り、頭をかきながら、津波は自嘲するように笑った。


「新聞記者様ってな。きゃめらまん様って時もあった。入社したての若造が、様づけで呼ばれて……ろくなことになるわけがねえ。自分は偉いんだって、錯覚してたよ」


「新聞関係者は、人気者ですからね」


 無感情に言うマスターに、津波は「まあな」と言い、笑みを消した。


「報道の正義、ってな。世の全てを暴き、記事にするのが正義だと教わった。親父の形見のきゃめらを持って、先輩記者についてあっちを嗅ぎまわりこっちを探りまわり……人様の事情に、時には人権すら無視して首を突っ込み、真実とやらを追い求めた。

 文句を言うやつには『報道の正義』を振りかざして黙らせるのさ。『こちとら新聞記者様でい!』ってな」


「糞野郎だ」


 時計屋の抑揚よくようのない声に、津波は目を伏せた。


 しばらく沈黙する津波。やがてマスターが顔を向けると、長い息と共に、懺悔ざんげの言葉が落ちた。


「俺達が突っつきまわしたせいで、不幸になった人がたくさんいる。記事にしなきゃ事件にならなかったこと、記事にしなきゃ普通に生きていけた人……この世には、新聞記事が生み出す事件ってのが存在するってことを、俺は理解してなかったんだ」


「記事って、事件が起きてから書かれるものじゃないんですか?」


「俺が幸太郎を記事にしたら、どう思う」


 唐突過ぎる言葉に、マスターはつい時計屋を振り返り、顔を見合わせた。


 津波は変わらぬ姿勢で、表情で、言葉を続けた。


「『帝都放火殺人事件、生き残りの少年、両親を喪失す』とかさ、『名家山田家の御曹子おんぞうし、その実態は獣欲の末の隠し子』とか。そういう記事をあいつの顔写真つきで書いたら、どう思うよ」


「いったい何を言ってるんです! そんなことしたら!」


「幸太郎は不幸になるだろ。尊厳を奪われ、下手をすれば、生きていけなくなるだろ。……俺が新聞社でしてきたのは、そういう仕事だったんだよ。記事で、写真で、人を死に追いやった。過ちに気づいた時には、もう遅かった」


 ハンチング帽をかぶり、津波は両手の指を組む。

 神に祈るような姿勢で、独り言のような懺悔が続く。


「幸太郎を預かるって話がきた時、怖気おぞけを感じた。放火殺人事件の生存者……新聞記事のネタにされそうな、被害者……俺が昔不幸にした人を、子供を、思い出した。……昔の自分の罪を、突きつけられた気がしたんだ」


「そんな……」


「不幸にしたくなかった。だから、きっと、俺はあいつに優しくしたんだ。棚主に偉そうなことを言ったが、あれだって言ってみりゃ俺のわがままだ。新聞社をやめて、無害な写真館のおやじになったのだって……二度と罪を重ねたくなかったからなのに……」


 息を吐く津波が、顔を上げた。

 上空にはいつしか厚い雲がたれこめ、一雨きそうな気配がある。


「幸太郎は……生きてるのかなあ……」


 マスターが立ち上がり、頭をかきむしった。「冗談じゃない!」と声を上げ、津波に怒鳴った。


「生きてますよ! 元気に決まってますよ! あの子、あんなに辛い目に遭って、それでもあんなに良い子で、私の料理をあんなにおいしそうに食べて、笑ってくれて……なんでし、死ななきゃ、そんな……あんまりじゃないですか!」


 言葉を詰まらせながら、マスターは肩で息をしていた。

 ひぃ、と泣きそうな声を出して、びるの壁に顔をこすりつける。


「莫迦言わないでください! これからじゃないですか! 幸太郎君の人生はこれからじゃないですか! そ、そんなね、悪い大人達のせいでね、あの子の未来が閉ざされちゃいけないんだ! 森元さんだって動いてくれてるじゃないですか、つ、つまんない話しないでくださいよ津波さん! こんな時に……ッ!」


 マスターのあまりの取り乱しぶりに、落ち込んでいた津波が唖然あぜんとしてその顔を見上げる。


 紅潮した顔がひぃひぃ声を上げて、しかし泣くまいとしてしわくちゃになっている。それまで黙っていた時計屋が、不意に長いため息をついて、マスターの頭を軽くはたいた。


 とたんに押し出されたように「ぶえええ」と一声鳴いたマスターに、時計屋が手に巻かれていた包帯をほどき、押しつける。


はなを拭け。垂れてる……」


 ついさっき老医師に言われた言葉も忘れて、マスターはけが人からもらった包帯で盛大に鼻をかむ。


 落ち込んでいた心を無理やり蹴散らされた津波が、後頭部をかきながら「悪かったよ」とマスターに言った。


 マスターもまた取り乱したことに対する謝罪らしきものをつぶやいているが、鼻をかむ音と混じって意味をなさない。


 時計屋は隣人二人を置いて石段を下り、闇の向こうを見すえながら、ぽつりと言った。


「後悔していても、泣いていても、始まらない。明け方以降が勝負だ……二人とも、少し寝ておけ」


 自分にできることを、やるんだ。


 そう続ける時計屋の背に、津波とマスターは少し間をおいてから、無言でうなずいた。







 ――舗装されていない地面を、踏みしめる。


 夜の闇の中を、棚主は一人で歩いていた。


 大西巡査の家で刑事に締め上げられた首が、今更にじりじりと痛む。


 神経はとがり、気はたけっている。すれ違う酔客達のご機嫌な声が、やけにうるさく耳に響いた。


 頭の中には、邪悪な考えがごうごうと渦巻いている。

 それは人を傷つけ、殺すたぐいの計画だ。


 だが森元からの連絡がない以上、それはただの身のない妄想に過ぎない。



 心に満ちる殺意を、しずめる必要があった。夜闇にまぎれ、狭く曲がりくねった道を行く。


 やがて前方に、目指す建物があった。周囲に誰もいないことを確認してから、扉へと近づく。


 扉には、横文字で『Open』と書かれた札が下がっていた。


 ノックをして、ドアノブを回す。



 扉を開けば、前方の床にカラス猫がいた。こちらを見上げる瞳に、電灯の光が反射し、ゆらめいている。


 にゃあと鳴くカラス猫に、棚主が「よう」と答えた瞬間。

 店の奥のカウンターから、女が顔を出した。


 ぱっと笑顔を向ける女に、棚主は後ろ手に扉を閉め、ハットを取る。


 とんとんと足音を立て、天道雨音がやって来た。


 笑みを交わし、訊く。



「一杯、頼めるかい」


「ええ、電気ブランでよければ」

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