八
築地警察署の一室。森元と横山刑事がそれぞれ机に向かっている。
薄暗い空間には鋏と小刀を操る音だけが響き、二人は長い時間、言葉を交わしていなかった。
部屋の入り口には鍵がかかっていて、さらに扉の取ってには椅子の背がかまされている。
作業中、何者にも侵入されぬための、用心だった。
「――あったぞ――」
不意に森元が声をあげ、震える手で手元の布から、何かを引き出す。
二人が鋏と小刀で分解していたのは、麦わら帽子とラッコの襟巻きと、小さな外套。幸太郎が棚主達に保護された時に着ていた、衣類だった。
河合の燃焼剤にまみれたそれは、幸太郎が警察署で別の着物に着替えた後、横山刑事が一応の証拠品として保管室に放り込んでおいたものだ。
河合の逮捕後、これらの衣類を持ち出した者はいない。
硫黄や動物の糞で作られた燃焼剤は乾くと酷い悪臭を放ち、署員達の興味を失せさせていた。
だが、森元はその悪臭を放つ布の中から、重要な証拠を見つけ出したのだ。
それは外套の背中の部分を切り裂いた、内側に隠されていた。
「持ってないはずはなかったんだ。幸太郎君を、山田家の後継者として親戚連中に認めさせるための『切り札』……血統を証明するための『証拠』。それがあるからこそ、刈田美穂は帝都にやって来た」
「油紙か……幸太郎君の外套に仕込んであったとはな」
「刈田美穂が持っていたら終わりだった。明かりをくれ、開いてみる」
横山刑事が引き寄せるランプの明かりの中で、森元の手が油紙の封を、慎重に切る。
油紙の中にはさらに包み紙が入っており、それを開くと、三枚の写真と、封筒が出てきた。
一枚目の写真にはどこかの庭先で、赤ん坊を抱く若い女と、杖をついた老人が写っている。
二枚目には同じ女が畳の上に座していて、膝に幼児を乗せている。
隣にはやはり一枚目と同じ老人が座っていて、両手で『山田栄七郎 直系 山田幸太郎』と書かれた紙を持っている。
三枚目は同じ場面で、老人がむき出しにされた幼児の背中をきゃめらに向かって差し出していた。
幼児の背中には、肩甲骨の下あたりに小さく『十』と、傷がつけられている。
畳には血がしたたり、一緒に写っている女が、赤く濡れた小刀をかかげていた。
「この老人は……」
「先代だ。山田家、先代当主、山田栄七郎。女の方は刈田美穂だろう」
横山刑事に低く答えた森元が、額の汗を手の甲でぬぐう。
写真と共に入っていた封筒を開きながら、森元は唾を飲み込んで言った。
「刈田美穂と、先代当主がつながっていた……幸太郎君の当主継承は、先代当主の遺志だったということか……」
「何故だ? 先代当主には山田栄八という実子がいる。その下には孫の栄治もいた。先代当主が存命の頃は、当然栄八も栄治も生きていたはずだ。なのに何故、刈田美穂や幸太郎と、一緒に写真に写る必要があったんだ」
「分からない。私の主はあくまで山田栄八だった。その父親の思惑は……」
森元の手が、封筒から折りたたまれた紙を取り出す。
開いてみると、それは山田家先代当主、山田栄七郎の『遺書』だった。
遺書とは言っても、自分が死んだ後の財産の分配などに関しては一切触れていない。その内容は主に幸太郎のルーツの説明に終始し、山田栄八が当主の継承を拒否した場合には、本家筋の男児である幸太郎を当主にすえよという指示が記されていた。
遺書の最後には山田栄七郎の署名と、印鑑、さらに念入りなことに、血判まで押してある。
横山刑事はあごをなでながらうなり、遺書を見つめていたが、やがて軽くうなずくと口を開いた。
「先代当主、山田栄七郎にとって、幸太郎君は本家が絶えた時の保険だったわけだ。当主の座を継がせるには、山田栄八は何かしら問題があると判断していたんだな」
「山田栄八が当主継承を拒否する……その心配は杞憂に終わったわけだが……彼は別の理由で息子の栄治ともども死亡し、当主の座を継承できなかった。結果的には、山田家本家の男は絶え、分家に乗っ取られようとしている……」
森元は遺書と写真を元通りに包みなおし、息をついた。
「ならば今、当主の座を狙う分家連中にとって、幸太郎君とこの遺書の存在だけが障害となりうるわけだ。故人が本来意図していた遺書の指示内容以前に、これらの物品は幸太郎君を本家筋の人間だと証明している。
この写真を見れば、山田栄七郎が分家の人間達よりも、幸太郎君に当主としての正当性を認めていたことが誰にだって分かる」
「だから山田秀人は幸太郎君を殺害しようとした、か……森元、この遺書、上手く使えば山田秀人を叩くのに利用できるかもしれんな」
「少なくとも、彼は欲しがるだろうな。頭の使いどころだ」
その時、不意に部屋の入り口の扉ががたりと音を立てた。
次いで響くがちゃがちゃと鍵を鳴らす音に、二人は顔を見合わせ、ゆっくりとそちらへ近づいて行く。
横山刑事が扉のわきに身を屈め、鋭く「誰だ」と問いかけた。
「俺だ。森元もそこにいるのか」
返ってきた男の声に、二人は小さく息をつく。署内にいる、森元の協力者の一人だった。
森元が横山刑事と出会った日に、城戸警視の動向を調べるように頼んでいた警官だ。「ああ」と返事をした森元に、扉の向こうの声は苛立ったように舌打ちをした。
「捜したんだぞ。いったい、いつ署に戻ったんだ」
「? いつ戻った……? 我々は朝からずっと署内にいたぞ」
一瞬沈黙した声の主が、扉の向こうでまた舌打ちをした。
嫌な予感に眉を寄せる森元に、声の主は「処置なしだな」と頭をかく音を立てる。
「一度、仲間の警官全員を洗いなおした方がいい。かなり汚染されてる」
「何の話だ」
「大西が襲われた。護衛の刑事にだ」
息を呑む森元達に、声の主は嫌悪を隠しもせずに続けた。
「大西の護衛をしていたのは、みんな自分から志願した連中だった。……署に、棚主という探偵が来てる。直接会って話せ」
――夕刻、葛びる。強い風に揺れるカエデの枝が、休憩室の高い窓を叩いている。
幸太郎のいなくなった部屋は暗く、生命の気配がない。開け放たれた扉の先には、嵐の後のようなミルクホールがある。
ゴミの散乱する床、テーブルの上に出しっぱなしにされた料理と、食器。
カウンターではそれらを片づけもせずに、マスターが両肘をついて、顔を覆っていた。
彼の周囲には、今日の騒動に巻き込まれた面々が思い思いの席に着き、あるいは立ち尽くしている。
津波に、棚主、木蘭亭の女達。壁際ではダレカが背を預け、床に座った時計屋は、近所に住む老医師の治療を受けていた。
「よせ――そんなことをする必要はない」
椅子に座った棚主が、床に額をこすりつけようとした森元と、横山刑事を制した。
土下座の形で膝をついた森元が、床を睨んだまま奥歯をきしませる。
「私のせいです。敵は、幸太郎君の顔も、居場所も知らないはずだった……この時点では、けっして……彼がさらわれる可能性は、なかったはずでした」
「分からないさ。そんなことは」
「私が大西巡査に護衛をつけたせいです。署内に残った、最も信頼できる仲間を彼にあてがったつもりだった……彼らを、信じていた……裏切るなど、想像もしなかった……」
だからこそ、敵に先手を打たれたのだ。
床を叩く森元の横で、横山刑事が顔を上げ、棚主を見た。
怒りに燃える目で、低く、ゆっくりとした口調で言う。
「以前森元を山田栄八に売り渡した、城戸警視だが……ヤツは森元の支援者の立場を利用して、森元に協力する署内の警官達の名簿を作成していた。それは山田栄八の手に渡ったはずだが……当然城戸警視は、その名簿の内容を覚えていたはずだ」
「城戸警視が山田秀人に近づいていたとしたら、当然その内容も伝えていただろうな」
「山田秀人は、それを幸太郎君の奪取に利用した。今回我々を裏切った警官達は、おそらく個別に山田秀人に接触されたのだろうと、俺は踏んでいる。彼らはかつて山田栄八の悪事を暴くため、森元の呼びかけに応じて立ち上がった同志達だ。出世も、身分も、下手をすれば命さえ失いかねない戦いに参加しようとした男達だ」
横山刑事は床から手を離し、正座する。そして「だが」と目を伏せ、拳を握りしめた。
「彼らは、結局戦うことができなかった。現場に乗り込む前に戦いは終わり、山田栄八は公的に糾弾されぬまま、事故死してしまった。森元は築地署を去り、警察組織に残ったのは山田栄八の元傀儡どもと、裏切り者の城戸警視……」
「そこにかつての山田栄八の後釜に、山田秀人が座るという話が出てきた。しかも山田秀人が、反乱分子として自分達の名前を把握していると聞かされたとしたら」
「おそらく、彼らはそうして山田秀人に下ったのだと思う。山田秀人が、山田栄八と同じように築地署を支配した時、彼らはいわば『敗残兵』の立場に立たされかねないからだ。
一度は身を投げ出して戦う覚悟を決めた彼らだが……勝てるかもしれない戦いにおもむくのと、勝ち目のない戦いを敢行するのとでは、まったく意味が違ってくる。警視級の支援者もおらず、組織内に敵が満ちている現状では、闘志が揺らいでも無理はない」
「つまり、山田秀人は森元が再び招集をかけて自分に向かって来る前に、築地署に残っていた森元の仲間達の何人かを味方に引き入れていたということだ。それがどの時点での動きかは分からんが、森元が自分の敵として現れることを見越していたのかもしれないな。
いずれにせよ、山田秀人は部下に引き入れた警官達を操り、大西巡査を締め上げ、葛びるを特定した。そして、幸太郎を連れ去った……」
棚主は立ち上がり、森元に歩み寄った。
顔を上げられない森元の、その腕をつかみ、ぐいと引き上げる。
力任せに立たされた森元は、顔を引きつらせて棚主を見た。
そのずれた眼鏡の位置をなおしてやりながら、棚主は厳しい表情のまま言った。
「幸太郎を助けたい。……どうすればいい」
その言葉に、顔を覆っていたマスターや、津波や、みんなの視線が森元に集まった。
はっとして口を引き結ぶ森元。
思案するように視線をさまよわせる彼のわきから、不意に時計屋が、老医師に肩に包帯を巻かれながら声を飛ばした。
「幸太郎がまだ生きているなら、どこにいる? 山田秀人が彼を殺さずに連れて行くとすれば、それはどこだ?」
「山田秀人の屋敷か別荘――さもなくば、山田家の、本家だろう」
答えたのは、ダレカだ。じろりと視線をくれる時計屋に、ダレカは右の人さし指を立てて続ける。
「幸太郎が本当に邪魔なら、即座に殺して埋めてしまうはずだ。それをしないのなら、幸太郎を何らかの『手駒』として利用するつもりなのかもしれない。つまり、当主継承に関連する、道具だ」
「具体的にはどういうことだ」
「幸太郎を養子にする、というのはどうだ?」
ダレカの言葉に、今度はマスターが「そんな!」と声を上げる。
「だって今までさんざん殺そうとしてたじゃないですか! 放火魔を差し向けて、両親を殺してるんですよ!? それをいまさら養子にだなんて!」
「気が変わったということもありうる。それに分家同士の継承権争いになった場合、山田秀人は一番の有力候補ではあるが、他の候補達もただ黙ってはいない。当然遺産の取り合いになる。それならいっそ、本家筋の幸太郎を堂々と当主にして、その養い親に自分が納まってしまえば、まるで摂政のように実権を握れると思ったのかもしれん」
ダレカの説明に、腰を曲げたお近と、木蘭がうなずき合いながら口を挟む。
「親御さんはもう亡くなってるわけだし、幸太郎を脅すなりなんなりして養子にしてしまう方が、殺してしまうより楽かもしれないね」
「ダレカさんの話じゃ、先代の遺書は島田って秘書も持ってたってことだし……それを捨てずに取ってあったとしたら……」
「幸太郎を次期当主として紹介するために、本家に連れて行ったか、自分の屋敷に囲っている、か」
棚主はホールを歩き、テーブルに放置されていたサイダーの瓶を一本、あおった。
「相も変わらず推測に推測を重ねた結果だが、今はそうと仮定するしかないな」
「――待って下さい、まさか……」
「助けに行く。警察はどうせ動けないんだろう」
棚主の言葉に、森元は顔をゆがめた。ゆっくりと立ち上がる横山刑事が、ぼりぼりと頭をかきむしる。
「言っては何だが……あんたに、何ができると言うんだ」
「さあな。でも行く。行くしかない」
「あの夜のように、ですか?」
声を向ける森元に、棚主は苦笑した。
「あの時は、あんたに選択を迫られた。彼女を助けに行くか、見殺しにするか……だから、あんたには分かってるはずだ。俺は今度も、行くよ」
「……」
「仮に一時は養子にされたとしても、いずれ幸太郎は消される。親を殺したなら、子供も殺すさ、山田秀人ってやつは……」
「情が移りましたか?」
森元の言葉に、ミルクホールが一瞬静まり返った。
多くの視線を受けながら、森元が静かに言う。
「他人の子に? ……ほんの一時、触れ合っただけの、孤児に、情が移りましたか」
「あんたの動機が『正義』なら、俺達の動機が『それ』だ」
顔色一つ変えずに言った棚主に、森元は視線をめぐらせる。
マスターも、津波も、木蘭達も。そして時計屋もまた、何も言わない。
棚主と同じように、森元を見つめている。
森元は目を細め、一度横山刑事と顔を見合わせてから、言った。
「築地署は既に山田秀人の手に落ちていると考えていいでしょう。中立の警官も多いはずですが、彼らに命令を送る指揮系統が、麻痺している可能性が高い」
「警察は幸太郎を助けてはくれない、ということだな」
「私はこれから私の仲間達と会ってきます。そして再び結束させる。きっとまだ彼らの中には、山田秀人と通じている者がいるでしょう……しかし必ず、引き戻します」
森元が棚主の肩をつかみ、その目を覗き込んだ。
「私は、既に警察官ではない。一個人として、非合法な活動をしている男です。だから棚主さん達に、偉そうに指図はしません。幸太郎君を救い出すにあたっても、山田秀人と戦うにあたっても、私とあなたがたの立場は何も変わりません」
「ああ」
「しかし、せめて夜明けまで待って下さい。大西巡査を襲った警官達から、山田秀人の行き先を聞き出します。それが無理でも、何かしらの手がかりは引き出して見せる……そこから先は、お互いの思うままに……」
そうして棚主の了承を得た森元は、横山刑事と共に葛びるを出た。
既に陽は落ち、通りは暗くなっている。
強く吹く風の中、道端に停車しているフォードに向かおうとした森元の肩を、背後から皮の手袋をはめた手がつかんだ。
振り向けば、ダレカが追って来ていて、立っていた。
森元は横山刑事に「車で待っていてくれ」と言うと、ダレカに体を向ける。
空洞の眼窩が森元を見据え、言った。
「相変わらず、負け戦が好きなやつだな」
「負け戦? ――私はいつでも、勝つつもりですよ。踏まれても蹴られても、最後に笑うのは私だ」
「『ヤツ』がいなければ、お前などとっくに海の藻屑だ」
親指で葛びるの方を示すダレカに、森元はくっ、と口元をゆがめた。
だがダレカは眼窩を拳でこすりながら笑み、言う。
「軍人だの、警官だのと言っても、しょせん一人の人間だ。倒せる敵の数にも、救える人間の数にも、限りがある……」
「何が言いたいんです」
「俺に言ったことを覚えているか? 横浜港の船の上で、俺に叫んだ台詞だ」
ダレカの眼窩を縁取るまぶたが、ぐっと拡張した。肉色の穴の奥で、何かの感情が静かにうごめいている。
「――正義が冷笑される時代は、間違っている。子らが育つこの国を、悪の掃き溜めにするのかと――そう言った」
「……ええ、言いましたね」
「今でも信じているのか。正義が尊重され、子らが善の中で育てる時代の、実現を」
「当たり前だ」
考える間もなく即座に答えた森元に、ダレカは笑みを消す。
そして同じように、間髪を容れずに言い返した。
「そんな時代は、来ない。決して、永遠に、実現しない」
「何故分かる」
「世の中から悪が消えたことなど、ないからだ」
森元は笑った。
鼻で笑うような笑い方ではなく、ただ純粋に、小さく声を上げて笑った。
無言のダレカに、森元は眼鏡を外し、目を細めるようにして、言う。
「それでも信じ続けるのが、警察官なんですよ。……軍人さんには、分からないでしょうけどね」
「……」
「それで……あなたは、今回……『味方』なんですか?」
問う森元に、ダレカは一歩下がった。
再び笑う森元は眼鏡をかけ、フォードの方へ歩いて行く。
森元がフォードにたどり着き、座席に乗り込む瞬間、ダレカが何か答えた。
森元が視線をやると、ダレカは踵を返し、葛びるへと戻って行く。
ダレカの姿を呑み込み、開閉する扉をしばらく見つめてから……森元はフォードのエンジンを回し、通りを走り去った。
「で……どっちがいい?」
問いかける声に、幸太郎は応えない。
引きちぎれた着物をまとったまま、部屋の隅で身を硬くして、目を閉じていた。
豪奢な部屋だった。
ふかふかの青い絨毯が敷かれた広い部屋には、キングサイズのベッドと、化粧台と、衣装入れだけがある。
頭上には鹿鳴館にあるのと同じシャンデリアがきらめき、巨大な反射鏡が室内を明るく、まばゆく照らし出していた。
そんな室内で震えている幸太郎に、又の字と名乗った女は薄笑みを浮かべたまま歩み寄る。
歩くたびに拍車がガチガチと音を立て、幸太郎の耳をかじるようだった。
「なあ、返事ぐらいしてぇな。どっちの服がええかって、訊いとるんよ」
又の字の手には、子供用の服が二着下がっている。一方は男児用のシャツとズボンだったが、もう一方はレモン色の、スカートつきの洋服だった。
ガチガチと拍車の音が近づき、幸太郎の目の前で止まる。
又の字の柔らかい声が、はるか頭上から降り注いだ。
「ぼうや、男の子やのに、女の子の格好しとったもんなあ。何、お母はんの趣味? それともお父はん?」
「……」
「なあ……無視せんといてや。お姉さんな、けっこう『怒りんぼ』やねん」
ふ、と顔に風を感じ、幸太郎の前髪を細い指が這った。
おそるおそる目を開けると、目の前に、又の字の顔がある。
冷たい、刃のような視線。幸太郎は自分の口を両手で覆うと、涙のにじみかけた目を素早くしばたかせた。
酷薄な表情に似合わぬ優しげな声が、又の字の唇から滑り出る。
「あまり手ぇ焼かすなや。な。ぼうやも自分の立場ぐらい、分かっとるやろ」
「……」
「どっちにする?」
問いかけに、幸太郎はゆっくりと口から右手を離し、男児用の服を指した。
無造作に腋の下に腕を入れられ、立たされる。肩甲骨の下の十字の傷跡に、又の字の肌が触れた。
着物を脱がされ、着替えさせられていると、ノックもせずに部屋の扉を、彫刻のような顔をした男が開いた。
警官の制服を着ていたはずの彼は、今はちぎれた右耳に処置をされて、背広を着ている。
刺すような視線を向ける又の字に、彼は「まだですか」と問いかけた。
「急いでください。もう皆様、着席しておられます」
「じゃあ先輩も手伝ってんか。靴持って来て」
二人の大人に強制的に着替えを済ませられると、幸太郎はそのまま両手首をつかまれ、部屋から連れ出された。
天井の高い廊下を、二人に挟まれて歩く。
大人達が早足なので途中何度も転びそうになったが、二人はけして歩調をゆるめてはくれなかった。
やがて大きな扉の前に立つと、又の字が咳払いをして、三度ノックする。
そのまま扉を開くと、巨大な円卓のある広間に入って行った。
円卓には見知らぬ人々が座っていて、幸太郎の方を見ている。
幸太郎はそのまま、円卓の向こう側に座っている山田秀人のもとへと引っ立てられ、その左隣の席に押し込まれた。
背後に又の字、やや左に彫刻のような顔の男が立つ。
おびえる幸太郎の肩を、山田秀人の毛深い手ががっしりとつかんだ。
「さて、では、紹介しましょうか」
にっこりと微笑む山田秀人が幸太郎を抱き寄せながら、他の人々に言った。
「彼が、刈田幸太郎君――みなさんに買い取っていただく、いわば、金の卵ですよ」




