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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  三章  焔の少年
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 時計屋がみなを引き連れて一階に下りて来ると、それを見たマスターが事前の打ち合わせどおりに「おーい!」と声をあげ、フライパンを叩いて客の注目を集めた。


「みなさん! ここで一つ遊びをしましょう! このあたりの神社に私お手製のおみくじを隠しておきました! 『末吉』『小吉』『中吉』『大吉』の四種類です! おみくじを見つけた方には吉の大きさに応じて、高価な外国の缶詰かお酒を差し上げますよ! お子様には洋菓子もご用意しています!」


 楽しいことが大好きな客達は、おおー、と声を上げて気前の良いマスターに拍手をする。


 だが、この趣向はマスターが急きょ考えたものなので、まだ現地におみくじは隠されていない。


 マスターにはゲームの開始と同時に、銀座中の神社を駆け回っておみくじを配置するという苦行が待っていた。


 マスターは腹の脂肪を、ぎゅっとズボンのベルトで締め上げてから、玄関を指さす。


「刻限は今から一時間です! 一時間たったらここへお戻りください! 始めーッ!」






 葛びるの玄関をくぐろうとした枝野巡査は、突然怒涛どとうの勢いで飛び出して来た群衆に巻き込まれ、石段に尻餅をついた。


 唖然とする彼の眼前を、老若男女、様々な格好をした人々がバラバラの方角へ、バラバラの速度で走って行く。


 全力疾走する者から、ほどほどの速さで走る者、子供を肩に乗せ、あるいは手を引いて行く者。


 びるの外にいた人々も楽しげな気配を感じ取り、それに続く。


 枝野巡査と、隠れていた監視者達はその光景に一気に青ざめた。


「しまった……!」


 監視者達は、全員を合わせても七名しかいない。

 別々の方向へ向かう群集を捕捉できるわけがなかった。


 尻餅をついたまま怒りに震える枝野巡査の前を、何故か女装した巨漢達が腰を振りながら行ったり来たりしている。


「枝野! 誰でもいいから追えッ!」


 分裂した群衆を手分けして追い始める監視者の一人が、叫んだ。子供だ。とにかく子供を追って、走るしかない。


 枝野巡査ははじけるように立ち上がり、視界に映った、男に手を引かれて走る着物姿の子供を追った。


「俺のせいじゃない……大西をさっさと屈服させて連れて来なかった、刑事どもが悪い! それに、又の字……あの…………アバズレめっ!!」




 群集に混じって走りながら、木蘭とお近は首をひねり、後方から鬼のような形相で追って来る男達を見た。


 楽しげな他の人々とは、明らかに顔つきが違う。

 二人で幸太郎を隠すように走り、跳ねる心臓にあえぎながら声を交わす。


「どうします姐さん!? この人達、稲荷神社に向かってる……あたしらの旅籠は、その先ですよ!」


「神社に着く前に別れればいいだろ! 他の通行人にまぎれちまえば大丈夫さ!」


「佳代ちゃん逆走―!」


 少し離れた場所を走っていた佳代が、叫んで言葉どおり男達の方へ引き返した。


 幸太郎の着ていた小さい着物を無理やりまとった彼女は、ももをほとんどさらけ出した足でまっすぐ男達の方へ向かって行き、ぎょっと目を見開いたその顔を覗き込むようにして通り過ぎて行く。


 木蘭達は内心ひやりとしたが、男達は佳代を追いはしなかった。

 一瞬立ち止まり、佳代を見送ってから、男児ではないと判断したのだろう、再び顔を前に向けて走り出す。


 だがその一瞬が、木蘭達を救った。直進する群集から別れ、左の曲がり道に入ったのだ。


 木蘭達は道祖神どうそじんの小さなお堂の後ろに飛び込み、上がった息を必死に殺しながら地面にうずくまる。


 走る男達の足音が、猛然と近づいて来て、そのまま、通り過ぎて行った。


 ほーっと深く息をついた三人が、呼吸を整えてから立ち上がる。


 旅籠まではまだ少しあるが、追っ手さえなければ歩いて数分でたどりつける。



 そのはず・・だった。




 三人は一度も会ったことがない。その顔を、知るはずもない。

 そして、ここにいること自体が、あまりにでき過ぎた、不運でしかない。その人物。



 飛び込んだお堂の陰の、向こう側に、山田秀人が、立っていた。




「ふーむ……なんで逃げたのかなあ……」


 それは、牛の群のように走る人々の中から、彼女達だけがこちらの道に飛び込んで来て、お堂の後ろに隠れたこと。


 そしてその後、自分の部下達が血相を変えて群集を追いかけて行ったことに対する、疑問だった。


 山田秀人の目には、三人の女達が自分の部下から『逃げた』ようにしか見えなかったのだ。


 そしてその部下達には、大西巡査を確保し、幸太郎の居場所を吐かせるよう命じてある。


 彼らの報告は、まだ山田秀人のところまでは上がってきていない。


 部下達は幸太郎の居場所を確認次第、又の字と連絡を取り、幸太郎の顔を確認できる人間を同行させて踏み込む。

 それは山田家お抱えの護衛屋であった男か、彼を説得できなければ大西巡査をおどして連れて行く手はずになっていた。


 いずれにせよ山田秀人に報告される内容は、全てが終わった後、『幸太郎を確保した』という内容であるはずだったのだ。


 だから山田秀人は、急ぐことも、焦ることもなく、数人の部下と、彫刻のような顔をした警官を伴って銀座を歩いていたのだ。


「――ごめんよ」


 三人の女の内で最も年を食った女が、山田秀人の視線にきづいて目をそらした。彼女は立ち上がると、他の二人をうながして歩き出す。


 彼女達がわきを通り過ぎようとした時、山田秀人は不安げにこちらを見た一番背丈の低い女の目を見逃さなかった。


 まつげの長い、その目の形。


 次の瞬間には山田秀人の両手が女の肩をつかみ、顔面を肉薄させていた。


「似ている。栄八に……先代に、そっくりだ」


「おいあんた! 何やってる!!」


 まがれいとを結った若い女が血相を変えて怒鳴ると、その瞬間山田秀人の護衛の警官が、彼女の胸倉を無遠慮につかみ、お堂に投げ飛ばしていた。


 背中から叩きつけられた女は腐りかけた木板を砕き、お堂の中に倒れ込む。


 絶句する年増の女の前に、背広を着た男達が立ちふさがった。


 山田秀人は目の前で恐怖に硬直している女……いな、少年の目を見据え、やがて心底嬉しそうに笑うと、その髪を覆う手ぬぐいを叩き落とし、言った。


「初めまして。幸太郎君」


 ひっ、と声を上げる幸太郎の着物の襟をつかみ、凄まじい力で引き裂く。


 男であることは知れているとばかりに、ふくらみのない胸には視線もやらず、続けた。



「僕が――秀人おじさん・・・・・・だよ」



 骨の砕ける音が上がった。


 その荒々しくも、愉快な音に、山田秀人は多少の驚きと期待のこもった目を、ゆっくりと年増の女の方へと向ける。


 彼女の肩を押しのけ、山田秀人の部下の一人の鼻面に靴底を叩き込んでいる者。


 通りの方からやって来たのだろう洋装の男の、顔面を覆う仮面を見て、山田秀人は凄まじい歓喜の表情を浮かべ、目と、歯を剥いた。


「――粛清しゅくせいしてやる」


 仮面の男の異様な姿と声に動じることもなく、年増の女をはばんでいた山田秀人の部下達は各々の構えを取り、襲撃者に拳や靴底を放つ。


 仮面の男のかぶっていた帽子が飛び、肩に拳がめり込む音がしたが、同時に部下達の何人かの体から鮮血が上がった。


「おっ! おおっ!」


 歓声を上げる山田秀人の目の前で、部下達が倒れる。

 悲鳴を上げる彼らの腕や足には、小さな虎挟みが噛みついていた。


 異常に鋭利な、剃刀の様な刃。仮面の男が手に持っていて、それで攻撃を受け止めたのだ。


「ハハハ! 器用なヤツだな! 自作かね、その玩具は!?」


「ぎゃっ!」


 笑う山田秀人の前で、仮面の男が彼の部下の口を裂いた。


 ズボンのベルトのバックルの部分に、人さし指程度の長さの刃物が隠してあり、仮面の男はそれを抜いて、敵の口の端を力いっぱい引き裂いたのだ。


 激痛にもだえる敵の胸倉をつかむと、その左の腿に刃を突き刺す。


 刺された部下は絶叫して倒れたが、その声は街中に散った群衆の大騒ぎに混じって、消えてしまった。


 一人で数人の敵を倒した仮面の男に、彫刻の顔をした警官が奥歯を鳴らして前に出る。

 返り血を浴びた白い仮面が、コリコリと首の骨を鳴らしながら左右に揺れ、警官と、山田秀人を見た。


「これだから、やめられないんだよ。闘争は」


 その場で一人嬉しげに笑う山田秀人が、しみじみと言う。


「素晴らしい敵。素晴らしい死。たゆまず、なまけず、悪の道をけば――運命は、こんなにも素敵な贈り物をしてくれる――」


 警官がサーベルを抜刀し、咆哮した。仮面の男に、迷いなく斬りかかる。


 袈裟けさがけに振り下ろされた刃が相手の左肩を裂き、壁に返り血を飛ばす。

 年増の女が悲鳴を上げるが、斬った警官は舌打ちをする。浅い。


 警官の右耳をむんずとつかむと、仮面の男が身をひねるようにしてそのわきを走り抜ける。


 なんとも形容しがたい嫌な音が響き、足を踏ん張った警官の顔から、耳が持ち去られた。


 耳たぶから耳朶じだを半分以上引きちぎられ、血をほとばしらせながらも、警官は悲鳴を上げない。

 素早く振り返ると、サーベルを振りかぶって敵を目で追う。


 視線の先では、山田秀人が幸太郎の小さな体を抱えて逃げていた。


 猛然と追って来る仮面の男に、しかし山田秀人は、声を上げて笑っている。


「怖い! 恐ろしいッ! なんだお前は!? 何の因果で僕の前に現れた!!」


「幸太郎ッ!」


 仮面の男が叫んだのとほぼ同時に、山田秀人の体がびくっと跳ねる。

 彼の腕に、幸太郎が背広の上から歯を立てていた。苦しげにうめきながら、必死に拘束を解こうと身をよじっている。


 なんとかよわい、可愛らしい抵抗だろう。


 そう、ますます笑みを深めた山田秀人が角を曲がり、左の道に入る。


 仮面の男は背後から迫る警官を振り返りもせず、さらに速度を上げ、山田秀人を追って来る。




 一瞬だった。


 角を曲がった仮面の男を、急ブレーキの音を響かせながらフォードの車体がはね上げた。


 二度三度と仮面の男の体が地面に打ちつけられ、最終的に民家の板壁に激突して止まる。


 山田秀人は一瞬唖然としたが、フォードの運転席に座った女がこちらに顔を向けると、すぐに笑みを浮かべて駆け寄り、助手席に乗り込んだ。


「――貴……様……!」


 仮面の男が震える声を絞り出し、地面に手をつく。

 だが体を支えるべき肩は外れていて、力を受け損ねた腕がべしゃりと地面に落ちた。


 それでも立ち上がろうとする彼に対して、山田秀人はもがく幸太郎の頭をなでながら、笑顔を向ける。


「ひょっとして『彼』か? うん、ありうる。どうなんだ、幸太郎君」


「放して! 誰か! 時計屋さん……!」


「時計屋? ふうん……ま、いい。訊きたいことは後で訊こう。……おい、早く乗りたまえ」


 道に立ち尽くし、ちぎれた耳を押さえている警官を、山田秀人がうながす。


 一瞬迷ったような目をした彼だが、すぐにフォードに乗り込み、サーベルを制服でぬぐって鞘に収めた。


「最高の『たいみんぐ』だったな、又の字。なんだか知らんが、今日はえらくついて・・・る」


「……」


 又の字はハンドルを握ったまま、前を見据えて応えない。


 警官の冷たい視線を受けながら、又の字は新品のワイシャツの襟をこすり、ばっちりと化粧の施された顔を前に向け、車を出した。


 角の先で倒れ伏したままなのであろう部下達に「休暇を取れ」と声を上げると、山田秀人は暴れる幸太郎を抱きすくめて捕らえ、満面の笑みを浮かべて去って行く。




 ふらつく足で追うも、すぐに見えなくなるフォードに、時計屋はやがて立ち止まり、壁に身を押しつけた。


「……そんな……」


 いつの間にか背後に立っていた木蘭の前で、時計屋は肩の外れた方の腕をつかみ、体をひねった。ごきりと音がして、肩が入る。


 荒く息をする彼の顔から、ずるりと仮面が滑り落ち、地面に転がった。


 やがて自分に向けられる時計屋の表情を見て、木蘭は声もなく、口を手で覆う。





 それから十数分後。山田秀人の指示で現場に駆けつけた築地警察署の警官達は、倒れていた男達を非公式に保護した。


 その時には幸太郎を守ろうとした者達は既に姿を消しており、神社の方から群集の能天気な歓声だけが聞こえていた。

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