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無名探偵  作者: 真島 文吉
無名探偵2 ~焔の少年~  三章  焔の少年
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 窓の外の葛びるを背に、山田秀人が岩牡蠣いわがきの殻にナイフを差し入れる。


 銀座には有名な料理店がいくつもあるが、この店は彼の一番のお気に入りだ。


 特に料理が美味いわけでも、内装がっているわけでもない。


 店名を記した看板すらない無愛想な門構えと、無機質な重々しい鉄の扉にへだたれた入り口。

 そしてぶくぶくに太った店主の醜い不愉快な面相が、まともな客を寄せつけないからだ。


 気取った食通や有象無象うぞうむぞうが居座ることもない。

 山田秀人以外の客も、みな、表を歩いている一般人とは違う雰囲気をまとった人間だった。


「僕は裏切り者は信用しないタチでね。僕は人を裏切るかもしれないが、人が僕を裏切ることは許さない。分かるかね?」


 適度に痩せた牡蠣の身をつるりとすすり、山田秀人は対面の人物に目をやった。


 長いあごひげをたくわえた、黒い背広に身を包んだ老人。


 強い意志を感じさせる厳しい目をした彼は、自分の前に置かれた牡蠣には一切手をつけず、膝の上で拳を握り締めて山田秀人を睨んでいる。


 その固く引き結ばれていた口が、ゆっくりと開いて、言葉を吐き出した。


「私は誰をも裏切ったつもりはありません、秀人様」


「笑わせるなよ、島田君。君は立派な裏切り者だ。主人である先代当主、山田栄七郎の遺志を裏切り、刈田美穂の心を裏切り、僕にくだった。君は最低の人間、古だぬきさ。自覚したまえ」


「私は山田栄七郎に仕える者ではありません。また、刈田美穂に同情する者でもありません」


 新しい岩牡蠣にナイフを入れながら、山田秀人は片眉を上げて島田を見る。


「――私は山田家に仕える者です。代々山田家に仕え、その繁栄に身を差し出す者です。私の父も、祖父も、それぞれの代の当主の横で、『家』に仕えてきたのです」


 皿の上にぼとりと牡蠣の身が落ちる。

 山田秀人は机の上に置かれたケチャップとソースの器を人さし指で迷うように交互に指しながら、気のない声を返した。


「個人ではなく家に仕える者か。ますます信用ならん人間だな。それが何故分家の人間に取り入るんだね」


「秀人様、もはや本家がどうの分家がどうのとこだわっている時ではないのです。栄七郎が死に、栄八が死に、栄治が死んだ今、山田家本家は抜け殻も同然。どうしようもない状態なのです」


 ケチャップの器を取り上げた山田秀人が、中身を全て皿の上にぶちまける。


 真っ赤なケチャップの海に沈む牡蠣を見ながら、島田がごくりと唾を飲み込んで続ける。


「至急、一刻も早く、当主不在という山田家の現状を変えねばなりません。分家の人間だろうと何だろうと、家を取り仕切る実力のある男が当主につかねば、山田家全体が揺るぎかねません」


「君としては、だから、幸太郎君が目障めざわりなわけだねえ。下手に本家の血を継ぐ彼の存在は、分家の実力者を当主にすえるにあたり、邪魔で仕方がないわけだ。今はお飾りの子供を当主にすえている余裕もないと、そう考えたわけだ」


「……かわいそうですが、仕方のないことです。それに幸太郎の母、刈田美穂は明らかに山田家に悪意を持っていました。当主の母親となれば、何をしでかすか……」


「だから始末した。始末するよう僕に頼んだ。僕の部下と協力して、刈田美穂とその夫と、馬車業者を殺した。それで、幸太郎君だけを取り逃がした」


 ナイフが、血のようなケチャップの中の牡蠣を突き刺した。


 どろどろと赤い粘液ねんえきを垂らしながら持ち上げられた牡蠣が、山田秀人の口に放り込まれる。


 ぐちゃぐちゃ音を立てて咀嚼そしゃくする相手に、島田は目を細めた。


「幸太郎の顔を無理にでも確認しておかなかったことが、悔やまれます。刈田美穂と常に一緒にいたため、殺してしまえば確認の必要もなかろうと考えたのが間違いの元……」


「違うだろう。君は見たくなかったんだよ、幸太郎君の顔をね」


「何と……?」


「自分が死に追いやる、先代の血を引く子供の顔を、君は見たくなかったのだ。罪悪感だよ、それは。無様だね」


 牡蠣を剥きながらはっきりと言う山田秀人を、島田は鋭く睨んだ。


 涼しい顔で牡蠣の身を落とし、山田秀人は鼻で笑う。


「まあ、幸太郎君を逃がしたのは河合の責任だから、そこは謝ろう。現場にいたもう一人の部下……ああ、警官の格好をした彼だが……彼に応援を頼まず、君が自ら手を下し、失敗した形ではあるがね。

 馬車に魔法マッチを投げ込む役を引き受けたそうだが、中に幸太郎君がいないのは分かっていたはずだろう? 何故強行した?」


「……馬車で来ると刈田美穂から聞いていたので、外で待ち伏せていたのですが……運悪く隠れていた場所の位置の関係で、幸太郎が出て行くのが見えなかったのです。馬車の扉を開けた時には、すでに河合が背後で燃焼剤の噴射機を構えていましたので……中止することができませんでした。河合の様子に気づかれれば、刈田美穂に私が敵に回ったことが悟られてしまいます」


「とことん莫迦だな。火を入れる役を志願したのも、本家の血筋を絶やすならせめて自分の手で、とかなんとか、下らない意地だったんだろう」


 今度はソースの器をひっくり返しながら、山田秀人が軽蔑を隠しもせずに言った。

 拳を握り締める島田が、怒りを必死にこらえている様子で、ぐっと頭を下げて懇願する。


「秀人様、どうか、幸太郎を捜し出して、殺してやってください。あの子供は、望まれぬ生を受けた子供なのです。そして、あなた様が山田家の当主に……」


「どうかな。分家の親戚しんせき達が納得するかどうか」


「あなた様にかなう実力者などおりません。財産は欲しくても、山田家の名家としての機能……権力を使いこなせはしません。山田家を衰退させず、維持する能力がある者でなければ、当主の座にはつけないのです」


「だからさ、それは君の都合だろう?」


 ソースの海の中に、ナイフが差し入れられる。


 眉を寄せる島田に、山田秀人は微笑んだ。


「山田家を存続させるとか、繁栄させるとか、維持するとか。それらは全部、本家に代々仕えてきた君という人間の都合であり、目的だよね。分家の我々が、何故同じ価値観を持っていると思うんだね?」


「……『我々』……」


 つぶやいた島田の目の前で、山田秀人がナイフをソースの中に放り出し、両手を万歳の形に振り上げた。


 直後、店内の客全員が、音を立てて席を立ち、島田に向かって来る。

 ぎょっとして立ち上がろうとする島田の腕を、山田秀人がつかんだ。


「……何を!」


「島田君。本家側の人間でありながら、幸太郎君の存在をわざわざ分家に報せに来てくれてありがとう。おかげでもうすぐ、幸太郎君は我々の手に落ちる。……ところで、君にずっと黙っていたことがあるんだ」


 島田の頭に、背後から客の一人が麻袋をかぶせる。


 抵抗しようとする老人の体を数人がかりで拘束し、床に倒す。

 店主が緩慢かんまんな動きでカウンターから出て来て、窓際の全てのカーテンを閉じ始めた。


「――僕はね、玉座に座って、王城から一歩も外に出ないような王様生活は嫌なんだよ。家を守るために、家に縛られるなんて御免だ。君みたいな、糞真面目な上に歪んだ使命感を持った秘書と仲良くしていく自信もない……初めから、当主になる気なんかなかったのさ」


 山田秀人が席を立ち、店内を歩き回りながら口笛を吹く。


 床に倒れた島田がうーうーとうめくのを、心底楽しそうに見やった。


「分家は分家で、君の意志とは関係なく話し合いを進めていた。幸太郎君のことも、当主の座も、こっちで勝手に決めさせてもらうよ」


 山田秀人は背広姿の客を何人か伴って、店を出て行く。


 扉を開ければ、彫刻のような顔をした警官が立っていた。

 彼に笑いかけ、山田秀人は島田を最後にもう一度だけ振り返る。


「言っただろ? 僕は裏切るかもしれない、ってさ」


 高笑いする山田秀人の声が、閉ざされた島田の視界の中で遠ざかり……鉄の扉の閉まる重い音と共に、消えた。






 大多数の人間は、単純な一つの動機だけでは動かない。

 様々な事情と理由が複雑に絡み合い、最終的な行動に至るのだと思う。


 時計屋が幸太郎のために動く理由は、もはや本人にも容易には説明できない。


 元々、彼にとって幸太郎は、好ましい存在ではなかったのだ。


 忌まわしい記憶を思い起こさせる孤児などは、わざわざ視界に入れたいとは思わなかったし、構いたくもなかった。

 まして目の前で孤児院に入られるなど、苦痛以外の何ものでもない。


 その光景を見たくないがために、幸太郎がいっそ死んでしまえばいいなどと思ったのは、時計屋の自分勝手なわがままだった。


 結局のところ時計屋は心の内で、過去の自分と重なる不幸な孤児という存在に、相反する二つの要求をしていたのだ。


 それは、過去の自分を思い出すから、孤児院には入るな、不幸にもなるなという要求と、今すぐ自分の視界から出て行って、永遠に消え失せてしまえという要求。


 幸太郎には葛びる以外に行くところもなく、時計屋達の手を離れれば食べてもいけないかもしれない。

 そんな彼を保護しうる最も妥当な施設が、おそらくは、孤児院だったのだ。


 だが時計屋は、孤児院を憎んでいた。あの偽善に満ちた地獄に幸太郎を送るなどという選択肢は、受け入れがたかった。


 そうして身勝手な葛藤に苦しむうちに、あの森元という男が現れ、幸太郎の素性と山田秀人に関する情報を持って来た。


 山田秀人は、幸太郎を私欲のために追い、殺すという。

 幸太郎が孤児院に入ることもなく時計屋の視界から消える、願ってもない機会だ。


 だが時計屋は、それをも拒否した。


 山田秀人にくびり殺される幸太郎を思うと、はらわたが溶けた鉄のように熱く煮えくり返った。



 ……時計屋は結局、どうしようもなく『子供』なのだ。

 まるで未発達な、駄々っ子のような自分の心を、制御できないのだ。



 何も知らされず、本人には何の罪もないのに、周囲の大人達の都合でしいたげられる幸太郎。


 体に流れる血の属性だけで過酷な宿命を背負わされてしまったその姿は、孤児院にいた頃の時計屋……『加藤清正』の有様、そのものではないか。



 そう思うと、時計屋にはもう、幸太郎を見捨てることはできなかった。

 山田秀人や、幸太郎を狙ってくる者達への憎悪と殺意が、ただただ理不尽にき上がって、止まらなくなった。



 それは言うまでもないことだが、断じて正義感や、義侠心といった美々しい感情ではない。


 時計屋は、自分のために幸太郎を守りたいのだ。


 自分の醜い、エゴのために。




 そしてそれは、山田秀人達と何も変わらない、悪しき動機だった。







「……どういうことだ……」


 往来の物陰に立ち、葛びるを監視していた男達は目をみはった。


 時計屋がびるに入ってから一時間もしないうちに、どこからともなく人が集まり、どんちゃん騒ぎが始まったのだ。


 着物姿の男女に、何組かの親子連れ。


 背広を着た会社員風の男達、書生の集団と、女学生の一団、近所の露天商に、犬を連れた老夫婦とその孫らしき子供達。


 さらにはビール瓶の箱を持った酒屋や木蘭亭の女達と、その他有象無象うぞうむぞうが葛びるの中を出入りしている。


 飲食物を持った人々は道にまではみ出して、監視者達の視界をはばんでいた。


「妨害だ! 子供を守っている連中が我々に気づいたんだ!」


「連絡はまだか? 又の字は何をしている、逃げられるぞ!」


 あせる監視者達の中で、制服姿の枝野巡査が、大西巡査の血が染みついた手袋を外しながら路地から出た。


 同じ路地に隠れていた男が「よせ!」と潜めた声を飛ばす。


「持ち場を離れるな、踏み込むのは又の字の役目だ! それに大西を連れて来ないと子供を識別できんぞ……!」


「様子を見てくるだけだ」


 制帽を深くかぶりながら、枝野巡査は葛びるに近づいて行く。





 一方葛びるの中では、マスターが次々と用意する料理をつまみながら、実に五十人近い人々が騒いでいた。


 「食べて! 飲んで! 全部おごりだから!」と声を張り上げるマスターに、たった今仕事から帰って来た津波がきゃめらを守るように抱きながら、わけも分からず困惑した顔で寄って来る。


「おい、いったい何事だ! なんで宴会なんかやってんだ!?」


「お帰りなさい津波さん! 上に上がってください!」


 説明もせずにフライパンに卵を落とすマスターに、津波はきょろきょろしながら階段の方へと向かう。


 途中早くも酔い潰れているひたいに眼鏡をかけたデブをまたぎ、苦労して二階に上がると、時計屋の店の扉が開いていた。


 中を覗いた津波は、つい「はあ!?」と声を上げて目を剥く。


 幸太郎の髪を手ぬぐいで包み、自分達の着物を着せている木蘭亭の女達に、津波は怒ったような悲嘆したような、うわずった声を放った。


「狂ったか貴様ら! うちの幸太郎に何してやがるッ!」


「うるせぇよ朴念仁ぼくねんじん。うろたえんな」


「うん、やっぱり佳代の着物が一番合うかね。それでもちょっと大きいけど」


 肌着姿のお近と佳代の横で、女将の木蘭が帯を締めながら言う。


「最低限女に見えればいい。多少着付けがおかしくても構わん……もっとおかしいので、ごまかす」


 店の奥から聞こえた時計屋の声に視線をやった途端、津波は「ぎゃっ!」と悲鳴を上げて扉の外に飛びのいた。


 成金の熊笹に会いに行った時と同じ洋装に着替えた時計屋の周りに、三人の不審者がいる。


 まるで花魁おいらんのような派手な着物や、ドレスを着た、濃い顔の男達。件の、女形達だ。


 髭を生やしたままの顔にめいっぱいおしろいを塗った彼らがにんまりと笑うと、津波の全身に鳥肌が立った。


 こちらに背を向けて奇妙な鳥の仮面から、くちばしの部分を取り外している時計屋に、津波は悲鳴のような声を投げる。


「頼むから何が起こっているか教えてくれ! 悪い冗談か!?」


「みんな大真面目だ。外に幸太郎を狙っている連中がいる……多分、山田秀人の手下だ」


 津波は息を呑んだが、女形達が身をくねらせて性的なポオズを取るので鳥肌が収まらない。


 時計屋は鼻から上だけになった仮面をつけ、広いつばつきの帽子をかぶり、手に皮手袋をはめながら言葉を続ける。


「森元警部補か、横山刑事か、あるいは大西巡査の身に何か起こったのだろう。今この部屋にいる人間にはある程度事情を話してある……幸太郎を変装させて、脱出させる。とりあえずは木蘭亭にかくまってもらえることになった」


「ワタクシ達は追っ手の目をまどわす『煙幕』ね。どう津波ちゃん、目立ってる?」


 分厚いはがねのような胸板を強調する女形に、津波は何度も素早くうなずいた。


 この三人なら、あらゆる人間の視線を釘付けにすること請け合いだ。

 だが実際問題、長続きはしないだろう。

 向こうが狙っているのは、大人ではなく子供なのだから。


「階下に人を集めたのも、幸太郎の盾にするためだ。とにかく相手は幸太郎の顔を知らん。きっと上手くいく」


「じ、事態は理解したよ……俺はどうすればいい?」


「他のみんなと一緒に、敵をかくらんしろ。幸太郎は木蘭達が連れて走る。葛びるの住人は、幸太郎から離れた方が良いだろう」


 再びうなずく津波は、片手で視界から女形達を隠しながら、幸太郎にぎこちなく笑いかけた。


 仕事から帰ったとたんの、異常事態の連続で意味もなく気が動転している。


 そんな津波に、幸太郎は無言でうなずき、頭を下げた。

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