二
カッフェの中に入ると、午前中にも関わらず席の大半は埋まっていた。
けして小さな店ではないが、店の広さに比べて働いている女給の人数が異常に多い。
ほぼ一つの席に一人の女給がつけるほどで、棚主はそこがただ飲食のみを目的とする店ではないことを瞬時に理解した。
カウンター席を除く全ての席には、テーブルを取り囲むように腰の高さのついたてが立てられている。
ついたての内側で、女給が珈琲を飲む客の手元に給仕をするふりをしながら腰をすりつけているのが見えて、時計屋が無言で視線をそらした。
女性が飲食店で客に体を触らせ、チップを受け取るということは昔からあったことだが、帝都東京のカッフェでそういうサービスを提供している店は少ない。
表向きはただのカッフェとして店を構えているのは、官憲の注目を避けるためだろう。
女給の人数とついたてを見て、カンのいい客がリクエストをした時にのみ、女給が出向いて物陰で性的な奉仕をするのだ。
『そういう店』だと気づいた客だけが女給の隠されたサービスを受けられるので、客の中に『秘密を知っている自分だけの特権』という意識が芽生え、楽しみを独占する喜びによって店の秘密が守られる。そんなところだろう。
もっともそういった秘密は他人に自慢げにもらすことでも快感を得られるので、いずれは周知されるのだろうが……
「女給さんが多いね。ずっと同じ人に相手をしてもらうことはできる?」
隅のテーブル席に自分達を案内し、椅子を引いた女給に、棚主はハットを取りながら訊いた。
女給は長い髪に埋もれた張りのある頬を指でなでながら、「私は高いですよ」と平然と笑う。
視線どころか顔までそむける時計屋を尻目に、棚主が席に着きながらメニューを開いた。
ハットをテーブルの上に置くと、メニューのライスカレーの文字を指で叩いて「朝飯をおごろう」とほざく。
とたんに女給が吹き出し、手の甲で唇を隠してホホホ、と笑った。
「おかしいかね」
「果物やお酒をご馳走してくださる方は多いのですけれど、ライスカレーだなんて。だって、口吸いの時にカレーの臭いがしたら嫌でしょう?」
「口吸い……!」
顔をそむけたままの時計屋が、さも汚らわしいと言わんばかりに小声でうめいた。
そんな彼の袖をつかんで席に着かせながら、棚主は笑顔を向けて女給に答える。
「俺達には指一本触れなくていいから、それで都合してくれないか。話ができればそれでいい」
「……ははあ。さては、燃える馬車の話が目当てかしら」
少しうんざりした表情をする女給に、棚主が、おっ、と身を乗り出す。
「多いのかい。聞きに来るやつが」
「新聞記者や探偵小説狂いが、ひっきりなしですよ。お金を落としていく気のない人は追い出しますけどね、そうしたら珈琲一杯で何時間も根掘り葉掘り訊くもんだから、たまりませんよ」
「朝っぱらからこんなに混んでるのも、ひょっとして……」
「半分は名探偵気取りの素人ですよ。ああ、私シャーロック・ホームズが嫌いになりそう! 身の程知らずの莫迦をこんなに世に増やして!」
つい本音を吐き出す女給に、棚主は改めて店内を見回した。
すると確かに、辟易した表情の女給に食いついて尋問ばりに話しかけている客や、しきりにメモを取っている客が多い。
中には外套に鹿撃ち帽という、正にホームズといった格好でパイプをふかし、腕と足を組んで何やら考え込んでいる客もいる。
探偵小説の人気ぶりに感心する棚主の横で、時計屋が冷めた目でテーブルに向かって吐き捨てた。
「莫迦の大安売りだ。暇人どもめ」
「お客さん達は違うんですか? 犯人も捕まってるし警察に任せておけばいいのに、『鉄道会社の陰謀を俺が暴いてやる!』なんて言って群がってくるんですから、たちが悪いわ」
「ああ、そういう話だったな……実行犯ではなく、黒幕が誰かを暴きたいわけか。派手な事件だからな。探偵小説を読み込んだ人々が我こそが現実のホームズに、と、そう意気込んでるわけか」
「探偵なんざ人に誇れる職業じゃないのにな」と肩をすくめる棚主に、女給は初めて気を良くしたようにうなずいた。
それから棚主達は、女給におごるライスカレーとは別に、珈琲とシチューを一杯ずつ、それとまずいチーズケーキを注文することで女給の話を聞く権利を得た。
支払いは財布の中の金を真剣な目で数える棚主をうっとうしがり、時計屋がもった。
小さなスプーンでライスカレーをちまちま食べる女給に、棚主が訊く。
「――じゃあ、馬車が燃える瞬間を見た女給がいたのか」
「お客をお見送りに出ていた子がね。店のそばに馬車が停まってれば、無視はできませんよ。あいにく中の人や、犯人は見えなかったそうですけど。本当に何の前触れもなく燃え上がって、心臓が飛び出るほど驚いたって言ってました」
「何の前触れもなく、か。馬車は店の壁に横付けされてた?」
「ええ、ご覧になりましたでしょ。石壁じゃなかったら延焼してましたよ、本当に」
シチューを素早く食べ終わった棚主が、口元をナフキンで拭きながら、さらに問う。
「燃え上がる前、馬車の周りに誰かいなかったかい。近づいて来た人間や、逆に離れて行ったやつは」
「いないんじゃないですか。事件後にその子、警察に色々訊かれてましたから。知ってることは全部話したって言ってましたよ……ああ、確か、うちの店を覗いていた子供がいたとかは聞きましたけど」
それは幸太郎だ。
棚主は珈琲をすすりながら、首を一度、ぽきりと鳴らした。
時計屋がシチューをスプーンでかき混ぜ、美味そうに食事をしている女給に声を投げる。
「燃えた夫婦は、この店の席を電話で予約していた。刈田夫妻だ……」
「ええ、そういうお話ですわ。でも初めてのお客でしたから、お顔も存じませんし」
「夫妻は店で誰かと会うつもりだった。当日、店内で人を探していた人間はいなかったか? 辺りを不自然に見回していた客は」
「きょろきょろしているお客はたくさんいましたわ。こういうお店ですから、周りの目が気になる紳士が多くて……」
うふふ、と笑う女給は、しかし時計屋が暗い視線でじっと自分を見ているのに気づき、咳払いをした。
それからふと思い出したように、ちらりと窓の外へ視線をやった。
棚主が首をかしげると、女給が声を落として二人に言う。
「そういえば、店の中じゃありませんけど……窓の外に、警官が一人立っていましたわ」
「警官? 立っていたって、どこに?」
「道の向こう側です。別に警官自体は珍しくないけれど、なんだか彫刻みたいな無感情な顔で、じーっとこっちを見ていたから、気持ち悪くて。ひょっとしてお店の……その、お客に『おいた』をさせる方の商売が知れたのかと思ったんです。女給が体を触らせているのを見つけたら、踏み込んでくるんじゃないかって。だからあまり目を合わせないようにしてたんですけど」
山田秀人が築地警察署の警官の抱き込みにかかったのは、つい最近のはずだと、棚主は昨夜推理した。
だがそれはあくまで山田栄八が傘下に入れていた警官達という意味で、その者達以外に、山田秀人が警官の手下を囲っていなかったとは言い切れない。
事件当日にこの店を覗いていた警官が山田秀人の部下で、実行犯である河合の、何らかのバックアップをしていた可能性はある。
考え込む棚主に、女給はスプーンを置いて話を続けた。ライスカレーはまだ半分残っている。
「でもその警官、しつこくそこに立ち続けたんです。小一時間ぐらい微動だにしないで。さすがに不安になって、私達カーテンを閉めようかって相談してたら、急にいなくなっちゃって」
「いなくなった」
「髭を生やしたおじいさんが声をかけて、どこかに連れて行ったんです。ちゃんとした身なりでしたよ」
「……おじいさん、か……その警官がいなくなってから、馬車が燃えるまでどのくらいの間があった?」
「…………五分か、十分ほど、でしょうか」
何となく不安げな視線を送ってくる女給に、棚主は腕を組んでうなった。
言い訳をするように、女給は髪をいじりながら言う。
「あの事件、ひどい有様でしたけど、その日のうちに犯人が捕まったでしょう? だから通りに立っていた警官のことなんか誰にも話しませんでしたし……それに、警官がお店を覗いてたなんて言ったら、逆にうちの店に何かあるんじゃないかって思われるのが関の山ですし。だったら余計なことは言わない方が、と……」
「なるほど。姐さん、一応その、馬車が燃えるところを見ていたという娘さんに会わせてもらえないかな」
「かまいませんけど、今は別のお客さんについてますから、ちょっとお待ちいただかないと」
女給がそう言ったところで、突然、店内が静まり返った。
何事かと首を巡らせた棚主達は、他の客の視線の先に、テーブル席を囲む五人の男達を見た。
男達の服装はまちまちだったが、五人の内の四人はがっちりとした筋肉質な体型をしていて、店内でも帽子をかぶっている。
残る一人は背は高いが痩せていて、椅子から腰を浮かせてテーブルに手をついていた。どうやらテーブルを叩いたらしく、コップが一つ倒れて、珈琲を床にこぼしている。
肩で息をする痩せた男に、着席したままの他の男達の一人が、鋭い視線を向けて言った。
「お座りください。みなが見ています」
「いや、見てもらってるんですよ。あえてね。……あなたがたの愚かな意見を、この場の全員に聞いてもらえばいい」
棚主と時計屋は顔を見合わせ、息をついた。
面倒くさいタイプの男だ。一目見てそう思った。
何の話だか知らないが、赤の他人のいさかいに無理やりつき合わされる義理はない。棚主は男達を無視して、女給に「どのくらい待てばいいかな」と声をかけた。
それと同時に痩せた男が両腕を広げ、テーブル席の四人を見下ろして声を上げる。
「あなたがたは国民を『戦争の犬』と言ったんですよ。国を守る軍人が、国を構成する民を犬呼ばわりするなど言語道断ではないですか!」
「全ての国民を犬と呼んだわけではない。我々を見下し、侮蔑し、日露戦争を長きに渡って行えと叫んだ愚か者どもを戦争の犬と言ったのです。何が間違っていますか」
「犬も犬、頭の悪い、駄犬よ」
敬語を使う男の隣で、横柄な態度で座った別の男が笑った。
日露戦争。軍人。
女給と話している棚主の横で、時計屋がじっと男達を凝視した。
痩せた男は七三分けの頭をなで上げると、フンと鼻を鳴らして他の男達を睨む。
「いいですか? 国民は日露戦争の間、厳しい国家財政難の中を必死に耐えてきたんですよ。あなたがた軍人を支えるために、老若男女一丸となってね。それが何です? 露西亜に勝って戦争が終わったと思ったら、賠償金は一銭も入ってこない? 中途半端な島の租借権だかなんだかをもらってきたところで景気は回復しませんよ?」
「貴様はあの戦争の戦果がどれほどの価値をもたらすのか分からんのか……」
「価値などありませんね。分かってないのはあんたがただ。金ですよ、金! あんたら軍人が戦争につぎ込んだ国民の金をいったいどうして返してくれるんですかって話なんですよ! 日清戦争ではちゃんと賠償金を取れましたよ? だから国民は納得した! だが日露戦争じゃ金を使うだけ使って、未だにその穴を埋めていない! あのですねェ、軍人さんがた、日露戦争が引き起こした景気の悪化は、今も続いてるんですよ!」
痩せた男はもう一度テーブルを叩いた。
店内の客は最初は迷惑そうにしていたが、次第に痩せた男の口上に耳を傾ける者が増えてきた。
腕を組んだり、中にはうなずく者もいる。ただ、時計屋の表情は、みるみる険しくなっていった。
テーブルに着いた四人は痩せた男を睨みつけながらも、低い声で交互に反論する。
「日清戦争と日露戦争では、戦争の性質が違ったのだ。何より、世界を席巻していた白人国家の一つに初めて有色人種の国が勝利したという事実は、それだけで歴史的価値がある……」
「何を夢みたいなことを言っている! 歴史がいくらで売れるってんだ!? 論点のすり替えだ! 勝利したって、亜米利加の大統領の仲裁でちょっと花を持たせられた上で、仲直りさせてもらったようなもんじゃないか! 勝利とは国民の苦労に応えることだ! 賠償金で世の中を元に戻すことだろうが!」
「それで戦争継続か!? 戦争を終結させた小村寿太郎閣下を愚か者となじり、断固戦争を続行すべしと大臣官邸や新聞社や、交番を襲撃することが正しいと!?
国を守るため、国の外で地獄の戦場を這いずった我々兵士に罵詈雑言を浴びせる国民など、国民の資格がない! せっかく生きて祖国の土を踏めた兵士達に、戦場にとんぼ返りして再び死んでこいなどとぬかす! 終わらぬ戦争を望む貴様らが戦争の犬でなくて何者かッ!」
その言葉に、店内の客の何人かが不快を表明する言葉を吐いた。
店の奥から店主らしき太った男が顔を覗かせているが、止めに入る勇気がないらしく首から下が出てこない。
小刻みに震え出した時計屋の肩を、ようやく棚主がつかんだ。棚主の目は、議論している男達の中の一人を見つめている。
正確には、議論している仲間達の間で、一人椅子に深く腰掛けて、うつむいている男だ。
怪訝そうな顔をする時計屋に、棚主は唇の前に人さし指を立てた。痩せた男が、客の援護をいいことに声をさらに張り上げる。
「誰も戦争を無闇に行えなどとは言ってませんよ。ただね、始めたからにはきっちりとけじめをつけろと言ってるんです。戦争なんて、あんたがた軍人や政治家が勝手に始めることでしょうが。国民はつき合わされ、疲弊する……ならば迷惑をかけた分の補償はすべきでしょうが。
形だけの勝利なんて、何の意味もない。国内の景気を回復させるぐらいのことができなくてどうするんです? 何度でも言いますよ。国民は、あなたがた日露戦争の実行責任者のせいで、今も苦しんでいるんです」
「――戦争の責任者?」
それまで黙ってうつむいていた男が、うつむいたまま声を上げた。
痩せた男や、仲間の視線を受けた彼は、破れた軍帽をかぶっている。
「そんなものが――決められると思ってるのか?」
「何っ」
「戦争とは、個人の意志だけが介入するものではない。もちろん開戦に際し、積極的に関与した連中はいる。その前後にもな。……俺達軍人が、戦争を始めたと言いたいようだが……あんたの新聞社も、昔は開戦すべしとの論調だったぞ。戦前から、戦中にかけてはな」
ほんのわずかに、軍帽が揺れた。棚主は、その奥を目を凝らすように見ている。
目を剥く痩せた男……新聞社の社員に、さらに軍帽の男は言葉をつなげる。
「政治家も、軍人も、新聞社も、国民も、みんな戦争に関わった。そしてどの層にも、戦争を支持した者と、忌避した者がいた。おびただしい数の人間の思惑が、時代と国際社会の波の中で押し流され、戦争に至ったのだ。日露戦争の責任者を探そうとすれば……日本人の半分が、該当する」
「詭弁だ! 醜い言い逃れをしやがって!」
「俺には、国の頂上でどんな議論や取り決めがなされたのかはわからん。だが、市井に責任を問われるべき者がいるとするなら……戦後に安全圏から同胞を非難し、犯人探しをする卑怯者だ。開戦支持者だったくせに、兵士を勇敢に戦えと送り出したくせに、帰って来た我々に汚いものをすべてなすりつけようとする……」
軍帽がゆっくりと持ち上がり、男が立ち上がる。
カーキ色のコートを着た男は、立ち上がってみれば新聞社の社員に匹敵するほど背が高かった。
その、コートから伸びた手が、ぬっと新聞社の社員の目の前に差し出される。
たじろぐ相手を、皮の手袋をつけた人さし指が真正面から指した。
軍帽の奥で、無精ひげの生えた形の良い口が笑う。
そして首を傾けた拍子に、眼球のない、空洞の左の眼窩が見えた。
新聞社の社員と、店内の客達が息を呑み、言葉を失った。
ただ棚主だけが、その男の顔を見て、口端を上げる。
軍帽をかぶった片目の男は、かつて山田栄八の護衛として、棚主と戦った男だった。
名前のない、無名の男。
棚主と同じ、本名を持たない男。
そして彼の登場を偶然と思うほど、棚主は寛容ではなかった。
片目の男は続々と席を立つ他の軍人達の中、笑みを浮かべたまま突き出していた人さし指を収め、拳を握った。
新聞社の社員がひっ、と声を上げた次の瞬間には、目にもとまらぬ速さで繰り出された逆の拳が、彼の喉にぴったりとつけられていた。
つばを飲み込むと喉仏が上下し、拳をこする。片目の男は双眸を刃のように細めて、言った。
「一昔前の戦争の犯人探しのために、我々傷病兵をわざわざカッフェなぞに出頭させたんだ……良い記事を書いてもらわんとな……?」
時計屋の肩をつかんだまま、棚主がハットを取り上げ、かぶる。
黙って視線をくれる時計屋に、「女給は任せる」とささやいた。
「俺は、彼と話してくる。葛びるで落ち合おう」
時計屋は何を訊くでもなく、無言のままにうなずいた。
棚主が歩いて行くのを見送り、同じテーブル席に座っていた女給を見やると、彼女は食べ残しのライスカレーをスプーンでいじりながら、物陰に完全に隠れてしまった店主の方をじっと睨んでいた。




